Pulse D-2

暮れる日と、輝く月と

 元の場所に戻ってみると、そこにある筈の姿はきれいさっぱり消えていた。
 通りがかる人も殆どない草地の中の細い道を、輝二は更に二、三歩進み、それから顎を上げ気味にして辺りの音に耳を澄ます。
「ヴォルフモン、ヴォルフモン、おいで~」
 足元の柔らかな緑と長い輝二の髪を揺らしつつ過ぎる風の音に混じって、おどけた兄の声が聞こえてきた。
 丘と呼ぶには小さすぎ、草原と呼ぶには起伏のありすぎる大地の、一つの斜面を下り別の斜面を登る。確かに自分が出発した場所と山一つ分違うことは、目印として植えられている木の位置から分かっていた。
 登り切った輝二の目に映ったのは、これまでよりかなり緩やかな下り斜面。そこを勢いよく駆け下りていく大きな犬と、ぺたりと腰を下ろした兄の後姿。
「ヴォルフモ~ン」
「その呼び方はやめろ」
 コツンと軽く、手にした缶の端で水色の帽子を小突く。
「おかえり~」
 輝一が、ジュースの缶を受け取りながら輝二を見上げてきた。口元に大きな笑みが浮かぶ。
「だって、おかしいよ輝二。何で犬の名前がエッグマフィンなのさ」
「…いいだろ別に」
 横に立ったまま低く答え、輝二は自分の缶のプルタブを引く。シュワッと小さく炭酸の音。渇いた喉に、その微炭酸が気持ち良く弾けた。
「兄さん」
 一気に半分を飲み干し、輝二は短く兄を呼ぶ。そうして、缶をくわえたまま再び顔を上げてきた輝一を向きながら、さっと辺りの草地に視線を走らせる。
「犬のフンとかあるぞ」
「わっ、うそっ」
 輝一は焦って尻や靴の底を確かめる。それを見ながら、
『たまにだけどな』
 と輝二は内心呟き、缶を空けた。
 上向いた拍子に視界に入る空行く雲は黄金色。
 その細く薄く流れて行く雲の上、天はまだ優しげな空色を残していたが、全体を取り巻く光の色が朱を帯びてくるのは時間の問題だ。
 うかうかしてたら暗くなっちまう。
 思うが早いか、輝一の脇に置いてあったビニール製のバッグを取り上げた。かちゃ、と小さく音がする。袋の中で硬い物のぶつかり合う感じがあった。中からは大きなブラシが出てきた。
 ブラシを手に、バッグを下ろし、緑の原を見はるかす。白っぽい犬は傾斜の無くなった辺りで何か別の生き物でも見つけたのか、小さく跳ねたり前足を差し出したりしながら滑稽な暇つぶしをしていた。
 輝二の立つ位置が最後の山の頂上だった。そこからはしばらく平地が続き、そのまま広葉樹の立ち並ぶ場所へと繋がっていく。どんな僻地へ来てしまったのかと思いがちだがこれでも広い公園内の一角だ。
「エマ、来い!」
 輝二が短く叫ぶ。
 ぱっと反応した犬は、くるりと向きを変えて勢いよく坂を駆け上がってくる。そのいかにも楽しそうな様子が輝二にも嬉しくて、ふっと口元に笑みを浮かべて彼は待つ。輝一は無言のまま弟を見上げていた。
 エッグマフィンは、二年ほど前に輝二が拾ってきた犬だ。そんな捨て犬など拾ってこなくても犬を飼いたいのならもっといい犬を買ってやる、と両親は言ってくれたが、輝二は頑として譲らなかった。そういうことを言いたいのではなかったのだ。
 結局、両親が折れ、ぬいぐるみのような仔犬は源家の一員になった。強制されるまでもなく、世話は全て輝二がした。
 その最初の日、犬を抱えた腕にたまたま一緒に持っていたのが、某ファーストフード店の卵のマフィンだったのだ。
 輝二の犬なので親たちは彼のネーミングに文句を付けることはしなかったが、さすがにそのままの名前で呼ぶのは不憫だと思ったのか(それとも自分たちが恥ずかしかったのか…)、対外的にはこの大型犬の名は『エマ』ということになっていた。
「エッグマフィン!」
 けれど近くに来ると輝二はすかさずそう呼んで、たくましい犬に抱きつく。後ろ脚で立ち上がれば輝二の肩にも軽々届く犬だ。伸し掛かられて顔をなめられ、輝二はくすぐったそうに笑いながら草の上に倒れ込む。
「あーっ、エマ、ずるいー」
 嘘のように無防備な弟とそうさせている犬とに少なからず驚き、同時に軽い嫉妬をも感じて輝一はエマの首に腕を回す。そうすると今度は、彼を長い舌が襲った。
「うわっ、ははっ…」
 こちらも思わず破顔して、輝一が緩くエマを撫でる。その間に、輝二は犬の下から這い出し、ぽん、と軽くエマの頭に手を置いた。
 ピタリと犬が静止する。ふざけるのをやめ、四肢をしっかりと伸ばした状態でまっすぐ前を向く。これから輝二が何をするのかエマは分かっているのだ。
「よし、いい子だエッグマフィン」
 輝二はゆっくりと、エマのブラッシングを始めた。
 エマの毛はさほど長くはないが、硬くて軽くウェーブがかかっている。そのくるりとした被毛を輝二は気に入っていた。子供のころは本当にもこもこの犬だったが、成長するにつれ毛は粗く硬質になり、がっしりとした骨格としっかりした筋肉が感じられるようになった。あまり吠えず、かといって決して人懐っこい犬でもなかったが、自分のテリトリーと主人とを率先して守ろうとする。少し、輝二自身にも似ているかもしれない。
 抜けた毛をゴミ袋に収めながら、輝二は黙々と作業を続ける。猫っかわいがりしない(犬に対して言うのも何だが…)ところが輝二らしいなと、横で見ながら輝一は思う。
 やがて全身のブラッシングを終えると、獣毛ブラシを目の粗いくしに持ち替えて、垂れた大きな三角形の耳と長いふさふさの尾、突っ張ったままの四本の足の毛を、輝二はやさしく丁寧に梳いていく。その表情があまりにも真剣なので、輝一まで息を詰めてしまう。
「本当にお前はいい犬だ」
 そして、そう言って輝二がエマの首を撫で頭に頬を寄せた時にようやく緊張が解け、輝一は大きく深呼吸した。
 ブラシをしまい、代わりに輝二はご褒美の品をバッグから取り出す。
「骨?」
「…の形のトリート」
 答えながらエマに差し出す。トリートって何? と、輝一は聞き損う。その彼らの目の前で、それにかぶりつく姿は幼い子供のよう。犬は表情がわかりやすくて面白い、と二人同時に思う。
 伏せたエマの姿勢に合わせるように、輝二もごろりと横になる。頭の下で手を組み仰向けに寝転ぶ姿を見て、『犬のフンは?』と輝一はしばし考える。
 もしかして、俺、だまされた?
 ようやく気づいて内心低く唸り、何となく帽子をかぶり直した。
「輝二さぁ、いつもここに来てんの?」
「エマを連れてきたのは初めてだ。俺は何度も来てるけど」
 尋ねると、輝二は答えてエマに手を伸ばす。長い背筋を静かに辿る。
 どういう意味かな、と弟の言葉に輝一は首を傾げる。
「一人でここまでエマを連れてくるのは無理だ」
「何で?」
 輝一がもう一度質問した時、エマがガムをくわえて立ち上がった。
「遊んできていいぞ」
 輝二はそう言ったが、犬はゆっくりと輝二の頭上を回り込み、そのまま何事もなかったかのように反対側に伏せた。それは話をする二人に気を遣って移動したようにも見え、輝一にも輝二にも微笑を浮かべさせた。
「ありがと、エッグマフィン」
 にっこりと笑って言い、輝一は輝二へと寄ってくる。輝二とは反対に、俯せて左腕で頬杖をつく輝一は、夕焼けに染まり始めた景色の中で妙に幸せそうだ。
「エマは輝二のこと大好きなんだね」
「そりゃあ、俺が面倒みてきたんだし…」
 そこで輝二は言葉を切り、兄から空へと視線を移した。
 エマを拾ってきた時、どうしてあんなに自分はムキになったのだろうと、今になってみると結構不思議だ。やっぱり寂しかったのだろうか、と思ってみたりもする。
 友達はいらない、親の愛もいらない、兄弟はいない。そう思って生きていた自分は、きっとそれでも拠り所を求めていたのだろう。その行き着く先がペットか、と馬鹿にする奴もいるかもしれないが、大きな世話だ。
 結果としてエッグマフィンも自分も幸せで、ついでに輝一ともこうやって時間を過ごすことができる。何の不満がある?
「きれいな夕焼けだね」
 輝一が笑顔のまま口にする。
「うん」
 考えごとをする間にも、空はその色を濃くしていく。答える輝二にも、夕日の色が映り込む。
 散歩する犬の多い時刻。けれど、お決まりの散歩コースよりも奥まっているので、目に入る範囲には犬の姿は一つもない。
 それもその筈。輝二は何度もここへ足を運び、ここへ来る時刻と所要時間、ここまでの道筋と交通量、出会う犬の量とそれをできる限り避けるための手段を、調べ、考えてきたのだ。
 どうしても運動不足になるエマを十分に遊ばせてやるためには、これくらいの場所へ来なければいけないと、輝二なりに考えた結果だった。そして、こうして輝一と会えるようになったからこそ可能になったことだった。
 ざぁっと風が吹き抜ける。帽子を押さえる輝一の動きに、輝二もちらりと目を向ける。
「暗くなってきたな」
「帰ろっか」
「――そうだな」
 ほんの少し、輝二が返事に躊躇する。
「あっ、今、もうちょっと居たいって思っただろ」
 やったー、うっれしー、と輝一は一人で大喜びしている。
「何にも言ってないだろっ」
 答えを聞きもしないで喜ぶな。
 まったくもう、と呆れながら輝二は立ち上がる。そうして輝一の向こう側に置かれていたハーネス(胴輪)と二本のリードを取り上げると、エマも立って頭を上げた。
 輝二は頭と胴にハーネスを通し、固定用の金具をカチリと合わせる。背中の金輪に二本の引き綱を取り付け、一本を輝一に渡す。両脇に立った二人を、エマが交互に見上げる。
「また付き合ってくれな」
「それはエマのため?」
 即座に聞き返す輝一に、輝二はそっぽを向き先に一歩を踏み出す。エマがそれに合わせ、仕方なく輝一も続く。これで何回輝二に質問を無視されただろうと考える。
 だが、しばらく行くうちに、低く静かに答えが返った。
「口実だろ。一緒にいるための」
 勿論、エマのためでもあるけど。
 黙り込んだ輝二の横顔を、輝一は何も言えずに見つめ続ける。胸に小さく何かが響く。とくん、と一つ、鼓動が跳ねる。
「うん」
 エマに視線を落として、輝一もコトリと笑った。
 大きな犬に、子供が二人。いざという時、一人では犬の力に敵わない。だけどきっと、二人なら大丈夫。
「やっぱり月は一つの方が落ち着くね」
 もう一度顔を上げ、輝一が正面の空を見遣って言葉を紡ぐ。夕日が落ち、空は藍に暮れ、細い三日月とすぐそばの星が輝きを増す。
 次はエマの遊び道具も持ってこよう。
 そう思いながら、輝二も同じ月を見上げた。

更新日:2002.10.13

デジフロの提供は●ッテリア。エッグマフィンは●クドナルドの商品。…いや、ちょっと悪かったかな、と思いまして(^_^;)。
ええと、某Kさんのイラストに触発されて書いてしまいました。夕暮れ――大好きです。これだけでノスタルジックな感じがします。
一応、DWから戻った後のお話のつもりです。仲良く散歩なんてかわいいかなぁと。
輝二の飼っている(らしい)犬。現段階では詳細不明。今回は拾い物の大型犬にしてみました。
ゴールデンレトリーバーではない。別の犬のさらに雑種。
なんだか犬と2人、というよりは、じゃれてる犬3匹、という感じ? あはははは。


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