Pulse D-2

君に伝える言葉

 腕に当たっているのがデュオの髪だと気付くまでに、相当時間がかかったように思った。2人では暑かったようで、掛けていた布団は足元ですっかり丸められている。最終的に素っ裸で眠った筈なのに、夜の間に目を覚ましたのか、どちらも下着だけ身につけているのが少し笑えた。
 その上でこれだ。
 トロワは繋がれた指先を見る。お互いに落ちそうなくらいベッドの両端に寄っているくせに、うつぶせたデュオの左手と、仰向いた自分の左手が、中指と薬指だけからまっていた。
 その、少し不自由にも思える姿勢で、どうやったらこんなに髪の毛がひろがるのだろう。腰を越える長さの少しかための髪が、デュオの背を覆い隠すよう扇状に波をつくっている。ふだんの三つ編みの状態では特に感じないが、こうして自由にさせていると、その長さも量も、トロワには尋常ならざるものに思えた。
 しばらく、呼吸にあわせて上下する背中と髪をながめる。それから、トロワは身体を起こして、むこうを向いたデュオの顔を覗き込んだ。
 ベッドから落ちている右腕、軽い寝息。一瞬、鼻をつまんでやりたい衝動に駆られたが、体勢を落ちつかせるためにベッドの頭側の柵を掴んだので残念ながら腕の空きがなくなった。
 仕方なくそのまま口づける。
「…ん…」
 デュオが身じろいで顔の向きを変えた。落ちかかる髪に、一度大きく息を吐く。それを見おろしながらトロワも移動し、左ひじをついて姿勢を低くした。髪を掻き上げこめかみと耳元へキスを落とす。
「ん?」
 眉根を寄せたデュオが、声を出してからニッと口の端を上げた。
 トロワは吹き出しそうになるのを懸命にこらえる。そうしてもう一度髪を梳き、耳たぶを甘噛みしてから顎のラインを辿った。すこし離れて鼻の頭に口づけ、からかうように何度か軽く唇を合わせる。
 目を閉じたまま、くつくつとデュオが肩を揺らした。
 かまわずに鼻を伝って頬へ瞼へと移っていくと、いよいよお互いに顔が歪んでくる。そして、こっちもちょっと腹筋が苦しいかも、と思いつつ目尻に唇を寄せたところで大きく大地が動いた。
「あっはっはっはっはっはっ…」
 起き抜けにいい声出すなぁと感心する程、デュオが楽しそうに明るい笑い声をあげる。
 ぱっと現れた目は鮮やかな青。
「よぉ」
「おはよう」
 座り直して見おろすと、デュオはうつぶせのまま右手で髪を掴み上げ、トロワと合わせた目を不自然に曲げられた自分の左腕へと落とした。
「何だよこれー」
「知らない」
 何だよ知らねえで手ぇ繋いでんのかよ。そう口にしたかと思ったら、勢いよく肘から先だけ挙げてデュオはいたずらっぽく笑った。
「仲良し?」
「…ばか」
 呆れたように、けれどおかしそうに呟いて、トロワも笑った。


 軽い食事をすませると、デュオひとりを残してトロワはトレーラーハウスを出た。比較的新しいコロニーは今日も快適な気候を用意している。その明るい擬似蒼穹に向かって大きく伸びをしてから、今出てきた住居の窓側に回り込むと、同じように腕と背を伸ばして顔をしかめていたデュオが、いちばん大きな窓から顔を出して笑いかけた。
「ちゃーんと働けよー」
「言われなくてもそうする」
 つんとすまして答えてから、トロワはにこりと笑って手を振る。軽い笑い声が背を追ってくるのがこころよかった。
 その背中が木々の陰に消えるまで、デュオは窓枠に頬杖をついて見送った。幹のあいだがチラチラと輝いて見えるのは、そこにある噴水に光が反射しているためだろう。さらにその先では、公園内の中央広場とサーカスの大きなテントとが人々の訪れを待っている筈だったが、デュオの立つ位置からはトレーラーの横腹と木々の葉とに遮られて、テントのてっぺんすら見ることはできなかった。
「ん―――っと」
 もう一度ぐっと背骨を伸ばし、下ろしかけた腕でガッツポーズを取ってから、デュオは食器をひろげたままのテーブルの上を片づけ始めた。
 簡易キッチンのさっぱりとした水回り。形ばかりの食器棚。何度か使われているらしい歯ブラシと、真新しいそれが1本ずつ。洗顔用具とシェーバー。とても小さな冷蔵庫。
 ジャムの小瓶をその冷蔵庫にしまい、洗った皿を水切りかごに立て、歯ブラシを手にしたところで昨夜を思い出して笑みを浮かべる。ふいに現れたデュオにトロワは目を丸くし、それからくしゃりと笑ったのだった。
「本当に来たのか」
「まずかったか?」
「そんなことは言ってない」
 肩に掛けたバッグごと抱きしめられると、ああ本当にこうやって会いに来ることもできるんだ、と当たり前の筈のことに小さな感動を覚えた。
 初めて入ったトロワの部屋は、外から見た様子よりも広く感じられた。それだけ物が少ないということだろうか。
 確かに、ぐるりと見回してみた時の素っ気無さは否定できない。それでも、ベッド脇のテーブルに置かれた紙袋に、デュオは密かにトロワの心を想う。口を開けたままの手さげ用の袋には、きちんとたたまれたシャツと黒い腕時計が入っていた。どちらもデュオのものだ。袋に入れてあるのは纏めて置いておくためか、そのまま持って出られるようにか、それとも埃をかぶらないようにするためか。
「何かきれいになってねぇ?」
 時計を手にとってみると、それはデュオが身につけていたものより新しい品に見えた。俺んだよなぁ? と内心首を傾げる。
「修理に出したんだ」
 借りたままで悪かったな、と謝ってから、トロワはそう言ってコーヒーを手に歩み寄った。
「えっ、部品あったのか?」
 俺が聞いた時には修理なんかできねえって言ったくせにとデュオがぼやく。そのむくれた顔に、トロワは目を細めて笑う。
「メーカーじゃない。昔の仲間に修理のできる奴がいるんだ」
 カップを手渡す。
 熱いコーヒーを受け取りながら、昔の仲間ってのは傭兵仲間のことだろうかと考えたが、どうでもいいので聞かずにおいた。
「アナログならどんなものでも直してみせるって言うから、試しに頼んでみたんだ。年代物のようだからな、部品の磨耗さえ解消してやればいい」
 メーカーでは無いと言われたその部品を、彼はほとんど揃えることができたんだ、とトロワは説明した。
「歯車を一枚だけ自作したらしい。久し振りに綺麗な部品で楽しかったそうだ」
「へえ……どうやって作るんだ?」
「知らない」
 ちゃんと設備を持っているのだろうが、あの男からは金属板から手作業で切り出して行くようなイメージしか浮かばない。トロワは言って、デュオの苦笑を誘った。
「でも、正確だろう?」
 デュオはもう一度まじまじと手元を見、うん、と深く頷いた。
 その時計は、デジタル表示とアナログの針で時刻を指し示す部分とから出来ていた。二つの部分は連動しておらず、デジタル部分には地域別の表示やストップウォッチ機能なども付いているが、デュオはたいていアナログ部の針を見て生活してきた。視覚的に捉えやすいのだ。その針がやけに遅れるようになって残念に思っていたのだが、再び手にしたこの時、デジタルとアナログはぴったり同じ時刻を示していた。
「サンキュ。これ、持って帰るな」
「もちろん。お前の時計だ」
 満足そうなデュオに、トロワも嬉しそうに笑った。
 その時点で、二人とももう夕食は終えていた。デュオはコロニー間を結ぶシャトルの中で食べていたし、トロワは慣れればそれなりに美味しいキャスリンの手料理を食していた。
「あ。歯ブラシ忘れた」
 眠る準備を始めた時に、デュオが気づいて口にした。
 ま、いっか、このまま寝ちまおう。そう思ったデュオに対し、トロワは引出しの中から新しい歯ブラシを出してきて渡す。
「…常備してんの?」
「いや、貰い物」
 歯ブラシをプレゼント? と冗談を言ってかかかと笑うデュオに、
「L1辺りの試供品だ」
 と苦笑混じりに答えてトロワは肩をすくめた。
 どこが目新しいのかわからない、デュオにもトロワにも平凡に見える歯ブラシを片手に、どうせなら電動の配ればいいのに、とデュオがこぼす。歯を磨き始めてもなにやらもごもご言っているので、
「もんふわあふなはふふぁふな」(文句があるなら使うな)
 と咎めると、デュオは
「ふふぉへーふ」(うそでーす)
 と答えて黙った。
 ベッドで交わす最初のキスはさわやかな歯磨き粉の味と香りで満たされ、おかしくてくすぐったくて二人揃ってムードぶち壊しで笑った。


「あ、トロワ。誰かお友だち来てるの?」
 手分けして道具の点検をしているところへ、キャスリンがやって来て言った。昨夜、デュオは別の団員にトロワの居場所を尋ねたそうなので、その彼からキャスリンもデュオの来訪を知ったのだろう。
「食事、どうするのかなぁと思って」
 予定では昼は適当に買って食べ、夜はキャスリンが自分とトロワの分を作ることになっていた。サーカスの団員はいつでもまとまって移動するわけではなかったので、公演前の人数の揃わない間には、皆のための大量の食事は用意されないことも多い。今回は、明日の昼に賄いのメンバーが到着することになっていた。
「昼は気にしないでくれ。夜のことは聞いておく。一緒に頼むかもしれないが」
「ああそれは全然かまわないから。何人分必要なのか知りたいだけ。じゃあ、わかったら知らせてね」
 明るく言って、キャスリンは向うにいる女性の団員の元へ歩いて行った。
 トロワは自分の作業に戻る。そういえばデュオはどうしているのだろうと、彼女に言われてはじめて考えた。自分がデュオを訪ねる時にはいつでも仕事中の彼と一緒にいるので、こうして家主のそばにいない訪問客が何をして過ごしているのか、トロワには考えることができなかった。
 昼前に部屋へ戻ってみると、デュオの姿はなかった。
『おでかけ』
 ふざけた書き置きがあったが、これではこちらの役には立たないなとトロワは軽くため息を漏らす。
 まあ好きに時間をつぶしてるならそれでいいか。そう思うことにして、自分は食事をしに外へ出た。
 正直な話、デュオがサーカスを訪ねてくることはないだろうと思っていた。特に根拠があるわけではなかったが、何度かこちらから出かけて行くうちに、それを自分たちの定位置のように感じていたのだった。
「別に理由はいらないんだが――」
 ふらりと現れるデュオは、どこかトロワを不安にさせた。
 夕方、広場の入り口でトロワはデュオを迎えた。なにも、彼の帰りを待っていたわけではない。サーカスの宣伝をしていたのだ。
 子供受けのいい笑顔メイクをしたクラウンが、一輪車の上でジャグリングをしている。軽快なそれでいて暮れ始めた空気に溶け込むような、柔らかなストリートオルガンの音色が広がる。
 その音と見世物とに集まった子供たちや軽く足を止めた大人たち、少し離れた場所から目を向ける通行人たちに、キャスリンは声を掛けながらチラシを手渡していく。その手がふと、にこやかな少年の前で止まった。
「あら、あなた…」
 かぶった帽子の鍔をちょいと指で上げ、デュオは目礼を返す。それからキャスリンの持つ紙を受け取りちらっと見やり、目の前の彼女へ、輪の中心にいるクラウンへと順に目を移した。
 クラウンのあやつるボールが、ひときわ高く夕空に上がる。
「あっ、ちょっと君」
「へっ、なにっ」
 キャスリンに勢いよく腕を取られ、引きずられるようにデュオは観客たちの前へと連れて行かれる。ボールの落下位置をずらして前後へ揺れていたクラウンが、その彼を一瞥して、にんまりと大きな笑みを浮かべた。
 基本的なボール3つの演技から、すっと1個だけが大きく上がる。と同時に、ボールの軌跡からひらりと落ちてくるものがあった。
「取って!」
 ばん、とキャスリンに背を押される。慌ててデュオは踏み出す。差し出したてのひらには、明るいオレンジ色の小さな花が舞い降りた。
「はいっ、次っ!」
 声に顔を上げると、数歩分移動したクラウンが次の花を降らせている。
「こんにゃろっ」
 3つ、4つと追いながら前進すると、5つめには後退する。デュオは花ばかり追いかけていたが、その5つめの時にはボールは無く、黄色い花だけがひらひらと落ちてきた中でデュオにぶつからないよう停止したクラウンが、何もなくなった両手を花に合わせてふらふらと振っておどけてみせていた。
 花を受け止めたデュオの手元へ、自然、クラウンの手と顔も寄ってくる。その静止した花を手で示し見つめたまま、クラウンもピタリと動きを止めた。
 少しの間。
 やや前かがみの姿勢は変えず、コトリ、とクラウンが顔をデュオへ向けた。見慣れた深い緑の瞳が、不思議そうな色を浮かべてまっすぐに彼を見た。と。
 びくくっ。
 突然驚いて体を揺らしたクラウンが、慌てたようにくるくると一輪車をこいで後退して行く。そうして数メートル離れたところで、おそるおそるといった感じにもう一度デュオを見やった。顔の両脇で握り締めた拳は白い手袋。
 驚いたのはデュオの方だ。
 クラウンが遠ざかる間、呼吸も忘れてそれに見入った。
「はっ…」
 止まったクラウンのなんとも言えない表情に、ふっと声が洩れて肩がふるえる。観客の笑いにデュオの声が重なる。
 笑い出した少年に、クラウンは両の指先を胸にあて、ほっと息をついた。
 ゆったりと暢気そうな音が聞こえて、デュオは、しばらくストリートオルガンがやんでいたことに気づく。ゆるく曲線を描きながら、くるりくるりと車輪を回してクラウンが中央に戻ってくる。
 すらりと伸びる片腕。胸にあてがわれるもう片方。一輪車に乗ったままおじぎするクラウンに、大きく明るい拍手。
「はい」
 後ろから差し出された帽子と声にデュオは振り向く。帽子を受け取り、代わりにキャスリンへ花を手渡すと、にっこり笑って受け取った彼女は、一歩下がってデュオを紹介するよう片腕を上げた。反対側で、クラウンもまた彼を示して観客の拍手を求めていた。
「…あ、ども」
 向けられた目にちょっと照れて、帽子を押さえつつひょこりと頭を下げた。
 拍手が鳴りやまないうちに、前の方にいた子どもや女性に花を贈り、
「本番にもいらしてくださいね」
 とキャスリンがよく通る声で言う。クラウンが手を取り、彼女は軽く膝を折って挨拶にかえた。
 散って行く人々の間の空気が明るい。それがデュオにもとても心地よく感じられた。
「バイバーイ」
 母親に連れられた小さな姉弟が、去って行くクラウンの背に声を合わせて叫ぶ。ふっと止まってコクリと首を傾げてから、滑らかに半円を描いてクラウンは彼女たちへ向き合う。そうして手を振る代わりにおどけて頭を左右に揺らし、また向きを変えて遠ざかった。子供たちが嬉しそうに更に大きく手を振った。
「もう。トロワったらはしゃぎすぎ」
 キャスリンがおかしそうに笑って、それからくるりとデュオへ向き直す。
「ごめんなさいね、急に引っ張り出しちゃって。どうもありがとう。とても助かったわ」
「ああ、まあ…いや、すげえびっくりしたけど」
 デュオもどう答えていいやらわからず、曖昧に苦笑して帽子をかぶり直す。
「それに…なんか意外だったよ」
 うつむき気味にして顔を隠した。
 キャスリンが、目を小さくなったトロワへ移す。一輪車のうしろ姿は、妙に平和そうだ。
「ほんと、びっくりよね。いつも何考えてるんだかわかんない顔して、生きるのも死ぬのもどうでもよさそうだったのに。今のトロワ見てると、すごく安心できる。無事に帰ってきてくれてほんとによかった」
 そう言ってから、ふと何かに気づいたように小さくあっと声をあげた。
「前にも、会ったことあるわよね?」
 一瞬、何を今更という思いと、とぼけてごまかそうかという思いとがデュオの中で交錯したが、結局キャスリンと目を合わせて軽く肩をすくめた。それを彼女は肯定ととったようだ。
「あの時はひどい言い方してごめんなさい。よく知りもしないでやな女って思ったでしょう?」
 戦争中、デュオに会った時のことを思い出して、キャスリンは頭を下げる。怖れ、逃げたがっていたトロワを、彼女はただ守りたかったのだ。その過程でデュオには冷たい言い方をした。それくらいの自覚はある。そして、トロワを迎えにきた彼もまた、不安を抱えながら必死に生きていたのだろうと思い至って、随分後悔もしたのだった。
 そんな彼女に、
「いいよ、別に」
 と答えて、デュオはもう一度目元を隠した。
「今なら俺も、気持ちわかるし」
 それに多分傷ついたのは彼女の言葉にではなく、投げかけられたトロワの目に対してだったろうと思う。
 胸の内でそんな確認をして黙り込むデュオに、キャスリンもそれ以上この話を続けるつもりはないようだった。
「ほんとはもう一人クラウンがいるといいんだけどなぁ」
「俺はやらねえよ」
「あら、けちねぇ」
 キャスリンはちょっと口をとがらせる。それから「まあいいか」と笑って歩き始めた。
 暮れていくコロニーの空に公園内の電灯がやわらかな光を放ち始めるのを、不思議とやさしい気持ちで見つめてから、デュオも彼女の後を追った。


 最初はちょっとした好奇心だった。
 カトルはともかく、自分では手に余る感のあるヒイロや五飛が、どうしてトロワには素直なのかと気になった。いや、少し癪だったのかもしれない。
 協調は大事だと思う反面、一人くらいは彼の言うことを聞かない奴がいてもいいんじゃないかとも思った。何か弱いところを見つけてやろうとか、ミスやからかいの種になるようなことがないかと注意して目を向けてみたりした。
 そのうちに、
『トロワはどこか珍しいのか?』
 とヒイロに言われた。一瞬、何のことかと思ったが、要するにそれだけ自分がトロワを見ていることにヒイロは気付いていたということだ。多分、トロワ本人もわかっているのだろう。そう思ったら急にバカバカしくなって、彼を見るのもあら探しをするのも面倒になった。
「なのに何で来てるかなー」
 キャスリンと別れて戻った部屋に、トロワの姿はまだなかった。デュオの声は薄暗い部屋に吸い込まれていく。
 それでも、明かりをつけてしばしぼんやりしてから、
「んなこたぁどうでもいっか」
 と頭を掻いて、デュオはウエストポーチをはずした。
 ベッドへ腰を下ろし、布団の上へ中身を広げる。そこから2つの物を手に取って、散らばった持ち物をよけて腹這いになる。
 手にした冊子は片手のひらに乗るほどの大きさだ。それを、デュオはそろりと開く。補強はされていたが、それでいてなお、今にもページが取れて落ちてしまいそうな本だった。
 寝転がったまま途中のページを開く。1つの絵もなく色味もない本。イタリック体で並ぶ文字は、デュオには理解できない言語。
「んー…」
 おんなじアルファベットなのに。
 読めないことはわかっていて買ったのだが、それでも理不尽さを感じてデュオは唸った。
 彼が話すのは米語を基本とした共通語だ。周りには多少違う言葉を話す仲間もいたが、その彼らでも一般の生活では共通語を用いることの方が多かった。だから、デュオはそれらの言語をきちんと覚える代わりに、妙に混じり合ったかなりブロークンな話しぶりを身につけていた。そして、今までずっとそれで通してきていた。
「でもちょっと興味」
 誰に言うともなく呟く。
 ガンダムのパイロットたちは、平気でいろんな言葉を話すので少し驚いた。特にヒイロと五飛は、激しい口げんかの際に急に系列の民族の言葉が飛び出すのでおもしろかった。
『これって日本語と中国語?』
 と尋ねたデュオに、トロワは「たぶんな」と返した。
『どうでもいいから2人を止めてよ』
 と困りながらも冷静にカトルが口にするのは、嫌味な程に整った英語だった。
「p・e・i・g…」
 仲間たちとのそんなやり取りを思い出しながら、デュオは手にした翻訳機に単語を書き込んでいく。本よりさらにひとまわり小さくて薄い機械が、共通語の訳を返してくる。
 2つ意味を取ったところで、キッと軋んで入り口のドアが開いた。
「おかえり~」
 声を掛けると、入ってきたトロワは照れたように笑って、
「ただいま」
 と応えた。その表情がやけに優しげだったので、デュオも少しどきりとしてほほえんだ。
「お前うまいじゃん」
 言いながらデュオがジャグリングの手まねをしてみせる。それに、ああ…とトロワはどこか遠い目をして、疲れたように苦笑した。
「猛練習したんだ」
 その情けない顔にデュオが声を立てて笑う。
 一輪車の上ではあれが限界、と付け加えてトロワは肩をすくめた。
 寄ってきたトロワが並んで座ろうとベッドの上を目で確かめる。
「あ、悪ィ」
 気づいて、散らばったままの自分の持ち物を、デュオが手早くポーチに詰め込んだ。膝に伏せた本へトロワが手を伸ばす。
「何の本だ?」
「詩集みてえだけど」
 ふうん、とトロワはゆっくりページを捲っていく。散文詩というのだろうか。つらつらと綴られているのは、フランス語の短文だった。発行年はコロニー暦以前の地球の西暦表示になっていた。
「どこでこんなもの見つけたんだ?」
「古本屋」
 だがその答えは実にあっけなくしかもごく妥当で、聞いたトロワも答えたデュオも『それで?』という気持ちを持たずにはいられなかった。たっぷり十秒間目を合わせてから、デュオが僅かに眉間にしわを寄せて尋ねる。
「お前、何聞きたいんだよ?」
 うーん、と唸るトロワ。
「何だろうな」
 同じように顔をしかめて答える。デュオが笑い飛ばした。
「ばっかでー」
 トロワは苦笑して、髪を掻き上げながら腰を下ろした。
 どうして急にこんなものを読んでいるのかと尋ねるトロワに、デュオは「何となく気が向いたから」と答えたが、相手にはそれに納得している様子は見られなかった。
「まあいいじゃん。せっかく勉強しようかなって思ってんだし。てことでちっと訳してくれる?」
「…それは勉強になるのか?」
 一応そう返してから、トロワは最初にデュオの開いていたページに戻って誌面を眺めた。フランス語は彼の第一言語だった。
 2度3度と繰り返し字面を追っているらしい。そのトロワの目の動きと、かすかな唇の動きを、デュオは横から見つめて黙り込む。
 やがてトロワは文字から目を離し、一度表紙を確かめた。そうしてデュオと視線を合わせ、ゆっくり左腕を彼の腰に回した。
 …なぜ抱き寄せる?
 デュオは不信もあらわな目を向ける。だがトロワは気にしたふうもなく、彼の耳元へ口を寄せた。
「『お前が俺のベッドに腰掛け、難破して浜に流れ着いた女性よりも更に魅惑的な姿でその長い髪を梳いているとき…』」
「待て待て待て」
 デュオが声をあげて制した。
「それほんとかよ」
「もちろん、本当だ」
 即座に強くトロワは答える。
「調べてみるか?」
 デュオの持つ翻訳機に気づいて言う。単語ごとに意味をみていくと、なるほどトロワの言ったような訳になるかもしれない。説明を聞きながら、デュオは低く唸った。
「続けるぞ」
 トロワはさっさと続きを訳し始める。薄く笑いを含んでいるらしいその語り口は、少しばかりデュオに近い共通語の荒い発音とあいまって、原作の持つだろう美しさよりも俗っぽさの方を強く浮かび上がらせた。それでも内容はわかる。
「質問です。…これって、恋愛詩?」
 はっずかしー、と思いながらデュオが片手を挙げる。
「おそらく全篇そうだろう。タイトルを訳してみるか? …『異国の女性に捧げる散文』」
「うわー…」
 デュオがげんなりと肩を落とした。ちゃんと調べてから買えばよかった。そんな後悔の表情がありありと浮かんだ。
「どうして急にこんなものを読もうと思ったんだ?」
「たまたま目についたから!」
 そんなデュオに、トロワがおかしそうに少し前にした質問を繰り返した。デュオはやけになって答える。チッ、と舌打ちする音まで聞こえたが、トロワは構わず声を立てて笑いそれからさらに強くデュオを抱き寄せた。
 むっとしてデュオが体を固くする。
 それにも構わず、本を持ったままの右腕でも彼の肩を引き寄せる。そうして左手を腰から放すと、デュオの頭を抱え込んで、コツ、と自分の頭をつけた。
 息を詰めたデュオの耳に、それまでとは違うやわらかな響きが届く。
 目の前に再度開かれた古い本。その白い誌面から、文字が音となって流れ出してくるような幻想。
 目を瞬かせてから少し顔を傾けると、その優しい旋律は確かにトロワの唇からつむぎ出されていた。
『je t'aime comme ... 』(…のようにお前を愛してる)
 すぐそばの目は、もうふざけていない。添えられた手は、指先でデュオの前髪をもてあそぶ。軽やかに弾けるような音で言葉を締めくくった唇がそのままデュオの頬にあてられ、緩く笑んで離れた。
 お返しにトロワの頬へ口づけ、デュオも目を細めた。
「もう一回」
 今度はオレも一緒に読んでみるから。
 ウィンク付きでそう言って、自分も本へと手を伸ばす。頷くトロワに心の中で、質問の答えをそっと呟いた。
 だってな。お前時々、フランス語でひとりごと言うんだぜ。
 夕食まで、そうして2人で声を重ねた。


「録音しといてくれりゃあいつでも聞けるじゃん」
「はあ?」
 翌日の夜、デュオがとんでもないことを言い出した。昼間のうちからそのつもりだったようで、データ保存用のメモリーカードも調達してきていた。
「そんな恥ずかしいまねができるか」
「出来る出来る」
 嫌がるトロワを気にもとめず、デュオは勝手に彼のパソコンを取りに立つ。どうせこれも昼のうちに使ってみたのだろうと、諦めてトロワはため息をついた。
「いいじゃん別に。そんなやな顔すんなよ」
 ソファに腰掛けながらデュオは笑うが、隣のトロワは疲れた表情を浮かべて押し黙っている。
「もー、しょーがねえなぁ」
 笑顔を貼りつかせたままトロワへと向き直す。そして、両手をトロワの肩へ載せると、間近で視線を合わせてデュオは言った。
「いつでも好きな時にお前の声聞けたら、オレすっごく幸せだと思うんだけど」
 ん? どう? と更に目の奥まで覗き込むように小首を傾げる。
 ……負けた。
 トロワが頭を下げて、デュオと額を合わせた。
「ほだされたか?」
「…すっかりほだされた」
 よっしゃあ、と楽しげにデュオが声をあげる。我ながら随分簡単に落ちてしまったなと思いつつ、トロワはしっかりとデュオを抱きしめた。
 前から順番に、一晩に2編ずつ録音していくことに決めた。1つの作品をつかえることなく、しかも聴き取りやすく朗読するのは、それなりに気を張るものなのだとトロワは初めて知った。それをデュオに言うと、
「じゃ、また猛練習よろしく」
 と事もなげに言い放つ。そして、一晩に2編という収録計画を打ち出したのだった。
 言われるままに「はいはい」と頷き、トロワは素直に詩集に向かう。ページを開き切ることのできない本は、いっそのことばらしてしまった方が読みやすそうにだったが、その危うさとかすれがちな文字とが詩情を高める効果もあるように感じられた。
 トロワが録音を終えるまでの間、デュオはベッドに寝ころんでじっと耳を傾けていた。
 やがて、全て終えてほっと一息ついたトロワが尋ねる。
「お前、いつまで居るつもりだ?」
「何だよ、邪魔だってか?」
 途端に閉じていた瞼を上げ、不服そうにデュオが言った。そうは言ってないとトロワが寄って来る。
「人の話は素直に聞くように」
「すいませんねぇ、ひねくれ者なもんで」
 ふくれ面は変えずにトロワを見上げる。そのすぐそばの床へ膝をつき、トロワはゆっくりと手を伸ばす。指先でデュオの前髪を軽く上げると、青い目が不安げに少し細められた。
「どうして急に来たのか、俺は理由を聞いていないから」
 現れた時、デュオはしばらく泊めて、としか言わなかった。その前の連絡では、軽い調子で遊びに行くかもしれないと言っていた。だからトロワは何も聞かなかった。そして、こんなに不安になるとは思ってもみなかった。
「一日じゅう一緒にいられる訳じゃない。お前が居なくなっても、俺はすぐには気づけない。ここに戻った時、お前の痕跡が消えていれば、俺は諦めてうなだれるしかないんだ。…別に一生会えなくなる訳じゃないんだがな」
 薄い苦笑を浮かべてトロワは言葉を切った。
 見つめることで目の中に、声を聞くことで耳の中に、髪に触れることで指先に、キスすることで唇に、彼がここにいることを教え込む。
 そんな自分に、トロワはもう一度苦笑う。
「大袈裟だなぁ」
 デュオは呆れたように言ったが、それを追うように、
「…ごめん」
 と、殊勝な呟きが聞こえた。デュオはゆっくりと起き上がる。
「そんなつもりじゃなかった」
 ベッドの上で胡坐をかきながら、デュオは軽く頭を掻いた。さまよう視線が、彼の困惑を表した。
「理由…何となく言いたくなかっただけだ」
 嘘ついてもいいんだけど別に、と続けて、よくない、とトロワに睨まれる。そのまま目を離さないトロワに、うーん、と低く唸ってから、デュオは観念したようにぼそりと言った。
「業務停止処分。10日間」
「えっ、大丈夫なのか?」
 驚くトロワにひらひらと手を振り、
「ああ、まあ、平気平気」
 とデュオは澄まして笑ったが、見上げる相手の目は疑わしそうだ。
「ちょっとした書類上のミスだって。ホント、たいしたことねえから。…ヒルデに聞いてみろよ」
 あまりにもトロワが睨むので、デュオもたまらず言ってみる。すると即座に彼は立ち上がった。
「って、ほんとに聞くかっ!」
 トロワが通信回線を開く。叫ぶデュオの耳にも、すぐにいつもと変わらない元気そうなヒルデの声が届いた。
 2人の会話に入るのは、デュオにはちょっとだけ気が重い。トロワとヒルデは数回会ってすっかり意気投合していて、油断するとその隙を突いてデュオに攻撃の矛先が向く。1人ずつなら何でもないのになぁと、2人が揃うたびにデュオは思うのだ。
『あ、ねぇ、デュオ。何か変な請求書来てるよー』
 渋々近づいて行ったデュオを、通信画面の端にみつけてヒルデが言った。一緒に仕事をしている彼女は、デュオの留守中、郵便物のチェックだけ引き受けているのだ。
『ちょっと待ってね』
 見せようと思って持ってきたのだと言いながら、ヒルデはその請求書を取りに立つ。話がデュオへの用件に移ったので、トロワはデュオに席をゆずって横にずれる。ソファと組になったテーブルに、飲みかけのコーヒーが冷えて残されていた。
『見える?』
 ヒルデが画面に紙を映す。それを覗き込んでデュオが眉をひそめる。
「んー…クソじじい、ふっかけてきやがったな」
 向こうで光の調節などもしながら、細かい文字を何とか見せようとヒルデがあれこれ努力していた。それに見たい部分の指示を与えて一通り確認すると、デュオはむっとした表情で呟く。そして難しい顔でわずかに考え込んでから、
「それ、データで流してくれ。こっちから連絡しとく」
 と言って横目でトロワをちらりと見遣った。書類データの受け取りの許可を求めたのだろうと、トロワは承諾の頷きを返した。
『もう一つね…』
 まだあるらしく、手元の封筒類をヒルデがあさる。そうやって彼女が画面から目をそらすと、デュオはこっそりとため息をついた。
 そうか。落ち込んでたのか。
 隣でトロワはそう思う。デュオが会いに来た訳がようやくわかった。業務停止という処分はそれなりに堪えたのだろう。いつも笑ってやり過ごすから分かりにくいが、彼だって悩みもすれば落ち込みもするのだ。たぶん、疲れて、嫌になって、少しだけ自分に寄りかかりにきたのだ。
 そう気づくと、デュオには悪いが心なしほっとした。
『いつ帰ってくる?』
 ヒルデの言葉にデュオがトロワへ顔を向ける。
「なあ、オレいつまで居ていい?」
「お前の都合のいいだけ居ればいいだろ」
 見つめ返したトロワが静かに微笑む。数秒、目を合わせる。
「…ん」
 安心したように頷いて、デュオはヒルデに向き直した。
「ってことであと6泊かな」
『…はいはい。聞くだけヤボって感じよね』
 要するにめいっぱい泊まるのねと、ヒルデは肩をすくめてみせてから、ごゆっくり、と楽しそうに笑った。
 少し離れた場所でピッと小さく音がして、彼女の送ったデータのプリントアウトが終了した。
 通信を終えて暗くなった画面に、デュオの顔と手の甲が白く映る。そこに寄り添うよう、トロワの指と頬が現れる。
「ん? 何だよ。いきなりその気?」
 背中から抱きしめられてデュオが笑う。
「そう。いきなりその気」
 トロワも笑って首筋に口づける。
 冷めたコーヒーは飲まれることなく、朝までそこに置かれていた。


 肩口が暑かった。脇腹が重かった。首にも腕にも胸にも腹にもこそばゆい感覚があるのは、おそらくまたあの長い髪だろう。
「デュオ…暑い」
 試しに小声で言ってみる。
「デュオ…重い」
 同じ調子でもう一度。
 もぞりと動いたデュオは、離れるかと思いきや逆にのしかかってきた。抱きつき、首筋に顔をうずめて声を出す。
「いーやーがーらーせぇー」
 トロワは脱力して低く唸る。こいつは…と殴ってやろうかと思ったが、そんなことをしてもどうせ笑って済ませるだけなので、それならいっそとくすぐった。だが、ひゃひゃひゃと声をあげはしたが、デュオは離れなかった。
「昼ごろ帰るから」
「ああ」
 ひとしきり笑ってから、息を鎮めてデュオが言う。彼が自分の家へ戻る日がきていた。トロワはサーカスの公演が始まっているので見送ることはできなさそうだったが、その方が気楽でいいとデュオは笑う。
「時計と本とシャツ、置いてくな」
 言って顔を上げる。
「やるよ。俺だと思って大事にしてくれ」
 デュオがニヤリとし、2人は揃って喉の奥で笑った。
 シャワーを借りると言ってデュオが部屋を出ると、残されたトロワはベッドの上で淡いグレイの天井を見つめた。その壁紙の凹凸をなぞるように目で追って、それからぱっと両腕を差し上げる。何も掴むことのないままぐっと握り締めた両手をゆっくりと開くと、それを静かに下ろして自身の肩を抱いた。
 この腕の中に、ずっと彼がいればいいのに。
 深くため息を吐く。
 自分が彼を訪ねて行った時のデュオが、なかなか布団から出てこないのはこういう訳だったのかと思う。
 帰って行くのもつらければ、その場に残されるのもつらいのだ。そうして、自分たちは長距離恋愛をしているのだと初めて実感する。
「けっこう…恥ずかしい言葉だな」
 一人で苦笑して腕を伸ばす。大の字になって目を閉じると、デュオの使うシャワーの水の音が、胸の中まで響いてくるような気がした。
 そのまま、うとうとしてしまったのだろうか。気づくと部屋の中は朝の光でいっぱいになっていて、トランクス1枚のデュオが長い髪をバスタオルでくるんだまま、トロワの顔を覗き込んでいた。
 屈み込み、軽く唇を合わせる。
「寝てんじゃねえぞ」
 口の端を上げて言い、ベッドに座る。彼が開けたのだろうカーテンが、少しだけ入り込む風にわずかに揺れる。
「悪ィ。髪、洗っちまった」
「かまわない」
 蓄えておける水の量が限られるので、シャワーには気をつかうのだ。デュオの洗髪には余計に水を使うため、彼もそれなりに遠慮していたらしい。
「補給を手伝ってもらおう」
 トロワの言葉に、へいへい、とデュオは笑って頷いた。
 そのタオルの間から、幾筋も髪が落ちてくる。濡れてなお波打つ明るい茶の髪に、トロワは手を伸ばすようデュオに近づく。
「お前が俺のベッドに腰掛け…」
「だから、やめろって」
 恥ずかしいなぁ、とデュオが声を高くする。追い払うように手を振るデュオに、トロワも笑って座り直す。
「ちゃんと聞けよ」
 せっかく録音したんだから、と付け足す。おう、とデュオが請け合う。
「そっちもちゃんと訳送れよ」
 せっかく本置いてくんだから、とデュオも言ったが、それはたいした手間じゃないんじゃないかとトロワはしばし考えた。
 タオルを掴んでデュオから取り上げると、トロワは黙って彼の髪を拭う。布と髪の動きに目を細めるデュオの口元に、ひどく静かな笑みが浮かぶ。柔らかな朝の光景への喜びと、乾いた別れへの哀しみ。そんなものが感じられて、トロワは気づかないふりで目を逸らした。
「また来る。居場所だけはっきりさせといてくれな」
「ああ。移動する時は連絡する。こっちも暇ができたらまた会いに行くから」
 やがてそう言い合って、2人きりの時間を終えた。


 歓声にわくテントの中で、デュオも他の客に混じって拍手をおくる。このコロニーはなかなかいいとトロワの言っていた通り、観客の入りは上々だった。見世物の派手さや新しさよりも演技の正確さや美しさを売りにしているこのサーカスは、観客にとってはとっつきやすいものでもあるようだ。数人で行う綱渡りや空中ブランコには小気味よい拍手とかけ声が起こり、道化のパフォーマンスには素直な笑いが生まれた。
 でも知ってる。おどけて失敗して笑いを誘う彼も、同じことをできるのだ。きれいに技をこなすことができるからこそ、彼がクラウンなのだ。
「ドジってる場合じゃねえよなぁ」
 デュオは呟いて席を立つ。
 ちょうど装置の配置替えのために舞台が薄暗くなった。その中で、間つなぎに出てきたクラウンが、一輪車相手のパントマイムを繰り広げる。小さな笑いに大きな笑い。感嘆の声と明るい拍手。
 去りがたくて足をとめる。あのクラウンはオレのだよ、と叫びたくなる自分に呆れて笑う。
 オレも頑張っから、お前もケガなんかすんなよ。
 ようやく、クラウンの退場に合わせてテントを出る。背を押す拍手を胸に納めて、デュオは勢いよく駆け出した。


* NOTE *

『お前が俺のベッドに腰掛け…』
二人が作中で読んだ詩は以下によります。

 『異国の女(ひと)に捧げる散文』
   著者:ジュリアン・グラック
   訳者:天沢退二郎
   挿絵:黒田アキ
   1998年発行・思潮社

 原書:Julien Gracq, Prose pour l'Etrangere, edite pour l'auteur, 1952

作中の日本語訳は、天沢氏の訳にトロワ風味を付加したものとなっております。

掲載日:2001.09.28


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