Pulse D-2

その色につつまれて

「あしたの予定は?」
 夕食後に、ふいにトロワが聞いてきた。彼は後片付けの最中で、食器を洗う手を止めることもそこから視線を上げることもせずに本当にぼそりと口にしたので、五飛は一瞬、独り言かと思ったくらいだった。けれど文末上がりのイントネーションは確かに疑問を伴っていて、しかもここには自分と彼の二人しかいないのだからと、少しだけ体の向きを変えてトロワを見遣った。
 洗剤を流す水の音が、さして広くもないダイニングキッチンを支配する。どちらも声を出さず、焦れた様子も急かすそぶりも見せなかった。
 やがて、洗い物を終えたトロワが僅かに笑みを浮かべながら顔を上げた。ずっと五飛が待っていたのを知っているのだ。そうしておいて一拍置き、もう一度静かに尋ねた。
「明日は忙しいか?」
「いや」
 特に予定はないと答えて、何か用かと五飛は首を傾げた。
「じゃあ、何か欲しいものは?」
 二つの問いにつながりを見つけられず、五飛は更に首を傾ける。そこへ湯の沸いた音が聞こえてきて、ちらりと電気コンロへ目を向けた。
「カップを出して欲しい」
 言うと、トロワは黙って食器棚からマグカップを二つ取り出した。夕食の後のコーヒーはリビングでくつろぎながら飲むと決めているから、そのままカップを持ってトロワは隣の部屋へと姿を消す。それを軽く見送って、五飛はミトン型のなべつかみを手にはめた。
 ゆっくりとドリップして、五飛は今日四杯分になる筈のコーヒーを落としていく。香ばしい香りが広がり、くん、と空気を嗅ぐ彼は機嫌良さそうに見える。リビングからキッチンへと戻ったトロワもそう感じて、同じように楽しそうにしながら並び立った。
「そういうことじゃないんだが」
 だが、続いたトロワの言葉には、五飛ははっきりと不思議そうな顔を見せた。
 五飛を覗き込むように僅かに首をすくめるトロワが、どう言ったものかと逡巡する。ケトルを置き、両腕を胸の前で組んで見つめる五飛は、もっと難しい表情をしている。
「欲しいものというのは、プレゼントという意味だったんだが」
 ようやく口にしても、まだ五飛は静かに首を傾げていて、
「あした、誕生日だろう?」
 と問い掛ける声に、やっと小さく笑みをこぼした。
 忘れていたのかと笑うトロワに、ああ、と答えながら、照れたように彼はミトンを定位置に戻した。こんな時の五飛の表情がトロワはとても好きで、嬉しそうに目を細めた。
 答えを保留したまま、五飛はいれ終えたコーヒーを手にリビングへ行く。柔らかいソファに並んで座りカップに液体が注がれるのを見つめる間も、二人は終始無言のままだった。そんな沈黙も、二人にとっては心地よいものになっていた。
「そうだな…」
 口許にカップを留めて五飛は呟く。それきりじっと彼は考え込んでいたが、ふと思い付いたように目だけ動かして部屋の中を眺め、そうしてようやく口を開いた。
「新しい…カーテン、とか」
 聞いたトロワの方は一瞬動きを止める。それから吹き出しそうにくっと表情を歪めると、目にした五飛が居心地悪そうに聞いてきた。
「おかしいか?」
「少し、な」
 言いながら、今度は本当に笑ってしまって、トロワは小さく謝罪する。
「17になる男の言うことではないな、と。すまん、予想外だった」
 言われて「まあそうだが」と五飛も苦笑した。
 他に何も思いつかない。
 伏目がちに静かに告げる横顔には、困惑よりもむしろ、満ち足りた心の見せる穏やかさの方が色濃い。それを知ってトロワも微笑み、落ち着いた口調に戻って言った。
「なら、明日は一緒に買い物に行かないか?」
 見返して頷き、すぐに目を逸らして、もう一度五飛ははにかむように笑んだ。
 静まり返った夜に、途切れがちに二人の会話が続く。少し冷めたコーヒーを温め直してトロワがゆっくりと注ぐ。その湯気の向こうのテレビ画面に目を止め、五飛がリモコンのスイッチを入れると、ごく低く、映画の台詞が流れ始めた。
 何をするでもない時間が穏やかに過ぎ、やがて壁に掛けた時計が日付の変更を告げる。
「誕生日、おめでとう」
 柔らかいトロワの声に、謝謝、と照れくさそうな声が一言返った。


 灰色の雲の間から薄日がさすと、街は急にいきいきとした色彩を取り戻す。木々の葉は落ち花壇に咲く花もすでになかったが、それでも僅かな下草や常緑樹の緑、建物を造る明るい煉瓦の色、その窓辺に置かれる鉢植えの花、そしてここかしこの道に敷き詰められたタイルとさりげなく配置されたベンチの持つ木の色が、光を受けてほっとしたように現れるのだった。
 秋も終わりに近い。数ヶ月前に比べれば、確かに風は冷たくなっていた。けれどこの辺りは冬と言っても極端に寒くなることはなく、少し南へ下れば一年中温暖な土地へ出ることも出来る。ただ彼らは、自然の変化と移ろう時間とを感じていたくて、この海よりも山に近い街に暮らすようになったのだった。
 街の中央駅に近い一角は、ショッピングモールとしていつでも人々で賑わっている。その中を何件かはしごして、ようやく五飛は好みのカーテンを見つけた。深い緑の針葉樹林をモチーフにした、厚手の大きなカーテンだった。
「暗くないか?」
 トロワが尋ねると、五飛は短く否定する。
「これでいい」
 そうして店員に声を掛けるのを、トロワは黙って見ていた。
 彼らの住む部屋は、日当たりも良く風通しも良い。やや広い通りに面してはいたが騒音と呼ぶほどのものも無く、古い建物の割にきれいで過ごしやすい部屋だった。ただ一つだけ、そう呼ぼうと思えば呼べる程度の難点があった。それがカーテンだった。
 全体に天井が高く、窓が大きい。比例してカーテンも長さが必要になり、全てが規格外になってしまうのだ。引っ越した当初にも五飛はそれを気にして少し探したようだったが、合うものが見つからなかったのか、以前の部屋で使っていたものを掛けて不満気に見上げていたのをトロワも覚えていた。
 寸足らずのカーテンでもそれなりに機能は果たす。そう思って夏場は我慢していたが、冬場にはそうもいかない。天井の高い分室内は冷え込む筈だから、できる限り熱の逃げるのを防がねばならない。それが五飛の言い分だった。
「二時間ほどお時間をいただくことになりますが?」
 店員の声に五飛は頷く。彼の示した寸法を店員が端末に入力するのを眺めていると、並んで立っていた五飛が何か言いたそうにトロワを見遣った。
「構わんか?」
 もう返事をしているくせに改めて確認する彼に、トロワは思わず笑ってしまう。
「勿論」
 そうして発注伝票の控えを受け取り、二人は店を後にした。
 人の流れを抜けて小さな公園に辿りつく。あまり人気はなかったが、それでも何か物売りの姿が見えて、トロワはそちらへ歩いて行った。五飛は一人、ベンチに腰掛けて辺りを眺めていた。
 消えては現れ、現れてはまた途切れる陽光に、従順に色を変える景色を黙って静かに見つめる。水の少ない噴水が、負けじと光に輝きを返すのが不思議なほど清潔な感じがした。
「食べるか?」
 横からドーナツが差し出される。
「ああ、すまん」
 受け取る五飛の横にトロワは腰を下ろす。二人の間に置かれたカップには、熱いコーヒーが注がれていた。
「寒くないか?」
 トロワの問いに、五飛は小さく首を振る。
「ここは空気が清潔だ。気持ちがいい」
 その言い様が彼らしくて、トロワはふっと微笑むとドーナツにかじりついた。
 黙々と口を動かし、公園内を眺めながら、こうして二人で外に出るのはどれくらい久しぶりのことだろうと五飛は思いを巡らす。
 一緒に暮らし始めて一年ちょっと。半年前に住居を変えて、勉強とバイトで一日の大半を過ごす。二人とも家にいることの方が多いと感じていたが、それとは釣り合わないくらい会話は少ない。ましてや揃って街を歩くことなどは、殆ど無いと言ってもいいくらいだった。そんなことを考え僅かに目を伏せた。
「家でゆっくりしていた方が良かったか?」
 だから、トロワの言葉にどきりとした。自分はそんな顔をしていたのだろうかと。
「…お前はそうしたかったのか?」
「いや──」
 ごまかすように聞き返すと、そうではないが、とトロワは口ごもる。
 買い物そのものは街に出なくても出来たし、五飛が人ごみを嫌う質なのも知っていた。それをわざわざ連れ出してしまったから、静かな横顔を見た時に、トロワの方は気が引けてしまったのだ。
 けれど五飛は囁くように言う。
「たまにはいい」
 そうしてまた柔らかい空気を纏わせて飲み物を口にしたりするから、トロワは彼にかけるべき言葉を失ってしまう。何か、ひどく切ないものが胸を満たした。
 黙り込んだ二人の傍を、子供連れの女性が通り過ぎる。彼女の押すベビーカーの中を、こちらもまだ小さな男の子が時折覗き込んでは声を掛けていた。名前を呼んでいるようだったが、はっきりとは聞き取れなかった。
 その一行が木の陰になるまで見送って、ようやくトロワは口を開いた。ゆっくりとしたどこか遠慮がちな口調に、五飛はじっと耳を澄ます。
「家にいると、お前の存在は自然過ぎてしまう。いつでも当たり前のようにお前の気配を感じていて──怖い」
「怖い?」
 眉根を寄せる五飛に、トロワは一つ頷く。
「その価値に、気付かなくなって怖い」
 ほっとするのと、何を馬鹿なと呆れる心とが五飛の中で入り乱れる。そんな大したものかと低く言い捨てて、それでも胸のつかえが取れずに視線を落とした。トロワは横目でちらりと見遣ったが、別段言い返すこともしなかった。
「外に出れば自分の居場所も、お前の位置も、他人の視線も気にする。家にいる時よりも、お前の存在を意識していられる」
 それに、とトロワは続ける。
「俺はいつでもお前に何か特別なことをしてみせたいと思っている。だが思うようにはいかないから、誕生日というのはいい口実になる。…助かるな」
 そして今度は澄まして笑った。
 一瞬だけ目を向けた五飛が微かに表情をやわらげる。
「──それならいい」
 言って前屈みに姿勢を変え、手の中のカップを見つめた。
 彼の言葉は少ないから、トロワはともすると不安に襲われる。確かめたくて口を開きかけても、トロワの方にも紡ぐべき言葉が無い。想いには確たる形が無く、取り出して見せることも、見せてもらうことも出来はしない。
「本当に、他に欲しいものはないか?」
 仕方なく笑みを張り付けたまま尋ねると、五飛もそのまま静かに首を振る。
「思いつかない。十分すぎるほど──」
 満たされている。
 そう言葉を続けすっと目を細めた表情の、どこか悲しげな雰囲気に、トロワは笑みを消し同じようにやや身を屈めて彼を覗き込んだ。
「俺は…ずるいと思う」
 暗い沈黙の後に五飛は告げる。その台詞の持つ意味を、トロワは懸命に考える。
 そうして、多分また彼は厳しいことを考えているのだろうと思う。
「こんな風に暮らす資格はない筈だ」
 耐えるよう唇を引き締める五飛に、そうではないと言いたい。彼は十分すぎるほど辛い思いをしてきたのだから、もうそんなに自分を責める必要はないのだと言ってやりたい。けれど、そう簡単に割り切れることではないことも知っていた。
「そういう気持ちを忘れなければいいんじゃないか?」
 トロワの言葉に五飛はちらりと彼を見遣ったが、黙って小さく頷いただけだった。
「やはりどこか建物に入ろう。冷えてきた」
 トロワが言って、二人同時にコーヒーを飲み干した。


 繰り返し「他には?」と尋ねるトロワに、しまいには呆れながら五飛も考えて、再びモール内を歩き回った。苦笑と共に出した答えはソファカバーとテーブルクロスで、若い男ふたりがあれこれ検討を重ねる様は、微笑ましくもあり奇妙でもあった。
 ようやくそれが決まった時には日も暮れかけており、急いでカーテンを受け取ると、荷物を抱えたまま夕食へと赴いた。当然家へ戻ったのは夜になってからだったが、いそいそと荷物を解いていく五飛を見ているのはトロワにとって実に楽しいことだった。
「──森の中にいるようだな」
「だろう?」
 様変わりした室内を見てトロワが呟く。ソファに腰掛けた彼の背後に立つ五飛は、心なし得意そうに見えた。
 殆ど壁一面を覆うカーテンは部屋全体に対してかなりの影響力を持つ。そこに暗い色を置くことで部屋そのものまで暗くなることをトロワは予想していたのだが、実際に入れてみると、それはむしろ、落ち着いた柔らかい色に見えた。
 そこには、一部分だけ見たのでは分からない、どこまでも続く森があった。広い布面をフルに使い木々の重なりや薄灰色の雲、飛び交う鳥まで描かれたそれは、この大きさを得て初めて意味を成すもののように思われた。
 見上げるトロワの座るソファにも、新しいカバーが掛けられている。同じ深い緑色で、少し毛足の長い布を用いて贅沢な風合いを持つ。目の前の小さなテーブルにはやはりダークグリーンの無地のクロスが置かれ、森へ続く緑の道を作っていた。
 オフホワイトの壁と木肌を模した色合いの床。作り付けの棚も古びた木製品で、全てが静かに森へと取り込まれていた。
「気に入ったか?」
 遠慮がちに掛けられる声にトロワは頷く。そしてすぐに、そうではないだろうと小さく笑って振り向いた。
「お前の方こそ、満足いったか?」
「勿論だ」
 躊躇無く五飛が答える。その笑顔をこちらこそ満足そうにトロワは見上げる。けれどさして間を置かずに五飛はやんわりと彼の頬に手を当て、前を向くようにとトロワを促した。
「とても気持ちの良い一日だった。感謝する」
 降ってきた言葉に目を上げようとするのに、
「動くな」
 と、命令口調で返す。そうして、おとなしく従ったトロワへ口を寄せるよう、ゆっくりと上体を伏せていった。トロワが身を固くするのが伝わった。
「Danke schoen.」
 言い慣れない音に耳慣れない声。それが余計に込められた感情の強さを思い知らせた。
「Danke, Trowa.」
 トロワの髪に額をつけて、静かに腕を下ろしていく。動かないトロワを強く抱き締めて、何度も低く彼の名を呼んだ。
 深い緑を見た時、本当は、トロワの瞳を思い浮かべた。普段は暗く静かな色を湛えながら、時折日に透ける色は驚くほど明るく透明感を持つ。五飛へ向けられる目は穏やかで、そのくせふいに口の代わりに何かを語ろうとするように揺れるから、何だかいたたまれなくなって五飛は目を逸らしてしまう。それでもこの色が好きで、包まれていたら安心できそうだと思った。
 こんな話をしたら、きっとトロワは喜ぶだろうと思う。しかし照れくささの方が勝る。ただ、苦しいほどの幸福感に押されて、トロワの名前ばかりが口をついて出た。
 やがてトロワがふっと力を抜き、ようやく五飛は囁きを止める。すると、五飛に寄り掛かるよう首を反らせて呟くトロワの声が聞こえた。
「小さくて大きな幸せか…」
 微かに笑うような響きもあった。
「ずるいのは俺の方だ」
 そして続いた言葉に、五飛は僅かに顔を上げた。
 いつでも嫌がらずに傍にいてくれる人がいるというのは幸せなことだ。トロワはそう思う。それが、自分の好きな人間ならなおさらだ。そうして一緒にいるだけで十分なのに、その相手がこんなにも自分を呼んでくれる。これ以上、何を望めばいい?
「動いてもいいか?」
 トロワが言って、五飛は腕を解く。そのまま離れようとする彼を、体ごと振り返ったトロワが腕を取って押さえた。互いの顔がすぐ間近にあった。
 まっすぐに見上げる深緑の目を、漆黒の瞳が同様に見下ろす。何だと問おうとする五飛を制止するよう、トロワの瞼が微かに伏せられた。
「好きだ」
 告げられた台詞に五飛は目を瞬かせた。
「お前のことが好きだ、五飛」
 続けて言い、それから照れて笑いトロワは更に続ける。
「面と向かって言ったことがなかっただろう?」
 傍にいると約束し、共に暮らすようにもなった。何度もキスをしているし、抱き合って眠ったこともある。けれど言葉にしたのは一度だけ。その一度すら、自分の表情は見せずに告げていた。漸く、目を見て言うことが出来たのだった。
 つられたように五飛が照れる。その腕から手を離し、トロワは五飛の髪を掻き上げた。ソファの上へ膝をつき、伸び上がってそっと口付ける。
「五飛…」
 そうしながら、確かめるように繰り返し五飛の名を口にした。
 どれだけ好きか痛感する。どれほど大切か思い知らされる。そう感じることの、何と甘くこの身に痛いことか。そしてまた、この痛みをもっても彼を手放すことは出来ないのだと、きつく五飛を抱き締めた。
 どれくらいそうしていたのか。時計がいくつか鐘を鳴らし、トロワはゆっくりと顔を上げた。何かを迷うような五飛の目に迎えられたが、動じること無くトロワは微笑んだ。
「何も言わなくていい。…無理はしなくていい、嘘はつかないでくれ」
 こんな時は五飛の考えが手に取るように分かる。彼は、自分もトロワに答えなければと思っているのだ。それがうまく出来なくて迷う。だからトロワの方で、迷う必要はないと言ってみせる。そうすれば。
「Danke.」
 すまなそうに、けれどほっとしたように、せめてトロワを安心させようと彼の方から口付けてくれるのだ。
「謝謝」
 トロワが返し、顔を見合わせて笑った。
 この日四杯目のコーヒーを、森色の部屋の中で口にする。明日の予定は? と尋ねる五飛の声に午後からバイトだと答えると、では、と五飛が柔らかい視線を向けてきた。
「外で朝食を摂らないか?」
 いつもは一人で行っているから。
 言外にそんな思いを込めて言う。
「喜んで」
 答えるトロワの声が、耳に優しく響いた。

掲載日:2003.05.21


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