Pulse D-2

おもかげ

「いたた…」
 小さく聞こえた声に、輝二は顔を上げて目を向けた。横で拓也がその動きに気づき、焚き火に木をくべていた手を止める。
「ん? どした?」
「いや…」
 口ではそう答えるが、視線を戻すことはしない。自然と、拓也も輝二の見遣る方へと目線を移した。
「…ん…」
 先程より短く、けれど意識していた分はっきりと、二人の耳に苦しげな声が届く。ちらりと目を見合わせ、それから輝二だけが立ち上がった。
 ゆっくりと炎を回り込み、輝二は他の仲間たちの眠っている場所へと歩く。友樹を挟むような形で泉と純平が横になっていた。寒いからか不安だからか、泉と友樹はそれぞれネーモンとボコモンを抱え込んでいる。
 その様子に軽く視線を走らせながら、輝二はもう少し先の木の影へ足を向けた。皆から離れて、一人、輝一が暗い中にうずくまっていた。
「兄さん?」
 半ば俯せ気味に寝転がる輝一の背に、輝二は低く声を掛ける。傍らに膝をつくと兄の肩が大きく揺れているのがわかり、表情を伺うように屈み込んだ。
「手」
 それを短い声が遮る。輝一が右手を出す。何かを渡せと言うような手つきだが、輝二には何を意味しているのかわからない。
「手、貸して」
 伏せたまま再び輝一が言う。
 貸せと言われても、と首を傾げながら、それでも輝二は右手を差し出した。
 と、いきなり手首を掴まれる。反射的に輝二は、自分の腕を引くと同時に相手の背を押さえつけようと動きかけ、いや待てそういう場面じゃ無い筈だ、と我に返って力を抜いた。
 輝一の方でも一瞬、緊張して体を固くしたが、輝二が動きを止めたのに合わせてほっとしたように息をつく。そうして思いのほか強く掴んでしまった手の力を弱めると、ゆっくりと自分の腹部へ持っていった。
「腹が痛いのか」
 輝一が微かに頷く。
「肉りんご…ちょっと生だったかも…」
 頬の動きでそれとわかる苦笑と共に輝一は言う。
 何やってるんだと輝二は小さくため息をついたが、それは同時に輝一が吐いた辛そうな息に重なって、相手には聞こえなかったようだった。
「俺の手じゃ治らないだろ」
 言うと、いいんだ、と輝一は返す。
 何がいいんだよと思いはしたが、特に何も言い返さずに、掴まれた時のまま握り締めていた手を輝二は静かに開く。そうそう、と輝一は頷きながら微笑んだようだった。
「もっと小さかった頃、よく母さんがこうしてくれた」
 俺、ちょっとお腹弱いみたいでさ。
 話しながら輝一は、薄く開けていた目を閉じる。代わりに左手を輝二の手に上から添えたので、輝二は何となく気恥ずかしくなって空を仰いだ。繁る木の葉の間には厚い雲に覆われた夜空が僅かに覗いているだけだった。
「じっと、こうしてるだけなんだ。でも不思議とさ、痛くなくなるんだ」
 その同じことを、今、自分もしているのか。
 輝二は考えながら輝一に目を戻す。知りたくても知ることのできなかった母と重ねて見られているのかと思うと、妙にそわそわした気分になった。
「母さん…って、どんな人?」
 戸惑いがちに口にした輝二に、小さくはっとして輝一が顔を上げる。
「あ…ごめん…」
「何で謝るのさ」
 なのに輝二が謝罪して目を逸らすので、輝一の方こそ申し訳なくてそう言う。だが、口調が少しきつかったかもしれない。掴んだ輝二の手が一瞬ふるえたような気がして、輝一は暗い森に視線を戻しながら弟の手首を握り直した。
「顔、覚えてる?」
 母さんの、と輝一は尋ねる。
「写真を持ってる」
「そっか。…俺たち、母さんに似てると思うか?」
 問われて輝二はちらりと兄を見遣る。自分とよく似た横顔。今は厳しい表情をしているが、笑った時の柔和さには見慣れた母の写真に大きく通じるところがあった。
「…思う」
 聞いた輝一は薄く笑って、
「俺も思う」
 と呟く。今度は輝二も微かに笑んだ。
 輝一に手を取られたままの輝二は、ふと気づいて姿勢を変える。正面で兄の背中を見るようにしていたのを、体の右側で接するように座り直す。立て膝の体勢から地に尻をついて右膝を立てた形になると、彼だけでなく輝一の方でも安定感を感じたのか、少しだけ輝二に寄り掛かってきたようだった。
「でも輝二の方が似てるかも」
 そうしながら輝一が言ってくる。
「変わんないだろ」
「じゃなくてさ。中身がね、優しそう」
 輝二はしばし考える。
 それはつまり輝一の方が性格がきついということだろうか。
 自分も別にとりたてて温和なわけではないと思っているが、敵だった頃の彼の様子とその後に浴びせられた恨みごとの数々を思い出すと、輝二も思わず頷きそうになる。
「…変わんないだろ」
「無理しなくていいよ」
 それをぐっと堪えて輝二は口にしたが、兄には当然のように見破られて軽く返された。言葉に詰まり黙り込む。輝一の気配は、笑っているのか怒っているのか定かではなかった。
「母さんに、ちゃんと会ったことないんだよな。…会いたい?」
 やがて、少しの沈黙の後に、再び輝一が会話を始める。どんな人かなんて話して聞かせるよりも、会って確かめた方がよくわかるに違いない。そんな思いが彼の中にはあるのかもしれない。
「俺――」
 輝二は、答えかけて口を噤む。
 会いたいとは思う。けれど、それは言っていいことなのかと迷ったのだ。
 漸く母さんと呼ぶ決心のできた継母に対する裏切り行為にはならないか。
 どちらの母にも会いたいなんて、贅沢で勝手な考えなのではないか。
 輝一にとって、自分が彼の母親に会うことは不快なことなのではないか。
 そもそも、父が自分に母は死んだと教えていたのは何のためなのか。
 しかし、そんな輝二の考えを全て打ち消すように、はっきりとした声で輝一が言葉を告げた。
「会いに来いよ。俺にも、母さんにも」
 瞳は遠く闇を見つめたまま。それでも彼の明確な意思がそこにはあった。
「兄さんは…嫌じゃないのか?」
「嫌だよ。ずっと二人っきりでやってきたんだ。今さら割り込まれるなんて、すっげぇ嫌だよ」
 尋ねれば、強い調子で彼は返す。重ねた手の先だけが熱くて、それ以外、頭も頬も首筋も肩も腕も背中も腿も爪先も、輝一に触れている膝もその触れている輝一の背中も大地に接する尻もその接している大地も、夜気を孕み闇に溶かされ全ての温度を奪われていくような深い深い錯覚に襲われる。
 なのにまた、そこから輝二を引き上げるのも同じ彼なのだ。
「でも、母さんと同じ…俺には兄弟も一人しかいない。そっちを失くすのはもっと嫌だ」
 厳しく澄んだ横顔を、輝二は何も言えずにただ見下ろす。何かがひどく自分の中でざわめいていた。気を抜けばすぐにでもその中に取り込まれてしまいそうな気がして落ち着かない。だからただ、話し続ける兄の声に耳を澄ませた。
「ここから元の世界に戻ってさ、それでおしまい、はいもと通り、なんてことないだろ? 俺たちは会ったんだし、お前は俺や母さんのことを知ったんだし、俺も、お前のこと憎むのやめたし…」
 輝一は大きく息を吸う。そしてそれを細く長く吐くと、僅かに目を伏せるように視線を下げた。
「母さんだって会いたがってるし」
「会いたがって…俺に…?」
「だよ。当たり前じゃん、大事な子ど――」
 確認する輝二に答えて顔を上げ、そこで輝一は思いがけず言葉を切った。
「輝二…」
 輝一は驚いて起き上がる。
 慌てて顔を廻らせる動きに、輝二の目から涙の粒が落ちた。
 悔しそうに手のひらでそれを拭う弟を、輝一は必死に引き寄せる。抵抗する素振りもあったが、腕を取られているので諦めたのか、やがて輝二は左手で目を覆ったまま輝一の肩に緩く凭れた。
「ごめん…ごめん、輝二…俺…ごめん…」
 情けないことに言葉が出ない。頭の中が真っ白になる、まさにそんな感じだった。
「別に…謝るな」
 食い縛った歯の間から、漸く輝二はそれだけ伝える。何も、輝一が悪いわけじゃない。柄にもなく、自分の中の感情が溢れてしまっただけなのだ。
 短い間の後に、うん、と頷いて口を閉ざす輝一は、空いた左腕で輝二の頭を抱く。だが、そのついでに頬を寄せると、何だか急に照れ臭くなって、輝一は顔を上げ左腕も下ろす。輝二もまた、涙が引くと同時に恥ずかしさがこみ上げてきて、深呼吸と共に体を離した。
「いたた…」
 まだ俯いている輝二の耳に、輝一の呟きが届く。輝二は腹に添えたままの手を意識する。けれど、輝一は小さく首を振った。
「違う」
 そうして輝二の手のひらの位置をずらした。
 痛いのはお腹じゃなくて胸の奥だよ。
 心の中でそう告げて自分の左胸に輝二の右手を当てるけれど、勿論そんなことで痛みが消える筈もなく、二人分の右手で胸を押さえたまま今度は輝一が輝二の肩に頭を預けた。
 兄の鼓動が右手に響く。それはじんわりと輝二の中にも伝わってきて、自分の心臓も同じ速さで動いているのを感じる。泣いたことに対する羞恥は肩にかかる兄の重みに消え、代わりにさっきまでとは違うざわめきが胸の中に生まれた。
 そして、二人は気づく。
 いま、初めて愛しいと思った。この兄を、この弟を。
 言葉の上の『兄さん』より、植え付けられた知識としての『弟』より、それはずっとずっと強くて優しい明確な絆だった。
 輝一が、そっと左腕を輝二の背に回す。それを静かに受け止めながら、輝二はもう一度しっかりと涙を拭く。そして、その左手を輝一の背から髪へと移すと、一度だけ小さく指先で梳いて顔を空に向けた。
 涙が乾くまでこうしていよう。
 ひっそり思って瞼を閉じる。
 虫の音も鳥の声も無い森の中、ぱちんと一つ、焚き火のはぜる音だけが遠く聞こえた。

更新日:2002.10.18


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