Pulse D-2

虹を見たかい

 あんまり頻繁に会ってると父さんがいい顔をしない。
 輝二がそう言ったのは、夏の終わりのことだった。
 輝一の家のそばには小さな神社があって、その一帯にだけこんもりと深緑色の葉を繁らせている木々の間に、蝉の声が遠く近く続いている中での言葉だった。
「でも、会おうな」
 そう言ってから横を向き、輝一と目を合わせて微かに笑う。その表情は、静かだが強い決意を感じさせ、いつも以上に彼を大人びて見せていた。
「輝二がそれでいいならね」
 答えた兄に頷いて、高い空へと視線を移す。横顔をしばらく見つめてから輝一も目を上げると、鳥居の上に大きく育つ入道雲が少しまぶしく感じられた。
 その同じ空に、今は薄いいわし雲が広がっている。
 境内の敷石も御手洗(みたらし)の屋根も、もちろん石造りの鳥居も、先程まで降っていた雨にしっとりと濡れていたが、空そのものにはもう雨の名残はなく、ただ、いくぶん暗い色彩の夕暮れが迫ってきているだけだ。
 家まで来ればいいのに、と輝一は言うけれど、部屋に上がると長くなるからと、輝二は言って外で待つ。
「顔を見たかっただけだから」
 会えば、そんなふうに言いながら笑んで目を細める。
「おんなじ顔だって」
 からかうように口にして笑い飛ばす輝一が、本当は嬉しさと照れとを隠していることを、輝二は知っているのだろうか?
 考えながら弟の様子をそっと窺い、一方で、いつもこんな言い方をするなぁと輝一は思う。
 電話をかけてきたかと思うと
「声を聞きたかっただけだから」
 と言い、会いに来たかと思うと
「顔を見たかっただけだから」
 と笑う。そんな調子でついこのあいだは、
「一度、こうしてみたかっただけだから」
 と言って、緩く両腕で輝一を抱き締めた。
 ほんの数秒で離れた腕は、片方だけそのまま静かに挙げられ、
「じゃ、また」
 といつもどおりに別れを告げた輝二と共に、晩秋の夕焼けの中を遠ざかっていったのだった。
『どういうつもりなのかな?』
 今また彼を前にして、何気ない会話をしながらも輝一は輝二の心中に思いを向ける。その様子は見た目にも出たのだろう。輝二が小さく首を傾げて聞いてきた。
「何だ?」
 何でもないと首を振りながら輝一は立ち上がる。正面の鳥居からまっすぐに続く参道を、やや右に寄って歩いてくる老人の姿があった。二人の座っていた場所は参拝の邪魔になるので、移動しようと思ったのだ。
「座れないね」
 兄の言葉に同意し、輝二は社殿をぐるりと回る。小さな木製の建物の四隅にはそれぞれ三人掛け程度の木のベンチが設けられており、自由に座れるようになっている。そのどれもが雨に濡れていたが、風向きの関係だろうか、最後の一角だけ濡れずに残っていた。
 ほっとして座りつつ、輝二は両手に温かい息を吐きかける。それを見てすかさず輝一は言う。
「やっぱり寒いんだ。だから家まで来ればいいって言ってるのに」
「そうだけどな――」
 輝二は途中でそっぽを向く。
 社殿の裏側に当たる場所には小さな稲荷を祀った社と幾本もの大樹があり、その木の上で何事か騒いでいる小鳥たちの高い鳴き声が聞こえていた。
「だけど?」
 しばらく待っても輝二が何も言わないので、輝一は続きを促して顔を覗き込む。それはちょうど鳥たちの飛び立つタイミングと重なり、樹上に目を向けていた輝二は何を言われたのか分からず首を傾げた。
「だけど、何?」
 もう一度輝一は口にする。
 言うつもりなどなかったのか、先を急かされて輝二は少し意外そうに瞬いた。
「家まで行くと」
「長くなるから?」
 輝二の言葉を受け取って、輝一は何度か聞かされた科白を言ってみせる。それから小さく眉根を寄せて、文句たらしく言い募った。
「それは、長い時間俺と一緒にいたくないってこと?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、長くなると父さんにやな顔されるから?」
「まあ、それはあるけど」
「でも会おうって言ったくせに」
「だから会いに来てるだろ」
「せっかく来てるんだから、気の済むまでいたらいいじゃないか!」
「何急に怒ってるんだ?」
「怒ってないよ」
「怒ってるだろ」
「怒ってるんじゃなくて、なんか…なんかさ――」
 何だろう?
 苛立たしく感じている自分を意識して、輝一もどうしたのかと考えてみる。
 電話で話せるのもこうして会うことができるのも、輝一にとってはこの上なく嬉しい。輝二だってそれを望んでいるのは確かだ。そのこともまた嬉しい。
 なのにこの満たされない感じは何なのだろう? じりじりと胸の中が焼けるようなのは何故なのだろう?
 言葉が見つからず、輝一は無言のままにうつむく。すると、横から腕が伸ばされ、先日同様に彼を抱き寄せた。
 途端、
『ああ、わかった』
 と、輝一は思う。
「こうしたかっただけ、なんて言わないでよ。それじゃ俺、わかんないから」
 言いながら更に大きく体を預け、輝一も右腕を輝二の腰へと回していく。厚いジャンパーの上からでも、輝二の骨も筋肉も血の巡る様子も感じられるようで、そう思う自分に少し笑いつつ輝一は目を伏せる。
「俺――」
 頭上に聞こえる弟の声を、決して逃すまいと意識を向けた。輝二からも、懸命に言葉を探している気配がする。そんな二人を妨害するかのように、冷たい風が吹いて木々をざわめかせた。
「輝一と一緒にいられるの、すごく嬉しい」
 辺りが静まると低い声が届く。輝一は目を閉じて続く言葉を待つ。
「でも、この頃思うんだ。一緒にいるだけじゃ物足りないって」
 再び風が吹く。その間に輝二は言うべきことをまとめる。
「なぁ、輝一」
 呼ばれて目を上げると、輝二は一度視線を合わせてから兄の体を起こさせ、正面で彼と向かい合った。
「俺、輝一を好きになってもいいか?」
 意味の掴めない輝一が、目の前で瞬きを繰り返している。
 その様子をしばらく眺め、輝二は苦笑と共に落ちかかる前髪を掻き上げる。
「今でも十分好きだけど、そういうんじゃなくて――」
 そうして顔を近づけ、唇を重ねた。
 風が止まる。
 一瞬で離れ、目を逸らし、輝二はそれをまたすぐに輝一へと向ける。彼の迷いが伝わるそんな仕種に輝一も一度は顔を伏せたが、そこで離れようとした輝二の腕を掴むと、どうするべきかが急に見えた気がしてすっと顔を上げた。
「俺も、輝二を好きになってもいいかな?」
 返事を待たず、今度は彼の方からくちづけた。
 耳元に風が戻ってくる。
 一瞬では、離れない。二人分の想いを確かめるように、輝一は口づけを深くする。輝二は最初だけわずかに戸惑いを感じさせ、それから、応えて兄を抱き寄せた。
 風は冷たいのに、身体の内側から生まれる熱が暑かった夏を思い出させる。
『でも、会おうな』
 そう言った時に既にこうなることは決まっていたのだと、二人揃って密かに思った。
「見て」
 深く息を吐いた後、輝一は輝二の肩越しに空を指さす。振り向く輝二の視界を、二つの虹が彩る。
 葉を落とした大樹の左にくっきりとした主虹。幹を挟んで右側の空に、ずっと淡いけれど同じ形をした副虹。無音のままに並んだ双子の虹の半円を、輝二も黙したままで息を詰めて見守る。
「今だけでもいいよ」
 静かに聞こえた声に、輝二は前へと向き直す。
「永遠だったらもっといいけど」
 それは誰にもわからないことだから、わかっている今だけでも精一杯好きでいようと思う。
 言って清しく笑った輝一に、胸が詰まるのを感じながら輝二も口にした。
「永遠だったらもちろんいいけど…」
 兄の前髪を掻き上げる。
「まずは、今を最高に」
 そうして満足そうに目を細めた。
 暮れる空に虹が消えるまで、手を繋いで空を仰いだ。

更新日:2005.07.16


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