にぶんのに
びっくりした。
声をあげて泣く輝一なんて、いつ以来だろう?
考えながら輝二は、自分の腹の上で泣き続ける兄の姿を静かに眺め続けた。
別に輝一が泣くこと自体は珍しいことじゃない。大体において輝二よりも輝一の方が喜怒哀楽が激しく、冗談や泣きまねも含めてべそをかくことは多いのだ。
だが、本気で声をあげてとなると話は別だ。そんな泣き方はめったにしない。
だから輝二は、一瞬、夢かと思った。
昼前からなんとなくだるくて、給食も半分しか食べずに帰って来た。兄との約束も気になってはいたが、自室に入った時にはもう遊びに行くどころではないという確信があったので、輝二は躊躇せずに着替えて寝入った。
どうせ輝一は勝手に来て、勝手に上がって、勝手に自分の顔を覗き込むに違いないのだ。鍵も持ってるんだし、いいか。
そんなことを思っていた相手が、気がついたらすぐそこでぽろぽろと涙をこぼしていたのだ。輝二だって混乱して当然だろう。
まだ頭がすっきりしないまま、小さく声を掛けてみる。自分を見下ろしてくる兄は泣いていることには気づいていなかったのか、あれ? という表情を浮かべた後に思い切り涙を拭い、そして、大声で泣き始めた。
その様子を見て輝二の頭に浮かんだのは、幼稚園に上がるか上がらないかくらいの頃のことだ。輝二が階段から落ちて怪我をした時だったと思う。
怪我自体は大したことはなかったのだが、強く頭を打ったために輝二は精密検査を受けた。本人は、落ちたいきさつや検査のことはあまりよく覚えていなかったけれど、落ちた直後の訳がわからなくてぐるぐる回っているような頭の中にただひとつ明確に伝わってきた輝一の泣き声と、検査を終えて病院で再会した時のぐしゃぐしゃの泣き顔は、とてつもなく印象深く輝二の中に残った。
『いっちゃん、いたくない、いたくない』
横で泣き続ける兄の頭を、輝二はそう言ってなでていた。自分の方こそ体のあちこちにガーゼが貼り付けられていたが、兄の涙に比べたら傷の痛みなど気にもならなかった。
人前ではお兄ちゃん、二人きりの時にはいっちゃん。その頃の輝二は、兄をそう呼んでいた。兄さん、輝一、お前、などと呼ぶようになるのは、小学校も学年が上がってからだ。
どちらかが泣いていればもう一人も泣きたくなる。そんなのは兄弟に限らず、小さな子供にはよくあることだ。だが、輝二たちの母親は、決してそれをさせなかった。
『今泣いてるのはお兄ちゃんでしょう。輝二まで泣くことないのよ』
そうしてさっと輝二の涙を拭いてから、続けて言うのだ。
『二人で一緒に泣いちゃ駄目。
一人が泣いたら、もう一人はなぐさめてあげて。
一人が困ってたら、もう一人は助けてあげて。
一人が下を向いちゃったら、もう一人はちゃんと周りを見てなくちゃ』
それは難しい要求だった。深い意味もわからなかった。ただ、同時に泣いてはいけないのだと、それだけはよく理解できた。
輝二が泣けば、同じ言葉が輝一にも語られた。けれど、輝一の涙の出る方が輝二のよりも早かったため、自然と、輝二が涙をこらえる回数が多くなった。そうして弟は、余計に泣かない子になった。
逆じゃないのか、ふつう…
そう思わないこともなかったが、本人に言ったことはなかったし、そこまで気にしたこともなかった。
いいのだ。それは別に、構わない。
「俺は泣かないから、安心しろよ」
輝二はゆっくりと言う。
聞こえていた嗚咽が途切れ、輝一が僅かに顔を上げる。微かに口元が笑み、それから、輝二と視線を合わせてもう少しだけわかりやすく笑顔を作った。
大きく一つ息をつき、輝二は完全に仰向けに寝直す。驚きがおさまってくるにつれて、体じゅうをぼんやり包む熱と頭の下の枕の冷たさが感じられてきた。
そして、お腹の上には相変わらず兄の重さ。
ぺたりと布団に頬をつけ、呼吸を整えようとしている彼は、横向いた顔をまっすぐに輝二へと向けている。いつでもそうやって彼が自分を見るから、じゃあ自分は別のものを見ようと輝二は視線を逸らす。じつはそれこそが兄の不安をかきたてるのだとは知りもせずに。
「輝二…」
小さく呼ぶ声に目を向ける。だがその目線の動きにも眩暈を感じて、輝二は答える代わりに瞼を閉じる。暗くなってなお世界の回転する感覚に、また遠くで輝一の声が聞こえたように思った。
自分が一回呼ぶうちに、兄は三回くらい自分のことを呼んでいるんじゃないだろうか。いや、もっとかな。
そんなことを、輝二は今までにも何度か思ったことがあった。
そしてそう思うたび、輝一がどれだけ自分を気にかけてくれているのかがわかって、自分も彼の力となれるようになりたいと小さく願って胸の痛みに耐えるのだ。
その、兄の為の我慢は、いつから諦めに変わったのか。
はっきりとはわからなかったが、母と輝一が自分の元から去って行った時に、決定的になったのは確かなようだった。
本当のところ、両親がどう考えて離婚したのかはわからない。けれど、お互いにつらい部分がたくさんあったのだろう。別れるしかないと思い知らされたのはほかでも無い彼らなのだ。
離婚のことを初めて聞いた時、離れるのはいやだと怒った自分たちに対して何度も頭を下げて謝り通した両親を、輝二は忘れることができない。多分それは、輝一も同じだろうと思う。
それでも、そんな風に理解しようとして文句の一つも言わないのは、物分かりが良すぎるだろうか、と時折考えてしまう。そして同時に、もっと悲しい考えも浮かんでしまうのだ。
『母さんは、俺じゃなくて輝一を選んだのかな』
他人の気持ちをよく察し、教師受けも友人受けもいい兄を。
自分のように、嫌なことには目をつぶり、そこから離れて過ごそうとするのではなく、しっかりと見つめてはっきり意見を言い、問題をなくす形で解決していく輝一を。
ふぅっと、輝二の口からため息のような息が洩れる。
自分でもそれに気づき、輝二は嫌な思いを打ち消すように、薄く目を開いて輝一を見た。
「ごめんな。遊びに行けなくて」
「いいよ。俺は輝二と一緒にいたいだけだもん」
低く言うと、輝一は答えてにこりと笑う。それは事実なのだろうと、輝二にも感覚的にわかる。わかるから余計に、申し訳ないような気持ちになった。
側にいる時間が少なくなった分、その時間は大切にしなければと思うのに、自分はいつもどこか素っ気なくしてしまう。こうやって会うこともできるけれど、やっぱりどこか気がねする。お継母さんにとっては嬉しくないかな、とも思ってしまう。
本当はもっと、輝一の嬉しそうな顔を見ていたいのに…
「いっちゃん」
軽く右手を上げると、すぐに輝一の頭に行き当たる。髪を梳くように指を滑らせ、輝二は小さく兄を呼んだ。
「なつかしー」
輝二の見たかったものそのものの笑みが輝一の顔に浮かぶ。まだ赤味を残す両目が、それでも幸せそうに細められ、そこだけさっと空気が変わったように輝二に感じさせた。
だがその直後、輝一は何かを考えるようちらりと目を逸らす。そして、目の中の笑いはそのままに、口元を少しだけとがらせて言った。
「輝二さぁ、俺のこと、泣き虫だと思ってるだろ?」
横向きに見据えてくるのは、こんなときは何だか少し表情を読みにくい。何を言う気なのかと輝二は黙って見つめ返したが、彼の答えを待たずに輝一は付け足した。
「言っとくけど、輝二といる時だけだからな、泣いたりすんの」
それはどういうことなのだろう。それじゃあまるで、自分が兄を泣かせているみたいじゃないか。
「ふうん…」
理不尽な思いのまま、輝二は小さく呟く。どう反応すべきなのかいまひとつピンとこないのは、もしかしたら熱が上がってきているせいかもしれない。
それでも何か言い返そうと、輝二はゆっくりと口を開いた。
「俺も、輝一だけだ。こんな…頭なでたりすんの」
すると輝一がまた楽しそうに笑ったので、何か言うこと間違ったかな、と思いつつ、ばつが悪そうに目を閉じた。
「寝るよ、俺」
うん、と輝一が頷いて、ようやく輝二の上から頭を上げる。
「お継母さん帰ってくるまで、ここにいてもいい?」
「ん」
短く答えて深く息を吐く。
久しぶりに輝一のそばで寝るな。
そんなことを頭の隅で考えて、輝二は不思議なくらい静かな気持ちと共に眠りに落ちていった。
更新日:2002.10.03
うう~ん、ちょっと消化不良よ~(T_T)。弟からの兄への愛をもうちょっとしっかり出したかったのですが、イマイチ?
源・木村家の事情がまだ全然分からないので、どう書こうかなぁと悩んでみたり。
いろいろ書こうと思っていた要素も抜かしてしまいました。すいません。省いたものはこれから小出しにしていきたいと思います。
まあ、ま~だまだこれからですから!(笑/何が?)