Pulse D-2

空の記憶と鈍色の声

 今日はよくしゃべるな。
 はっきりとそう思いながら、輝二は兄の横を歩き続けていた。まだ早い午後の日が、同じ速さで動く影を二人の足元にも作り続ける。
「そしたら母さんさぁ――」
 これから会う女性のことを、輝一はじつに楽しそうに話す。二度ほど会っただけの輝二は、最初に聞いた話から自分の実の母に対してかなり理想的なイメージを抱いていたが、その後輝一の口から少しずつ彼女のことを聞くうちに、さりげなく個性的でおもしろい人かもしれないと思うようになっていた。
 その彼女のいるアパートへ、今日初めて泊まりに行くのだった。
 最寄駅からだいぶ離れた住宅街にはくねくねと細い道が続き、二人以外には人の姿もない。ただ時折、ドラマの科白やはやりの歌や犬の激しく吠える声が、窓の中や庭の隅から彼らの元へも届けられる。どこで音がしているのだろうと耳をすますと、自然にそれは空へと顔を向けることになり、透き通るようなごく薄い色を見るたびに何かを思い出しそうになって息が詰まった。
「もうすぐだから」
 そう言った輝一が、ふいに頭上へ目を向けた。
「あ…あの鳥…」
 どこかに飛んでいる鳥がいるのかと輝二も目を凝らすが、それらしい姿はどこにも見えない。
「鳥?」
 仕方なく輝二は声に出す。輝一は、そんな彼をちらりと見遣って立ち止まり、近くの電柱の頭を指差した。
「あの上に、よくいるんだ」
 今度は輝二も場所を定めて目を向けた。

 ちっ、とん、とん。

 それを待っていたかのように、遠く小さく音がする。
 輝二には、それは鳥の鳴き声には聞こえなかった。だが輝一は、
「ほらね」
 と言って嬉しそうに目を細める。
 彼が言うならそうなのだろうかと、もう一度、輝一から電柱へと目を戻す。丸い柱の縁から僅かに鳥の姿が現れた。
 暗くて色がはっきりしない。
「今年が初めてなんだ。この鳥の声、聞くの」
 並んで見上げながら輝一は静かに言う。
「今までもいたのかなぁ…」
 自分が気付かなかっただけなのだろうかと、輝一は軽く首を傾げる。目の上に手をかざした彼に、逆光の中の鳥はどう映っているのだろうとちらりと輝二は思う。
「詳しいのか、そういうの?」
「ん? 鳥?」
 尋ねる輝一に、輝二は視線を下ろし黙って頷く。
「詳しいってほどじゃないけど。近所にいるのは、鳴き声とか、おばあちゃんに随分教えてもらったかな」
 そうか、そういう人がいたんだったな。
 輝二もその存在に思い至る。
「俺も会ってみたかったな、おばあさんに」
「あ…」
 横を見遣る輝一のはっとした表情に、輝二は小さく首を振る。
「気にしなくていいって」
 自分たちが出会う前の時間のことは、いちいち気にしても仕方がない。羨ましいと思うことも悔しいと思うことも、お互いに言い始めたらきりがないのだ。
「感謝してる。その人が教えてくれなかったら、俺たち、まだ会ってなかったかもしれないからな」
 代わりにそう言って、俯きがちにほほえんでみせた。

 ちっ、とん、とん。

 再び聞こえた鳴き声に、二人同時に空を見上げる。
 長く間を置いて鳴く小さな鳥に、応える仲間の声はない。
「ねぇ、こういうのはどう?」
 その静かな間に輝一は言いながら、再び輝二へと顔を向ける。
 そうして、輝二が自分に目を向けるのを確認してから、高い位置の鳥を指差し明るく言い切った。
「おばあちゃんの生まれ変わり!」
 思わずつられるように指差す先を見遣ってから、輝二はがっくりと肩を落として溜め息を吐いた。
「…夢見過ぎ」
 けれど言いながら、横目ですっと輝一を見る。
 腕をあげたままの輝一も同じように目を動かして、互いの視線がかち合ったところで同時におかしそうに肩を揺らした。
 再び歩き出す二人の足元で、影も一緒に歩き出す。その揺れを目で追ううちに頭に浮かんだことがあり、輝二は静かに口を開く。
「よく、死んだ人は星になるなんて言うだろ」
「うん」
「父さんが再婚する少し前、そんな話を聞いて、毎晩星を眺めてた。どれが母さんだろう、って」
 輝二はわずかに間を取るが、輝一がまた気を遣うといけないと思いなるべく早く次を述べる。
「そのうち、どんな星より大きくて明るい月を見てる方が多くなった」
「月?」
 頷いて目を上げる。白い昼の月に輝一も同じように目を向ける。
「俺の母さんなら、これくらい一所懸命に俺のこと見ててくれる筈だって」
 大きい方が頑張ってる感じがするだろ? と輝二は照れたように笑う。わかるわかる、と輝一も首を縦に振った。
「それに、星は夜しか見えないけど、月なら昼間見えることもあるから嬉しかった。夜は…どうしても寝てる時間の方が長いから」
 寝てるとこだけ見守られてもな。
 おどけを含んだ苦笑は、直後にすっと曇った。
「でも、ある日、気がついた。どんなに見ててくれてたってしょうがない。そんなの少しも嬉しくない。俺は母さんに見てて欲しいんじゃなくて、毎日そばにいて俺のこと呼んで欲しかったんだ。おはようもおやすみも言って欲しくて、毎日ごはんも作って欲しくて、保育園の送り迎えも学校の参観日も、他のみんなと同じように母さんに来て欲しかったんだ」
 視線は空に向けたまま、輝二がゆっくり瞬く。
「そしたら急に月も星もその時見てた明るい空もものすごく憎くなって、掴んで殴ったり蹴り飛ばしたり色んなもの投げつけてぶつけたりして滅茶苦茶にしたくなって…でもそんなことできるわけなくて、悔しくて悲しくて、それにとにかく寂しくて、ちょうどこんな月を睨みつけながら家のベランダで思いっきり泣いた」
 泣く理由なんて無い筈の、静かで暖かい休日の午後だった。いつも何でもなく遊んでいた筈なのに、あの時だけ、ぽっかりと時間も心の中も空いてしまったのだ。
「泣き疲れてしゃくりあげるだけになったところで、後ろから、黙ったまま、父さんが頭を撫でてくれた」
 あの時感じた気持ちは、今はまだ、うまく言えない。
 だからこれでもう話は終わりとばかりに隣を見て、輝二は静かに兄に言う。
「誰にも言うなよ」
「――うん」
 俯く輝一が低く答える。その目は瞬きを繰り返し、唇はきつく引き締められる。
「昔のことだし」
「――うん」
「母さん、生きてたんだし」
「――うん」
「俺、今は寂しくないから」
 やっと輝一が顔を上げる。足を止める彼に合わせて、輝二もゆっくり振り返る。
「――うん」
 頷きほほえむ輝一に、輝二もうっすら笑顔を見せた。
 弾むような足取りで並んでから、輝一が楽しげに言う。
「今日はよくしゃべるね」
 いやそれはお互い様だろ、と思って背中を見つめると、
「って言った途端に黙らないでよ」
 と輝一は笑って顔だけ振り向かせた。

 ちっ、とん、とん。

 さっきより更に遠く、また不思議な音が響く。
「ほら、もっと話しなさいってさ」
「…よく言う」
 輝一の適当な翻訳に輝二も声を立てて笑った。
「行こう」
 腕を掴んで引っ張られる。早く早くと輝一がせかす。
「母さん、待ってるよ」
「うん」
 今度は深く頷いて、引かれるままに足早に、綺麗な空の下を歩いて行った。

更新日:2003.04.03


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