Pulse D-2

ほか、ほか、ほか

 ゆっくりと開かれた扉から、やわらかな玄関の明かりが洩れ出ていく。曇った空と暗い大気に、その光の輪が一時のやわらぎをもたらす。
「またいつでも来てね」
「はい」
 外へ出ていく泉の背後で、彼女の母親と輝二が言葉を交わす。
「輝一君も」
「ありがとうございます」
 同様に向けられた笑顔に輝一もにこやかに答え、世話になった礼を述べてから二人は泉の後を追った。
「何、かしこまってるんだか」
 と笑う泉の吐く息が、黒い夜の中で白く凍る。そうして、並び立った輝二のマフラーの形を軽く直す彼女に、二人の横を通り過ぎてから輝一が振り返って声を掛けた。
「お世話さま。すごく楽しかったよ」
「こちらこそ。輝一も来てくれて良かった。…本当にまた遊びに来なさいよ」
 輝一に向き直し、体の後ろで手を組んで小首を傾げる泉は、少しだけ年上ぶった口調で澄まして言う。それに、そうだねぇ、と返しながら、輝一は泉の隣に目を向ける。
「弟が恐いからなぁ」
 やれやれと首を振ってみせると、輝二がむっと眉根を寄せ、泉が小さく、うふふ、と笑った。
「それじゃあ、おやすみ。と、また来年」
「良いお年を」
 軽く手を振り合う。一緒に歩き出そうとした輝二を引き止める泉の腕が見えたが、輝一は知らんぷりで道路に出ると、少し歩いて、隣の家の庭を囲むカラフルなブロック塀にもたれた。そこまでは話す二人の声は聞こえなかったが、その雰囲気すらも遮るよう、温かなマフラーと帽子に耳も顔もうずめる。
 早く帰りたい。優しさを優しさと感じていられるうちに。
 早く眠りたい。嬉しさと悲しさが入れ替わらないうちに。
 せっかく楽しい一日だったから、早く、幸せなままこの日を終えたい。
「帰ろうよ、輝二ぃ…」
 呟きに合わせて口元で、マフラーがぼうっと熱くなる。その儚い熱が、余計に輝一に辺りの寒さを思わせた。実際かなり冷え込んできているのだろう。じっとしていると、確かに足元から這い上がってくる冷たさがあった。
「さーむーいー、おーそーいー、さーむーいー、おーそーいー」
 気持ちをまぎらわせるように繰り返し、アスファルトに鈍く靴底を鳴らす。自転車で通りすぎる大学生風の男の携帯電話片手に話す楽しげな声が、どこか癇に障ってムカッと動きを止めるが、その姿が暗がりに消えたところで代わりに現われた弟を見て、輝一はさりげなくニット帽を引き上げた。
「ほらまた、真っ赤」
「うるさいな」
 決して十分ではない街灯の明るみの下、からかう輝一の方こそ今の今まで情けない表情をしていたことに、照れた顔でそっぽ向く輝二は気づかない。
「あーあ、いいなあ彼女のいる人はー」
 更に揶揄するように言って歩き出す。さすがに何か言いたそうな輝二の気配が追ってくる。けれど現実に掛けられる言葉はなく、輝二自身がすぐに追いつき兄と並んだ。
「ありがと、俺もまぜてくれて。おじゃまでごめんね」
 目だけ隣に向けて、輝一はなるべく明るく言ってみせる。
「別に。邪魔なら呼ばない」
 まだ顔を赤くしたままそれに答え、第一、と輝二が続けた。
「二人きりでって思うなら、わざわざ泉の家ではやらないだろ」
 外はどこも人で一杯だからということで出かけるのはやめたのだが、家でパーティとなれば織本家総出になるのは必至だ。
「ははっ。そだね」
 事実、保護者付きだったクリスマスを思い返して、輝一もおかしそうに笑う。でもおかげで、照れたり焦ったりする輝二をたくさん見ることができたから、自分にはなかなか有意義だったとも思う。
 感謝、感謝、と胸の中で呟きながら、視線を前に戻して輝一は黙り込んだ。
 連なる家の窓や庭に、時折チカチカと明滅するライトが見える。クリスマスツリーとして飾りつけられた庭木も、ポストや玄関に取りつけられた色とりどりのリースも、ひとけの無い夜の中にありながら静かに幸せな空間を作り出す。
 だけど、知ってる。
 それが幸せそうに見えるのは、自分が今、一人じゃないからだ。
 たとえ自分だけのものじゃなくても、想いの全てに応えてもらえなくても、彼の持てる精一杯の気持ちを傾けてくれる輝二がいる。避けられもせず、多分嫌われもせず、大好きな相手とこうしていられるから、素直に周りのものを見ることができるのだ。
 そんな話をしたら、輝二はまた『こんなことで』って言うのかな?
 考えながら横に流す目線の先には、上向き加減の輝二が見える。その、自分より少しだけ精悍に感じられる横顔が、ふいに小さな驚きに目を見開いて上空を見上げた。
「あ…」
 輝一の口からも声が洩れる。
 降りてくる、雪の群。
 立ち尽くす二人に届く、無口で軽やかな白い結晶。
 その美しさを感じるごとに、息を詰めただけではない苦しさが胸に迫ってきて、また自分をごまかすよう輝一は小さく口笛を鳴らす。
「スペシャル・ロマンチック~」
 そして、何だそれはと呆れる輝二に、おどけたままに顔を寄せる。
「どうせなら泉ちゃんとの方が良かった?」
「…まあな」
 そんな彼をちらりと見遣ってから輝二は短く答える。ふうん、と半ばからかい半ばふてくされて輝一は顔を離したが、思いがけず続いた言葉に、逸らしていた視線を慌てて弟へと戻した。
「でも別にいい。今だけのことじゃないし」
 泉とはこの先いくつもの冬を過ごすつもりで、これから幾らでもこんなチャンスはある筈なのだから、今一緒にこの雪の中に居なくてもいい。
 そういう意味のことを口にして、輝二は清々とした様子で空を見続ける。
「じゃあ――」
 声と共に、そっと輝一の腕が輝二の右肘に掛かった。
「俺にくれない?」
 コートの袖を掴む。
「輝二の今、俺にちょうだい」
 ほぼ同じ高さで、まっすぐに目を合わせる。
『泣かない、焦らない、押しつけない』
 このひと月で癖のようになってしまったフレーズを、顔にも声にも出さずに輝一は繰り返す。なるべく切羽詰まった顔にならないように、輝二に無理を強いないように。
 けれど向き合う輝二は黙したまま。驚いたのか呆れたのか、困惑しているのか迷惑しているのか、判断しかねる半端な顔つきで、ただ輝一に目を向けている。
 わかりにくい言い方しちゃったかな。また困らせちゃったかな。
 輝一は内心ひどく心配しながら、懸命に平静を保たせようとする。その為にゆっくり吐いた息が思いのほか長く白く二人の間に留まって、互いの姿に紗をかけた。
 ふっと、何かに気づいたように輝二が顔をそらす。霞む視界に吹き出すのが見え、途端に輝一は不安そうに眉根を寄せる。
「あ、ごめん…」
 それに軽く謝ってから再度、今度は彼にしっかり目を据え、輝二は明朗な笑顔を見せた。
「やる」
 端的すぎる言い方に、一瞬、何を言われたのかピンとこない。だが、それ以上何も付け足さない輝二は、照れ隠しのためかまた空に目を移し、頬に唇に雪を浴びる。
 俺の今をお前にやる。
「やったぁ」
 漸くわかって顔を輝かせる輝一に、牽制するような輝二の声が届いた。
「でもキスはしないぞ」
「えー」
 一応短く不満を告げるが、視線を投げてくる弟にすぐに冗談だよと輝一は笑う。そして続けて、それはいいんだけど、と彼に問うた。
「何、さっきの笑い?」
「ん? ああ、いや…」
 少し考えてから口ごもる弟を、兄が面白そうに睨む。唇を結び、視線を上下左右にさまよわせた後に、仕方なさそうに輝二は答える。
「どんな顔したらいいのか、迷って…馬鹿だな、と思って」
 馬鹿だな、と思ったのは輝二自身に対してだよね? と口にしないまま輝一は考える。その結果、返事をするまでに輝二の要した時間が、表情を決めかねていた為のものだったことを知った。
『困ってたんじゃなかったんだ…』
 迷惑して返事を躊躇ったのではなく、どんな顔で許可すればいいのかと輝二なりに考えていただけだったのだ。彼の方に拒む意思はなかったのだと、輝一はほっと安堵の息を吐く。また、そんな自分に思わず吹き出す輝二の気楽さが嬉しかった。
「そっか。じゃ、いいや」
 自分の左腕を輝二の右腕に絡ませて、輝一は小さく一歩を踏み出す。ポケットに手を突っ込んだまま兄に倣った輝二が、最初の二、三歩のあいだ、普段との歩くテンポの違いに戸惑う。
 ゆっくりゆっくり、お願い、輝二。できるだけゆっくり歩いて欲しい。
 輝二の肘を抱え込むように両腕を回し、ゆっくり、と願いながら、輝一は笑みを絶やさぬよう注意を払う。輝二に関する嬉しさと切なさはいつでも同じ高さにあって、幸せだと感じていた筈の感情が気を抜くとあっという間に涙に変わる。けれどそんなもの、彼には見せたくない。だから、がんばれ、がんばれ、と自分を励まし続けてる。
 側にいる輝二にもその気持ちは痛いほど分かって、彼が嬉しそうに笑っても、哀しみを堪えるように目を伏せても、その一つひとつに自分の方こそ泣きたくなる。どうにかして彼の苦しみをやわらげたいと思っても自分にできることは何一つない気がして、兄が何かを望むたび、自分がそれに応えるたび、本当にこれでいいのかと心配でたまらなくなる。だから、つい、僅かに顔を向けてしまう。
 そんな輝二の視線に気づき、こん、と輝一が頭をぶつけてきた。
「そういうふうに見ないでよ。…もっと色々頼みたくなるからさ」
「…ごめん」
 思わず謝罪し目を逸らす。それを横目で見遣って輝一がニッと笑う。
「許す」
 束の間、視線を絡めて笑い合う。
 いいんだよ、幸せなんだから。いいんだよ、悲しいだけじゃないんだから。
 自分にも輝二にも向けて、輝一は心の中で静かに告げる。
 やめたのだ、嘆くのは。やめたのだ、後ろばかり見るのは。好きでいると決めたのも自分、変わらず側にいたいと願ったのも自分。なら、辛いのがなんだ、苦しいのがなんだ。彼の幸福を望むことと彼を好きな気持ちを持ち続けることの方がずっと大事。
 舞い降りる雪は次々と、足元を湿らせて消えていく。とても綺麗でおそろしく儚い、それはまるで、こうして歩くこの時間のようだ。でも、雪が消えても忘れない。それがどんなに美しく自分の心に届いたか。時が過ぎても決して消えない。輝二が迷わず自分にくれた時間は。
 思う間に見えてくる別れのT字路。あーあ、と内心深くため息をつきながら、それでも輝一は細い道を渡り切ったところで立ち止まる。
 輝一が右折、輝二が直進。
 自分の行く『自動車一方通行』の道を一瞥してから、何でもないように腕を離して輝一は斜めに輝二を向く。
「じゃあ、また」
「ああ」
 答える輝二の右の頬にさっと小さくキスを落とす。
「メリー・クリスマス! おやすみっ」
 明るく手を振り身を翻す。走り去る背中に大切な弟の「メリー・クリスマス!」を受け取って。
 早く帰ろう。愛しさが胸を満たしているうちに。
 早く眠ろう。淋しさが押し寄せてこないうちに。
 本当に楽しい一日だったから、今度こそ幸せを抱えてこの日を終えよう。
 必死に思うのに胸は痛くて、呼吸がひどく乱れていく。
『立ち止まっちゃダメだ』
 命令しても激励しても速度の鈍るのは避けられず、輝一の切なる思いに反してやがて両足が動きを止める。これくらいで息が切れる筈はないのに思い切り肩を揺らし、二本の電柱のちょうど真ん中の暗い道端に息を吐いた。
 どうしよう、進めなくなっちゃった。
 呆然と天を仰ぐ。変わらない曇り空、距離感を狂わせる雪、雪、雪。
「――じ…」
 洩れた声を掻き消すよう吹き抜けた風に、身を縮めて両手をポケットに突っ込む。
 寒い、暗い、哀しい、淋しい――気づいてよ、俺が今ここで立ち竦んでることに。認めてよ、俺が今こんなにもお前を想ってることを。
 これじゃあいつかと同じ、闇に呑まれてしまうかも。…光が、欲しい。
 願ったその時足音が聞こえ、反射的に振り向こうとした輝一を強い力が引いた。
「わっ!」
「何やってるんだ、かぜ引くぞ」
 ぐんぐんと大股で歩いて行く輝二が掴んでいた輝一の腕を離す。代わりに彼の右肘に自分の左腕を差し込み、兄と同様に両手ともポケットに収めた。
「えっ、えっ?」
「せっかく雪が降ってるから、遠回りして帰る」
 右前方へと目を逸らしたまま、抑揚のない声で言う輝二。
 …そんなに俺を泣かせたいの?
 胸が一杯で仕方がなくて、輝一はそんなことを思うけれど、それよりもっといい方法を彼は選んで大きく笑う。
「何それ。変なのー」
「いいんだ」
 つんと言い返し横目でちらり。兄と目が合い輝二はにやり。
 心の底から嬉しそうに目を細める輝一の、少し濡れたグレイの帽子に輝二がこつりと頭をぶつける。やり返す兄はそのまま離れず、二人の笑い声が辺りに揺れた。
 空気は冷たく澄むけれど、腕と心は、ほかほかほか。
 暖かな光を側に得て楽しく家路を辿りながら、輝一は、穏やかな祈りをその夜に捧げた。


      誰の胸にも優しい想いが降り積もっていくように。

更新日:2002.12.21


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