Pulse D-2

Bitte, ruf mich an!(1)

 電話の来ない土曜日は、胸が潰れるんじゃないかと思う。
 テーブルにつけた腕と胸から確かに続く鼓動を感じて、こんなに苦しいのに何でまだ自分は生きてるんだろう、と輝一は内心呟いてみる。
 ほんの数ヵ月前まではこうじゃなかった。輝二からの電話は決まった日に必ず掛かってくるというものではなかったし、何らかの約束や用事があってのものでもなかったから、輝一の方でも、もし電話があればラッキー、くらいに思っておくしかなかったのだ。
 それが、約束と規則性のもとに繰り返されるようになり、輝一は安心してその日を待つことができるようになった。緊張の度合いは増したけれど、その分、楽しみも何倍にもなったのだ。
 そんな今を、以前と比べてつらいとは考えない。待てば必ず届けられる声、望めば触れ合える互いの存在を、この上なく嬉しく思っている。
 なのに、その声が届かない。会える筈の日に会えない。それも、自分のせいでだ。
 腕の上に目だけを覗かせた姿勢で、唇を強く引く。ぐっと歯を食いしばるとつられるように目許もきつさを伴ったが、そのまま半ば無意識に動かした視線の先にいつまで待っても鳴らない電話を捉えた途端、情けないほどはっきりと涙目になったのがわかった。
 きつく目を閉じ、再び輝一は両腕に顔を埋める。すっかり表情を隠して息と気持ちを静めようとしていると、台所で続いていた水音が消え、代わりに彼を呼ぶ母親の声が聞こえてきた。
 輝一はしぶしぶと立ち上がる。少しでも気晴らしになればと思ってつけたテレビは、いつの間にか違う番組に変わっていた。
「今日は宿題ないの?」
「え?」
 ご飯茶碗を出す輝一の背に、軽い感じの母の言葉が降ってくる。
「だって、いつもは部屋にいる時間でしょう? テレビなんか見てるから、珍しいなって思ってたのよ」
 続けて言われて輝一も納得した。
 そう、いつもの土曜日なら、母の帰宅する頃には輝二との通話を終えていて、夕食までのあいだは自室にこもっている。輝二との会話を反芻してにやけてしまう自分を持て余している時間なのだ。
「うん。今日はちょっとだけだったから…あ、それなら宿題以外もやっとけばいいのにね」
 苦笑気味に答えた輝一に、別にいいわよ、と母も笑って味噌汁の味をみた。その笑顔に、またどこか泣きたい気分になった。
 輝一が中学に上がってから、母は土曜日にも出勤するようになった。
『輝一はもう自分で何でもできるでしょう? 母さんがいちいち面倒見てたんじゃ、きっとうるさがると思う。でも母さんはあなたのことつい気に掛けて口を出しちゃうと思うから、なるべくそうならないようにしたいのよ』
 だから一所懸命働くわ。
 出勤の理由を母はこう語って、いたずらっぽく笑ってみせた。いろいろとお金がかかるんだろうな、と思うけれど、それを言っても母が取り合わないことは目に見えている。だからせめて、その他のことでできる限り母の負担を軽くしようと、輝一はそれまで以上に気を配ってきたつもりだ。
 なのに、土曜日だけは思ってしまう。
『ごめん、母さん、まだ帰ってこないで』
 輝二との電話が終わるまで。次に会う約束をしてしまうまで。
 そうして彼の声を胸に収めて、一人静かに時を送る。
 そんな夕方をいくつ過ごしたのか。
 いつもと変わらない二人きりの夕食。いつもとは違う、胸の中のつかえ。
「おいしくない?」
「えっ?」
 再び、母の声に輝一は顔を上げる。軽く首を傾げて母が彼を見ている。
「ため息ばっかりで、ちっとも食事が進んでないわよ」
 そうかな…と呟いたそのままに小さなため息が漏れて、二人を苦笑させた。
「何か悩みごと?」
「う…ん。悩み、って言うのかな…」
 輝二だったら絶対に言わないだろうな、と思いつつ、輝一は手元に目線を落とし口にした。
「ちょっと、デートしなくちゃいけなくなって…」

*  *  *


「――誰と?」
 長い沈黙の後に聞こえた輝二の声は、今まで聞いたこともないほど低く堅かった。
「あ…えっと…部活の先輩の、妹…」
 少し上目遣いになりながら、輝一は小声で答える。
「ふうん…」
 それには短く返しただけで、輝二は階段の下へと目を逸らした。細長い窓からの西日を受けて、金色に輝く誰もいない静かな廊下があるだけだった。
 何だか胸の中を冷たいものが滑り落ちていくようだ。
 急に体じゅうが冷えたような気がして、輝一は脇を締めて身を縮こませる。そうして、何かもっと言わなければと口を開きかけたが、うまい言葉を思いつけないまま困ってしまう。そこへ、再び弟の声が落ちた。
「じゃあ、来週は無しだな。土曜も電話しないから」
「えっ…」
 兄の驚きの声に、輝二も今度は顔を向ける。
「だって、嫌じゃないか、そういうの?」
「何で? 嫌じゃないよっ」
 輝一は即座に答える。声がぼんやりと踊り場に響く。
 だが、輝二は僅かに目を細め、無言のまま静かに俯いた。
『ああ、輝二は嫌なんだ』
 そりゃそうだよね、と輝一も思う。
 自分の恋人が他の人間と二人で過ごそうというのだ。しかもそれを、はっきりとデートという言葉で伝えられる。嫌じゃない筈がない。むしろ、怒って当然なんじゃないかと思う。
 そして、その前日に電話をしたとして、いったい何を話せというのか――輝二の言い分はそんなところなのだろうと、ようやくわかって輝一も相手から視線を離した。
『デートだなんて言わなければよかったのかな』
 でもそうしたらきっと、自分はそれをずっと気にし続けるだろうし、本当のことを知った時に輝二がもっと嫌な思いをするだろうとも思うのだ。
「先輩、もう卒業だし、すごく良くしてもらったし、妹さんのことも滅茶苦茶かわいがってて――俺、うまく断れなくって。…ごめん」
 輝一はどうにか言葉を見つけ出し、座った姿勢の両膝に付きそうなほど頭を下げた。輝二が自分を見たのが何となくわかった。
「うん。いいって。輝一らしくて納得できるから」
 輝二の言いぐさに顔を上げる。横を向いて自分を見下ろす表情には、どこか諦めじみたものが浮かんでいるように感じられた。
「らしい? 納得できる? じゃあ、俺らしかったら何でも許すの? 納得できるならどんなことでも、仕方がないなって諦めるの?」
「何だよ急に」
「だってっ」
 早口にまくしたてる輝一の勢いに、輝二は眉根を寄せて首を傾げる。
「何か俺、口惜しいよ」
 そうして、言いながら右手で髪をくしゃくしゃと掻き回す兄を見遣り、胸の痛みを堪えた。
「妬いて欲しいのか?」
「妬いて欲しいよっ」
 輝一はやはり即答する。当然だろうという感じで、いつもは柔和な面差しの彼が輝二を睨む。けれど輝二からは輝一の求める言葉は告げられず、憮然とした弟の様子にいたたまれない気持ちになって輝一は顔を伏せた。
「今、俺が焼きもちをやいたとして、それをそのまま輝一に言ったとして、それでどうなる?」
 足元を見つめて歯を食いしばると、少し怒ったような声が落ちてくる。
「デートなんかするなって言ったらやめるのか? 今更断ったりできるのか?」
「それはっ」
「出来ないだろ」
 勢いよく顔を上げた輝一に、輝二は強く言い切って立ち上がった。
「こんなこと言い合ってたって仕方ない。帰ろう」
 階段を二段下り、動かない兄を振り返る。
「輝一」
 目が合うか合わないかのところで顔を背けた輝一を、静かに呼んで輝二は目を細めた。
「来週は、輝一は先輩の妹とデートする、俺は、拓也に誘われてるからサッカーの応援に行く。断ってばかりじゃ悪いしな」
 輝一が口惜しげにむっと口を結ぶ。そっちも他の奴と会うんだ、とでも言いたげだ。
「そんな顔するなって」
 言えばますます輝一は表情を歪め、体を固くして涙をこらえる。諦めて、輝二は兄の傍へと膝をつく。
「俺は、輝一が俺のことを間違いなく好きでいてくれればそれでいい」
 それでいいんだ、と繰り返し、右手で輝一の髪を梳く。そうして、目を上げた輝一と視線を合わせて口付けしそうに顔を寄せたが、ふいに思い直して頬を触れさせそのまま緩く抱き締めた。
 天窓からの光が陰り、すっと辺りが暗くなる。
 背に回された腕も触れている頬も、いつもと変わらず温かい筈なのに、周囲の薄闇に従うような冷たい空気が輝一を包む。待ち焦がれていた輝二との時間をこんなふうに終えるのかと痛む胸の隙間へと、細く冷気が入り込んでいくのを必死に耐えて目を閉じる。
「それでいいんだ」
 息を詰めて頬を寄せる自分の耳元を、小さく掠れた声がもう一度かすめていったような気がした。



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