Pulse D-2

桜 (1)

 アパートの敷地を囲むのは、何の変哲もない、むしろ、つまらないと言っても誰にも責められそうにない、厚い灰色のブロック塀だ。その切れ目から二歩ほど道路へ出たところで、降ってきた声に輝一は顔を上げる。二階の窓から母親が、雨になるから傘を持っていきなさい、と告げていた。
「えー、降るかなぁ?」
 母から空へと目を移す。一面にうっすらと雲が配されていたが、全体の明るさのためか雨の気配は感じられない。
「あしたは降るわよ」
「えっ、じゃ俺、何のために行くのさっ」
 答えながら階段へと戻る輝一に、母親は僅かに考える素振りをみせてから玄関へ行く。
「いいじゃない。輝二に会えるのは確かなんだから」
 そうして折り畳み式の傘を手渡しがてら言うと、反応した輝一の様子に笑いを噛み殺した。
『どうしてそこで照れるのよ』
 弟に会えるのは、輝一にとって本当に嬉しいことらしい。休みの日に「輝二に会いに行く」と言って出掛けていく息子の笑顔を見るたびに感じてきたうらやましいようなくすぐったいような思いが、今もまた胸に湧いてきて彼女を不思議な気持ちにさせる。
「まあ、予報ははずれるかもしれないし。気をつけていってらっしゃい」
「うん。いってきます」
「迷惑かけないのよ」
 大丈夫だって、と明るく言って、輝一は再び階段を駆け下りた。
 輝二の家へは今までも何度か遊びに行っている。だが、泊まりに行くのは初めてだ。本当は花見をするために拓也たちと会おうという話だったのが、春休みの最中なのを幸いに泊まりがけで源家へ行くことになったのだ。
『いいの? いいの? 本当にいいんだね?』
 輝一があまりにもくり返し念を押すので、
『だからいいって言ってるだろ。何度も聞くなよ。そんなに信じられないのか』
 と、しまいには輝二に睨まれた。それに思わず、
『うんっ!』
 と答えると一瞬彼は顔を引きつらせたが、いやそうじゃなくて泊まりに来てもいいって言ってもらえたのが信じられないくらい嬉しいってことで別に輝二のことが信じられないって意味じゃなくってうゎごめん怒らないで…と慌てて言葉を連ねた輝一に、すぐに機嫌を直し軽く声を立てて笑った。
 そんな話をこれまたにこにこと母親にも話したりするので、聞いた彼女の方では、中学二年になろうとしている男子としては少し変わってやしないかと思わなくもない。もちろん、思ってみたところで他の子のことを知らないので比べようもないのだが、優しく素直に育ってくれていると見るべきなのか、母一人子一人で暮らしてきたからお互いに子離れ親離れができていないのだと考えるべきなのか、少々迷うところではあった。
 また、楽しそうに話す前後に、やはり、
『泊まりに行ってもいい?』
 と重ねて尋ねる表情に遠慮と不安とが見え隠れしているのにも気づいてしまい、今更ながら、可哀想なことをしているという思いに囚われそうになった。
『いいに決まってるでしょ』
 笑って答えた彼女の胸の内など知らぬまま、息子は一泊用の荷物をバッグに詰めてその日を迎えたのだった。
 駅まで歩いて二十分。出たばかりの電車に小さく落胆。次を待って、乗り込んで、輝一はシートの端から車外の景色へと目を向けた。
 遠く近く、薄紅色の霞がたなびく。五分咲き程度の桜が時折ぱっと目の前に現れ、ガラスに顔を寄せる輝一の中に清くひっそりと、それでいて華やかで軽快な、いとおしむべき印象を残して過ぎていく。
 ほうっと、何度ため息を洩らしただろう。
 歓喜と感嘆と緊張と興奮──諸々が一体になって胸に詰まっているようだった。
 ゆっくりと、電車はホームに滑り込む。降りる人々、乗る人々。その足取りも、どこかふだんより緩やかに感じられる。人と共に空気も少し入れ替わり、閉まるドア、また走り出す車両。
 少しずつだけど確実に輝二に近づいてる。
 視線は桜へ向けたまま、輝一はそんなことを思う。
 今に始まったことじゃない。こうやって電車に乗ると、いつでもつい、考えてしまうのだ。表面的には距離のことを。輝二の住む町へ運んでくれる電車の進行のことを。そして裏では、近づく心や立場のことを。
 桜の季節には余計に強く思う。揺れる淡い色の花と共に、さわさわと心を騒がすものがあるのだ。それは同時に時の流れをも実感させる。あれから一年、また一年、と。
『嬉しいんだけどね…』
 望んで会いに行くのだ。嬉しくない筈がない。互いに一緒に過ごしたいと願ってそうしたのだ。距離を縮める心の在り方を嫌だと思う筈がない。
 でも──近づいて、それで、どうする?
『どうするか、なんて…考えたくないなぁ』
 だからなるべく考えないようにして、嬉しいことだけに心を向ける。会えるのは嬉しい、話せるのは嬉しい、輝二のいろんなことを知っていけるのは嬉しい。
『どうしたいか、なら、とっくにわかってるのにな…』
 でもそれをする決心がつかないから、簡単にかなえられそうなことだけ願う。もっと会いたい、もっと話したい、もっと自分のことを輝二に知ってもらいたい。
 はあっと、今度は重くため息を吐いた。
 三つ目の駅で電車はしばらく停車する。急行との待ち合わせがあったのだ。
 何だか今日はやけに遠い、と思っていた輝一は乗り換えることもちらりと考えたが、それはどこか今の自分の気持ちにそぐわない気がして結局やめた。
 あんなに何日も楽しみにしていて、家を出てくる時だって本当に浮き浮きして駆け出したのに、どうして急にこんな重苦しい気分になってしまったのか。その状況には腹立たしささえ感じそうだったが、輝一はそれも宥めてゆっくりと深呼吸をする。向かいの席では二、三歳くらいの男の子と、化粧気はないが若くて優しそうな母親とが楽しそうに話していた。
 やがてまた、電車はホームを後にする。駅ビルの陰を抜けると、途端に桜が目の前に迫り、突然のことに驚いた拍子に少しだけ気持ちが上向いた。
『まあいいや、考えてもしょうがないや』
 胸の中にいろんなものが溜まりすぎないよう、数秒ごとに小さく息を吐き出しながら輝一は電車に揺られ続けた。若い母親の遠慮がちな笑い声が、何故だか、耳の奥に静かに残った。



「曇ってるからいけないんだよ」
 人の流れを避けて立ち止まると、輝一は空を見上げて小さく呟いた。家を出た時よりずっと濃いグレイの重そうな雲が浮かんでいた。
「花もないし」
 駅舎に沿って植えられた木は緑の葉を付けていたが、曇り空の下でその色は暗く沈んでいる。決して狭くない筈の舗道には放置自転車が並び、辺り一帯をごちゃごちゃとさせている。
 そんな雰囲気も気に入らなくて、輝一は一度むっと口を結んだが、直後に見えてきた姿におかしいくらい自然に口許がほころぶのを感じた。
「迎えに来てくれたの?」
「そういうことにしておくか」
 澄まして答えた輝二に輝一は笑う。自転車のかごには、ジュースのペットボトルが何種類か入れられていた。何のことはない、買い物のついでに駅に寄っただけだろう。
「いいタイミングー」
 それでも嬉しくて並び立つと、輝二も軽く笑って歩き出した。
 駅前さえ抜ければ、あとは静かな住宅街だ。次第に建物は低くなり、屋根同士の間隔が広くなってくる。それぞれの庭先にもしばしば桜の木が見え、ときに、見事な枝ぶりの染井吉野が二階の窓辺やバルコニーへと花をかざしている家もあった。
 すっかり機嫌の直った自分に呆れつつ、輝一は花と輝二とに目を向け続ける。ずっと昔からこうやって、兄と弟とでこの道を歩いていたような気になる。
 錯覚だということはわかり切っている。それは少し淋しい。でもちょっと言ってみようかな、と思ったところで、遠くを見ていた輝二が先に口を開いた。
「何か、昔からずっとこうしてたみたいだな」
 言ってから照れて目を細める。
「そんなわけないか」
「ううん。俺もおんなじこと思ってた」
 輝一はさっと答える。輝二が横から兄を見遣って二度瞬く。そして、それからまたすっと目を細め、無言のまま笑顔だけを作ってみせた。
「その顔、好き」
 つい言ってしまうと、やはり瞬きをくり返した後に、輝二は微かに頬を赤くして視線を前方に戻した。
『そういう顔も好き』
 今度は胸の中だけで呟いた。
 やがて、通りに沿って公園が見えてくる。見事な桜の咲くやや広めの公園だ。
 ここもまだ満開にはなっていない。だが輝一には、これくらいの方がいいように思えた。枝いっぱいに花が開くと重そうだし、その花々の勢いに圧されて見ていられなくなるのだ。
「今年も満開になったらすごそうだね。拓也がここでって言うのもわかる気がする」
 自由に枝を伸ばすため、年を経るにつれ花の量も増していく。その様子を知っているから、この公園で花見をしようなどと拓也も言い出したのだろう。
「でも雨になるって言われた──天気予報と母さんに」
 不貞腐れた感じのつけ足し方がおかしかったのか、輝二は兄を見て笑う。
「予報がどうなってるかじゃなくて、母さんに言われたのが気になるんだろ」
 何それ? と輝一は首を傾げた。
「輝一ってさ…」
 輝二は口許をおもしろそうに歪めたまま目を逸らす。
「何だよ。途中でやめるなって」
 輝一が言っても、輝二はあらぬ方を見て口を噤んでいる。ねえってば、と輝一は更に続きを迫り、肩で弟の背を小突いた。仕方なさそうに輝二はちらりと横を見る。
「本当に母さんのこと、好きだよな」
「はあぁ?」
 思わず声を上げて立ち止まる。
「そりゃあ好きだけど? 何? それが、何?」
 まじめに困惑して輝一の眉根が寄る。数歩先で振り返った輝二はどういったものかと考えているらしかったが、待ち続ける輝一に告げられる言葉はなく、ただ曖昧な笑みと首を傾げる仕種だけが寄せられた。
「何だよう。自分だって前は母さん母さんって散々言ってたくせにぃ」
 また肩でぶつかる。輝二は今度こそ声を立てて笑い、自転車を引いて歩き出した。
 じゃれ合いながら公園の前を通り過ぎる。次の角を曲がれば輝二の家が見えてくる。
 その角の敷地から、道路へとはみだして立つ染井吉野があった。公道ではないのか、伸びた枝が電線をまたぎ道の向かい側へも届きそうだ。
 そして、そこだけ白く、アスファルトの上にも花の色が乗せられていた。
『もう散ってるんだ…』
 ぼんやり思いながら角を折れる。こちら側にも枝はあり、下を行く輝二の自転車のサドルと後輪の泥よけとに同時に花の落ちるのが見えた。
「ねえ」
「ん?」
 短く声を掛ける。何でまた止まってるんだと言いたげに輝二が足を止め、やはり短く返す。
「これ、ちょっと変だよ」
「何が?」
 振り向き尋ねる輝二に、桜を見上げたまま輝一は言った。
「だって…花びらじゃなくて、花ごと降ってきてる」
 え? と小さく声を上げ、輝二もまじまじと落ちてくるものを見つめた。
「ほんとだ…」
 くるくるくると回りながら、萼ごと桜の花が落下する。それも、次から次へと。
「あ」
 気づいたことがあり、輝一はふっと笑顔になった。
「え?」
 今度は何だと、輝二も兄の視線を辿る。
「雀」
「は?」
 輝二の場所からは花以外何も見えず、自転車ごと後退して輝一のすぐ後ろに立った。そうして兄と頬を付けるように顔を寄せ、輝二も目線を合わせてみる。
 なるほど、花の陰に雀がいた。一、二、三…と目で数える。その間にも、小鳥たちがクイッと首を振るたびに花は枝から離れていった。
 そんな、くっつきそうな輝二の顔を、輝一はちらっと見る。少し緊張しながら、
「見えた?」
 と尋ねると、
「見えた」
 と輝二も目を細めた。
『だからその顔好きだって』
 思って横顔を見つめる。視線に気づいて目を向けて、あまりの近さに輝二は驚き身体を引く。わかってやってたんじゃないのかと輝一が笑うと、輝二もにやりとしてそっぽを向いた。
 それにもう一度笑ってから、飽きもせずに輝一は花の中の鳥へと目を戻す。
「なんでかなぁ…遊んでるのかな?」
 花が可哀想だという気持ちと雀の行動をおもしろがる気持ちと、どちらがより強いのか輝一にはわからない。ただ、初めて目にした光景に興味を引かれ、笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「…ん? 何?」
「いや」
 答えの代わりに視線を感じ、今度は輝一の方がはっと横を見遣る。輝二は首を振ったが、それでも何か考えてはいたのだろう。一度そらした目をすぐに戻すと、ゆっくり静かな口調で告げた。
「輝一にはそういうことが良く見えるんだな、と思って」
 理解していないらしい輝一の様子に、次を続ける。
「俺はただ、花が散ってるとしか見なかったのに」
「視点や興味の違いの話?」
 思いついて言ってみるが、輝二は僅かに目を伏せ、
「──そうだな。違うな、って」
 と言って曖昧に瞬いただけだった。
「…嫌?」
 尋ねると緩く首を振る。
「好き嫌いやいい悪いじゃなくて──何て言うか、不思議な感じがして…悪い、うまく言えない」
 そうして自分でも困ったように首を傾げてみせてから、先に立って家を目指した。
 不思議だと言われるとそんな気がしてくるから不思議だ。輝二の背を見遣る輝一の中にも、何かをきちんと考えなければいけないという思いが迫ってくる。
 またどこか、胸がざわついた。それを無視するよう、輝二を追って歩き出す。
 途中、一度だけ桜を振り返った。鳥はまだ、からかうように花を落とし続けていた。

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