Pulse D-2

ほろ、ほろ、ほろ

 長い廊下の窓ガラスは、蒸気を纏わせ一面真っ白に曇っていた。外は雪にこそなっていないが、強い風の中、冷たい雨が朝から降り続いている。登校時に濡れた生徒の中にはジャージに着替えて一日を過ごす者もいたが、いま輝一がその姿なのは、雨のせいではなく体育の授業を終えたところだからだ。
 雑談をしながら教室へと向かうクラスメートと別れ、階段から教室とは反対方向にあるトイレへ輝一は足を向ける。教室一つ分を隔てた辺りを行く泉の後ろ姿が目に止まり、もしかしなくてもまた輝二のところに行くんだな、と輝一に考えさせる。それは決して不快なことではなかったが、どうでもいいとか関係ないとか、そんな風に割り切ってしまえるほど輝一は冷めた人間でもなかった。
 なんとなれば、輝一だって輝二のことを好きなのだから。
 トイレ入口のドアを押しながら、はあ~っ、と大きく息を吐く。そんな溜め息など少しも気にとめないこの空間が恨めしい。
 誰が居るのかろくに見もせず輝一は用をたす。ぼんやりすれば、当然思考は直前までの思いに流れて行き、思わず、
「いいなあ」
 と呟きが洩れた。
 輝二と泉はデジタルワールドにいた頃から仲が良かった。いや、この言い方には語弊がある。仲のよさという点では、泉は全員に平等だったからだ。そこからどうして輝二が一歩抜きん出たのかは分からないが、中学に入ってすぐに二人がつきあい始めた事実は周知のところだ。
 元の世界に戻ってからそれまでの間に、輝二が泉と会っていたのかどうか、輝一は知らない。だが、お互いの連絡先は知っていたし、住んでいる場所も意外なほどに近かったから、会っていたとしても何の不思議もなかった。
 初めて会った時から足かけ五年。ほんの十五年の人生で、五年は長い。
 学校でだって二人ともそれなりにもてるのに、飽きもせずにお互い一筋。恥ずかしいくらい一途に純だねぇなどと言いたくなるが、その度、それはこっちも同じかと、輝一は頭を抱えてしまう。
 しかもこちらは、輝二との関係について保留にされたままだ。
 悩んだ挙げ句に思いを告げたのが二ヵ月前。兄弟としてではなくもっと性的な意味で輝二を好きなのだと言ったつもりで、輝二にもそれは伝わったと思ったのに、翌日からまた輝二はそれまでと全く変わらない態度で接してきた。輝一の告白に対して自分も考えてみると彼は言っていた筈なのに、いったいその答えはどこへ行ってしまったのか。
 まったく、この俺がよく我慢してるじゃないか、とさすがに輝一も思ったりする。
 その上で泉と仲良くしているところを見せられれば、少しばかり意地悪な考えを持っても仕方がないだろう。実際、輝一もこのところ、
『やっぱりあの時無理矢理にでもやっちゃえばよかったかな』
 などと考えてしまったりするのだ。
 ただ、その後輝二にボコボコにされるだろうことも容易に想像でき、重ねて、絶交、絶縁、完全無視、なども無いとは言い切れない相手の徹底したプライドの高さと真面目さとに思い至り、とにかく無理強いだけはやめておけと自分を説き伏せる。
 その代わりに、じゃあ泉とはどこまでの関係なのだろう、と考えてしまうのがまた困ったもので、そうなるともう止まるところを知らず、しまいには輝二のイク時の表情や体の熱さまで夢想して自分の方こそあらぬ部分が熱くなる。
 ああダメだダメだ、こんな所でそんなこと考えてどうするんだ。
「俺って最っ低ー…」
「んなこた知ってるって」
 ふいに湧いた横からの声にさっと目を向ける。その先にいたのは拓也だった。
 そういえばこいつもいたっけ。
 顔を見るや、輝一はわざとらしく大きな溜め息をついた。
 前述の通りお互いに住んでいる場所も近い。おかげさまで、こんな公立の中学で同学年の四人は顔を合わせたわけだ。
「おっ前なぁ、それ失礼だぞ言っとくけど」
 あからさまな態度に憤慨する拓也に対し、ハイハイ、とおざなりな返事をして輝一は水道に向かう。言うほど気にしてはいないのか、拓也もすぐに後を追う。
「なんか煮詰まってんのか?」
「まあねー」
「どうせまた輝二のことだろ」
 輝一は応じずに水を出す。拓也が横に並び、笑い出しそうな苦笑を見せた。
「お前ってほんっと、ブラコンッ」
「大きなお世話だね」
 そんなのは今に始まったことじゃない。『ブラコン』は、もはや輝一にとっては枕詞のような存在だ。だからいちいち気にすることもなく、輝一は澄まして両手の水を切る。
「しょーがないだろ、輝二かわいいんだから」
 聞いた拓也が、げっ、と声を上げた。
「何? 文句ある?」
 えー、と曖昧に拓也は返す。そうしてから、拭きかけの手で小さく頭を掻きつつ、気を取り直したように口にした。
「いや、だってふつうあれは、強くて逞しくてかわいげが無いって言うだろ」
「最後のだけ却下」
 輝一は硬く早く言い返す。その彼でさえ、前の二つは否定のしようがない。ガタイがいいというのとは異なるが、輝二の身体に薄くだがバランスよく筋肉が付いていることも、それに見合う力強さと敏捷さとを備えていることも知っている。更に言えば、ずっと続けている空手では、輝二は都大会の常連だ。
「どーのへんがカ・ワ・イ・イわけ?」
 片や、元サッカー部部長。勘と根性で苦境を乗り越える奴ともっぱらの噂だが、優秀なブレインの協力と持ち前のポジティブな思考とでチームを引っ張ってきたのは皆が認めるところである。
 明るく健全で裏表のない彼は、それ故に時折輝一を苛立たせる。彼といると、輝一はどことなく後ろめたい気分になるのだ。
 おそらく自分が真っ正直な人間ではないという自覚があるからだろうと輝一は考えていたが、そういう自分自身を恥じたり後ろ暗く思ったりするつもりは彼には毛頭ない。にもかかわらず、拓也のまっすぐで明快な在り方は、輝二の謹厳さとは別の意味で輝一の中に烈しい光を投げかけ、同時に濃い影を落とすのだ。そしてまた、この二人が非常に息の合った友人同士でいることも、輝一には微妙に腹立たしい。
「まあ、拓也にはわかんないだろうね~」
「わかんなくていいって」
 呆れて答えた拓也に、輝一は表面上何も言い添えなかったが、
『うん、わかんなくていいよ』
 と内心強く告げていたのも確かなことだった。
 そのまま二人は連れ立って、トイレ出入口から右へ折れて廊下に出る。
「…輝二んとこ?」
「そ。輝二と泉ちゃんに挨拶」
「…んだかなぁ」
 自分の教室とは反対方向へ当然のように足を向けた輝一に、拓也はもうどうにでもしろとばかりに首を振る。そうする間にも、廊下の壁際で話す泉の綺麗な長い髪が近づく。彼女の向かいには、窓枠に片腕をかけて僅かに前屈みの姿勢をとった輝二が立つ。
 歩み寄る二人には、位置関係から輝二の方が先に気づいて目を向けた。つられるように泉が振り向くと、すかさず輝一は愛想のいい笑顔を振りまく。
「何なに? デートの約束?」
「おしい。クリスマスの相談」
「あぁ? まだひと月もあんじゃん」
 答えた泉に拓也が声を高くする。その彼に目を移し、泉は小さく肩をすくめた。
「ばっかねぇ、クリスマスってそういうものよ」
 そうなのか? と拓也は輝一に話を振る。
「そうなんじゃない」
 柔らかく返す輝一に、泉は満足そうに頷く。にっこり笑う彼女を、あ、かわいいな、と輝一も思う。
「勉強あるし、模試とも重なってるじゃない。どこかに出かけるにしてもパーティ開くにしても負担になっちゃ悪いから、輝二の希望に合わせようと思って」
「やさしいねぇ泉ちゃん。で?」
 輝一は視線を輝二へと移動させて、結局どうするのかと目で問う。
「それほど必死になる必要はないからな。クリスマスぐらい遊ぶ」
「余裕~っ!」
 答えた輝二に拓也が叫ぶ。輝二が顔をしかめるのと泉が軽くあしらうのとがほぼ同時だった。
「拓也が余裕なさすぎなのよ」
 あぁ? と拓也がまた眉根を寄せる。そうしてふくれ面を見せる彼に、輝一と輝二がそろって軽く苦笑した。
 比較的成績のいい泉と、どちらかというと悪い方に入る拓也が、同じ高校を受けようというのだ。泉からすれば拓也はかなり余裕無く見えることだろう。
「結局みんなS高かー。なーんか申し合わせたみたいでやだなぁ」
 成績から話題を逸らすべく拓也は言う。だが返る答えは、容易く予想を裏切る。
「あれっ、俺は輝二が行くからだけど?」
「う~ん、あたしも半分はそうかな」
 公立にしては制服かわいいし、と泉は付け足した。
 臆面もなく言ってのける二人に、それホントかよと拓也は半ば呆れる。じゃあその輝二はどうなんだと、
「お前は?」
 と尋ねると、しばし目を見合わせてから、
「近いから」
 と輝二は簡潔に答えた。
「そうだったわね」
 泉が楽しそうに笑った。
 家から近い場所に学力的にも手頃な公立高校があるのだからそこに行けばいいじゃないか、というのが輝二の意見だ。今のところ特別に願っている将来の進路があるわけでもない。勉強漬けになるつもりは全くないし、部活動だけで時間を浪費するつもりもない。別に無理してランクの高いところを受ける必要も、余計に学費の掛かる私立に行く必要もないだろう、と輝二は思うのだ。
「お前らさぁ、それでいいわけ?」
「何よ拓也。あんたこそもっとサッカーの強い高校に行けばいいじゃない」
 言われて拓也は、けっ、と笑い飛ばす。
「そんなんで勝ったってつまんねぇだろ。弱いとこから頑張ってみんなで強くなっていくからおもしろいんじゃねぇか、なぁ?」
 そう言って輝二に同意を求める。個人技がメインの輝二には部の善し悪しによって学校を選ぶという考え自体なかったので返答までに僅かに間があいたが、拓也の言いたいことはよく分かるので一応肯定を返す。
「…そうだな」
「っていうかお前もう十分強いじゃん!」
「何なんだおまえは」
 なのに拓也が変なところにつっこんでくるので、自分で言っておいてなんだと輝二は脱力する。そして、うーん、と拓也が唸るのに合わせて、泉や輝一までおかしな具合に首を傾げてしまったので、どうおさまりをつけたらいいのかと輝二も考えてしまう。
「別に、俺より強い奴はいくらでもいるし、試合で勝つだけが目的でやってるわけでもないだろう。拓也の考えは分かってるから、そうくさるなって」
 顔は少し伏せたまま、拓也は上目遣いに輝二を見る。
「ま、いっか」
 それからにんまりと笑うのに、輝二が安堵の息と共に薄く笑顔を見せる。当然一部始終を見ている輝一はおもしろくないのだが、その気持ちを表に出すのも癪に感じて、いつも通りの笑みを作ると泉に目を戻した。
「それで結局、クリスマスは二人でどうするの?」
「んふふ、内緒」
「えー」
「…輝一、悪あがきはよせって」
 呆れる拓也の言葉にフンッと返すと、その拍子に、一度ぱちりと輝二と目が合う。微かに細められた輝二の目は、何故か悲しいことを語り出しそうに見えて、咄嗟に輝一は視線を逸らした。
「ごめんね」
 謝りながらも、泉は嬉しそうに輝二と腕を組む。肩に乗せられた彼女の頭に、さっと輝二の顔が赤くなる。何年つきあってもこういう触れ合いは苦手らしく、その姿を見る度に二人の関係はたいして進んでいないのだろうと輝一は思ってきた。だが、今は妙にはっきりと、違う思いが彼の中に浮かんでいた。
『泉に対してはこんなことでも照れるんだな』
 認識した途端、何度もくり返しその言葉が頭の中で響く。反響させたかのように、耳の奥では雑音がさざめき合う。それらがきつく思考を遮るのに、ただ一点だけまっさらに頭が冴えていて、冷たく凍った声が輝一の胸に言葉を投げる。
『俺が押し倒して迫ったって顔色一つ変えないくせに』
 じん、と、深く胸に痛みが走った。
「あーもー馬鹿馬鹿しい。じゃーな」
「ちょっと待て、拓也」
 拓也と輝二の声が、頭の上の方でぼんやりと聞こえているような気がする。泉の腕が輝二から離れる様子も輝二が身を翻す動きも、輝一にとってはやけにゆっくりと展開される。
「輝一?」
 その中でトーンの違う高い声に、輝一ははっと我に返る。輝二が足早に拓也に寄るのが見えた。そしてすぐ隣では、泉が小首を傾げて彼を見上げていた。
「何?」
「あ…ううん」
 自分の方がどうしたのかと聞きたかったのに、先に輝一に尋ねられて泉は口ごもる。だがすぐに、
「…ちょっと、らしくない顔してるかなって」
 と、僅かに迷いながら言った。
「何それ。気のせいだよぅ」
 それでも、いつものように笑って言われれば、泉もそれ以上は問えなくなる。
「そう…変なこと言っちゃったね、ごめん」
 だからそう言って、小さく肩をすくめた。
 拓也との短いやり取りを終えて、輝二が元の場所に戻る。
「じゃ、二十四日は空けといてね。あたし、他の日は予定入れちゃうから」
「分かった」
 二人のやり取りを聞いて、ああなるほど、と輝一も納得する。泉は他との予定を組むために、まず輝二との約束を確定させに来たわけだ。きっと今日中に、女の子同士の計画がねられていくのだろう。
 手を振って離れて行く泉を、輝一は弟と並んで見送る。何度も同じ経験をしている筈なのに、今まで感じたことのない息苦しさに包まれた。
「…何だ?」
 そんな輝一に、輝二は短く声を掛ける。
「何が?」
「用があって来たんじゃないのか?」
「あぁ、そうだね…」
 普段なら何とでも言い繕う輝一が、力なく笑っただけで口を閉ざす。それが何を意味するのか、はっきりしたことは輝二には分からなかったが、兄が、らしくもなく思い悩んでいるらしいことは感じられた。
「用が無いなら教室に戻れよ。じゃあな」
 だがそこで、彼は甘い顔をしない。突き放すように言い切ってくるりと背を向ける。そうすることで相手がどんな顔をするかも知っていながら、それでも輝二は二ヵ月間、兄に背を向け続けてきたのだ。
「こ――」
 いつもと違ったのは、輝一が輝二を呼び止めようとしたことだった。
 そして、呼んだことも呼ばれたことも意識しないうちに、輝二は振り返る。
 見覚えのある表情が輝二を出迎える。また懇願か、と彼は思う。
「どうしたんだ?」
「俺、なんか変な顔してる?」
 輝二は何とも答えなかったが、困惑と諦めの入り交じった目元が肯定しているように見えた。
「泉ちゃんにも言われたよ」
 続けて輝一は言う。泣き笑いのように顔を歪め、うっすらと輝二から視線を逸らす。
 今度は輝二にもよく分かった。恨めしいほどに兄の言いたいことが分かり、二歩戻って彼とまっすぐ向かい合う。
「そういう顔はするな。特に――」
 けれど、言おうとした言葉をふいに輝二は飲み込んだ。始業のチャイムが鳴り始める。
「特に、なに?」
「ほらっ、木村っ、授業始めるぞ」
 続きを促す輝一の言葉に、何倍も強い調子の男の声が重なり、双子の会話を断ち切る。階段を上がりきった廊下で見ているのは、輝一とは仲のいい国語の教師だった。
「センセ早いよー」
 ころりと表情を変えて口にする輝一に、
「じゃあな」
 と短く輝二の声が届く。
「輝二っ」
「木村ーっ」
 もう振り向かない輝二の背は、チャイムが鳴り終わる前に室内へと消える。寒い廊下に佇む輝一に残されたのは、教室へ急かす教師の声と、絶えることのない胸の痛みだけだった。


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