Pulse D-2

Bitte, ruf mich an!(2)

 日なたにいると暖かくて、状況にそぐわず眠くなる。歩きながらでもそうだったので、相手を待っている間に本当に眠り込んでしまったらどうしようかと、輝一は珍しく少しばかり失礼なことを思いながら駅前へと向かう。
 だが、そんな考えは杞憂に終わった。春めいたパステル調のパーカーを着込んで、小さなバス停のベンチに腰かけて待つ姿が目に入ったのだ。
『バレンタインにはチョコだって渡した筈だぞ』
 先輩はそう言って、妹の写真を輝一に見せた。その時の写真ではいまひとつピンとこなかったが、実際に会ってみると確かに見覚えのある少女だった。
「お、おはようございます。…あの…すいません…」
 立ち上がって挨拶をしたかと思うと、彼女は深々と頭を下げる。天然パーマらしい髪が、やわらかくふわふわと頬の辺りで揺れている。
「あ、えっと、おはようございます。…なんで謝るの?」
 思わず同じように返してから、輝一は困ったように尋ねた。まったく予想外の出だしだった。
 彼女は顔を上げぬまま、泣き出しそうに目を瞬かせる。そうしてつっかえながら口にした。
「あの、だって、おにい――兄が無理に頼んだんですよね。だから、迷惑だろうって…ごめんなさい」
『ああ、そうなんだ』
 輝一はこっそり納得する。
 自分がそうだったように、彼女もまた胸の詰まる数日間を過ごしてきたのだ。幸せなだけではなく、それでも捨てることのできない気持ちを抱えてこの日を迎えたのだ。
「でも、楽しみにしててくれた?」
 断り切れなかったのだとも本当は涙が出そうなほど困ったのだとも告げずに、輝一はもう一度静かに尋ねる。小さく目を上げる少女は可哀想なくらい不安げで、励ますように輝一は緩くほほえんで返事を待った。
「…はい。とっても」
 頷く彼女のはにかんだ様子が、深く輝一の胸に残った。
 十五分待ってバスに乗り、二十分ほどのところで下車をする。停留所の名前にもなっている植物園は決して小さなものではないが、特別展でもなければそうそう人でごった返すということもないようだ。
 少なからずほっとして園内を歩きながら、ふと、黙したままの少女に気づいて輝一は顔を向けた。
「映画のほうが良かったかな?」
 問うと、彼女は笑って首を振る。
「人ごみは苦手なんです」
 体育館に全校生徒が集まるだけでも息が苦しくなりそうになります、と苦笑してから、
「あ、この花、今度学校の花壇に植えてみようって言ってるんです」
 と、あまり見たことのない黄色い花を指差した。
『一緒に映画でも見に行ってやってくれ』
 最初、先輩にはそう言われた。だが、映画は好みが合わなければつまらないし、それだけで時間もお金もけっこう使ってしまう。輝一はそういう時間の使い方があまり好きではなく、慣れてもいない。それに何より、あまり目立つ場所には行きたくなかったのだ。
「もしかして園芸部?」
「はい、そうです」
 代わりに無理なく行ける場所をと選んだのが、この植物園だ。入園料もほとんどかからず、何時間でもいられて、その気になればいくらでも話をできる。 ただ、彼女が退屈しないかだけが心配だった。
「じゃあ、一緒に花壇の整備したことあったのかな。俺、今年、美化委員だったから」
 清掃時の監督や用具の点検をして回る清掃委員会が、もっと広い意味で校内の美化につとめる『美化委員会』に変更されたのは、今年度のはじめのことだった。事あるごとに作業に駆り出される委員たちの、四月最初の仕事が、園芸部との共同の花壇の作り替え作業だったのだ。
「はい。……その時好きになったんです」
 蚊の鳴くような声、というのを初めて聞いたと思った。
「あ――ありがとう…」
 返答に困り、小さく礼を言って歩き続けた。
 春先の花は淡い色のものが多くて、葉を出さずに花だけを開く木々もたくさんある。そんな中を行くと、無口で雰囲気の柔らかな彼女は、服の色とあいまって花の一つのように感じられてしまう。
『何言ってんだ俺――』
 自分の考えに内心苦笑しながら、それでも否定はせずに輝一は時折隣りを歩く少女を見遣る。輝一より一つ年下。色白で、ぱっちりと大きな目は僅かに垂れ目。小柄で、彼女の頭の先が輝一の目の高さにあった。
 人見知りが激しいんだと先輩も言っていたが、なるほど、相手が輝一だということを含めても、一般的に見たらおとなしすぎるかもしれない。こういう子は苛々する、という人もいるだろう。
 ただ、押しつけがましいところのない優しい物言いや仕種は、輝一には好ましく思えた。先輩が彼女をかわいがる気持ちも少しわかるような気がした。
「疲れない? 大丈夫?」
 ちらりと目が合い、輝一は立ち止まる。
「はい。歩くのはいくらでも平気なんです。先輩こそ大丈夫ですか?」
 からかいなどではなく本当に気にしたらしい彼女の言い方に、輝一は軽く声を立てて笑う。
「俺は長距離の選手だし」
「あっ、やだ、わたしっ…」
 少女は慌てたように肩をすくめ、両手で口許を覆った。
 彼女の兄は陸上部。当然、その後輩である輝一も同じ部に所属している。様々な運動部が場所を分け合う中で、校庭のトラックを黙々と、毎日何十周と走る輝一を彼女もよく知っていた。
「でも全然駄目だけどね」
「そんなことありませんっ」
 苦笑気味に言った輝一に、思いがけず素早く声が返った。
「木村先輩はすごくいいものを持ってるんだって、うちのお兄ちゃん、よく言ってます」
 ついさっきまで照れて俯いてばかりいた子とは思えない、はっきりとした言い方だった。
「確かに大会での成績はいまいちかもしれませんけど、それでも、まじめで思いやりがあっていつでも一所懸命な自慢の後輩だって、お兄ちゃん、いつも言うんです」
 大会でこそ成績を残せずにいるが、ふだんの練習時のタイムは決して悪くない。要するにお前には勝負強さが足りないんだ、と、輝一はよくこの先輩に言われた。
「わたしも、知ってる限りの木村先輩を見て、同じことを思いました。だから、わたしにとっても――わたしのものじゃありませんけど――やっぱり自慢の先輩です」
 そこまで言って、彼女はまた口許を手で覆い、少し俯いて目を逸らした。
 それは、何だか聞き覚えのある言われ方だった。
『俺の自慢の兄だ』
 輝二が、よくこう言うのだ。
 どこにそんな自慢できるようなところがあるんだと聞けば、輝二はあれこれと小さなことまであげつらう。そうしておいて最後に澄まし顔で、
『つまり全部だな』
 などと言ってから、嬉しそうに笑うのだ。
 そんな筈があるかと輝一はふくれてみせるが、輝二は気にもせずに彼を抱き寄せる。そんな時、抱き締めた腕の中で、その自慢の兄がどれほど胸の痛い思いをしているか、きっと輝二は知らない。
 その痛みを思い出し、輝一は左手で軽く服の胸を掴む。
「そうなれたらいいなって、俺も思うんだ」
 膝近くで咲く白い花を見つめながら、輝一は静かに口にする。すると、
「もう、ちゃんとなってます」
 と、横から小さく声がした。
「ありがとう」
 ますます赤くなりながら、彼女は先に歩き始めた。

*  *  *



 結局、園内の喫茶室で軽食をとったりしながら、夕方近くまで二人はそこにいた。
 殆ど初めて会う相手とこんなにも長い時間二人きりでいられたことが、輝一には不思議でならなかった。そして、笑う回数が多くなればなるほど、ふっと会話の途切れた瞬間、頭の隅に浮かぶ輝二の諦めの表情が鮮明になり、気持ちがそっちへと向かうのが自分でもよくわかった。
「先輩、彼女いるんですね?」
 もう帰ることにして、屋外のベンチを立ちかけた時だった。不意に少女が言って輝一を驚かせる。
「何となく、そんな感じがしました」
「――うん…恋人がいるよ」
 迷った後に答えると、少女はしばらく何かを考えるように目を伏せる。恋人、という言い方は、彼女、と言うのとは、いくらか重みが違うかもしれない。輝一はそんなことを思うが、他の言いようは思いつけなかった。
「じゃあ、本当に、すみませんでした。わたし、先輩にそういう人がいること知らなくて…」
 四月から輝一は中学三年になる。そうなれば受験勉強で忙しくなるだろうから、その前にきちんと会って気持ちを確かめたかったのだと彼女は言う。
「喧嘩してきたよ」
「えっ」
「うそ」
 輝一は軽く笑ってみせる。
「喧嘩らしい喧嘩なんてしたことないんだ。多分、俺たちは仲がいいし、それに――嫌われるのが怖くて喧嘩できないんだよ」
 そういうのは何か恋人として半端だよね、と苦笑する。
「それでも羨ましいです。その人は、先輩と腕組んで歩いたりできるんですね」
 そして、言われた言葉に沈黙する。
「きっとその人も、先輩のこと、自慢の恋人だって言うと思います」
 しっかりとした表情でそう言って、それから、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
 輝一には、何度も謝りながら彼女の涙が止まるのを待つことしかできなかった。



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