Pulse D-2

Bitte, ruf mich an!(3)

 家に帰り着いてから二時間悩んだ。
 座り込んだまま電話を睨みつけている息子に、声を掛けたものかどうか母親の方でも迷っていたが、とりあえず三十分が経過したところで放っておくことに決める。
 昨夜聞いた話では、今日のデートは本命の子が相手ではなかったらしい。
『あの子なの?』
『え? 誰?』
『ほら、バレンタインの時にクッキーあげた子』
『あ、うん…ううん、違う子なんだ』
『あらやだ、あなた、二股?』
『違うって!』
 母親はからかって笑ったが、息子はテーブルの上に視線を落として、一度ぐっと唇を結んだ。
『あの…クッキーの相手は、絶対――』
 大きく息を吐く。
『絶対、いちばん、大事』
 そして強く言い切った。
 正直な話、この時まで息子の真剣さに気付いていなかった。気付いていない自分に気付いていなかったと言ってもいい。子供らしいかわいい恋だと思い、息子の中にある懐かしいいとおしい想いを楽しんでいた。
 なのに、目にしているこの表情はどうだろう。
 急に息子が遠くなった気がして、朋子は少し目を細めた。
『でもあしたは別の子とデートなのね?』
 輝一は黙って頷く。
『難しいね』
 もう一度、今度は悔しげに唇を噛んで頷く。
 そんな姿を見ていると、じゃあどうしてデートの約束なんかしたのよ? と問い詰めたくなる気持ちも出てきたが、そんなことは他から言われるまでもなく、本人が最も不甲斐なく思っているだろうこともよくわかったので、それ以上デートの話はしないことにした。
『大丈夫よ。何が大切なのかあなたにはっきりわかってるなら、あなたはその気持ちを信じて正直に行動すればいいだけ。誰より、自分に誠実になりなさい』
 彼女の言葉をどう聞いたのか、息子はちらりと目を上げて小さく首肯し、夕食を再開した。翌朝も待ち合わせに間に合うよう家を出、そして、日の暮れる頃に帰宅して、二時間、電話とにらめっこを続けた。
『真剣なのはわかったけど――』
 やっぱりちょっと面白いわ。
 悪いとは思いつつも、心の中でそんなことを呟いた時、何かを決心したらしく輝一が電話の前で気合を入れて、睨み続けていた受話器へと手を伸ばした。
 と、やはり同時に電話のベルが鳴り、側にいた輝一とそれを見ていた母親の両方をびくりとさせた。
「あっ、わっ、えっと――」
『いいから早く取りなさい』
 焦ってよくわからない声を上げている息子に少々呆れながら、母は自分あての電話ではないことだけを確認しようと様子を伺っている。
「もしもし…?」
 ようやく応答した輝一が、途端に膝に顔を伏せた。朋子は上着と財布を手に、そっと玄関を出た。
『…泣いてるのか?』
「泣いてないよっ」
 明らかに泣いてる声と息づかいだったが、それでも輝一は電話口で強く言い返す。短い沈黙は、電話の向こうの輝二らしさを彼に感じさせた。
 必死に息を整えて、輝一は話そうと思ったことを思い出す。けれど、話す順序を整理しきらないうちに、輝二が静かに話を切り出した。
『デート、ちゃんと行ったか?』
「うん。行ったよ」
『どうだった?』
「ん…楽しかった。いい子だったんだ、すごく」
『…好きになったか?』
「……うん。好きになったよ」
 黙り込む輝二は、またあの諦めの表情をしているのだろうと輝一は思う。
「でも俺は、その何倍も輝二のことが好きだよ」
 胸の中の輝二の姿を振り切るように、輝一は強く言って更に続ける。
「比べ物になんないくらい、輝二を好きなんだよっ」
 泣きそうになるのを大きく息を吸って堪えた。
「俺…輝二にやきもち焼かせたくて他の子とデートしたんじゃないし、もちろん、輝二を怒らせたかったわけでもない。でも、怒らせたならあやまるよ。ほんとに、ごめん…ごめん、輝二」
『いいって。この間も言っただろ』
 そうだけど、とまた涙声で言い、一つ二つ息をついてから続きを告げる。
「それに、呆れてても怒っててもいいから、俺、輝二の声、聞きたいよ」
 聞きたいんだ、本当に。
 昨夜、今まででもっとも強くそう思った。
 何日も声を聞かずにいると、輝二に関する自分の記憶すら信じられなくなることがある。たとえば全ては夢で輝二なんて弟はどこにもいない現実を、あるいは電話の約束なんて一つもしていない事実を、自分の中に見つけてしまいそうで怖くなる。
 そんな時、リアルなのは、自分の胸の痛みだけ。
 少しも望んでいない苦しさだけが輝二への想いを確かなものとして伝え、自分の中の彼の存在の大きさを殊更に思い知らせてくる。
 同時に、この辛さの半分でも輝二は感じてくれることがあるんだろうかと、理不尽な不安に心を覆われる。
 そんな不安は欲しくない。
 だからせめて、声を聞かせて。
『怒ってなんかいない。違うんだ、そうじゃない。怒ってるんじゃなくて――』
 願う輝一の耳に、戸惑いを含んだ輝二の声が届く。どう言えば正しく伝わるかと、懸命に言葉を探す気配が感じられた。
『…羨ましかったんだ。輝一とデートだって言って一緒にいられる彼女のことが』
 少しの間をおいて輝二は口にし、それに、と続ける。
『そんなふうに羨ましがることしかできない自分が、凄く嫌だったんだ』
 悔しそうな響きが滲んでいた。
 今なら彼の気持ちがわかる。輝一はそう思う。
 今日会った少女の、嬉しそうな笑顔に、はにかんだ様子に、懸命に輝一を庇う姿勢に、輝二といるときの自分を重ね合わせずにはいられなかった。一つひとつの仕種に迷いを乗せながら、それでも必死に相手の意を汲もうとするその態度は、輝二と過ごすときの自分そのものだった。
 そんな彼女に、羨ましいです、と言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。腕を組んで歩く自分と輝二など、考えてはいけないと無意識のうちに避けていたのだ。
『輝一に辛い思いをさせたなら、俺の方こそ謝る。ごめんな、輝一』
 ゆっくりと告げられる言葉に、輝一は静かに首を振る。
「ううん、いい。悪いのは俺。はっきりさせとくべきだったんだ。そんなのわかり切ってたのに、先輩に言えなかった俺が悪い。好きな人がいるんだって、付き合ってる相手がいるんだって、言えばいいだけなのに…相手が――相手が輝二だからって、尻込みした俺が悪い」
 一気に言ってしゃくりあげた。今度こそ、大粒の涙が畳の上に落ちた。
「俺も、羨ましいと、思ったよ」
 大きな呼吸を繰り返しながら、輝一はどうにかその先を告げる。黙って聞いている輝二の様子も、不思議なくらいはっきりと頭に浮かふ。きっと、うっすらと目を細め、悲しげに痛ましげに――そして悔しげに――恋人の言葉を胸に溜めているのだ。
「あの子が言うような恋人同士でいられたらいいのにって、俺も、思ったよ」
 自分の望みがどこにあるのか、ようやくわかって驚いたのだ。
 どんなに強く抱き締められても、どれほどキスを繰り返しても、自分たちの周りの薄闇を常に感じずにはいられない。一緒にいれば楽しくて、好きだと言われれば嬉しくて、輝二の気持ちも自分の想いも疑う余地などないと思うのに、
『バレンタインの時の子?』
 と聞かれてどきりとし、
『自慢の恋人』
 と言われて泣きたくなる。
 彼女たちにその本人を示すことのできない自分を知っているからだ。
 それでも、この気持ちは手放せない。
「でも、いい。俺は、間違いなく誰より輝二のことを好きだし、輝二にもそう思ってもらえるならやっぱりそれでいいと思うよ」
 それでいいんだ、と告げた輝二の掠れた声を思い出しながら、輝一も言って顔を上げる。
 カーテンを引き忘れているガラス窓に、明るい星が見えていた。輝二にも届く筈の光だと、輝一は静かに思う。
『誰よりも好きだ、輝一』
 優しい声に笑みがこぼれた。
『来週はあいてるか?』
「うん、特に何も用事はないから。大丈夫。会える?」
 平気だ、と答えてから、一拍置いて輝二は続けた。
『久しぶりにこっちに来ないか? 父さんたち、出掛ける予定になってるんだ』
「あっ行く行く! ほんとに久しぶりー。エマ、元気?」
 輝二の家で飼っている大きな犬を思い浮かべて尋ねる。
『元気だよ。この間、仔犬も生まれたんだ』
「えっ、エマって雄じゃなかったの?」
 驚いて電話口で叫ぶ。輝二が「違う違う」と向こうで笑って言う。
『うちじゃない。相手の雌のところで生まれたんだって。エマは雄だ』
 はぁー、そうだよねぇ、と輝一も笑った。
 輝二の家の庭も、そろそろ色々な花で彩られ始めているだろうか。ガーデニング好きの彼の母親は、今日見たあの黄色い花を知っているだろうか。
 明るい庭に思いを馳せながら、耳には温かな声を聞く。
 そんな珍しく長い電話は、二人の気持ちを更に深く結び付けて優しい夜の中に続いていった。

更新日:2004.02.14


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