Pulse D-2

ほろ、ほろ、ほろ (2)

「じゃあねっ」
「ああ」
 教室の入口に立った時、ちょうど歩き始めた泉の髪が大きく揺れて、輝一は胸にずしりと重いものが落ちてきたように感じた。堪えて歯を食い縛ったところで輝二と目が合い、変な顔を見られてしまう。
 輝二もけげんそうに首を傾げる。そうして、今別れたばかりの泉が、他の友人たちと連れ立って別の扉から出て行くのにちらりと目を向けてから、荷物を手にして兄の元へと歩み寄った。
「帰るんだろう?」
「うん。…うちに寄ってかない?」
 ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、輝一はどこかおとなしやかに尋ねる。それに少し考える間があり、
「恋愛相談とか言うなよ」
 と輝二が返してくると、輝一は苦笑して言葉を添える。
「借りてたCD、返すよ」
 そして、それでもまだ疑わしそうな輝二の表情に、少しだけ口をとがらせた。
「ここんとこ持ち物検査厳しいから、持ってこない方がいいかなと思って」
 これでようやく輝二も態度をやわらげ、小さく頷くと先に立って廊下に出た。わっと、隣の教室から女子の笑い声が響く。その中には泉のものも含まれているようだったが、輝二はそちらを見ないようにわざと目を伏せ、カバンを肩からかけ直した。
 放課後の校舎に、湿った空気と走り回る生徒たちの足音が漂う。校庭を使えないため、建物内での活動に切り替えている運動部もあるのだろう。いつもより余計にざわめく階段を下り昇降口へと向かうあいだ、二人は一言も口をきかずに過ごした。
 霧雨に変わった雨は風に舞って衣服にしみ込む。形だけさしている傘が少しも役に立たず、輝二は憎々しげに空を見上げる。そのついでに、後ろを歩く兄を振り向くが、深く傘に埋もれて俯く顎の辺りが僅かに見えるだけだ。
「今日、変だぞ」
 軽く足を止めて輝二は言う。傘と顔を上げ、輝一が何度か瞬きをする。大きく開かれた両目と物言いたげに開きかける口の表情が、どこか不釣合いに感じられる。
「…うん。変なんだ」
 目元が淋しげに翳り、口と目の雰囲気が統一された。全体の不安定さはそれこそ普段の輝一には不釣合いだ。その様子に微かな罪悪感と苛立ちとを感じて、輝二は完全に兄へと向き直った。
「言いたいことがあるなら言えよ」
 だが輝一は緩く首を振る。
「濡れるから、帰ろ」
 そうして、動きそうにない輝二の腕を取って歩き出す。
 通りがかる車の撥ねとばす水を避けながら、住宅街の細い道を、二人は再び無言で歩き続ける。時折ぶつかる傘を気にして輝二は兄の手を払い、またそれで情けない表情を見せられてしまう。このままさっさと帰って眠りたい、と思いつつ、恨めしそうに息を吐いて、輝二は輝一の背を押した。
 やがて、アパート住まいの木村家の、誰も居ない部屋の鍵を輝一が取り出す。静かな集合住宅にも冬の雨の匂いが満ちていて、それが一層輝二を憂鬱にさせる。
「少しぐらい上がってってよ」
 外で待つと言う輝二に、溜め息まじりに輝一は言う。
「取って喰ったりしないって」
 て言うよりそれは怖くてできないからいい加減その警戒を解いて欲しいなぁ、と口には出さないながらも輝一は困って首を傾げる。玄関に背を向けて立つ輝二にはその兄の姿は見えないが、雰囲気は感じているらしく、背中が冷たく無視を続ける。
 諦めたように一旦その場を離れ、輝一は室内に姿を消した。CDを持ってくるのだろうと思って輝二は待つが、その考えは少しばかり甘かったようだ。
「はい」
 輝一は弟の肩にタオルを一枚乗せるとさっさと自室に引き返した。何がなんでも引き止める気かと、今度は輝二が溜め息を洩らす。
「本当にすぐ帰るからな」
 玄関から顔を覗かせて言うと、はいはい、と奥から適当な返事が聞こえた。
 それでも濡れない環境にはほっとする。扉に付けられた傘立てに自分の藍色の傘を入れ、カバンと細かな水滴を浮かせたコートに輝二はタオルを当てていく。何か暖房器具をつけたのか、輝一の部屋で、チチチチッ、と小さく音がした。
 げた箱の横には小さなスリッパ立てが置かれている。輝二のためにと兄が用意したやはり藍色の布製のスリッパには、以前来た時にはなかった名札が付けられていた。平仮名で『こうじ』とプリントされたそれは、市販のアイロンでくっつけるタイプのものだろう。
「何だよ、これ?」
「ん? ああ、わかりやすいでしょ」
 コート用にとハンガーを持って現れた兄に輝二が笑って言うと、輝一もちょっと可笑しそうに答える。明らかにほっとした様子の兄に、輝二は少し申し訳なく思いながらコートを脱いだ。
 返すCDと一緒に、輝一はもう一枚別のCDも出してくる。それは以前二人そろって欲しいと話していたもので、何年も前に廃盤になっていたアルバムだった。
「あげる。もうダビングしたし」
「えっ」
 探し回って見つけたのか、ひょっこり偶然見つけたのかは知らないが、二枚のCDを差し出す兄に輝二は小さく驚く。
「CDって場所とるんだもん」
 こういうことを当然のように輝一は言うのだ。
 確かに輝二の部屋よりも狭い輝一の部屋に、輝二の持ち物よりも多くの物があるとは輝二も思う。いつでも整理整頓しておくのはより有効に空間を使うためだ、とも聞いたことがある。ただ、少ないながらも、輝二は一つひとつの物を大切にする傾向があるので、それをぱっと手放す気持ちはよく分からないのだ。
 それでも、こういう言い方をする時は素直に従っておいた方が話が早いのだと知っているので、輝二は短く礼を言って受け取る。
「そのうち何かで返すから」
「いいよぅ、別に」
「そういうのは嫌なんだ。返すから」
 まじめに言い切る弟の目を、思わず輝一はじっと見つめる。
『だったら今すぐ体で返してくれ』
 そう言いたいのはやまやまだったが、ぐっと飲み込む。この数時間の自分の態度をさすがに輝一も反省していた。やっといい雰囲気になれたのに、ここでそれを台無しにするのはあまりにも惨めだ。
「じゃ、そのうちよろしく」
 だから軽く流して話を打ち切った。
 輝一は小さなテーブルを出してきて、カーペットの上に直接座ってくつろげるようにする。部屋には小型のファンヒーターがあるだけなので、そのそばに座り込んでいる方が暖かいのだ。言われるままに、輝二はズボンの裾を乾かしながら待っている。
 最近凝っている新製品のココアは、輝二用と自分用に少し粉の配分を変える。僅かにだがじつは輝一の方が甘党なのだ。
「あ、これ、うまい…」
「でしょー」
 そんな彼の見立ては絶妙だったらしく、こういった感想をあまり述べない輝二もぽろりと口にする。それに満面の笑みを浮かべる輝一が何だかおかしくて、輝二の方も頷きながら軽く声を立てて笑う。そうして身体の中からも温まっていると、もう一度キッチンへ戻っていた輝一が両手にお菓子やらパンやらを抱えて現れた。
 座り込んでスナック菓子の袋を開ける輝一の横で、輝二がさっと菓子パンを取り上げもぐもぐと口を動かし始める。
「お腹すいてんの?」
 聞くと輝二は一つ頷く。
「かなり」
 見遣る時計は四時前だ。
「元気なお腹だね」
「…昼、パンだったから」
 お前に言われたくないとばかりに、強い調子で輝二は答える。ああそういうこと、と輝一が頷く。
「お弁当残ってるよ」
「あのなぁ…」
 だからなんだと脱力してから、輝二はふと目を戻した。
「残した?」
 大食らいのお前が? と首を傾げる。輝一は菓子の袋に目を落としながらも、いつもの緩やかな笑顔を作る。
「なんか食欲なくってさー」
「ほんとに具合悪いんじゃないのか?」
 そう言って輝二が手を伸ばした。その指先が自分の額に触れるか触れないかのところで、はっと輝一も彼の動きに気づく。途端、上げた顔がいっそ見事なほどに紅潮した。
「なっ…何で赤くなるんだっ」
「えっ、あっ、うそっ…」
 自分の頬に手をあてて、輝一は慌てて目を逸らした。そのまま片手で口元を覆い、右へ左へとおろおろと視線を彷徨わせる。
 その表情が、ほどなく悲嘆に暮れていくのを輝二は目の当たりにする。胸の中でせり上がって来るものがあって、堪らずに輝二は半端に引き掛けていた腕をもう一度伸ばそうとしたが、その刹那、別のものが胸で弾けたように感じ、ぐっと指先を握り込んだ。
 拳を下ろして、輝二も兄から顔を背ける。機械の吹き出す熱風が、足元から二人の間を割って抜けていく。けれどあっと言う間にその熱は失せ、何事もなかったかのように首筋には冷たい空気がまとわりつく。
 こんなふうに、自分を求める輝一の気持ちも、その為に生まれる悲しみも苦しみも、すんなり冷えて消え失せてしまえばいいのに。
 密かに思う輝二の耳に、諦めにも似た重さを含んだ兄の声が届いた。
「輝二さぁ…覚えてる? …俺が、好きだって言ったこと…覚えてる、よね?」
「――覚えてる」
 お互いにあらぬ方を向いたまま、迷うよう、ゆっくりとした調子で言葉を綴る。
「じゃあ、少しは、考えてくれた?」
 二ヵ月のあいだ、彼は自分の言ったことと自分たちの関係について考えてくれたのだろうか。学校でも思い巡らせていたことが、混乱する頭をさしおいて口から出ていく。
「それだけの余地はあったんだよねぇ?」
 抱きたいと言ったことは完全に拒否されたが、好きだと告げたことに対しては彼はイエスともノーとも言わなかったのだ。それはつまり、可能性がゼロではないということだろうと、必死に自分に言い聞かせてきた。
 ただそれが、輝二の優しさからくる時間稼ぎだったらと思うと、ひどく切なくなった。断る理由を考えているだけなんじゃないか、輝一自身にその気が無くなるのを期待しているんじゃないかと、何度となく考えた。そうして輝二からの返事を待つあいだ、我慢しているつもりで、逃げていたのも事実。
 輝一だって怖かったのだ、輝二の答えを聞くのが。とても怖かったのだ、再び拒絶の言葉を聞かされるのが。
 それでももう、これ以上引き延ばすのは無理だった。
「助けてよ…輝二――」
 願いの言葉を絞り出し、輝一は必死に顔を上げた。
 ゆっくりと、輝二が顔を巡らせる。その視界に入る兄は、唇を引き結び奥歯を噛み締め、強く彼を睨みつけることで涙を抑えているように見えた。
「――ごめん」
 決して救いにはならない音が、二人の間を漂い消える。
「やっぱり分からないんだ」
 細められる目が、噛み締められる唇が、輝一の絶望を如実に語って輝二の胸を締め付ける。そういう顔は見たくないのに、彼がその表情を向けるのは自分だけなのだとも輝二は知っていて、そうさせる自分にこそ腹が立つ。
「俺…兄さんのことは好きだと思う。だけど、兄さんの求めるような気持ちは分からない。そういうふうには、今は、見ること、できない。そういう相手は…泉だけだ」
 酷いことを言っている自覚はある。けれど他にどう言えばいいのかも分からず、輝二は言葉を切って兄を見つめる。
 ごめんと謝って全てが無かったことになるのなら、いくらでも謝るのに。
 待たせた挙句に言うことがそれかと、怒っても責めても受け止めるのに。
 輝一はどちらも求めず沈黙を重ね、やがて、うっすらと、淋しそうに笑うのだ。
「だよね。…うん、そう、だよね」
 伏せた睫毛がふるえてる。微かに呼吸が乱れてる。それでも彼は笑みを保って、
「だから妬いちゃったんだ」
 と冗談めかして口にした。
 少し横に移動して輝二に寄り添う。それから両ひざを抱えて、黙ったままの弟に軽くもたれる。そうして目を上げるとすぐそこに輝二の顔があり、やはり照れたりせずにただ憂愁を浮かべているだけの姿が胸を刺す。
「普通の顔。哀れみの眼差し」
 その頬をつつき、目尻を指で押し上げる。
 僅かに眉根を寄せはするが、相変わらず綺麗なままの輝二の顔を、からかう振りしてさらりと手のひらで撫でる。
「泉ちゃんのことはほんとに好きなんだなーって、思っちゃったんだよ」
「そりゃ――」
 言いかける輝二の言葉を待たず、輝一は顔を伏せた。
 どうしてこの想いが届かないのだろう。どうしてこの鼓動が伝わらないのだろう。叶えられる願いと退けられる希望とがあるこの不公平を、どうやり過ごせばこの胸の痛みは消えてくれるのだろう?
「泣くなよ」
 短く声を掛ける輝二に、
「泣かせてよ。…ていうかさ」
 と、輝一は僅かに片目を覗かせる。
「慰めてよ。失恋してんだから」
「無茶言うな…」
 振った自分が慰められるかと輝二は途方に暮れる。
「ほんとに冷たーい」
 二人っきりの兄弟なのにぃ、と輝一はまた伏せた姿勢でぼやいてみせる。そうして軽く肩で輝二を突くと、相手も肘でやり返してきた。そんな触れ合いすら切なくて、今度こそ溢れ出しそうな涙にきつく瞼を閉じた。
 膝と腕とに顔をうずめる輝一は、丸めた背中が余計に淋しさを強調させる。見ていると抱き締めずにはいられなくなりそうで、輝二は目を逸らし指先を組む。
「兄弟として一緒にいたんじゃ駄目なのか? それで十分、兄さんは俺にとって特別なのに…それじゃ…駄目、なんだな…?」
「うん。ダメなんだ」
 やけにはっきり答えが返る。だがそのあとに、補う言葉は何一つ続かない。
 本当は自分でもどうしたらいいのかわからない。どうすれば気がすむのか、どうしたら満たされるのか、輝一にもまるっきりわからないのだ。
 もっと気楽に好きでいられた時の方が良かった。子供らしい甘えと、血の繋がりという枠に頼って、持てるエネルギーの全てを傾け笑い合っていられた頃の光景が、ふと輝一の心をかすめる。あのままでいられたら、こんな辛い思いはしなくてすんだのに。大好きな輝二を、こんなに苦しめなくてすんだのに。そう思うけれど、どう足掻いても引き返すことなどできないのだ。
「前にも言ったけど――」
 やがて、思いを固めて顔を上げる。
「せめて一回だけ、キスさせて」
 難しい表情で、輝二は兄を見遣る。確かに前にも聞いた覚えがあった。やけにこだわるんだな、と思う。
「ほら、さよならのキス、とかってよく言うじゃない」
 あれだよ、あれ、と輝一は輝二に目を向けて迫る。
 本気なのか冗談なのか判断に苦しみながら、それでも輝二はまじめに応じた。
「それは、おまえを助けることになるのか?」
 問われて困ったように輝一は苦笑したが、
「たぶん、少しは」
 と告げて、相手の答えを待った。
 かなりの間があった。真剣な表情の輝二の中の葛藤は凄まじかったのだろうが、横でじっと見ている輝一の形相も次第に尋常ではなくなってくる。
『さっさとしないと襲うぞこのっ…』
 不穏なことを考える自分を必死になだめて待つと、その彼を一瞥した輝二がようやく、
「…好きにしろ」
 と低く返答した。
 そうしてすぐまた彼は視線を逸らし、この上なく幸せそうな輝一の顔は見ないふりをする。そんな輝二の目の動きに合わせるように輝一は、さっと弟の肩を押すと素早く床に組み伏せた。これまたデジャ・ヴ、と互いに頭の隅で考える。
「おいっ。何のまねだ」
「だから、さよならのキス」
 事もなげに輝一は言ったが、輝二の方は、だいぶイメージとは違うな、と思う。そんな思いもわかっていながら、輝一は素知らぬふりで顔を寄せた。
 溜め息一つを残したものの黙って目を伏せる輝二の、その潔さをいとしく思う。
 だが、まともに上から覆い被さる体勢は、想像以上に輝一を動揺させた。腕を突っ張って見下ろしている分にはまだよかったが、軽く肘を折った途端、急に輝二が間近に感じられて、輝一は思わず息を詰めまじまじと輝二を眺めてしまう。
「早くしろよ…」
 輝二の方はといえば、掴まれ体重をかけられている肩が痛いし重いし、なのに輝一には少しも急ぐ気配がないしで、すぐに焦れて口にする。
「ごめん」
 けれど、輝一の謝罪に目を上げるとこちらもまた相手の顔のアップに驚く。しかも彼がやたらと優しい目で自分を見ていたものだから、さすがに輝二もどきりとした。
『あ、やった、照れてる…かっわいいー…』
 すっと目を逸らした輝二を見て、また輝一はそんなことを考える。その彼の、思わずにやけたのが目の端に止まったのだろう。
「おいっ」
「はいはい」
 強く短く急かされて、ムードが無いのも照れてるうちか、と思うことにした。
 最初に軽く前歯が当たったが、お互い即座にそれをカバーする。膝立ちのため、腕立て伏せ状態の輝一は二の腕がつらくなり、輝二の肩から腕をはずすと両肘とも床に下ろして弟の頭を抱え込む。輝二の負担も軽くなったらしく、ほっと息を吐くのが感じられた。
 一度唇が重なると、輝二は伏せがちだった瞼を完全に下ろし、その後は輝一の好きにさせた。何度か軽く触れ合わせた後にぴたりと付けながら開くよう促せば、輝一の予想に反して輝二は自然と唇を緩める。
「いっ」
 でも、いい気になって舌を入れようとしたらしっかり歯を立てられた。相手の様子を窺うように時折薄目を開けるのが憎たらしい。
『でも、やっぱり嬉しいよ、輝二…』
 救いになるのだ。少なくとも、こうして触れている今、この瞬間は。
 ずっと今が続けばいいのに。そう思ってしまうのを輝一は止められない。ずっとこのまま腕の中に輝二を収めて、指先に彼の髪を絡ませて、ずっとこのまま唇に輝二を保って、舌先に彼の吐息を感じて――どうか、どうかどうかずっとこのまま、永遠がダメならせめて一秒でも長く、この苦しい恋を告げさせて欲しい。ほかに何を望むことも許されないなら、せめてたった一つ、この願いくらい聞き入れて欲しい。それさえ砕かれる理由が、いったい何処にあるというのか。自分はただ、彼を好きなだけなのに…
「…ちょっ、と、しつこい」
「だって」
 逃がすまいと追いすがり、下唇を甘噛みする。更に引こうとするのを捉え直して吸い上げるけれど、もう輝二は口を閉ざして応えようとしない。どうか――と願うことさえ辛くなり、堪えるように唇の端までを辿りながら小さく輝一は口にする。
「だって、これが、最後かも、しれ…」
 言葉が切れて、輝二の頬に冷たいものが落ちた。
「あ…ごめん…」
「な――」
 驚いて目を開けた輝二は、呆れ気味に兄を見上げた。
「何でこんなことで泣くんだ」
 そうして両腕を上げ、親指の付け根あたりで輝一の涙をぐっと拭き取った。顔を歪めながら切れ切れに兄は抗議する。
「こんなこと、なんかじゃ、無いよ」
 だがそんな輝一の潤む両目を輝二は殊更きつく睨みつけ、やや早口に硬く言い放った。
「こんなこと、だ。弟なんかに惚れて、キスして泣いてたって仕方ないだろ」
 すすり上げる輝一から手を離し、もうひと睨みした後に顔を背ける。怒りを滲ませる横顔はとり付くしまを与えず、そうだけど、と涙声で輝一に呟かせる。
「泣くなって」
 言われるほどに涙が出るのは、小さな子供に限ったことではない筈だ。
「ごめん。こんなことで、泣いて」
 悔しそうに言いながらやはり、輝一はますます涙を深くする。悲しげな雫が、ぽたりぽたりと輝二の顔に降り続け、更に下へと滑り落ちていくそのさまも視界ではいたずらにぼやける。そんな中、輝一は必死の思いで言い切って、瞼も唇もかたく閉ざした。
「ごめん、ね…こんなふう、に…好きに、なっ、てっ…」
 はっと顔を向けた輝二の目元に、また、涙。
 けれどそれを気にする余裕もなく輝二は輝一を抱き寄せた。
 これだけはしてはいけないと思っていたのに。気づいても今さら後へは引けず、輝一の想いに、涙に、そしてその全てを自分自身ですら悔やむしかない彼の悲しさに胸を突かれて、輝二は強く兄を抱き締め続ける。
「ごめん…ごめん…」
「謝らなくていい」
 謝罪の言葉をくり返す兄に、輝二は低く言って顔を寄せる。真横にある輝一の頭はしゃくりあげる彼の動きに合わせて上下に揺れ、その度に輝二の頬を小さく摩る。
「悪くないんだから、謝らなくていいんだ」
 誰に決められるというのだろう、人を好きになることの善悪を。
 誰に分けられるというのだろう、恋する相手の可と不可とを。
 想いは意志で捩じ伏せ切れず、出口を求めて満ちていく。いつしか芽生えて知らぬ間に育ち、高みを目指して伸びていく。
 注意して見れば分かるのだ。とぼけて笑う瞳の中に、ふざけて絡む二つの腕に、育ちかけの小さな愛情がどれだけたくさん潜んでいるか。
 知ってしまったら離せなくなるのだ。背中と横顔のみに向けられる淋しさだらけのその眼差しと、今腕の中で落とす涙こそが、本当の彼の姿なのだと。
「輝二…」
 自分の頭を抱え込む輝二の左腕に右手を添え、輝一は嗚咽の合間に短く名を呼ぶ。悔しくて情けなくて悲しくて申し訳なくて、でもどうしても好きで好きで全部が混ざってひどく切なくて、涙があとからあとから溢れてくる。
 ゆっくりと背をなでる輝二の右手は優しくて、髪を梳く指が愛しくて、まだ望みを捨てなくてもいいんじゃないかと考えそうになる。それでも、もういい加減にしなくちゃと、輝一は無理矢理何度も自分に言い聞かせる。
 結局、必死に涙と呼吸とを静めるのにはずいぶんと時間がかかった。
「輝二ぃ…この体勢、嬉しいんだけどさ――」
 漸くいつもの調子を取り戻して、輝一はおどけたような声を出す。
「ちょっとやばいかな、この辺が」
 そうして、言いながら輝二の股間に手を伸ばした。輝二がぎょっと目を剥く。
 くっ、と一瞬、輝一は笑い出しそうになったが、そう思う間にぐっと腹を持ち上げられ、そのままひっくり返されて今までと全く逆の姿勢にされた。
「わっ!」
 床に打ちつけられそうになる輝一の頭を、輝二は左手で受け止める。右手はそのまま腹を押さえつけ、まるで輝二の方が輝一を襲っているような形になる。にやりとした兄が、
「これもまた、そそられるよね~」
 と言ったところで、弟の左手が動いた。掴んでいた兄の頭を持ち上げ、叩きつける。ゴンッ、と鈍く大きく床が鳴った。
「いっ…たぁ――」
 思い切りぶつけられた後頭部を両手で抱え込み、さすがの輝一もカーペットの上をのたうった。そのあいだに輝二は飲みかけだったココアを飲み干し、壁に掛けていたコートをさっさと着込む。
 これはあんまりだと、それまでとは別の意味で涙を浮かべながら、
「ごーめーんー」
 と半ば叫ぶように輝一は弟の背に声を掛けた。それでも無言のまま部屋を出て行くのに、仕方なさそうに立ち上がる。
 部屋から直接続くキッチンの真ん中辺りまで行っている輝二を、ねえ、と呼ぶが無視されて、むぅ、と低く唸ってから、輝一ははっきりきっぱり声に出した。
「ごめん、やっぱり『さよなら』は無し!」
 は? と輝二が兄を振り返った。
「もうしばらくねばらせて。これでもさ、輝二を好きでいる時間も強さも泉ちゃんに負けないよ」
 開いた口が塞らないとはまさにこのこと、といった様子で輝二は立ち尽くす。
「…張り合うなよ」
 何とか口にするが説得力は皆無で、対する兄もまた、今度は少しも引く気がないのか、じっと輝二を見つめたまま無言の主張を続ける。
 こんな形で根負けするのはいつだって輝二の方だ。
「好きにしろ…」
 ぱっと輝一の表情が晴れる。それに、「但し」と輝二は言葉を続けた。
「高校に合格するまで、この話はなしだ」
 えっ、と輝一が抗議の声を上げる。
「なんでそんなこと言うのさぁ」
「俺は中学最後の冬を静かに過ごしたいんだっ」
「つっまんないこと言うなぁ」
「余計な世話だ」
 思った通りを言い放ち、輝二はまた玄関へと向かう。
「お前もこんなことばっかり気にしてると落ちるぞ」
「またぁ、こんなことって言わないでよ」
 そっちに反応するのか…
 がっくりと脱力する輝二の後ろから、輝一もキッチンを横切ってくる。
「輝二さぁ、スポーツ特待生とかって無いの?」
 そしたら入試の心配なんてしなくてすむのに。
 食事用のテーブルの角付近で立ち止まり、無いことはないがと輝二は答える。
「空手で行ける所は限られるからな。それに、いつ故障するか分かんないだろ。後先考えずにスポーツ特待生なんかになれるか」
 驚いたように見ている兄に、輝二は眉を顰める。
「何だよ」
「…そーいうこと考えてたんだ」
「悪いか」
「ううん」
 じゃあ何なんだと目で問うと、輝一はふらりと視線を目の上の空間へ遊ばせて、考えをまとめる素振りを見せた。
「輝二も拓也もさ、何かやっぱり考えることはあるんだなーって」
 馬鹿にしてるのかとちらりと輝二は思うが、とりあえず口をはさまずに聞くことにする。
「俺、部活はやめちゃったし、高校行ったって特にやりたいことがある訳じゃないし。その先の学校なんか行くかどうかもわかんないしさぁ」
「そんなことは俺だって分かんないって」
 急に何を言い出したのだろうと、輝二は少しまじめな気持ちになって聞こうとした。そういうことこそ相談してくれれば一緒に考えるのに、と密かに思う。
「何か面白いことないかなぁ」
 しかし輝一はこんな言葉で話を締めて、ま、輝二の追っかけはするけどねー、とふざけて笑う。
「あのな…」
 軽い頭痛を感じる輝二は、付き合い切れないとばかりに去りかけたが、そこでふと足を止めて兄を振り返った。
「もう一つ」
 ん? と輝一は興味を引かれて歩み寄る。
「泉には手を出すな」
 意味がわからない。立ち止まって首を傾げた輝一に、輝二が強い口調で付け足す。
「嫉妬するのは勝手だが、それを泉にはぶつけるな。今日みたいな顔も見せるな。絶対に」
 ああ、そういうこと、と輝一も納得した。
「うん。それは極力、努力するよ。俺、別に輝二たちが仲良くしてるのが嫌なわけじゃないもん。似合ってると思うし、楽しそうだし幸せそうだし。羨ましいとは思うけど、邪魔するつもりはないよ」
 でも、と、ふいに輝一はいたずらっぽい表情になった。
「努力料ちょうだい。前払いで」
 何のことかと今度は輝二が疑問符を浮かべる。それに更に輝一はニヤリとしてもう一歩近づいた。
「もう一回キスさせ――」
 言い終わる前に口をふさがれた。短いがしっかりと唇を合わせてから去っていく。
「約束だ。守れよ」
 口づけた本人はさっさと身を返し靴を履き始めた。
 一瞬の放心からさめ、輝一も彼の後を追う。前屈みで靴ひもを結ぶ輝二の背に、そのまま黙ってのしかかる。
「重いって」
 文句を言うのも構わず、彼を抱き締める両腕にぎゅっと力をこめる。
「どけよ。帰るんだから」
 頷くけれど、離れない。ことん、と輝二が首を傾げて、そんな輝一と頭を触れ合わせる。
「またあした。――ちゃんと飯食えよ」
「…うん」
 輝一が、小さく笑みを浮かべる。そっと腕を緩めて静かに体を離す。
 輝二が、ゆっくりと立ち上がる。すっと傘を引き抜き兄を振り向く。
「じゃあ」
「うん」
 ドアへと向き直る輝二に追いすがるよう、輝一も立って靴を突っ掛ける。扉が開くと同時に、急に雨の匂いが濃くなる。
「おやすみ…は、ちょっと早いかな」
 言いながら照れて目を細める輝一を、輝二も僅かに目をすがめて見遣る。
「おやすみ」
「…ん」
 笑って頷く輝一を残し、扉の向こうに輝二が消える。
 遠ざかる靴音、階段を下りる音。聞こえる筈のない傘を開く音。再び細かな雨の中、通りに出て行く輝二の足音。
 遠く遠く去っていく音を胸の中で聞きながら、ドアノブにそろりと手を伸ばす。
「だめだよ輝二…」
 カチャリ、と鍵をかける。冷えた金属の感触が、体じゅうにじんと広がっていく。
「余計、好きになっちゃったじゃないかぁ――」
 ほろほろほろとこぼれゆく、雫のこころを君は知らない。
 輝二の傘が落としていった大小様々の雨の粒に、ひとつふたつと加わっていく水滴が微かな音をたてる。
 一人きりの部屋の中、もう誰に謝ることもなく、輝一はいつまでも悲しい雨を降らせ続けた。


 ひどい顔をしてるな、と自分のことながら思って、輝二はこの朝何度めかの溜め息をつく。ろくに眠れなかった夜は恨めしいが、その原因の輝一のことはむしろ気がかりで仕方なく、早く会って元気でいることを確かめたかった。だからなおさら、自分も情けない姿は見せられないと思うのに、どうひいき目に見ても今朝の自分から溌剌さを見つけ出すことはできなかった。
 別れ際の表情が、瞼の裏に残ってる。
 また泣いてやしないだろうか。今日もちゃんと学校に来るだろうか。今まで通りに話すことが出来るだろうか。輝一に対してそんな不安を抱くことがまた、口惜しかった。
「しっかりしろ」
 パチンと一つ頬を叩き、輝二は着替えを再開する。薄手のベストに手を伸ばしたところで、ふいにノックの音がした。ちらりと時計を見遣る。大丈夫、まだ出かけるには充分時間がある。
「はい。――何?」
 答えても尋ねても何の応答も無いので、不思議に思って輝二はドアまで歩く。
「わっ」
 開けた扉の向こうにいたのは制服姿の泉で、輝二は小さく驚きの声を上げた。
「えへ。おはよ」
「…あぁ…おはよう」
「ごめんね。外で待ってたんだけど…」
 輝二の母親に見つかったらしい。良く見知っている息子の彼女を、寒い中で待たせておく筈がないのだ。
「別にいい。俺の方こそ、待たせてごめん」
 待ち合わせをしていた訳ではなかったが、笑って言って輝二は部屋の中へと泉を招く。だが入室するより先に、
「どうしたの?」
 と泉は聞いてくる。
 何が、と輝二が顔を向けると、
「目の下にクマ、寝っ転がってるみたい」
 と言って、じっと輝二を見つめる。やっぱりそうだよなと思うけれど、それは口にはせずに、輝二は軽く前髪を掻き上げる。
「ちょっと寝不足なだけだ――そんなにひどいか?」
「うん。無理し過ぎちゃだめよ」
 彼女は答え、そうして両手で二、三度、輝二の頬を摩ったので、輝二は顔を赤くしてその場に硬直した。愛しそうに笑って、泉は部屋に入った。
「ね、輝二」
 準備する輝二を待ちながら、泉が小さく彼を呼ぶ。朝からこんなふうにやってきたのには理由がある筈だと思っていた輝二は、袖を通しかけていたコートをベッドの上に放り出して泉の傍らに寄る。彼女は、壁に掛けられたカレンダーを眺めていた。
「クリスマス、さ。輝一も一緒じゃ、だめかな」
 単刀直入に切り出したものの、そこでぱっと輝二を見上げて、違う違うと胸の前に両手を挙げた。
「あ、別にへんな意味じゃないからね。輝二が嫌ならもう言わない」
 ただね、と視線を落とす。
「輝一も輝二といたいんだろうなって思ったら、それを無視してあたしが一人占めするのはおかしいかな、って」
 左手を右手で軽く包むようにして、泉は下ろした指先を小さくこすり合わせる。輝二は黙って聞きながら、彼女の静かな目元からその手先までを視線でたどる。
「あたしだって輝二と二人っきりで過ごす時間が欲しいとは思うよ。でもそれって、今年じゃなくても、クリスマスじゃなくても、できること、だよね?」
 今こうして二人でいるみたいに、明日も明後日も、来年も再来年もそのまた次も。
「一度しかない今年のクリスマスなら、一緒にいたい人みんなで、一緒にいた方が素敵だと思うの」
 再び泉は顔を上げる。
「どうかな?」
 尋ねる声が、伸ばされた腕に引き寄せられる。
「泉…泉――」
 輝二が泉を抱き締める。優しく、とても、優しく。
 誰も悪くはないのに、誰もが相手を大切に思っているのに、どうして皆が揃って幸せになることができないのだろう?
「えっ、えっ、何っ?」
 返らぬ答えに秘められる想いを、汲み取る術を人は知らない。
「輝二――」
 だからただ静かに愛しい名を呼び、その背にやわらかな両手を添えた。

更新日:2002.11.15


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