Pulse D-2

Wie schmeckt es? (3)

『もうっ、どうしろって言うんだよ!』
 恥ずかしいのと嬉しいのとがごっちゃになって、激しく輝一を襲っていた。
 多分、きっと、絶対、耳まで真っ赤だ。
 輝一はそう自分のことを思ってみるが、だからといってどうにかできるわけでもない。なのに目の前では、表情に笑みを残したまま、それでも照れ臭さから立ち直った輝二が次々とクッキーを口に入れていく。
 そのうちに、ほら、と輝一にも一枚差し出してきて、彼をますます照れさせた。
『こっのー…』
 睨み上げて、無言のままかぶりつく。指まで噛まれそうな勢いに輝二は慌てて手を引っ込めたが、自分で焼いたクッキーをいかにも憎々しげに噛み砕く兄の姿に、必死に笑いを堪えて言った。
「仕方ないだろ、ほんとにそう思ったんだから」
 目を輝二に向けたまま、輝一がカップを持ち上げる。
「うまいって言ってんだろ」
 そして続いた弟の言葉に、思い切り眉をひそめて疑わしそうに口にした。
「そうかなぁ」
 疑り深いな、と輝二も少し参る。
 本当に、彼を怒らせようとしたわけでも恥ずかしがらせようと思ったわけでもなかったのだ。つい、ぽろりと、嬉しい気持ちが素直に出てしまっただけなのだ。
 そう考えて兄から目をそらすと、我慢していた笑いがこぼれて伏せた目と共にやけにやさしい雰囲気を生んだ。
 だが、そういう変化がまた、輝一に何かを感じさせたようだ。
「輝二ってさ――」
「ん?」
『タラシだよねー…』
 視線を合わせたまま、胸の中だけで輝一は言った。
〔だらしない〕の意味のタラシではなく、〔扱いが巧み〕の意味のタラシである。
『しかも天然だ』
 何か特別な意図があっての行動や仕種ではなく、彼にとってはごく自然で本能的な、どちらかというと彼自身の願望ではなく相手への配慮からくる動きでしかないのだ。考えようによっては、それは余計にたちが悪い。
 また、それにすっかりたらし込まれてる自分も自分だけど、と輝一を悩ませるにも十分な発見だった。
「俺が何だ?」
 黙り続ける輝一に重ねて尋ねるが、輝一は答えず難しい顔をしている。それから何かに気づいたかのように視線を横へ走らせると、輝二がそっちに顔を向けた隙にぱっと輝二のカップに手を伸ばす。
「あっ」
 そしてさっさと紅茶を飲み干した。
 カップを戻し、つーんと輝一は壁を向く。
「…分かった、もう聞かないから」
 可笑しさと脱力感とが半々、といった様子で、輝二が向かいから降参を告げた。軽く見遣って輝一も笑った。
 半分食べたところで、輝二は袋の口を閉じる。
 またあとでゆっくりと輝一のことを考えながら食べることにしよう。そんなことを思ってクッキーを自分のかばんにしまうと、
「今なんか恥ずかしいこと考えただろ」
 と、すかさず輝一が睨んでくる。
「そういう顔した」
「どういう顔だ?」
 少し顔を前に突き出して意地悪く輝二が言う。
「もーう!」
 お前なんかこうだ、と輝一はくしゃくしゃと輝二の顔を手のひらで撫で回す。輝二が腹を抱えて身体を引いた。
 やがて、時間を確かめて輝二は腰を上げる。
「あっ、これっ」
 輝一が慌ててセーターを脱ごうとした。けれど、輝二は即座に声を返す。
「やるよ。輝一が着てくれ」
「はっ?」
「お礼」
 クッキーの、と言いながら輝二はコートを着始める。
「えっ、全然つり合ってないって!」
「いいんだ。似合わない服持ってても仕方ないし」
 嫌だったら別に着なくていいぞ。
「えっ、いやっ、すごく、好きだけどっ」
 輝一の言葉に輝二がちらりと笑う。
「でもっ…やっぱり悪いって」
「じゃあ、これ、貰っていいか?」
 自分の着ている輝一のベストを輝二は指差す。
「それは全然構わないけど」
「ならいいな、帳尻合っただろ」
 そうして澄まして言うと、伝票を手にカウンターへと向かった。
「だから合ってないってば…」
 そもそもモノが違い過ぎるだろうと輝一は思うのだ。そしてまた当然のように飲み物代も払ってるし…と上着を左腕に抱えて立ち上がる。
「ちょっと、待てって、輝二っ」
 さっと会計をすませ店を出る輝二を追って、輝一も急ぎ扉を押す。店内とは違う種類のざわめきがよみがえり、どこか輝一をはっとさせたが、もう輝二が階段を上り始めているのを見て、こっちが先、と弟へ手を伸ばした。
「輝…」
「あのさ――」
 コートを掴む輝一の手を感じながら、階段の途中で輝二は立ち止まる。少しだけ兄を振り返るよう、肩と首とを廻らせる。
「きのう、電話くれただろ」
「あっ、ごめん、いきなり電話して、急に呼び出して…」
 焦って言う輝一に、輝二は緩く首を振る。
「嬉しかった。すごく、驚いたけど――電話貰ったのがあんなに嬉しかったのは初めてだ」
 今しがたまでのふざけた態度はすっかり消え、すぐそばの壁に向けられた目が僅かに細められて静けさを映す。低い声は薄闇に溶けるように落ちていき、ついさっき感じた筈のざわめきすら、一緒に溶け去ってしまったかのように輝一の中から消え失せる。
 こんな表情は好きだ、と輝二を見上げて輝一は思う。彼の本来のまじめさと誠実さがよく表れている、と感じるのだ。そして、できることなら、自分以外の人には見せて欲しくないとも思う。
 その表情のまま、輝二は一度階段の上へと顔を向け、それから輝一へ体ごと向き直した。
 ゆっくりと腕が伸ばされる。
 段差のために、いつもと少し姿勢が違う。
 もう一言も語ることなく、輝二はただ、兄を抱く腕に想いを込めた。胸に輝一を抱き込むよう、階段二段分高い位置から彼の肩を両腕で引き寄せる。
 いつでもどこか少し躊躇うような目をした後の、迷いを振り切って自分を抱き寄せる腕。その力強さを今また感じて、輝一は、輝二の胸に額を付ける。軽くコートの胸に唇で触れてからその柔らかい布に頬を寄せると、肩から頭へと移った輝二の指がくしゃりと髪を掴むのを感じて自分も彼のコートを掴んだ右手の指先に力を込めた。
 どうか、誰も、来ないでください。
 静寂の中に輝二の心臓の音を確かに聞きながら、そのリズムに合わせるように深く願って輝一は目を伏せる。
 やっと会えたのだから、ほんの短い逢瀬なのだから、このままそっとお互いを感じていさせて下さい。
 祈る輝一の髪に、輝二の頬が当てられる。
 熱い輝二の指が、輝一の項をまさぐる。
 少しのくすぐったさとたくさんの期待を感じて顔を上げると、無理矢理身を屈める輝二に出会う。
 引き寄せられるように伸び上がってから、ふっと気づいて小さく笑い、輝一は、輝二の肩に右手を乗せて軽く押し止めると、一歩踏み出し、一段上った。同じように笑った輝二が、見上げる輝一に静かに口づけた。
 三度目の正直。
 輝二のキスを、輝一は密かにそう呼ぶ。
 必ず、確認するように小さく二回触れてから、彼はしっかりと唇を合わせてくる。そのリズムがわかるから、三度目に輝一も瞼を落とす。
 けれどそれは、激しく舌を絡め合うようなキスじゃない。輝一の呼吸を乱れさせるようなキスでもない。それでいてきちんと想いを伝えてくる、優しく息を分け与え合うようなキスなのだ。
 唇から口内へ、そして肺へと落ちていく空気すら、互いへの恋しさだけでできているのではないかと、輝二との口づけのたびに思ってしまう自分に、輝一はいつでも笑ってしまう。あまりにもロマンティストで恥ずかしい空想だからだ。
 でもそれくらい、熱い息が滑り下りていくのだ。それがまた、輝一には切なくてたまらなかった。
 そんな長い長いキスを交わして、離れ難い想いばかりがつのってしまう。それを終わらせるのも、始める時と同じく輝二の役目だ。
『どんな気持ちで唇を離すのかな』
 頭の隅で考えながら、ゆっくり瞼を上げていく。間近で見つめ合える時間を無駄にしたくなかった。
 なのに、いつもはここで薄く笑う輝二が、今日は静かに目を逸らす。不安に駆られる輝一の耳に、硬く輝二の言葉が流れ込んだ。
「あんまり会えないけど、それでいいと思ってるわけじゃない。ただ、お互いに負担になるようじゃ意味がないと思う。だから、電話するのも直接会うのも、限度を、自分で、決めた」
 うん、と頷く輝一の中に、携帯からの輝二の声がよみがえる。
『また来週、電話しても、いいか?』
 中学に入りたての頃、ある日の通話の最後に彼が不意に言った言葉だ。
 胸が痛くなるような言葉だった。いや、実際にひどく痛んだのだ。だってそれは、来週まで電話しない、という意味だったから。
 それまでは本当にしょっちゅう電話で話していた。掛けてくるのは輝二で、夕毎夜毎、電話が鳴るのを待っているのは輝一にとってとても楽しみなことだった。それをやめると言われたのと同じことだった。
 思えばあの時に彼はもう自分の気持ちに気づいていて、おそらくは次第に時間的な間隔をあけ、空間的にも距離を取るつもりでいたのだろう。
 それをさせなかったのは自分だと、今では輝一も理解していた。輝二の気持ちも考えず、彼を失いたくない一心で『じゃ、また来週』と、電話のたびに輝一の方からその次があることを求めたのだ。だから余計に、今でも自分から電話するのを躊躇うのだ。
 俯きそうになる輝一を、頬に添えられた輝二の手のひらが優しく励ます。
「それでも時々たまらなく輝一に会いたくなる。会って抱き締めたら気がすむんじゃないかと、駅に向かって走り出したくなる。せめて電話でもと思うけど、声を聞いたら絶対もっと会いたくなるから、それが怖くて掛けられない」
 自嘲して二、三度首を振る。
「輝一には事後承諾みたいに俺のルールを押しつけてるだけだから、お前がそれを守る必要はない。いつでも電話してくれて構わないし、急に呼び出してもいいんだ。できるだけ、俺も応えるから」
 何も言えない輝一に、ようやく輝二も目を戻す。そして静かに額を合わせてから絞り出すように口にした。
「クッキーも、電話も服も、こうやって会えることも……ほんとに、俺――」
 声が震えて言葉が途切れた。
 緊張したまま見上げる輝一の視界に、きつく目を閉じ歯を食い縛る輝二の姿が映った。
 胸が苦しくてどうしたらいいのか輝一には少しもわからないのに、彼にこんな顔をさせているのは自分なのだと、その思いばかりが嫌というほど迫ってくる。それは嬉しい一方で切なさと独占欲とを刺激して、さらに輝一の動きを制限する。
 それでもやがてそっと頬に触れると、輝二が目を開けて輝一と視線を合わせた。
「大切にするよ」
 やっとそれだけ言って、輝一はセーターの胸元をつまみ上げる。輝二が、僅かに間を置いてから小さく頷く。そして、同じように薄く笑った輝一の髪へ軽く口づけた。
 輝一が上着を着る間を、彼の荷物を持ち輝二は待つ。並んで駅へと歩く道の、暗い空に遠く時計塔が浮かぶ。
 その明かりの下を抜けて駅構内へ入ると、
「それじゃあ、また」
 と別れの言葉を交わして、輝一だけが階段へ向かった。
 彼がホームへ着いた時、ちょうど輝二の乗る電車が到着し、向かいのホームから乗り込む彼が輝一の見える窓ぎわに立つ。走り出す電車に小さく手をあげ見えなくなるまで見続けていると、混み合った下りの急行列車が、勢いのある風をホームで待つ人々にぶつけて去った。
「あったかい…」
 風に負けない温もりが、一人立つ輝一を静かに守る。
「また、もらっちゃった」
 いつもいつも、自分は輝二に何かを与えられてばかりだったから、せめてこんな日には、はっきりとわかる特別な気持ちを込めた贈り物を彼に渡そうと思ったのに。
「ま、いいか」
 それでも、呟いて笑って顔を上げた。
 たくさんの想いを贈ろう。たくさんのキスを贈ろう。これだけは、ほかのどんな子たちにも負けやしない。ほかのどんなチョコにも負ける筈がない。
『自信持ち過ぎかな?』
 あまり経験のない高揚感に、軽く首を傾げる。
 そんな自分にまた小さく笑って、やってきた各駅停車に輝一も大人しく乗り込んだ。



■後日判明の事実■

「あら? 輝一、このあいだ、バター使い切ったんじゃなかったの?」
「え? バター?」
 バターを使ったのはクッキーを作った時…と考え、そこではっと輝一は気づいた。
『バターとマーガリン間違えた…』
 輝二に渡す分を作った時、やけに最初のステップが楽だなぁと思ったのだ。固いバターではなくやわらかいマーガリンだったから、最初に練ったり砂糖と一緒に混ぜたりするのが簡単だったのだ。
 そして多分、生地の様子と仕上がりの味の違いも――
「俺って、マーガリンっぽいのかなぁ…?」
 呟いて情けない顔になる息子は、眺める母の不思議そうな様子など知るよしもなかった。

更新日:2003.02.18


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