Pulse D-2

まなざしの薄紅


  ~ まなざしのうつろふ先に見む花の想ひのせ舞ふ薄紅に ~


 淡い水色の空、薄くちぎれ飛ぶ白い雲。風にたなびく洗濯物と、木を叩いているらしい軽く乾いた連続音。
「平和だ――」
 窓の側に腰かけて、輝一はぼんやりと呟いた。そのあいだにも、はたはたはた、とすぐそこに干された輝一のTシャツが気持ち良さげに揺れていた。
「おにーちゃん、まってぇ」
 窓に面した狭い道に、兄妹らしい子供が見える。追いかけてきた妹を待つ兄が、何事かと考えるよう首を傾げる。妹の高い声が切れ切れに輝一にも聞こえ、自分も一緒に行きたいとせがんでいるらしいことがわかった。
 ああいうのって困るんだろうな。
 経験がないから実際のところはわからないけれど、自分だったらすごく困るだろうと輝一は思う。だが見遣る先で、輝一より幾つか年下と思われる兄は、妹の手を取りゆっくりと歩き始めた。並ぶ姿が小さくなる。
「やさしいなぁ」
 感心して口にしつつも、即座に心は他へ飛んだ。
 輝二、どうしてるかなぁ…
 春休みだというのに一度も会っていない。確か暖かくなったら会おうと言っていた筈だと思い出し、その言いぐさに『寒いのは苦手なんだな』と考えていた記憶も甦った。
 もう十分あったかいよね、と空を見上げる。鳴り続けていた音が途切れたところに、明るく、キキトーキキトーキキトー、と鳥の声がはまった。
「うん」
 心を決めて立ち上がる。まっすぐ電話のもとへ向かうと、使い慣れた短縮ダイヤルを押した。四回のコールと久しぶりの声。
『もしもし。輝一?』
「うん。輝二? 今、平気?」
『ああ。どうした? 何かあったのか?』
 何かないと電話しちゃいけないのかな、と考えそうになるのを無視して笑う。
「なんにもないよ。すっごく平和」
 電話の向こうでほっとしたらしい気配がした。
「だから、デートのお誘い…なんてね」
 照れ隠しに冗談めかす。何言ってるんだと呆れを含んだ声が聞こえたが、特に問い詰めることなくすぐに、
『今から?』
 と尋ねてきた。
「そう。都合悪い?」
『いや、別に。…いいよ、会おう』
「じゃあ、そっちに行ってもいい?」
 うちに? と聞き返すのに、
「家じゃなくて、近くに公園があったよね。あそこじゃダメ?」
 ともう一度返す。寒いから嫌だとか言ったら笑うぞ、と思いながら待っていると、やや間があいてから、わかった、と答えがあった。
 一時間半後に会うことにして受話器を置く。買い物に出ている母親宛てにメモを残し、輝一はそそくさと家を出る。
 アパートからすぐの角を曲がると住宅の改築をしていて、作業の車が細い道をさらに狭めていた。駅に向かって抜けていくうち、やはり作業音の合間に朗らかな鳴き声が響いてくる。それが今度は、
「いいよー、いいよー、いいよー」
 と聞こえてしかたがなかった。
 電車に乗って幾つかの駅を過ぎ、目的の場所で改札を抜ける。小走りになりながら公園を目指すと、入口を挟んだ向かい側から悠々と歩いてきた輝二が先に気づいて手を挙げた。
「そんなに急ぐ必要ないだろ」
 汗までかいて、と兄の様子を笑う。
「だってっ、早く、会いたくて…」
 軽く息を切らしながら輝一は答えたが、そうしつつ自分でもおかしくなって、額の汗を手でぬぐいながら笑ってしまった。輝二は何も言わなかったが、一度、小さく頷いたようだった。
「すごい人だね」
 歩きながら輝一は言う。幼稚園も入園前と思われる小さな子から小学校の高学年に見える一団まで、公園内には大勢の子供があふれ、保護者共々陽気な賑わいを見せていた。
「そうなんだ」
 先に立った輝二が短く答える。だから電話で少し間があったのか。だったらそう言ってくれればいいのに、と輝一が考えかけた時、周りの喚声にかき消されそうな静かな声が耳に届いた。
「でも、桜は綺麗だと思ったから…」
「――うん」
 そう、すごくきれいだね。
 言葉にする代わりに視線を巡らせて、公園の道を奥へと進んだ。
 いわゆる児童公園のような子供のための遊び場的なものではないこの公園は、小さな池を中心に大人も憩えるように造られている。入ってすぐの所には砂場とアスレチックが設けられているが、ぐるりと水場を回り込んでいくと次第に木の数と種類が増し、人の声と気配は遠くまばらになっていく。さらにそこから池を離れて続く脇道があり、葉の繁る季節には木々によって完全に外界から隔離されることもできた。
 デートっぽくなってきたかな…?
 両脇を木で覆われた道を歩きながら輝一はこっそり思う。言ったら、何がデートだ、とか、どんなデートだよ、とか言われそうなので口にはしなかったが、静かな場所を好む輝二らしいコースだと感じていた。
 そのうちに古びたベンチに行き着く。勧めに従って座ろうとする兄に対し、
「何か飲むか?」
 と輝二が声を掛けた。財布を出しながら太めの木の幹を回り込んで行くので、輝一も不思議に思って駆け寄る。そこには、木に隠れるように少し汚れた小さなジュースの自動販売機が立っていた。
 輝二が小銭を探る間に、輝一は機械に飛びつくようにして自分の硬貨を投げ入れる。
「どれ? 押して」
 突然の素早さに輝二があ然とする。してやったりとほくそ笑んで、輝一は好きな飲み物のボタンを押すよう促した。大きな音と共に、ジュースの缶が転がり出た。
 澄まして次のコインを入れる。
「こんなところに自販機って変じゃない?」
 言いながらボタンを押す。輝二のものとは違うデザインの缶を手にしたところで、
「需要と供給」
 と告げられた。
「難しいこと言うね」
 輝一が笑って応じると、輝二も苦笑じみた笑みを浮かべる。そうしてジュース代の小銭を差し出してきたが、輝一は笑顔のまま首を振って拒んだ。
「俺が誘ったんだから」
 まだ何か言いたそうな輝二を残してベンチに座る。羽音が聞こえて鳥の飛び立ったことがわかる。その拍子に枝が揺れ、数枚の花びらが輝一の視界に入った。追う視線を、輝二の姿が遮った。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
 輝一が満足そうに笑うと、輝二は目をそらして左横に腰を下ろした。
 会わずにいた間のことを、ぽつりぽつりと二人は話す。一つひとつの会話は短く、すんなり次へと繋がっていくことは稀だったが、そこに不自然さや気まずさを感じることはなかった。これが自分たちのテンポなのだとわかる程度には二人のつきあいも深まってきていた。
 目線を遠くへ向けると、常緑樹の深緑を縫って噴水の水に反射した光がちらちらと輝いて見える。
「平和だね――」
 その光を目にしながら、輝一はぽそりと口にする。あんまり天気も気分もいいからつい言いたくなるんだ、という自覚が後から追ってきた。
 どう思っているのか隣からの反応はなく、おなじみの沈黙が穏やかな空気に溶けていく。チッチョチッチョチッチョ、と頭上で鳴く鳥に顔を上げて、小さく芽吹き始めたばかりの枝先に並ぶ二つの影を認める。
「それって、幸せなことだよな」
 ようやく聞こえた弟の声に目を向ける。辺りの雰囲気を乱さない静かな横顔を黙って見つめる。
 自分たちの出会いが平和とはかけ離れた所にあったから、余計強く感じるのかもしれない。今自分が口にしたことで、輝二も同じように実感したのかもしれない。
 うん、そう、幸せなことだと思う。でも――
「輝二」
 呼んだ途端に緊張した。貫く視線が続きを尋ねる。何を言いたいと思ったのか必死に思い出し、一息飲み込んでから輝一は言葉にした。
「頼みがあるんだ」
 輝二の眉根が微かに寄った。以前この言葉に続けた切羽詰まった願いが脳裏にちらついて、自分でも悲しい気分になりかける。だが、違う違うつらい話じゃないんだと言い聞かせ、落とした目の先に見えた輝二の上着の袖口を掴んで、もう一度彼と目を合わせた。
「俺、もっと輝二に会いたい」
 相手ははっきり三度まばたく。
「もっと長く一緒にいたい。もっとたくさん話をしたい。もっと二人でいろんなことして、もっと――」
 一気に言い募ろうとした輝一を春の突風が襲う。真横から吹きつけた風と砂に、二人そろって瞼を伏せる。耳元を風が過ぎたあと、遠く子供たちの驚きの声も流れてきた。
 そして、輝一は目を上げる。
 落ち着かなげな木々の間を、斜めに渡る色があった。
 そっと視界を移動させる。つられるように輝二もまた、ゆっくりと顔を廻らせていく。
 入口で見たものよりずっと小さく頼りない桜が、一本、ひっそりと花をつけていた。
 明らかに他よりも開花が遅い。その蕾より少なくすら見える花を、風に奪われ散らしていく。漂う花弁の一枚が輝一の目の前に差し掛かり、映る淡い彩りが胸に言いようのないやるせなさを生んだ。
 その時。
 ふっ、と腕を引かれた。
 布が指先を擦って抜け、代わりに冷たい指が触れてくる。とっさに花から指へ目を移し、それをまたぱっと上げて正面を見遣る。
「俺も、会いたい」
 迷い無く、輝二が言う。
「俺ももっと、輝一と一緒にいたい。もっとちょくちょく会って、もっと長く一緒に過ごしたい。会わないでいた間に、すごく、そう思うようになった」
 どちらからともなく、繋いだ手に力を込める。互いに照れてそらす視線。同じタイミングで上げる目線。それがやっぱりおかしくて、よく似た顔を見合わせたまま、肩を揺らして二人は笑った。
 遅れて降ってきた花びらが、緩い空気の流れにふわりと舞い上がる。その軽やかな動きを目で追う二人に、木の上から、
「一緒、一緒、一緒」
 と、鳥が楽しげに繰り返し言った。

更新日:2003.04.01


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