Pulse D-2

サマー・タイム・ブルース

 突然、室内に激しい音が飛び込んできた。
 思考を全てリセットしてしまいそうな響きに驚いて、輝二は机上のノートから目を上げる。道を隔てて建つ家々の屋根を大粒の雨が途切れることなく叩く様子が、机脇の窓からもはっきりと見て取れた。
 ついさっきまで快晴で、外はうだるような暑さだった筈だ。その明るさを頼りに宿題を続けていたのだったが、そういえば随分と手元が暗くなっているようだと今さらながらに気づく。
 そうして、自然に時計へと視線が移る。約束の時刻を五分ほど過ぎたところだった。
「輝一…」
 名を呟きながら、もう一度外を見遣った。
 夏休みの間にお互いの家へ数日間泊まりに行くのは、ここ数年の恒例になっていた。今日は輝一が輝二の家へ来る番だ。週末には町内の夏祭りと川沿いでの花火大会があるから、それにも一緒に行こうと話していた。
『そういうのって、夏、って感じでいいよね』
 輝一は楽しそうに笑いながら言っていた。輝二には、一緒に過ごす夏の記憶の増えていくことが嬉しかった。
 外の様子をもっときちんと見ようと思い、輝二は立ち上がる。それと同じタイミングで携帯電話が鳴った。
『あ、輝二?』
 公衆電話からの兄の声。返す輝二からの声は、雨音に掻き消されて聞こえにくいようだ。何度も聞き返され、輝二も何度も答える。
『コンビニで傘買おうかと思ったんだけど、もう売り切れてて…うわっ』
 言いながらも輝一は雨を気にしている。コンビニの脇にある電話からだと言うから、多分、小さな屋根以外に雨を防ぐものが無いのだろうと輝二は考える。だとすると、こうして話しているあいだにも輝一はずぶ濡れになってしまうのではないか。
 輝二は気が気ではなくなり、手短かに迎えに行く旨を告げて電話を切った。
 携帯を左手にハンカチを前ポケットに。ついでにお菓子でも買ってくるかと、財布を尻ポケットにねじ込む。家に誰も居なくなるので留守番電話をセットし、いつものスニーカーを履いていると、屋内で飼っている犬が寄ってきてつまらなそうに小さくクウンと鳴いた。
「輝一連れてくるから、少し待ってろな」
 言い置いて傘を二本持ち扉を開ける。そこで思いとどまり犬のそばへと戻る。靴下を脱ぎ、少しかっこ悪いかなと思いつつも、輝二はサンダルをつっかけて外へ出た。玄関のドアを開けて見た外界は、濡れても構わない状態で出た方が良さそうだと考えずにはいられないほどの土砂降りになっていた。
 そうして出かけてはみたものの、自分の考えがかなり甘かったことを輝二はすぐに悟る。ほんの三分も行かないうちに、膝から下はすっかり雨に濡れてしまったのだ。
「参ったな…」
 浅瀬でも渡ってきたのかと言いたくなるくらいにズボンは水を吸い、帰って来るまでに足先がふやけるんじゃないかとまで思う。
「何でいきなりこんなかな」
 ため息混じりに口にするが、ぼやきながらも行くしかない。輝一が待っているのだ。
 雨は時折僅かに勢いを弱める。だが、その後に決まってまた盛り返すので、全体としては少しずつ強くなっているように輝二には感じられた。
「夏は嫌いだ」
 その雨の中で思わず呟く。
 蒸し暑いのは苛々するし、カラカラに晴れ渡っているのも結局暑くて渇くのに変わりはない。かといって空調の効いた場所にばかりいたのでは体がだるくなって仕方がないし、第一そういうのは不健康な感じがして好きじゃない。
 だったらプールにでも入っていろと言われそうだし確かにその間は嫌じゃないとも思うが、入る前後の暑さだるさは倍増するような気がしてならない。そして言わせてもらえば、ここで問題にしているのは日常生活の上での気候と体力と精神についてであって、プールに入っていたんじゃ宿題は片付かないし夏祭りにも行けやしない。つまりはそういうことだ。
「冷て…」
 そして雨はといえば大抵この調子で突然激しく降り始める。不便なことこの上ない、と輝二は今度は大きく溜め息を吐いた。
 風は吹き付けるというほどではなかったが、常に緩く吹き続け、傘に当たって細かく砕けた水滴を逃すことなく輝二のTシャツへと運んでくる。
 傘が守ってくれるのは、頭部とせいぜいが肩付近まで。それもやはり帰りにはあやしいものだと思いながら、輝二はほうほうのていでコンビニに滑り込んだ。
「ごめん…」
 すぐに寄ってきた輝一が、本当にすまなそうに口にする。だが、そうしながら彼は小さく首を傾げ、輝二の頭から爪先までざっと視線を走らせて、最後に笑い出しそうに口元を歪めた。
「なんか、輝二の方がよっぽど濡れてるみたい」
「あぁいやまぁ…って誰のせいだよ」
 答えに困りながらも軽く兄を睨み、輝二は額に手を当てる。そして掌で軽く拭ってから、やはり水を吸ってはいるがどうにか用を足してくれそうなハンカチを取り出して、額、首、腕、と拭いていった。
「しばらくやまないかな?」
 自分のハンカチを輝二の髪に当てながら、輝一がぼんやりと尋ねる。
「多分な」
 返した輝二が外を見遣ると、輝一も手を止めて同じ方向へと目を移した。
 大通りとまではいかないが、それでもふだんはそれなりに人通りの多い道に、今は、アスファルトの上で弾ける雨の白さばかりが目立っていた。当然、路面は川となり、緩い傾斜に従って道の両端へと滑り下りている。
「何か買ってくか?」
 雨を見つめたまま輝二が言う。
「あ、そうそう、気になる新製品があるんだ」
 答える兄に軽く声を立てて笑う。
 輝一は極力無駄遣いを避けるタイプなのであまり菓子類を買うことはない。だが、様々な種類の商品が入るコンビニを覗くのは楽しいらしく、学校帰りについ寄ってしまうため、冷やかしが大半の嫌な客なのだと言っていたのを聞いたことがあるのだ。
「これこれ」
 輝一が手に取ったのは、チョコの中にマシュマロが入って、さらにその中に何やら収まっているらしい、見たことがあるような無いような、そしてまたすぐに消えてなくなるのではないかという気がしなくもない菓子だった。
 パッケージの写真を見ながら、なんだか甘そうだな、と輝二は思う。
「でもほら、チョコはビターなんだよ」
「あ、ほんとだ」
 輝二の考えることなどお見通しなのか、輝一が言いながら袋の裏面の商品紹介を指で示す。そして、これでいい?と尋ねるような視線を向けて、輝二が頷くのを待った。
 急ぎ足でやってきたせいで汗ばんでいた体が、店内の涼しさに急に冷えてくる。濡れた髪や衣服がそれを煽るようで、輝二は両肩を上げ下げしながらレジへと向かう。
「これもいい?」
 隣に並んだ輝一がレジ脇のガラスケースへ手を伸ばす。
「あ、俺、コーヒー。青いやつ」
 ホットコーヒーと熱いお茶の缶が、三種類の菓子の並んだレジ台に追加される。会計を待つ間に音楽が変わり夏の定番となっている歌手の歌声が流れ始めたが、冷たい手足とホット缶コーヒーじゃせっかくの曲の雰囲気も台なしだなと輝二は思わずにいられない。
「真夏の海は危険がいっぱい?」
 なのに、歌の内容に合わせてふざけた調子でこんなことを言いながら、輝一が肩に顎を乗せてくる。輝二が小さく笑うと、揺れる肩の上で兄もにやりと笑っていた。
 曲が変わり、そのまた次の曲が終わっても、雨の勢いは衰えない。カラになった缶を外の空缶入れに捨てに行き、輝二はまた少し濡れて店内に戻る。
「まったく、いつまで降ってるんだ」
「でも、少し気持ちいいかも」
「建物の中にいるからだろ」
 何でそうのんきなんだ。
 呆れながら見遣ると、兄は、
「うーん。そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない」
 と、外を見たまま首を傾げる。
「何だよ、それ」
 苦笑気味の輝二に、何だろう、と小さく口にして輝一は曖昧に笑う。
 こういう論理的でも合理的でもない実にぼんやりとした感覚的なことを、輝一は時折言ってみせて輝二を混乱させる。以前はそれがとても気になって、不安にも似た思いを抱いたのだったと輝二はちらりと思い出す。
 けれど、いつからかそれも、彼とだからこその独特のやりとりとして輝二の中に定着し、不思議に思うのと同時に輝一と一緒にいるのだという実感を湧かせるようになっていた。
 兄から雨へと視線を移す。逆に、兄がちらりと自分に目を向けたのを輝二は感じたが、彼が何も言ってこないので無視する。
 店内の曲が終わり、宣伝用の店内放送に切り替わる。新しいアイスがどうの夏の新メニューがこうのと言っているのを何となく聞いているうちに、雨の勢いがすっと失せ、にわかに空が明るくなった。
「行くか」
「うん」
 自動ドアを抜けながら傘を開く。
 細い脇道に人影はなく、二人は並んで雨の中を行く。日は射したりささなかったり、風も吹いたり吹かなかったり。何だか落ち着かないなと思う輝二とは対照的に、輝一のほうは無言ながら楽しげな雰囲気を醸し出している。
「…何?」
 思わず輝二は不思議そうに見てしまい、兄に尋ねられた。
「いや…何か楽しそうだなと思って」
 答える輝二に、輝一はにこりと笑う。
「だって、綺麗じゃない? 嬉しいよ、俺は」
 …何がだろう?
 輝二には、輝一の言葉の意味が全くわからなかった。
「綺麗って…?」
 眉根を寄せながら聞いてみる。
「んー…たとえばさぁ――」
 言いながら輝一が立ち止まった。右手で指差す先にあるのは、消化器の入っている道端の赤いボックスだった。
「これ、綺麗じゃない?」
「――はぁ?」
 ぜんっぜんわからない。
 そんなものは輝二にとってはただの汚れた金属製の箱でしかない。しかも濡れて、みすぼらしく、どちらかというと哀れっぽい。これのどこを見て綺麗だというのか、理解できる者など輝一以外に存在するのだろうかとまで思う。
 だが、そんな輝二の反応は予想通りだったのだろう。輝一は気にした様子もなく、小さく笑って数歩進んだ。
「こういうのとか」
 次に指し示したのは、古いアパートの木の表札。建物の壁に斜めにかかったまま、雨のために濃い土色へと変わっている。彫り込まれたアパート名は摩耗してすっかり見えにくくなり、外れ掛けても誰にも直してもらえず何年もこのままになっている筈のものだ。
「あのさ…俺にもわかるように説明してくれるか?」
 しぶしぶ言って並び立つ。今度は輝一も、少し困った顔をした。
 口をつぐんで佇む二人を、ふいの突風が吹き抜ける。アパートの敷地に植えられた木から、雫が落ちて傘を叩く。
「前に来た時はさ、すごくいい天気だったんだ」
 風がやみ、輝一が話し始める。輝二はじっと耳をすまし、ああ、こういう話し方も輝一っぽくて好きだな、と思う。
「空がまっさおで、屋根とか葉っぱとかきらきら光ってて。すごく濃い影ができててさ」
 足元を見遣る輝一につられて、輝二も視線を落とした。アスファルトの上に残った水に、さらにいくつもの雨粒が丸い模様を描き続けていた。
「でも、今日は違う。空は灰色だし、屋根や木の葉を照らす日の光もない。何もかもびしょ濡れで、冷たくなって、重たそうでくたびれた感じ」
 輝一は言って顔を上げ、弟を見遣った。
「輝二は、そう思うだろ?」
 言われて輝二は深く頷く。それに、軽く笑んでみせてから、兄はキッと雨の空を見上げて言った。
「俺は、そうは思わない」
 雨粒を受ける輝一の頬を、輝二は黙って見つめている。
「違う色、違う輝き、違う姿。日により、天気により、時間により、気分により、全然違うものが見えてくる。何一つ、絶対に変わらないものなんてなくて、なんでこんなに違うんだろうって不思議になるくらい、いろんな姿を見せてくれるんだ。それを俺は、すごいな、って、思うんだ」
 輝一は、雨を見続けている。
 輝二は、言われたことをくり返し考える。
 そして、わかった、と思った。
 雨の日ばかりの話ではない。晴れの日にはその眩しいほどの陽光のもとでの色や輝きを、曇りの日には少し翳ったやわらかな光の中でのたたずまいを、雪の日にはちらつく雪片の潔い白さとの対比の中で見えてくる姿を、輝一は静かに見つめて美しいと思うのだろう。
 今までの輝二になら考えもつかないことだったが、輝一が相手なら、納得できると思えることだった。
 兄から空へと目を向けて、輝二は大きく息を吸う。雨の匂いが胸に満ちて、身体中の水分がすっかり入れ替わったような気がする。夏の雨に、心も体も順応していくような感じがする。
『輝一といると、ものの感じ方まで変わるみたいだ』
 そっと思って息を吐いた。
 再び空が暗くなる。雨脚が急に速くなる。木の枝から大粒の雫が落ちて輝一を驚かせ、同時に、強烈な突風が吹きつけて彼の手から傘を奪う。
「わっ」
 一気に十メートル近く飛ばされた傘を、二人は一緒に目で追う。アパートの壁にぶつかり、赤茶色の屋根を越えて、傘は視界から消えて行く。
 目をぱちくりさせる輝一。その傍らで輝二は、彼に自分の傘を差し掛けようとして、ふっと動きを止めた。
「あ…」
 傘の骨が、一本、折れていた。
 苦笑しながら、どうせ差しててもあんまり意味無いし、と、きっちり閉じて右肩に乗せる。
 二人揃って雨の中。傘も差さずに雨の中。
 やがて、輝一が、高く声を上げて笑った。
「いいね、こういうのも」
 右手で髪を掻き上げながら輝一が言う。
「夏っぽくて、すごくいいね」
 笑う彼に抱きついて、輝二はその頬に小さくキスを落とす。雨に流されてしまいそうなキスに、それでも輝一はさらに笑い、お返しとばかりに輝二の頬に口づける。
 そうしてから、照れて片手で顔を覆った。
 きっと、春には春の秋には秋の冬には冬の『~っぽさ』があるのだろう。輝一の感じるその様々を、自分も共に感じていけたらいいと輝二は深く思う。
 留まることなく通り過ぎていく優しい時の中で、また一つ、新しい夏の記憶が輝二の中に鮮やかに描き込まれた。

更新日:2004.08.14


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