Pulse D-2

der Anbruch

 実の兄に、キスをしてしまった。
 自分でも驚いたけれど、相手はもっと驚いたようで、お互いに呆然とした時間が確かにあったと思う。
 その時を思い返し、輝二はソファの背にもたれ掛かった。休日の珍しく一人きりの家が、やけによそよそしく息を詰めて彼を見ているような気がする。
 あの時何を言おうとしたのかはもう分からなかったが、はっとして言葉を掛けようと瞬いた瞬間、兄も何かに気づいたように小さく息を吸い込んだ。
 そして、見開かれた目に、ふうっと涙が浮かんだ。
「――…」
 言葉が消えて、胸がつまる。
 たまらず手を伸ばすとそれを避けるように兄は顎を引いたが、その動きに左の目から、涙が一粒ぽろりと落ちた。
 それを拭おうとする兄の手より、輝二の手の方が早く彼の頬に辿り着く。指先で涙をすくいながら輝二は顔を寄せ、兄の右の頬へと唇を落とす。
 びくりと小さく肩が揺れる。続く口づけに、堪えきれずに目をつぶる。そんな兄の目尻にまた涙が浮き上がるのが見え、輝二はそっと唇を寄せて吸い取った。
「や…」
 やめろ、か、やだ、か。短い声の意味は定かではなかったが、どちらにしろ兄が喜んでいるんじゃないことは輝二にも分かる。分かるけれど離し難くて、離し難いけれどいたたまれなくて、宥めるようにキスを落としても、兄は悲しげに俯いていくばかり。
「兄さん」
 どうすればいいのか分からず彼を呼ぶ。瞼を上げる兄にもう一度口づけようとするが、肩と胸とに置かれた彼の手と、静かに身を引く仕種に拒まれた。
「あ…えっと…俺、帰るから」
 目をそらしたままそう言って、兄は自分の顔を両手でこする。仕方なく体を離し、
「送ってく」
 と輝二は言う。兄が、泣き笑いを見せて首を振った。
「…でもないか」
 同じ男で相手は兄で初めて通る道でもなくて、それを駅までにしろ家までにしろ送って行くというのもおかしな話かと、輝二も気付いて苦笑した。
 今度は頷いて兄は立ち上がる。
 その背を玄関で見送った後、自室への階段を上るのも面倒で、輝二はそのままリビングへと足を向けたのだった。
 なんで泣いたのかな。
 ぼんやりと天井を見上げる。そうして深く溜め息が洩れたのを意識して、ごろりとソファに横になった。
 嫌だったんだろうな…
「輝一――」
 痛む胸を押さえて、輝二はしばし目を閉じた。


 中学に上がる時、一緒の学校に行くことも考えた。輝一が自分に合わせるより、自分が輝一に合わせる方がはるかに楽だったし、そうできる可能性も高かった筈だった。だが結局、両親にも輝一にも何も言わず、普通に学区内に当てはまる公立の中学に進んだ。
『どうして同じ学校にしなかったんだろう…』
 二年経った今でも時折輝二は考え、そしていつでも同じ答えを自らに告げる。
『一緒に居すぎちゃいけないと思ったからだ』
 そのたびに重い息を吐くのもいつものことだ。
 デジタルワールドで輝一と出会い、初めて自分の兄の存在を知った時から、心の中では必死に彼に近付こうとしてきた。変な意味ではなく、兄弟として輝一のことを知りたかったのだ。
 けれどそれを越えてなお彼を求める気持ちが自分の中にあることに気付き、輝二は驚きと焦りを感じた。だから懸命に兄弟の距離を保とうとしたのに、その結果がこれだ。
「莫迦じゃないのか」
 一人ごちて輝二は足を止めた。
 学校からの帰り道、日はとっくに暮れて、疲れた身体に吹きつける風が冷たい。あと少し行けばそこから逃れて温かい家に辿り着けるというのに、輝二はその場に留まったまま携帯電話を取り出した。
 迷うように少しの間その画面を眺め、やがて、慣れた動作で番号を押す。短いコールと心に優しい声。
『はい、もしもし。輝二?』
「あ、うん。兄さん?」
 言うと軽い笑い声が聞こえた。
『他に誰がいるのさ』
 まあそりゃそうだけどと思いながらも、普通に話す輝一にほっとして輝二は話を続ける。
「あの、昨日は悪かった。急に…ごめん」
 単刀直入に切り出し、兄の反応を待つ。僅かに間があいたが、答える声に不穏な空気は感じられなかった。
『俺も、逃げ出してごめん』
「――いや」
 輝一の声の強さに励まされる。
「また会えるか?」
『うん。会おうよ。また日曜――あ』
 電話の向こうで、おかえり、と少し離れて輝一の声が聞こえた。母さんが帰ってきたんだなと輝二は思う。
『ごめん。えっと――』
「日曜はあいてるんだな?」
『うん、大丈夫』
「じゃあ、土曜日にまた電話する」
 話を切り上げるようそう言うと、うん、待ってる、と明るい返事を残して、輝一は電話を切った。
 携帯電話の液晶画面がやがて静かに暗くなる。それまでじっと画面を見つめて、ようやく輝二は二つ折りの端末を閉じる。けれど、そうしてもまだ歩き出すことができず、手にした携帯に額を付けるよう顔を伏せた。
 自分たちを繋ぐもののその頼り無さ。それに頼るしかない自分の不甲斐なさ。そして、そんなものに頼ってまで彼を求める滑稽さに、嘲笑したくなる苦い想いと号泣したくなる切ない気持ちとが巧妙に混ざり合って、ひどく輝二の胸を締めつけた。
 本当は、輝一はどう思っているんだろう?
 それは考え始めるときりのないことで、これまでは尋ねることさえできないことだった。でも、もう、違う。
 会ってきちんと確かめよう。はっきりとそう思って、輝二は顔を上げた。
 大きく一つ深呼吸し、家への道を踏み出す。
 自分の気持ちは決まってる。彼にしたキスにも嘘はない。それなら、どうせ逃げようはないのだ、じたばたしても仕方がない。会う約束だってしたのだから、それまでは悩まない。悩んでも仕方のないことだ。
「ただいま」
 そうして、柔かな明かりの中へ輝二は入って行った。


 風は強かったが、よく晴れた明るい日曜日だった。落ちた木の葉がさかんに舞い上げられる中、輝二は駅から離れて住宅地へと足を運ぶ。その一画にある公共の集会所が、輝一との待ち合わせ場所だった。
 二人の家は同じ私鉄の沿線にあるが、その間には幾つもの駅を挟む。互いの家への行き来はそれなりにあったが、このところは外で会うことの方が多くなっていた。輝二の家へ行くのは二人の母親にどこか気兼ねしてしまうし、輝一の家へ行けば2Kのアパートに実の母と三人、その空間と距離には微妙なものがあり、妙にそわそわした感じが付きまとう。
 かといって街中で会おうとすれば何をするにも金がかかり、中学生の小遣いなどあっと言う間に底をつく。それでも会いたいのなら、どこか都合のいい場所を探すしかない。
 そんな時に輝一が見つけてきたのがここだった。
 集会所と言っても、広く取られた敷地とまだ新しい建物は清潔で開放的な雰囲気を持つ。二つの小さな会議室とその倍の広さの大会議室、地下の音楽室は大小合わせて四つ。その他に劇やダンスなどの舞台となるホールと、誰もが自由に出入りできる喫茶室と休憩所とがある。
 完全に開放されているのは休憩所で、一階の入ってすぐの左手にあるのがそれだ。椅子とテーブルとが幾種類かずつ置かれているだけのものだが、明るく暖かく無料で、基本的に他人に迷惑をかけなければどう使ってもかまわない。一日じゅう新聞を読んでいる人もいれば、編み物をしている人もいる。囲碁や将棋の仲間も来れば、入園前の子供を連れた女性たちが何ごとか話している時もある。
 禁止されているのは大声をあげて騒ぐことと建物内を走り回ることぐらいだ。どれだけ長くいても誰にも文句は言われず、何の干渉も受けない。
 なにより、ここなら自分たちを知っている人間に会うことがまずなかった。輝一の家からの方が少しだけ近いが、どちらの家からも離れた場所にあるため、彼ら自身も電車を使って訪れるここでは、家庭の事情も学校のことも関係無く、どこかの仲のいい双子、で済むのだ。二人は、それだけで随分気が楽になると感じる自分たちに気付いていたのだった。
 その一階部分はほとんどがガラス張りで、歩いてきた輝二はいつでも、桜とイチョウの木のあいだに見える室内に俯き気味に座る輝一を見つける。
 輝二は時間通りに来ているのに、必ず輝一はそれよりも先に着いていて、道に面した長椅子に腰を下ろし弟が来るのを待っている。どこまでが彼の視界なのか、近づく姿に目を上げて、相手を認めた瞬間、ふわっ、と笑みを浮かべるのだ。
 それが兄の弟に向ける顔か、と輝二はその都度思う。
 思いながら、胸が高鳴っていくのにも気付いてしまい、嬉しい反面で途方にも暮れる。こんな状況でいつまでも兄弟の距離を保っていられるわけがないじゃないかと、考えずにはいられなかった。
 今日も、輝一の姿は同じように見えてくる。一瞬それはつまらなそうに感じられて、彼は本当は来たくなかったのではないかと輝二は繰り返し思う。
 けれど、それが思い過ごしであるのはすぐに分かることで、兄を疑う自分に、そしてそこまで不安になっている自分に、嫌気が差すのも事実だ。
 その一瞬を過ぎて、顔を上げる輝一を見た時、
「え…」
 と、思わず声が洩れた。
 これまでと、微妙に兄の表情が違っていた。
 伏せていた面が静かに上向く。
 さまよう瞳が輝二をとらえる。
 ふっとわずかに呼吸を止めて、
 そっとかすかに目元を細める。
 そのまま、遠く、眩しい輝きを見るかのように静止して、それからゆっくりとさらに目を細め、うっすらと、とても綺麗に笑った。
 立ち止まりそうになるのを必死に堪えて、輝二は一歩一歩近づいていく。息が詰まり、歩調が乱れそうになる。
 胸が、張り裂けそうだ。
 そんな顔を見せられたら、とてもじゃないが諦めることなんて出来なくなるだろうが。
 思う輝二を見続けて、兄が不思議そうに首を傾げる。それに気付いて輝二が笑ってみせると、そこでようやく安心したように、いつものふわりとした笑みを浮かべた。
 建物に入って行く輝二を、輝一はじっと目で追う。その視線に緊張しながら歩み寄ると、笑顔のままの兄が迎えてくれる。
「おはよ」
「おはよう。…昼だけど」
 笑って返しながら、輝二は手にしたコンビニの袋を差し出す。素直に受け取った輝一が中を覗きこんだ。
「悪い、今日サンドイッチなかったんだ」
 輝二が言うと、兄は小さく笑う。
「いいよ。別にたかりに来てるわけじゃないって」
 そうして、ありがと、と添えた。
 休憩所では飲食も禁止されていないため、二人はここで会う時にはよくこうして買い食いもしたりする。昼に会えばお腹も空いているから、同じ階の喫茶室へ行ってみたこともあるが、意外に混み合っていて落ち着かなかったのでそれっきり利用していない。
 買ってくるのは大抵、後から来る輝二だ。必ず前日に電話で待ち合わせの確認をする彼は、その時に輝一の希望を尋ねる。さりげなく新製品好きの傾向のある輝一は、何か目新しいものがあるとそれをリクエストするのだが、特別欲しいものがない時には適当に、五目おにぎりとかカツサンドとか言ってみたりする。
 毎回律儀に言われた通りの商品を買ってくる弟がおもしろくて、あまり見かけたことのないスナック菓子を注文したこともあったが、ちゃんと持ってきた彼によくあったねと驚いてみせたら、
『午前中あちこち探し回った』
 と、さすがに恨みがましく言われたので、輝一ももうそういうまねはしないことにしたのだった。
 今日のお題はオーソドックスなミックスサンド。どこのコンビニにも普通に置いてある食べ物だ。だがそれが逆に災いしたらしい。いちばん近くのコンビニで買うつもりでいたようだが、売り切れていたみたいだ。
「あれ、あんまんがないよっ」
 袋のなかの中華まんを確かめて、輝一は深刻そうな声を出す。
「あんまんは好きじゃない」
 隣に腰かけながら無愛想に答えると、
「知ってる」
 と言って、輝一はニヤリと笑う。その顔がまたすぐにやわらかい笑みを作り、輝二を、どうにも適わない、という気持ちにさせた。
 肉まん、ピザまん、カレーまんを、それぞれ半分ずつにして食べる。一緒に買ってきたお茶もまだ十分温かくて、二人は体の中からあたたまっていった。
 やがて食べ終えて、それぞれゴミを手にして立ち上がる。ペットボトルだけを残して捨てると、そのまま揃ってトイレへ。ゴミは分別して捨てるようにされており、その中にペットボトル用のゴミ箱も設置されている。軽く洗って、商品名の帯もはずしてから捨てるよう指示されているため、二人は正直にボトルを洗いに向かったのだ。
 ペットボトルをすすぐついでに、自分たちもうがいをする。だが、隣でやけにしつこく口をすすいでいるのを不思議に思って見下ろすと、輝一は顔を上げて言う。
「ピザまん味のキスなんてやだからね」
 そしてまたニヤリとしたが、今度はほほえむかわりに目を逸らし、低く静かに、
「上に行こう」
 と弟を促した。
「うん」
 短く答えて輝二は手を拭いた。
 建物の中央部にある階段を上る。それぞれの会議室の今日の予定の案内を見てからさらに上へ。
 一階分の階段は途中に小さな踊り場をはさみ、そこで折れて一八〇度向きを変える。そのため、最上段の踊り場は下の階からは全く見えなくなる。建物自体の地上部分は二階建で、その上には屋上への出口があるだけなのでここまで来る人は殆どいない。ここが二人の指定席だった。
 建物全体が音を吸収するように造られているため、廊下や階段でもそれほど声は響かない。各室内より多少気温は下がるが、寒いというほどにはならず、天井の大きな採光窓からの光によって日のあるうちはかなり明るい。
 その最上段へ輝二は座り込む。輝一は階段の上、屋上へ出る扉の前に置かれた立入り禁止の立て札を少しだけずらし、階段を見下ろす形の輝二と背中合わせに座る。
 やっぱりこうだよな、と輝二は内心思った。
 普通に他愛もない話をする時、輝一は横に座る。悩みごとや照れ臭い話、顔を見ると言えなくなるようなことを話す時は、彼はこうして背中をつける。
 今日話すべきことは一つしかなかったが、それをどう切り出せばいいのか輝二はまだ迷っていた。そのあいだに、輝一の方がゆっくりと話を始めた。
「電話…しばらくくれないかと思ってた」
 一つ小さく息を吐く。
「ほんとは話しながら、嬉しくて涙出そうだった」
 聞いた途端、息が詰まって、輝二は兄を振り向こうとする。だがその左腕に輝一は後ろから自分の右腕を通し、そのままぎゅっと脇を絞めた。反対側も同じようにすると、輝二は両腕を少し後ろに引かれた状態で前を向くしかなくなる。こっちを見るなということらしい。
「本当に、悪かった。兄さんの気持ち、何も考えなくて」
 仕方なく階段へ目を向けたまま輝二は言う。
「あの日のうちに謝ろうと思ったけど――電話する勇気がなかった」
 言葉にする間にもあの時の胸の痛みが甦り、輝二は耐えるように目を伏せた。
 背後で頷く輝一の気配がする。何を意味する頷きなのかと輝二は悩むけれど、兄は黙って背を預けるだけで、語られる言葉は何も無かった。もしかしたら、彼も同じように痛みを堪えているのかもしれなかった。
「彼女とか、いるのか?」
 ややあって、輝二は思いついたことを口にする。それに、え? と輝一は驚いた顔を見せてから小さく破顔した。
「いないよ。まあ、ちょっといいなって思う子はいなくもなかったけど」
 そういえば、そういう話はしたことなかったね、と可笑しそうに輝一は続ける。そうして逆に「輝二は?」と聞いてきたのに、
「いたらあんなことしない」
 と、つい強い調子で返してしまった。
「ごめん」
「あ、いや…」
 輝二は目を上げて口ごもる。別に謝らなくてもいいのに、今のは自分の方が悪いだろうと考えながら、次に言うことを思って深呼吸をした。
「俺は、兄さんのことが好きだからキスをしたんだ。あっちもこっちもなんて、そんなに色々好きでいられるほど俺は器用じゃない」
 それくらいの自覚はあるのだと言って、輝二は唇を噛む。悔しくて恥ずかしくて情けなくて逃げ出したい気分だったが、勿論それは出来ないことなので諦める。顔が見えないのがせめてもの救い、と思う反面、自分の言葉に対して輝一がどんな表情をしているのか知ることができないのは、かなり残念だった。
 そんな輝二に、少しの沈黙の後、兄の声が届く。
「じゃあ、俺のどこが…好き?」
 輝一は僅かに言いよどみながら問い、輝二は微かに迷って首を傾げた。
「優しいところ」
 いきなり抽象的だなぁと輝一は思いながら言い返す。
「輝二だって優しいだろ」
「俺が? …どうかな」
 前より大きく首を傾げたのが、輝一にも感じられた。
「わかってないんだ。すごく優しいと思うよ」
 ずっと自分はそれに縋ってきたのに、と輝一は思う。自分よりも他人を大切に思う気持ちを輝二は知っている筈なのに、それを彼は自覚していないのだ。
 輝一の言葉に、そんなこと思ったことない、と輝二は低く返した。
「ふうん」
 自分の思っていることを詳しく言ってやろうかとも思うが、それは後でもいいかと思い直して輝一は話を進めた。
「ほかには?」
 一度めよりも早く答えが返る。
「人当たりのやわらかいところ」
 わ、面白いこと言うな、と輝一は思う。
「やわらかいかな?」
「うん」
 断定的な返事に、輝一の方が首を傾げて少しのあいだ自分と弟とをくらべた。
「ほかには?」
「声」
 今度はまたずいぶん端的だ。ただの男の声だろう、と思っていると、輝二が付け加えて言う。
「優しい声で話すから。すごく、静かな気持ちになる」
 とん、と、輝一の胸に響くものがあった。
「――そう?」
 低く尋ね返すと、見えないのに、輝二は小さく頷く。
 雰囲気だけでそれを感じて、輝一は急に速くなった鼓動と胸を占める息苦しさとを静めるように、何度か深く息を吐いた。
「輝二が言ってくれたこと、俺もそのまま返せるよ」
 漸く落ち着いて言葉を出すまで、輝二は黙って待っていてくれた。何を思っての沈黙か、続いた言葉に何を感じたか、輝一にはわからない。けれど今度は自分の話す番だと心に決めて、輝一は静かに思いを告げる。
「輝二の優しさは、例えば親切だとかよく笑ってくれるとか、そういうものじゃないから、わかりにくい部分があるかもしれない。輝二自身に気軽にお礼を言わせる雰囲気がないから、あんまり感謝の言葉も向けられないのかもしれないし、感謝されてることにも気づいてないのかもしれない。でも多分、みんなはわかってるよ。大事な時にちゃんと助けてくれるって思ってるよ。自分のためより先に、大切な他人のために必死になるんだって、少なくとも俺はそう思ってるし、そういう輝二が好きだよ」
 話しながら動悸がぶり返してきて、輝一は苦しげに息をつく。
「俺が人当たりやわらかいって言うけど、それって八方美人みたいな感じがしない? 争いごとは好きじゃないけど、輝二みたいにこれはいい、これは悪い、これが好き、これは嫌い、ってはっきり言えるの、すごく憧れる」
 それから、と懸命に輝一は続ける。
「輝二だってすごくやさしい声で話すことがあるんだよ。しゃべり方は冷たいかもしれない。あんまりよく話すほうじゃないかもしれない。だけど一つひとつの言葉に込められてる気持ちを、俺はちゃんと感じ取ってるつもりだよ。俺のために何かを言ってくれる時、輝二、意識してないのかもしれないけど、話し方も声もすごく静かで綺麗であったかくて、そのたびにどきどきする」
 どこか泣きそうになって、輝一は気持ちを鎮めるようにしばし瞼を閉じる。また振り向こうとする輝二の動きが感じられ、それを押さえる両腕に力を込めた。
「でも俺は、輝二のどこが好きって、細かく決めることはできそうにない」
 そうして言って、目を開ける。
「だって俺は、初めて会った時からずっと輝二に夢中だったもん」
 はっきりと、輝二が顔だけ向けてくる。耳元にその息をのむ音が聞こえたが、輝一は少し俯いてそこから離れ、苦笑気味に目を細めた。
「おかしいよね」
「おかしいか?」
「おかしいよ」
「俺にそんなに急に夢中になるわけないもんな」
 輝二がまるで棒読みのように言うのを聞いて、あ、と短く声にしてから、
「そうじゃなくて」
 と輝一は首を振った。
「ナルだな、って思ったんだ」
「ナル?」
「ナルシスト」
 言われて輝二も納得する。
 自己愛なんてことは勿論考えたことはない。輝一のことは別に顔で好きになったわけじゃないし、その顔だって作りは似てても表情はまるで違うと思っている。でもきっと、同じことを心配していたのだ。
 それを肯定するように輝一の言葉が続いた。
「好きって言うとさ、すぐに見た目のこと考えるだろ。顔が好みだとか笑顔がかわいいとか、スタイルがいいとかおしゃれだとか」
 聞きながら輝二は顔を正面へと戻す。
「そういうので好きになってるんじゃなくても、俺たちが二人で一緒にいてお互いを好きだって言ってたら、そういうふうに思われるんじゃないのかなって」
 言葉を切った輝一の、苦笑するのが見えるようだった。
「悔しいよね、そういうの」
 寂しげな声に輝二も小さく首肯する。
「悔しい。でも、悔しくても、おかしいと思っても――」
 夢中だったのは自分も同じだ。
 それだけは伝えようと思ってここへ来たんだ。
「とにかく会いたい、そばにいたい、声を聞きたい、話をしたい、笑ったり怒ったり俺をからかったり逆にすねたり、そういう顔も見たいし、何を思ってるのか知りたいし、触りたいし抱き締めたいし、キスだってしたい。…ほんとはもっと、多分、ある」
 一気に言い切り、輝二は今度こそ輝一を見ようとした。
 どんなに首をめぐらせても表情を覗くことのできない姿勢に、苛々と背を反らし腕を引き抜こうとする。懸命に抗う輝一が前屈みになり自分の体の前で両手の指を組むのを、横目で捉えて思わずカッとなった。
「輝一っ」
 強く呼ばれ、輝一が身体を固くする。
 丸められた背中にのしかかるよう上体を預けて、青空を映す天窓を見上げながら輝二は静かに口にする。
「輝一。顔見て、話したい」
 大きく呼吸を繰り返し、そのたびに揺れる輝一の背を意識しながら、やがて戒めを解かれた両腕を輝二は一度そっと摩る。体を起こして振り返り、兄の肩に手を掛けるが、振り向かせようとする意図は拒まれさらに深く俯く姿が視界を埋める。
「好きだって言いながら、なんでそんな顔するんだ?」
 泣き出しそうに顔を歪める輝一の想いが分からない。
「会った時はあんなに嬉しそうに笑うくせに、なんでキスしたら泣くんだ?」
 答えない彼の身体に両腕をまわし、背中から強く抱き締める。
「輝一の言う『好き』は、兄弟の『好き』か? 俺が弟だから――」
「違うよっ」
 漸く返った輝一の声が、短く強く輝二の言葉を遮った。
「違うよ。言っただろう、ずっと夢中だったって」
 すっと声のトーンを落とし、ゆっくりと輝一が顔を上げる。自分を引き寄せる腕に、両手を添えて袖を掴む。
「夢中だったから…夢中だったことに気づいたから、もっと、冷静にならなくちゃって思ってたんだよ」
 そうして完全に輝二に寄り掛かり、深く息を吐くと同時にもう一度目を伏せた。
 どこかの集会が終わったのか、階下のざわめきが二人の元へも届く。互いに言葉を切ったそのあいだに、輝二は上体を捻ったままだった姿勢をもっと楽にしようと、階段の上へ両足とも上げた。股の間に輝一を挟むよう足を伸ばすと、余計に彼と密着する形になってひどく照れた。
 やがて、再び静かになった中で、何事もなかったかのように輝一が話を続ける。
「なのに輝二がいきなりキスなんかするから、すごく…」
 少しの間を取り、考える。
「すごく、罪悪感、感じちゃったんだ」
 出てきた言葉はざらりと堅い印象を輝二に抱かせた。
「罪悪感、か」
 別々の中学を選んだ理由も、多分これだと思う。
 罪の意識があったのだ。男同士で兄弟で、何を求めているのかと。常識で考えろと、確かに自分をたしなめ、責める理性があったのだ。
 きっと、自分よりも一層、彼は強くそれを感じていたのだろう。
 思い巡らす輝二に対し、それに、と輝一は続けた。
「ちょっと悔しかった。俺より輝二の方が行動早かったんだなって思って」
 よく分からないと輝二は首を傾げる。
「輝二の決断の方が早かった――俺は今の今まで迷ってたよ。兄弟の『好き』で通そうかなって」
 そこでほっと息を吐き、輝一は肩に乗せられた弟の顔に視線を向けた。
「無理に決まってるのに」
 からかうような笑みが、ふっと乱れて悲しみを映す。背筋を伸ばす輝二が左腕を上げて兄の頭を抱え込み、髪を優しく撫でながら冷たいほほに自分の頬を寄せた。
 泣かないけれど悲鳴が聞こえる。
 自分もそうだったように輝一も叫び続けていたのだと、こうなって初めて気付く自分に、輝二は憤りすら感じて兄を抱く腕に力を込める。
 輝一もまた、目を閉じて触れる輝二の肌を感じながら、全てを受け止める彼の内側にあるだろう同じだけの悩みと決意の強さを、この上なく愛しく思う。
 そうしてゆっくりと呼吸を整えてから、
「あとはさ――」
 と、さらに言い添えるよう口を開いた。
 まだあるのかと呆れる輝二を、輝一は、今度は泣き笑いではない楽しげな笑顔と共に見遣る。
「自分からキスしたいって思わない?」
 好きな相手には。
 間近で見つめ合う二人の瞳に、明るく幸福な色が浮かぶ。照れ臭くて目を逸らしたいと思うのに、引きつける力の方が何故か圧倒的に強い。
「思うかな」
 輝二はうっすらと優しげな笑みを見せて答えた。
「だから――」
 輝一がそっと右手を伸ばす。
 輝二の頬にやさしく触れる。
 体の向きをわずかに変えて、
 乾いた唇にかすかに触れる。
 じっと輝一の口づけを受けて、輝二は細く目を伏せる。そうして何度も触れるだけのキスを受け取ってから、同じように輝一のほほに手を伸ばし、それまでより少しだけ深く口づけた。
「いろいろと悔しくて、迷って決めかねて、泣いて、逃げて――ごめん」
 離れた直後の唇で、輝一はそう言って俯く。彼のほほに手を添えたまま、輝二は小さく首を振って額を付ける。
 輝一は一瞬、身を竦ませて、けれどすぐに嬉しそうに目を細めて口にした。
「輝二、今日さ、ふられるつもりで来てた?」
 頷くと、輝一は小さく笑う。
 そんな彼に輝二はたまらずに抱きつく。
「それにしてはよく笑うから、混乱してた」
 首筋に顔を埋め、両手で兄の背を掻き抱く。泣いているようなその呼吸に気づいて、輝一が静かに声を掛ける。
「…ほっとした?」
 また、輝二は頷く。二度、三度と、自分でも確かめようとするかのように首を縦に振って、さらに深く輝一を腕に抱き込んだ。
 応えるように輝一も、輝二の背へと腕を回す。そのままするりとジャケットの背を撫でると、急に愛しさが増してきて、それを言葉にしたくなる。
「す――」
 なのに邪魔する音がある。
 ぐうぅ、と大きく腹が鳴る。
 安心したらお腹がすいた、とでも言うのだろうか。自分でも驚いて輝二が顔を上げようとした時、つられたように輝一の方でも音がして、二人で顔を見合わせて笑った。
「朝もあんまり食べられなかったんだ」
「――俺も」
 揃って白状して立ち上がる。
「何か食べに行こう。おごる」
 やった、と並ぶ輝一が、横を見遣って明るく言う。
「大好きだよ、輝二」
「――俺も」
 澄まして短く答えるけれど、照れる姿は隠しきれずに輝二は急ぎ足で階段を下りる。そうして下り切った先で足を止め、ゆっくり下りて来る輝一を見上げる。
 彼はいつものように輝二を見つめ――ふわっ、と笑った。

更新日:2002.12.26
der Anbruch = 始まり

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