Pulse D-2

たくさんのあなたをこの胸に

 なかなか焦点の定まらない視界は、ぼんやりとした深緑色に染められていた。咄嗟に浮かんだのは自宅の庭にあるさざんかの木で、お母さんが大切にしてたからもうこんなに大きくなったんだ、と思ってから、はっとして泉は両目を瞬かせた。
 靄の晴れた世界を、はっきりとした緑色が満たす。それは、彼女の体ほどもある大きな葉をてっぺんに繁らせた丈高い木が密生する森の中だった。
 ああ、デジタルワールドにいるんだっけ。
 やっとそれを思い出し、泉は深く息を吐く。眠るたび、起きるたび、どれが夢でどれが現実だろうと考えてしまう。その都度彼女は『これが現実』と自らに言い聞かせ、その日の旅を始めるのだ。
 今もいつものように現実を認識したが、それが一日の始まりではないことを自分に掛けられている二枚の上着の存在と共に気付いて、
「あ…」
 と思わず声を洩らした。
 歩いている間に頭がくらくらしてきて、休憩中に少し横になっただけの筈だったのだが、どうやらそのまま眠り込んでしまっていたらしい。みっともないなとちらりと思う。
 その間に、彼女の声に応じたのか、すぐ脇の木の幹の陰から少年が一人姿を現した。
「気分は?」
「…輝二…君…」
 尋ねる声と名を呼ぶ声が重なる。そのせいで泉は彼の質問を聞き取り損ない、無言の答えを返してしまう。
 気分を害した様子はなかったが、輝二はゆっくりと幹を回り込んで泉の枕元までやってきた。泉はその動きを目で追ったが、それは目眩を生んだだけで、彼女は再度、瞼を下ろすことになった。
「熱…まだあるよな」
 声と共に、彼が手を伸ばしたのだろう気配が感じられた。だが少し待っても沈黙が続くだけで、彼の手の行き着く先が分からない。
 不思議に思って泉が薄目をあけると、そこには、彼女の額に手をかざし掛けながらその行為に照れて顔を背けている輝二がいた。
『うわぁ、そうきたかー…』
 状況も忘れて、泉は内心小さく笑う。彼に気付かれないうちにとすぐに目を閉じたが、そうしても今見た輝二の赤い顔がちらついて、口許が緩みそうだった。
『本当に、よく印象が変わるんだから』
 最初に見た彼と、素っ気なく去っていった彼と、次に自分を助けてくれた彼と、合流してからも何かにつけ拓也と対立して言い争いをする彼と、それから――
 思い巡らせるうちに、ようやく輝二の手が泉の額に触れてきた。
 冷たい手、と泉は思う。
 ほてっている顔はきっと熱いんでしょうに、どうして手はこんなに冷たいの?
 そんなことを考えてから、彼の手が冷たいのではなく自分の額が熱いのだということに思い至るが、その頃にはもう輝二の手は彼女から離されていた。
「すまない、熱を冷ます手段がなくて」
 落ちてくる言葉に、三度泉は目を開ける。今度は輝二も視線を合わせ、拓也、純平、友樹はそれぞれ水と食糧を探しに、ボコモンとネーモンは薬草を探しに行っていることを告げた。
「どうして、輝二君がここにいるの?」
 輝二は一瞬、質問の意図が掴めないという顔をしたが、小さく眉根を寄せたあとに理解して口を開いた。
「俺ならビースト進化もできるからな」
 あ、そっか。
 泉も納得して二、三度軽く頷いた。
 他はヒューマン・スピリットのみ。自分に至っては、それさえ奪われてしまっていたが、その間に輝二は獣型の光のスピリットを手に入れていたのだ。つまり、現時点で最も戦闘力が高いのは彼なのだ。
『だからもしもの時のために残ってくれたんだ』
 それは当然と言えば当然のことで、どこか少しがっかりした自分に泉は呆れた。
「ごめんね。熱なんか出してる場合じゃないのに」
「――出したくて出してるわけじゃないだろ」
 僅かに目線を逸らして輝二は言う。もっと言い方があるでしょう、と泉は思うが、こういう少し冷たくてぶっきらぼうな感じこそが輝二なのだ、とも思えるようになっていた。
「うん…」
 短く答えると輝二がちらりと目を向けてくる。それにほほえんでみせてから、今度こそ本気で泉は瞼を閉ざした。
 どこからか、初めて輝二と言葉を交わした時の情景がよみがえる。風のスピリットを手に入れた直後、ヴォルフモンのスキャンしたデータが輝二の手にしたデジヴァイスから流れ出した時のことは、今でも鮮明に覚えていた。
 彼を中心に花畑が広がっていくのは後で思うと少し笑える光景だったが、あの時は妙な安堵感と共に、こうあるべきだ、と感じたりしていたのだ。
 純平や友樹から聞いた彼らを助けに入った時の様子、それから自分を助けに入ってくれた時の気負いのない態度と、花の中に座る彼の姿とには落差があるようで無いようで、どうにも微妙な印象を彼女の中に残した。ただ、同時に、それ以前に目にした彼よりもずっと親しみを覚えて、大丈夫? と声を掛けていたのだった。
 小さく下草の擦れる音がして、輝二が腰を下ろしたのがわかった。
 きっと彼は木に凭れ、少し上向いて遠くの空を見遣るだろう。周囲を通りすぎる鳥や虫のようなデジモンたちの気配に意識を向けながら、吹き抜ける風の運ぶ音と匂いとに注意し、そして時折、足元で眠る仲間の様子に気を向けるのだろう。
 言葉にも笑顔にも表れないけれど、小さくて的確な輝二の気遣い。それは夜間の見張りの時や食事中などに、彼が密かに見せる姿だった。
 拓也や純平がそれに気付いているのかどうかは知らない。知って欲しいとも、自分だけが知っていたいとも思えて、泉はまた自分に呆れる。
『まあいいや。寝ちゃおう』
 最後にはごまかすように言い聞かせ、ずり落ちた拓也のシャツを両足に掛け直してから、上半身を覆う輝二の藍色のジャージに顔を寄せた。
 少しの埃っぽさと輝二の匂いが胸に満ち、やけにくすぐったい感じとふわりとした安心感に包まれる。そうして、泉はゆっくりと眠りの中へ入って行った。

更新日:2003.09.06


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