Pulse D-2

桜 (3)

「花曇り、って言うのよね」
 母の声に手を止めて、輝一は窓から顔を出した。隣の部屋から母も外を眺めていて、息子に気づき目を向ける。
「はなぐもり?」
「そう。今頃の季節のこういう天気のこと」
 言われて輝一は空を見上げた。先週と同じ、うっすらと雲を被った空が広がっていた。
「綺麗な言い方」
 今日は雨にならない筈なんだけどと考える輝一とは、全く別のことを思って母は言う。空から地上へと移っていく彼女の視線を追い、輝一も辺りの家々を見る。輝二の家の付近とは少し趣が違ったが、それでも所々に桜の花らしい柔らかい色が見えた。
 それで、ふと思い出して輝一は言う。
「雀が桜の花を落とすところ、見たことある?」
 雀? と呟いて少し考えてから、母は小さく笑みを浮かべた。
「そういえば見たことあるなぁ。昔、庭に桜の木を植えたの。まだそんなに大きな木じゃなかったけど、春にはちゃんと花を咲かせたのよ。なのに雀が落としに来るから母さん口惜しくって。でも追い払うのも何だかつまらないし、あなたたちは喜ぶし――」
 言葉を切った母が、ふっと泣き出しそうに視線をさまよわせた。それは一瞬で消えて彼女はまた笑顔を向けたが、輝一には彼女の話がどこで経験したことなのかはっきりわかった。
 覚えてるんだ、母さん。今はもうない桜の木を。
「輝一も見たの?」
 聞かれて頷く。
「先週、公園の近くで見たんだ。すごく上手いよね、びっくりしちゃった」
 どんどん落としていくから桜が可哀想とも思うんだけどちょっとおもしろいなとも思っちゃって、と明るく話す息子に母も、そうそう、と楽しそうに首肯した。
 やがて準備を終えて輝一は立ち上がる。皆との約束より少しだけ早く輝二の家に行くことになっていた。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
 いつもと同じように見送られ、輝一は元気よく階段を駆け下りた。
 雨と快晴とをくり返した一週間の間に、街の桜はみごとに満開になっていた。かなり苦しいなぁと道を辿りながら輝一は密かに思う。
『重い重い、綺麗綺麗』
 どちらも真実だ、と思った。そしてこうなったらあとはまたあっと言う間に散ってしまうのだと考えると、父のように桜の木を切ってしまいたいと感じるのも確かだった。
「でも俺は、桜の花は好きだよ」
 輝二の家へ着く直前の、あの角の桜の下で輝一は小さく言う。見上げた木に鳥の姿はなかったが、代わりに今日は花びらが一枚ずつ音もなく散ってきた。
 家に行ってみると輝二はもう準備万端で兄の到着を待っていた。公園にはアスレチックの脇にテーブルもベンチも幾つか備えられているが、それらを利用するつもりは拓也には初めから全くないらしく、
『場所取っとけよ』
 と何故か命令口調で言われたのだと輝二が無表情に告げていた。
「そういうのをさ、怒らなくなったよね」
 話を聞いて輝一は言う。
 以前の輝二の性格については、デジタルワールドにいた頃に仲間たちに聞いた以外あまり知らない。その前に輝一が目にした輝二は一人でいることが殆どだったから、他人に対する彼の接し方はよくわからなかったのだ。
 その拓也たちからの話によると、輝二は言うことはきつく考え方ははっきりしていて、何より命令されるのは大嫌いだ、ということだった。だが、輝一が合流した頃にはそういった性質はだいぶ目立たなくなっていたらしいし、輝一自身があまり強くものを言うタイプではなかったから余計に殆ど感じたことのない部分だった。
 だから今のこの言い方は少しかまを掛けている、と言った後で輝一は気づいた。
「まぁ、拓也だしな」
 それに返ったのはこんな言葉で、う…、と思わず輝一は反応に迷う。
「ねぇ」
「ん?」
「妬いてもいい?」
「……は?」
 何の話だか本気でわからない様子で輝二が首を傾げる。
「あ、ううん、何でもない、忘れて」
 すぐに輝一は取り消したが、横を歩く輝二が何か考え続けているのは明らかだった。そして、
「まぁ、いいけどな」
 と、しばらくしてから彼は言ってそっぽを向いた。
 言われると即座に満面に笑みが浮かぶ。にっこにこという形容がぴったりの顔で、輝一はペットボトルを抱えて歩く。それがまた恥ずかしいのだろう、輝二も更に顔を赤くしながら黙々と歩いた。
 園内は思っていたほど混み合ってはいなかった。それでもだいぶ奥まった所にようやく希望の広さの場所を見つけ、二人は持って来たシートを広げる。染井吉野より濃い大山桜の花の方が目立つ位置だったが、これはこれで綺麗だったし、拓也の『花なんか何だって』という発言もあったのでこれで良しとする。
 時間ちょうどに泉から携帯に連絡が入り、公園の入口まで輝二が迎えに出る間に純平のグループも合流していた。それぞれが学校や塾の友人を連れてきているので、結構な人数になる。親子連れや大人ばかりの団体の多い中にあって、この中学生のグループは少し目立った。
 実際、なんで中学生が集まって花見なんだ? と輝一も思わなくはない。いつものメンバーで会うだけならまだしも、他の友人たちまで誘い合って何時間も宴会なんて奇妙な感じがする。
 輝二に尋ねたら、
「拓也の気紛れだ」
 と簡潔に返されたが、それからしばらくして、
「ふだんと違うことをしたいんだろ」
 とも言われた。何か事情を知っているのかと思える言い方だったけれど、輝二がそれだけではっきりと話を打ち切る態度をとったので輝一は聞きそびれたままだった。
 その拓也は、約束より十五分ほど遅れて到着した。男友達ばかり四人引き連れてやって来たが、その表情が、何故か自分の顔を見た途端に曇ったと輝一には感じられた。隣で輝二も小さく首を傾げたようだった。
 また、顔ぶれを見て、男女の比率がイマイチだ、と一部から軽く不満が出た。それはそうだろう、元々男女比五対一のメンバーが各々同性の友人を連れてきているのだ。輝一と輝二が結局一人も知り合いを誘わなかったことには拓也が文句を言ったが、そうしたらもっと男が多くなってたんだぞ、と言われて意見を引っ込めた。
 そんな場面に現れた友樹は、彼女連れだった。
「生意気~っ!」
 拓也と純平の声が意図せず揃う。周りでは友人たちの笑い声が起こったが、拓也の機嫌はなおらない。
「あのなー、結構笑いごとじゃねえぞ…つか、考えてもみなかったとか言うなよな、特にそことそこっ!」
「指差すな」
 ビシッと自分と輝一とに人差し指が向けられたのに、輝二が短く抗議して拓也を睨む。はいはい、と肩をすくめて拓也は引っ込めた手でわしわしと頭を掻く。
 それで全てが済んだかのように一旦拓也が口を閉じたので、皆は年下の新参者たちへと意識を向けた。だが、
「ったく、お前らだけで完結してんなっての」
 と、確かに拓也が呟いたのを、輝一だけは聞いていた。
「少し狭いか?」
 それには気づかなかったらしい輝二が、もう一枚シートを持ってくるかと尋ねている。
「大丈夫ですよ」
 友樹は言って先に彼女を上がらせる。皆が少しずつ場所をつめて彼女を座らせたが、狭いことは否めなかった。
 年齢差に遅れて来たことも手伝ってか、友樹は友人たちの間をくるくるとよく動く。結局彼は靴をはいたままだったが、その方が都合がいいようだ。そしてその合間に、どうやら知らない人ばかりの中でかなり緊張しているらしい彼女を気遣って短く話し掛ける。その度にくすりと笑う少女の表情が何とも言えない柔らかさを持っていて、見ていた拓也にため息をつかせた。
「友樹は大人だなー…そこ失格っ!」
 また双子を見遣ってそう言うので、輝二はムッとし、輝一は困ったように頭を掻いた。
「拓也ったら何つっかかってんのよ」
 見かねた泉が口をはさむと、
「べっつにー、何となくー」
 と軽く言ってジュースに手を伸ばす。すぐに飲み干して次をとペットボトルを探すが、目当ての飲み物は遠くに置かれており、気づいた友樹が持ってくるのを彼はすまなそうに待っていた。
「やっぱり狭いな。シートを取ってくる」
「じゃ、あたし手伝うよ」
 言って輝二が立ち上がると、さっと泉も腰を上げた。
「えっ、泉ちゃんが行かなくてもいいってば…」
 と純平が言ったようだが、その声は泉の連れてきた友人たちの高く明るいブーイングに掻き消される。
「泉ー、抜け駆けーっ!!」
「まぁね~」
 髪を掻き上げ、ふふん、と笑ってみせる。またそういうことをと輝二は苦笑したが、その拍子に巡らせた視界の中で、純平は彼を睨み、拓也は憮然とし、輝一は何やら情けない表情をしていた。
 お前らもなぁ…と言いたいのを堪えて輝二は歩き出す。
「拓也ってばどうしちゃったの?」
 思った通り、友人たちから離れたところで泉が早速聞いてくる。さぁ、と輝二は首を傾げた。
「聞いてないの?」
「いや。何か聞いてるのか?」
 逆に尋ね返すと、泉は小さく目を逸らした。
「輝二に言ってないことあたしに言うわけないじゃない」
 ふっと出て来そうな言葉があったが、輝二はそれを呑み込む。
「少し聞いてみてくれないか」
「あたしが?」
 頷いて前を向く。
「俺が聞いてやればいいんだろうが、ちょっと今、こっちもいろいろと…」
「輝一と何かあったの?」
「どうしてそう思う?」
 驚いてまた彼女に目を向ける。泉が含み笑いを見せる。
「だって、輝一ったら、絶対輝二から離れるもんかーって顔してるんだもん」
 そして、おっかしくって、と言いながら本当におかしそうに彼女は笑った。
「せっかく女の子が来てるのにさ。何かこっちも立場ないかなー、なんて」
「…悪い」
 輝二が頭を下げる。泉は小さく吹き出す。
「ばっかねぇ、冗談よ。ちょっと近づきにくい方がかっこよく見えたりするもんよ」
 そんなもんか? と眉根を寄せつつも、彼女の明るい言い切り方に輝二はどこか救われた気がした。
 前の週とは違い、この日の午後はよく晴れた。
 陽の光やその匂いまでもが溶け込んだかのように、ほんわりと優しい空気が辺りを包む。花の色、鳥の声、風のゆらめき人々のざわめき――次第にそれらも加えながら春の大気は濃度を増していき、やがて、仕上げとばかりに金柑色の夕空と同じ色に染められた雲、輪郭のおぼろな軽やかな月を添えて、とろりと甘く、誰にも等しく懐かしい時間を作り出した。
「じゃ、またな」
「お疲れさま」
「元気でね~」
 口々に告げ、手を振り、ひとかたまりになって皆が駅へと向かっていく。公園の出入口でそれを見送ってから、輝一と輝二は反対方向へ歩き出す。輝一はゴミ袋を、輝二はきっちりと丸めたビニールシートを、それぞれ二つずつ担いでいた。
「結構あっという間だったね」
「そうだな」
「楽しかったし」
「うん」
 視線を合わせて笑う。
 後半は拓也の攻撃に遭うこともなく、数日分笑い、夕食の行方が心配になるくらい飲み食いした感じだ。拓也自身も大笑いしていたから、何であったにしろ、彼の当初の目的が達せられたのならいいと二人は思う。
 輝二の家の門を入り、外の水道でペットボトルを洗う。きちんと潰して回収に出せる状態にしたところで、輝一の仕事は終わりだ。
「シートも洗うんだろ?」
 ジュースやらお菓子やらをこぼしていたので、綺麗にしておいた方が良さそうだと話していたのだ。だが、尋ねた輝一に、
「天気のいい時に洗うからいい」
 と輝二は答えてペットボトルの入った袋を取り上げた。
「もう暗くなるから」
 シートが重かったのだろう。肩を軽く揉みながら輝二は言う。そうして車庫の隅に袋を置き、輝一のそばへ戻って来て手を洗った。
「そ、じゃ、帰るね」
「駅まで送る」
 輝二の言葉に、やった、と輝一は笑った。
 暮れていく街の中、風が少し強くなったのか公園の桜が降りしきっていた。こういう散り方がどきどきするんだ、と口にしないまま輝一は思う。
「ねぇ」
 呼びかけに輝二が目を向ける。
「駅までじゃなくていいから、ちょっと散歩していい?」
 構わないが、と答える輝二の手首を掴み、輝一はもう一度公園内へと足を踏み入れる。
 子供の姿が減り、色も音も多少地味になったようだ。それでもまだ人々の行き来する固い砂の道を、輝一は池に沿って歩き続ける。気の早い外灯が灯り、木々の間に夕陽を薄めたようなぼんやりとやさしい光を投げる。
「あ、寒くない?」
 ふと思って輝一は尋ねる。そういえば寒がりだったっけ、と思い出したのだ。
「平気」
 輝二は薄く笑って答えたが、彼が片手だけ上着のポケットに突っ込んでいるのを目にして、輝一は自分が彼の左手を取ったままだったことに気づき慌てて放した。
 そのまま細い脇道へと入って行く。別段気にした様子もなく輝二も兄について歩く。木々に遮られ、少し暗く少し静かになる小径。
『そっか、ここにはずっと来てなかったんだ』
 輝一の記憶していた景色より、いくらか木々の緑が豊かだった。夕暮れ時のため、以前見た明るい昼のイメージとも異なる。ただ、やがて見えてきた小さなベンチだけは、古びたままに穏やかに彼らを迎え入れた。
「俺さ、今日…」
 そのベンチに腰を下ろし、輝一はどう切り出すべきか考える。輝二の出方によって話の内容も変えようと決意して来ていたが、それは逃げ道の確保の仕方も自分の願いの諦め方も同時に考えるということで、想像していたより荷の重いことだった。
「少し緊張した」
 それでも輝一は言葉を続ける。
「なんか…拓也、鋭いなぁって――」
 今日の自分は多分、今までとは何かが違っていたのだろう。これまでとは質の違う必死さが出ていたのかもしれない。拓也はきっと、それを的確に捉えたのだ。
 輝一は思って口を閉ざす。
 言っていることの意味は輝二にもわかっているんだろうと思う。拓也がやけに絡んできた理由も半分は自分たちのせいだと、輝一が考えるのと同じように輝二も考えただろう。けれど、輝二の方には、どう答えようか迷っている雰囲気があった。
 沈黙の中、日が沈む。
『何か言って。俺、身動き取れないよ…』
 明確な答えじゃなくていい。小さな、正直な、今だけの反応でいい。それを見て決めるから。輝二の望むようにボーダーラインを定めるから。
 考えながらじっと輝一は待つ。だが、輝二は困ったように顔を背けたまま、口を噤んで座っている。
「ねぇ」
 堪え切れなくなって顔を上げかけた時、風に頬を叩かれ目を閉じた。
『あ…』
 瞼の裏を渡る花びら。暗い木肌に鮮やかな新緑。こぼれる光と常緑樹。木の上のさえずりと、まっすぐ見つめるやさしい瞳。
 輝一は瞼を上げる。
 はらりと舞い降りる花弁を辿れば、暮れ残った光に淡く揺れる花の影。
 そして、花が降っていた。くるくると、一つ二つ、と。
『そうだ、あの木だ』
 ぼんやり輝一は思う。
 自分の中の桜の印象を決定づけている木だ。
「また――」
 輝二の声が聞こえる。目は同じ木に向けられ、花を落とす鳥の姿を薄暗い中に捉えているのだろう。
「さっさと巣に帰ればいいのにね」
 言って、輝一は自身を重ねる。
 早く家に帰ればいいのに。暖かい家に、安心できる母のもとに、小さくて安らかな世界に。
 こんなところで行き詰まってないで、何も知らないふりをして、いつものように、じゃあまたね、と手を振ってしまえばいいのに。
 でも、それはできない。
 この苦しい時間から、この切ない想いから、この美しく儚い幸せから、もう目をそらすことはできないのだ。
「どうして一本だけ、こんな所に植えられてるのかな?」
 なかば独り言のように口にする。輝二が小さく首を傾げたのが感じられた。
「あれ、一本だと思うか?」
「え?」
 顔を向ける輝一に構うことなく、輝二は立ち上がり桜の木の下へと歩いていく。そして、幹に手を掛けて兄を振り返った。
「本当は二本なんだ」
 彼の触れているものを確かめるよう、輝一も数歩、歩み寄る。見遣る角度が変わる。幹の輪郭がぶれてくる。
『ばかされた気分――』
 そこには本当に、よく似た形の二本の桜が並んでいた。
「双子」
 なんてな、と目をそらして輝二が笑った。
 とん、と背を押されたような感じがした。
 くい、と胸を引かれたような思いがした。
 急に駆け出した兄に輝二は驚いて体を向ける。慌てて鳥たちが飛び立っていく。
「何…」
「しゃべらないで」
 弟の肩に両手を掛け輝一は更に身を寄せる。輝二が身体を引くと、枝が揺れて僅かに花が散った。
「動かないで」
 右手を頬に移し親指で唇に触れる。
 そして、本当に微動だにせずこらえる輝二に、息を詰めて口づけた。
 唇も指先も、きっと震えていただろう。
 わかっても止めようがなく、輝一はすぐに顔を離す。
「母さん、庭の桜の木、覚えてたよ」
 そらされた目を覗き込むよう、少し早口に輝一は言う。うっすらと赤い顔のまま眉根を寄せる輝二の表情に『また母さん?』と言いたげなのが見て取れて、輝一は否定するよう小さく首を振った。
「でも俺は、父さんみたいにも母さんみたいにもなりたくないし、輝二にもなってほしくない」
 淋しさに押しつぶされてしまいたくない。哀しい思い出に泣きたくない。気持ちの変わる時はあるかもしれない、それでも手放したくないと願い続けていくだろう。
「俺…きっと、何度でも輝二を好きになるよ」
 僅かの間の後すっと目を細め、輝二は微かに頷いた。
 もう一度、ゆっくりと唇を重ねる。今度は薄く瞼を伏せ、輝二も静かに受け止める。
 髪に額に頬に肩に、薄い花びらが降りかかるのが何故だかやけにはっきりと感じられて、この花が全て足元に散り敷くまでこうしていられたらいいとさえ思う。
 輝二の手が輝一の腰に添えられ、やがて背へと回される。肯定される想いは喜びとなって輝一のからだじゅうに染み渡っていく。
 そうして、触れるだけの、それでも一つひとつが長めのキスを何度も繰り返してから、ようやく二人は互いを解放した。
 視線を上げ、間近で見つめ合う。輝二の目がふっと笑う。続けて口許も笑いたそうに歪み、すぐに堪え切れなくなって輝二は肩を震わせた。見ていた輝一の方も腹の中から笑いがこみ上げてくるような感じがした。
 二人揃って声を立てて笑う。
「びっくりした…」
「どきどきした…」
 輝二が言い、輝一が返し、それにまた輝二が大きく二つ頷く。
「怒ってない?」
 今度は首を横に振る。
「俺もほんとはしたかったから」
 低く言い添える輝二に抱きついて、輝一は彼の肩口に頬を付けた。
「前にここに来た時さ…もうずっと前だけど」
 覚えてる? と輝一は一度言葉を切る。うん、と耳元で輝二の声がする。
「あの時思ったんだ。きっとそのうち、輝二に好きだって言う時がくるんだろうな、って」
「うん」
 もう一度短く答えが返る。同時に髪と背を優しく撫でる手を感じ、輝一は小さく弟の首筋にキスを落としてからいたずらっぽく笑って言った。
「いつもみたいに言ってよ」
 輝二の目を見上げる。
「俺も、って」
 聞いた輝二がまた笑う。輝一の好きな、柔らかい午後の光のような笑みを浮かべる。
「――俺も、いつか言うかもしれないって思った」
 そして、言いながら照れて目を逸らす。
「言わせるなよ…」
 両手とも輝一から離しポケットに入れる。まだ抱きついたままの輝一も、その動きに目線を下げる。自分の腹の辺りでもぞもぞと動く手を、ぎゅっと捕まえたい衝動に駆られる。そこに思いがけず輝二の声が続いた。
「それに――」
 はっとして顔を上げる。
 輝二は更に高い位置を見ていた。頭上の桜はあの時よりも少しだけ余計に花を開き、いよいよ闇の迫る天地にあって仄かな明るみを生んでいる。
 その優しい命の灯す明かりの中で、輝二は兄の動きを無言のうちに待ち、彼が正面から見据えてきたのに合わせて視線を下ろした。
「きっと、もっと輝一を好きになるだろうって」
 同じ高さで瞬く。
「俺は、そう思ったんだ」
 静かに二度、輝一は頷き、それからぱっと明るい笑みを作って言った。
「俺もっ」
 輝二は一瞬驚いた顔を見せ、それから、これ以上ないというくらい嬉しそうにくしゃりと笑って、何度も何度も頷いた。それは、生活の中に散りばめられた嬉しくて泣きたくなる瞬間が凝集されたかのような、心の中の深い部分に存在を植えつける笑顔と時間だった。
「ずいぶん遠回りしちゃったね」
「これくらいでちょうどいい」
 笑ったまま輝一が言うと、軽く首を傾げるようにして輝二は答える。そう? とやはり軽く返し、これで今日は最後とばかりに輝一は輝二に深く口づけた。
 桜を見るたびに思い出すだろう。彼の言葉も、胸に満ちる喜びも。
 そして繰り返し重ねていくだろう。出会えたことへの感謝と、共に在りたいと願う強い想いを。
 頭の隅でそんな日々を輝一は淡く思い描く。そうするそばから桜が舞って、窒息しそうな幸福感で彼を深く包み込んでいった。

更新日:2003.04.30


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