Pulse D-2

Gute Nacht

 枕は小さくて低いのがいい。肌ざわりがやさしくて、すんなり柔らかく沈むのがいい。
 気に入りの枕に頬をつけて、輝一はゆっくり目を閉じる。静かな表情の中、口許に微かに笑みが浮かぶ。
『おやすみ』
 受話器からの低い声を思い出すたび心がふるえる。
「おやすみ」
 返した自分の声は、ちゃんといつもと同じように聞こえただろうか。
 話をしている間は、左手の指先がちりちりとしびれる。息があがりそうになるのも声がかすれそうになるのも、懸命にこらえて耳をすます。
 二分間――ほとんど「おやすみ」と言うためだけの電話だ。それでも三日とあけずに掛かってくるのを、黙って部屋の片隅で待つ。祈るような願うような時間はいつからか一日の最後の重要な部分になっていて、鳴るか鳴らないかわからない電話のベルを、パジャマのままで三十分だけ待つことに決めていた。
『木村さんのお宅でしょうか?』
 最初の頃は、まずこう尋ねてきた。変な勧誘につかまると困るから、電話を取っても輝一は名乗らないようにしていたのだ。会話は毎回決まって、
「はい、もしもし」
『木村さんの――』
 と始まり、相手を確認するまでに十秒使った。
 尋ねる声のあらたまった固い感じも悪くはなかったが、初めて輝一の方から先に相手の名を口にしつつ電話を取った時の、向こう側の驚きようもまた印象深かった。
『えっ、あっ、あぁうん、そう…』
 慌てて答えた後に、沈黙が続いた。その理由がわからなくて不安になる。何? どうかした? と口を開こうとした時、いつもより更に一段低い声がした。
『輝一――?』
 もう相手などわかっている筈なのに、それでも確認するように名を呼ぶ。あまりにも響きがやさしくて、自分の名前だと気づくまでに間があく。
「あ、うん…えっと…」
 そうして、はっとして話を始めようとしても、耳の奥に残った声が必要以上に胸を騒がせて、輝一は言おうと思っていたことをなかなか口にできなかった。
「ばかだなぁ…」
 思い返して、布団の中で小さく笑う。
 短い通話の一つひとつの内容を、自分は全て思い出せるのではないかと時々思う。眠る前のこんなゆったりとした時間にはなおさら。そうしていると、話していた時にはわからなかったことが見えてきたり、新しい発見があったりする。沈黙の意味が理解できてきたり、自分がどう言えばうまく伝わるのかがわかってきたりする。それが輝一には嬉しかった。
「電話、新しくなったんだ」
 やっと言ったけれど、電話の向こうには要領を得ていないらしい雰囲気が感じられた。
「掛けてきた相手の番号がわかるようにさ――」
『ナンバーディスプレイ?』
「そうそう」
 今まで古い電話使ってたから、と言い添えると、相手も事情が飲み込めたようだった。
 じつを言うと、新しい電話機は輝一がねだって買ってもらったものだった。それまでの電話はまれに子機がうまく反応しないことがあったが、その点には輝一も母もそれほど不便を感じていなかった。実質的に木村家では、親機だけで用が足りたからだ。
『どうしても?』
 驚いて尋ね返す母に、強い主張はしなかった。それでも輝一の気持ちは伝わったのだろう。ふだん殆どわがままを言わない息子の本当に珍しい頼みを、聞き入れてやりたいと思う部分もあったのかもしれない。
 しばらく考えてから、母親は承諾してくれた。
 離れて暮らす自分たちが毎日会えないのは、仕方のないことだと輝一も思っている。その中で、頼れるものが電話しかないことはもちろんつらかった。それでも、少なくとも声を聞くことはできるのだと思えば安心した。
 また、決して会えない距離じゃないと思えば余計に、頻繁に会おうと言ってくれない相手も強く会いたいと主張しない自分も憎くなる。だがそれは、会えた時の喜びを何倍にもしてくれたし、どれだけ相手を好きか、繰り返し自分に教えてくれてもいた。
 だからこれでいいんだ。
 新しい電話に相手の表示が出るたび、輝一はそう思って胸の中の期待と不安をなだめた。
 やがて電話は、夕方から夕食後に、そして眠る前の時間帯へと移った。気分的にほっとする時間を探すうちにそうなったのだ。お互いに生活は規則正しいから、きちんと時間や曜日を決めてゆっくり話すことも可能だった。そうしようかと持ち掛けられたこともあったが、
「いい。気が向いた時に電話して。掛かってくるかどうかどきどきしながら待ってるのも楽しいから」
 と、輝一の方から断った。
 半分は本当、半分は嘘。今でもそう思っている。
 いつ電話があるかわかっていれば、確かに精神的には楽だろう。わくわくしながら待つこともあるだろう。時間が近づけばそわそわして、きっとまた指先がじりじりと痺れたようになるだろう。そんなのも楽しいに違いない。
 でも、もし掛かってこなかったら、と思うと心底怖かった。破られる約束、崩される期待、虚しく過ぎる時間、胸の痛みに眠れない夜――一度でもそんなことがあれば、多分、自分は大泣きするから。
 信じていないわけじゃない。ただ自分に自信がないだけ。相手に寄り掛かるのが嫌なわけじゃない。ただ、どこまで甘えていいのかわからないだけ。
 その代わり、自由な気持ちで待っていられる。お互いに縛ることも縛られることもなく好きでいられる。自分からも時には電話する。どうしても会いたくなったら、きっとこっちから会いに行く。
 …いいよね?
 実際に尋ねてみたことはない。そこまで不安になったこともない。裏切られた記憶もないから、つらいのを差し引いても幸せな想いが残ると思う。
「変なの」
 また、布団の中で呟く。そうすると、瞼の裏には
『何が?』
 と顔を覗き込んでくる姿まで浮かぶようだ。
「もうー、ほんとに莫迦だなぁ」
 さすがに自分でも恥ずかしくなり、毛布を引き上げて頭まで埋もれた。
 さっきまで静かだった隣の部屋で物音がする。母さんがお風呂から上がったんだな、と思う。
 夜の電話は、彼女の入浴のタイミングを見はからったかのように掛かってきて少しおもしろい。どこかで見てるんじゃないかとすら思いたくなる。同時に、こっそりとおやすみコールをしているみたいで秘密めいた動きに新鮮なときめきも感じた。
 それに――
『今度、会おう』
 今夜はいい言葉を聞けた。
 うつぶせて、枕に顔をうずめていく。頬が緩むのを止められない。心臓の動きにつれて体が上下し、どこか甘い痛みを胸に抱いた。
「しばらく天気が良さそうだから外で会おうよ」
 輝一の言葉にすぐに賛成して、場所と日時を提案する。そういうとこ、やけに手際がいいねと言いたくなる。でも、それくらい会いたいって思ってくれてるってことかな、なんて考えてみたりして。
 会ったら思い切り抱きついてやろう。照れて笑う顔にみとれてみよう。そうしたらきっとキスしてくるから、困らせるくらいに応えてやろう。
 困って離れた唇は、絶対に、
『輝一…』
 って呼んでくれるから、答える代わりにもう一度キスを返して照れさせたい。
 だから、早くあしたになりますように。早く約束の日になりますように。今日は願って眠りにつこう。
 長く息を吐いて、寄せてくる眠気に身を任せる。
 温かい布団、柔らかい枕。耳に残る声に安らぎを感じ、笑顔と優しい腕に思いを馳せる。
 自分を包む温かさは、毛布のおかげなのかそれとも電話の相手のせいなのか。ゆっくりゆっくり曖昧になって、さらに輝一を取り込んでいく。その中で、ただ一つはっきりしていることを最後の最後に意識する。
 それを、そっと、ささやいた。
「おやすみ、輝二――」

更新日:2003.07.13


[輝二×輝一〔Stories〕]へ戻る