Pulse D-2

Baby, you're my home

「んー、いい風」
 目を瞑り、ざっと吹き抜けて行く人工の風を受けて、デュオは気持ち良さに大きく息を吸う。彼のいるマンションのベランダからはすぐそばの小さな公園の様子がよく見え、そこで遊ぶ子供たちの声が彼の元まで聞こえてきていた。
『だるまさんが転んだ。坊さんが屁をこいた。…だるまさんが転んだ』
「何だかなあ…」
 その内容に呆れて笑い、デュオは室内のヒイロを振り返った。
「なあ、どっか出掛けねぇ?」
「俺は仕事中だ」
 デュオへと視線を向けることもなくヒイロはぶっきらぼうに答える。何かを調べているのか、それとも資料を整理しているだけか、彼はデュオが来る前からずっとパソコンに向かって操作をし続けていた。喋ることもなく、飲み食いもせず、デュオがいることすら意識の内にないような態度。それは恐るべき集中力であり、あまりにも彼らしい態度で笑ってしまうのだが、それでもせっかく訪ねてきたのに何時間もそのまま放っておかれれば飽きるし癪だしちょっかいを掛けてみたくもなる。しかも、必ずそのうちに彼はこっちを向くと分かっているのだから。
「ちぇっ。俺せっかく有給取ったのになぁ」
「そんなのはお前の勝手だ」
「ふうん…」
 冷たく言われて、さも諦めたかのようにそっぽ向く。だが再び手すりにもたれるように体を屈めた彼は、そのまま左手を自分の背中へ伸ばす。そうして髪を纏めているゴムをはずすと丁度吹いてきた次の風に合わせて強く頭を振った。
 腰にまでかかる長い茶色の髪が、戒めを解かれて風に揺れる。編まれていたために波打つ髪は長さとその量の多さで存在感があり、それがヒイロの視界をかすめて彼の注意をひく。
「――――」
 顔を上げたヒイロが、暗くなり始めた外にたたずむデュオを見た。
 彼は顔は僅かに上向いたまま視線だけを下へと向けている。そうしてゆっくりと流れる風にくつろぎながら、歌でも口ずさむかのように小さく微笑んでいる。
 自分とは違うものへ目を向け気持ちを傾けている彼が気に入らなくて、ヒイロは立ち上がりベランダへと出た。窓は開け放ってあったのに、それでも随分室内と外とでは空気が違う。それはそのままこの数時間自分とデュオのいた世界の違いに思えて、ヒイロは急に焦燥感を抱いてしまった。
「デュオ…」
 傍に立ち、髪を一房掴んでデュオを見る。けれど呼んだきり何も言わないヒイロへ、デュオは微笑を貼り付けたまま視線を向けた。こんな時、デュオはひどく意地が悪い。いつもの饒舌はどこへやら、口を結んでじっと相手の出方を見る。やわらかい笑顔の中の、笑わない眼。
「何故、休みを取った?」
 漸くそう言っても、答えるデュオは態度を崩すことがない。
「別にィ、単なる個人的理由さぁ」
 そしてまた向こうを見ようとするのを、ヒイロは掴んだ髪を引っ張ることで引き止めた。そんな彼に、デュオは苦笑を洩らす。
「今日一日、何をしていた?」
 自分の部屋へ来る前に、彼には何時間もの時間があった筈だ。その間、まさか有給休暇を取ってまで眠っていた訳ではないだろう。いや、でも、自分には考えられないことでも、デュオはそんなことをするのだろうか。それとも人には言えないような何かをしているのだろうか。もしかしたら政府に隠れて何か――
「くだらねえこと考えてんなよ。俺はなあ、朝起きて一つだけ仕事のメール打って、それから自分とこのボックスもチェックしてその返事までちゃんと一つずつ出してきました。ヒルデにリリーナにノイン、サリィ、レディ・アン、カトル、ハワードからまで来てたぜ」
「何故…」
 ヒイロの呟きを無視してデュオは続ける。
「それから、んなもんねえけど、じっちゃんの墓参りして――」
「デュオッ!!」
 堪らずにヒイロが声を高くした。彼の言うことがわからない。何の話をしているのか理解できない。それを止めようとしない彼が、ひどく苛立たしい。そしてそれ以上に、ヒイロは自分のことがじれったくて仕方がなかった。
「お前らだけだぜ、薄情なのは」
「お前ら?」
 短く聞き返すと、冷たい表情のまま親切にデュオは答える。
「お前とトロワと五飛」
 では、ともう一度ヒイロが尋ねる。
「薄情とは?」
 どういう意味かと。
「お前さあ…今日はぁ、俺の――」
 そこで突然口を塞がれてデュオは言葉を切った。ヒイロが、彼を抱きしめるよう体を寄せる。
「すまん……」
 彼には珍しい謝罪の言葉。耳元でそれだけを囁いて、デュオの首筋へと顔を埋める。だが、ヒイロの手をどかしたデュオはまだ意地の悪いままだ。
「それで? 言い訳は?」
「ただの、書類上だけのことだとお前が言っていたから、そんなに大したことではないのだと思っていた。他の奴のは日付すら覚えていない」
 だが俺にはこれ以外にないと言って聞かせ、続けてデュオはヒイロにもう一言を求めた。
「で、謝罪と言い訳の次は?」
 少しだけ顔を上げて、ヒイロが小さく唾を飲み込む。密かに深呼吸する気配も感じられて、デュオは笑いそうになるのを無理矢理押さえた。
「………とう」
「おいおい…」
 だが聞こえてきたのは微かな語尾だけで、こいつはとデュオは呆れる。
「聞こえねえよ」
 許さないデュオから、容赦のない言葉が返る。やはりだめかと一度項垂れて、それからやっと決心がついたのか、ヒイロはデュオの両肩に手を置きまっすぐに彼を見つめて言った。
「誕生日おめでとう」
 ゆっくりとデュオの眼が笑う。深い青の、澄んだ眼が、優しくヒイロを見て笑う。
「サーンキュ…」
 言い終わるより早くヒイロが口付けてきて、デュオは唇をやや横に引くようにして応えた。何度か軽く触れ合わせ、それから少しずつ深く探り合う。邪魔になる髪を右手で押さえ、デュオは左腕だけをヒイロの腰に回した。
 やがてデュオが顎を引いてキスの終わりを告げる。引け目を感じて素直に従ったヒイロは、しかし、デュオの浮かべたニヤリとした表情に罠にはめられたような気になる。
「今晩はヒイロのおごりな」
 そう言って彼はウインクまでしてみせる。
 そんなことで激しくなる動悸を悟られまいと、ヒイロは大きくため息をついて室内のパソコンの前へと戻った。それについて歩きながら、デュオが髪を一つに束ねる。輪になったゴムをそのままぐるぐると巻き付け、片方の端をもう片方の輪の中へくぐらせて、最終的に出来た片端の輪を一度ひねってからすべての髪の毛にその輪をくぐらせる。三つ編みにせずに束ねるにはこれが一番楽な方法なのだが、それでも編んでさえ腰に届く彼の髪は扱いが難しく、何かの拍子にゴムに引っ掛かってしまう。
「ちょっとっ」
 どこが悪いのかわからずただ痛いとだけ感じる妙に不器用なデュオに、手先だけ変に器用なヒイロが近づいて、絡まった彼の髪を解いてくれる。
「切ればいいだろう」
 ふと思ったことを口にしてみるが、対するデュオは可笑しそうに口元を歪めて返してきた。
「でもお前、好きだろ?」
 この髪がと彼は目を細める。
「……ああ」
 仕方なさそうに認めてため息混じりに答えるヒイロに、声をたててデュオが笑う。
「お前らしい」
 そうして続けられたヒイロの言葉に、もう一度サンキュと言葉を綴って促されるまま玄関へ向かった。
「仕事はいいのか?」
 すっかり出掛けるつもりのヒイロに一応言ってみる。
「平気だ。明日でいい」
 予想通りの返答に、
「あ、そう」
 と気のない声を返すと、ヒイロがちらりと睨むような視線を送ってきた。わかっているなら聞くなと言わんばかりだ。
「はいはい、優しいヒイロさんに感謝」
 先を行くヒイロの頬に、後ろから軽く唇で触れる。それに応えるようヒイロは薄く笑い、顔だけ振り向かせて言った。
「朝まで付き合え」
 何に、とは恐くて聞けないデュオはとりあえず苦笑して頷いておいた。
「ま、いいでしょ、たまには」
 どちらが罠を仕掛け、どちらが罠にはまったのか。
 どちらでもいい、ただ一緒に楽しく過ごしていたいだけだ。少しだけだが、平和になったのだから。
 笑い合いながら二人は部屋を出て行く。
 オートロックのドアが、カチャリと音をたてて閉まった。

掲載日:2003.09.06


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