にぶんのいち
飾り気のないマンションの、小さな呼び鈴を軽く押す。よくあるタイプのチャイムが室内に響いているのが外にいる輝一にも聞こえてきたが、応えるべき人はいないのか、いつまで待っても反応がない。
もう一度押して、今度は扉に耳をつける。チャイムの音は、廊下に消える。ドアについている郵便受けに屈んで目の位置を合わせると、指で押し上げて眉根を寄せて無理矢理中を覗き見た。
「あれえ?」
やっぱり誰も出てくる様子がないのに首を傾げ、肩に下げたバッグから、輝一は小さな鍵を取り出した。ガチャリ、と、やはりお決まりの音がして扉のロックが外れた。
「こんにちはー」
一応声を掛けてみる。何度も出入りし合鍵まで持っているとはいえ、やはり他人の家なのだ。そうして玄関に置かれた靴を見ると、再び「あれえ?」と声に出し、少し迷ってから靴を脱いだ。そこにはちゃんと輝二のものの筈の靴が並んでいた。
「輝二ぃ? いないのぉ?」
短い廊下を突っ切って、輝一は弟の部屋を目指す。先週から約束していたのにどうして出迎えてくれないんだと、少しばかりふくれっ面になる。
そうしてノックもなしに部屋のドアを開けると、室内をぐるりと見回して驚きの声を上げた。
「うそっ。何こんな時間から寝てんの」
まだ午後も早い時刻だ。教育委員会だか何だかの会合だとかで、今日は学校が早く終わったのだ。
だから、せっかくだから一緒に遊びに行こうと強引に誘って迎えに来ることまで承諾させたというのに、来てみれば相手は布団の中でぐっすりだ。本当に自分は輝二にとって軽い存在なんだなぁと、さすがの輝一も思わずにはいられない。
「おーい」
呼び掛けながら、顔を覗き込む。そして、おや? と動きを止めた。
なんとなく辛そうな赤い顔。少しはやい呼吸。
前髪を掻き上げて額に手を当てると、明らかに体温の高いことが輝一にもわかった。
「えっとー…氷枕?」
とりあえず冷凍室を覗くと、市販のものが凍っていた。
「…タオル?」
勝手知ったる他人の家という感じで、輝一はタオルを取りに行く。何となく二、三枚持って部屋に戻ると、輝二は寝返りを打ってこちら側に顔を向けていた。
「何か…緊張するなぁ…」
ははは、と誰にともなく笑ってみせて、輝一は寝ている輝二の頭の下へ、タオルを巻いた枕を滑り込ませる。
こういう時、頭って重い。
そんなことを考えながら、同時に、こんな風に輝二の面倒をみたことなんて今まで無かったということに気づいた。
寝込んだことぐらいあるのになぁ…
しばらく首を傾げ、それからその理由に思い当たって輝一は苦笑した。
『熱を出す時は、いつも一緒だったんだ』
同じように行動しているせいなのか、風邪を引いたり熱を出したり、そんなことはいつも二人同時だった。辛そうな子供二人をおいて普通に会社に行くわけにもいかず、そのたびに仕事の調整に追われていた母親を輝一はぼんやりと覚えていた。
そういうのにも疲れちゃったのかなぁ。
母親と二人きりになって、輝一には少しだけ親というものへの気遣いが生まれた。それまではいつでも輝二といたから、他のものがろくに見えていなかったのかもしれない、とも思う。気をつけて見ようともしなかったし、見る必要性も感じていなかったのかもしれない。そこから考えると、少しは成長したのかなと、自分でも考えてみたりする。
ただ、それでも時折思ってしまうのだ。自分たちは、両親にとってより都合よくなるように、捨てられてそして拾われたんじゃないか、と。
「俺ってやな奴かなぁ」
呟くと、どうでもいいと言いたげに、輝二が大きく布団を剥いで背中を向ける。
「…冷たいなぁ」
口をとがらせつつ輝一は布団を掛け直す。腕の下になった掛布団を引き出すと、輝二が大きく息をついた。
熱を測るのは――輝二が起きなきゃ出来ないかな。体の汗は拭くのかな――拭くんだよね。これも起きなきゃ出来ないか。でもパジャマが汗を吸ってくれるのかな? あ、そうか、着替えのパジャマ、用意しとこう。
何をしたらいいのか少し考えてから、輝一は輝二の衣装ケースを漁り出した。知らない服の多い中に、見慣れた古いパジャマを見つける。
もう小さいんだよね、これ。
そう思いながら手に取る。
同じ柄の色違いのパジャマ。まだ両親が離婚する前、輝一と輝二が揃って気に入って着ていたものだ。もうとっくにきつくなって着られなくなってしまっていたが、どうにも手放し難くて、輝一は母親のいない時にこっそり洗ってタンスの奥にしまっていた。
今ここにある輝二のパジャマも同じ状況なのだろうか。思うと何だか笑えて、輝一はそれをぎゅっと胸に抱き込んだ。
「…じゃなくって」
それでもすぐに、何をやってるんだと我に返る。
結局夏物しか見つからず、そのズボンとなるべく柔らかそうな長袖のTシャツを引っ張り出して、輝一はベッド脇に戻った。
風邪かなぁ? こういう時はお粥作るのかな? 給食はあったんだよね。ちゃんと食べたのかなぁ?
ばさばさと枕の上に散っている輝二の長い髪を見つめながら、輝一は一人で考え込む。
家にいれば普通にご飯を炊くことはあるけれど、自分でお粥を作ったことはなかった筈だ。それくらい輝一だって作れるとは思う。だがこの家で料理をしたことはまだ一度もないので、その点で少し気が引けた。
そこで、だったら何か別のものを用意しようか、と考える。
うーん…あ、桃の缶詰? でも輝二あんまり食べないんだよね、缶詰だと。普段は何でも食べるくせに、こういう時だけは好き嫌いはっきり言うんだよね。
頬と目元を赤くしたまま、わがままらしく拗ねる輝二の顔を、つい今しがたのことのように思い出して輝一は微笑む。輝二のそんな様子は見たことがなかったので、少し驚いて少し得したような気になったのを覚えている。
…そっか、甘えてたのか。
それはとても明確なことだった。
両親はもちろん、双子の兄の自分にさえ、輝二は甘えるということを殆どしなかった。いつだって仲はいいし、お互いに助け合ったりもする。けれど彼は自分自身のことは可能な限り自分で解決しようとするし、あからさまに世話を焼かれることも嫌う。小さいが絶対的な彼だけの世界があって、そこには決して踏み込めない。それは煩わしくない反面で、物足りなさも輝一に感じさせた。
周りの人は皆、自分たち二人を似ていると言っていたけれど、輝一から見れば外見はともかく中身はまるっきり別の人間だった。いちばん近く、いちばん長く一緒にいる他人――それが輝二だった。
その彼に、新しい母親ができたのは三ヶ月ほど前のことだ。たぶん、お互いが反対の親に引き取られ自分の方が父親と共に暮らしていたなら、自分は彼の再婚などには猛反対しただろうと思う。どこまで勝手な人なんだと、怒って大喧嘩をしたに違いない。
だが輝二は違う。全てを静かに受け止めて、何でもないことのようにやり過ごす。そのくせ柔軟に融け合おうなどとは絶対にしない。
そこに小さくはない諦めを見て、輝一はやるせない気持ちになるのだ。
そんな、忘れようとしていた想いまで甦らせてしまい、輝一は苦笑交じりに頭を掻いた。
どうせ夜にはお継母さんが帰ってくるんだし、それまで傍についていればいいのかな。
自分のすべきことはそうそう無いのだと、輝一は思ってベッドの短い手すりにもたれた。
自分が下に、輝二が上に寝ていた木製の二段ベッド。引っ越す時に二つに分けてしまったものだ。
「でも本当はそういうのって良くないんだって。一つのものとして生まれてきたものは、ちゃんとその姿で使ってあげるべきなんだってさ」
小さく声にして言ってみる。
輝二からはもちろん、何の反応もない。
二つに分かれた手すりの間から、布団の端に輝一は肘をつく。以前はこの格好をするのは輝二だったのにと、思うそばから悲しくなる。
「ね、輝二。俺たちはどうなのかな?」
ベッドと同じく二手に分かれて、それで自分たちは幸せなんだろうか?
もともと二人の人間だから、別個に生きるのが当然なんだろうか?
「それって、寂しくない?」
そう思うのは自分だけかな。
頬杖をついて首を傾げる。
わかってる。頼っていたのは自分の方。輝二がいるから一人きりじゃないと、その存在に縋っていたのは自分なんだ。だから今になって焦ってしまう。離れてしまうことに不安がつのる。
自分の踏み込めない世界が大きくなっていく。自分の侵入を阻む壁が高く厚くなっていく。輝二の気持ちが遠くなるようで、必死に追いすがって腕を伸ばす。それでも、思ってしまうのだ。
いつか俺の手の届かない世界へ一人で行っちゃうんじゃないのかな。
「何…泣いてんだ…?」
掠れた声に目を上げる。ゆっくりと体の向きを変える輝二が、不思議そうに兄を見上げていた。
「泣い――」
――てるかな?
泣いてないと言いかけて、輝一は自分で涙をぬぐう。手の甲で両目を覆ってから、手のひらで瞼と両頬をごしごしこする。
けれど涙は止まるどころかますます溢れて零れ落ちる。
こうなるともう輝一にも何がなんだかわからなくなって、何倍にもなった不安と悲しみとに突き上げられたかのように声が上がった。
「ん、わあぁぁぁん、う、っんわあぁぁぁっん」
すっかり目を見開いて体を起こしかける輝二の、その腹の辺りに輝一は突っ伏す。声はくぐもり涙は布団に吸い込まれるが、短く続く嗚咽に合わせて輝一の癖のある髪と柔らかそうな背中が揺れる。
見守る輝二は片肘をついた姿勢のまま。
「俺は泣かないから、安心しろよ」
そうして告げられる言葉は、一瞬の間を置いて、輝一にも静かな笑みを浮かべさせた。
更新日:2002.09.27
アイタタタ…。こんな筈ではなかったのに、こんな話になってしまった。お兄ちゃん、大泣きです。うっわ~、ごめん(^_^;)。
まだ「弟のためなら何でもひょいひょいとこなしちゃうお兄ちゃん」ではないので、弟の看病にもおたおたしがちです。わたし的にはそういうのもありかな、と(笑)。
ちょっと尻切れっぽいですが、これはここでおしまい。最後の言葉の意味は、次の作品「にぶんのに」にて。