Pulse D-2

そうかもしれない

 目覚めた時、五飛はどこかぼんやりと違和感を感じた。
 天井はいつもと変わらない。壁にも変化は見られない。布団はきちんと掛かっていたし、机の上にも変わった様子はない。カーテンは外からの光で透けていたけれど、その光で薄明るく見えている室内は、昨夜のまま静かに彼を包んでいた。
 起き上がり、ベッドの上で辺りを見回す。小さく首を傾げ、続けて軽く伸びをする。何が違うのか分からない。
 床に降り、カーテンと窓を開ける。普段より二時間ほど遅い朝の空は少し曇って、気温は前日よりかなり低く感じられる。大きく深呼吸。僅かに息が凍った。
 カーディガンを羽織ると、五飛はパジャマのまま部屋を横切る。振り返ってもう一度室内に視線を走らせ、それから扉を開けてようやく謎が解けた。
 匂いだ。
 部屋から直接つながるダイニングキッチンにトロワの姿が見えている。その、テーブルに新聞を広げた彼の周りには、珍しく紅茶の香りが満ちていたのだった。
「今朝はコーヒーではないのだな」
 軽く顔を上げた彼に、五飛はそう言って歩み寄る。トロワは、おはよう、と小さく口にしてからカップに目を戻した。
「きのう買って帰る筈だったんだが、忘れた」
 豆がないんだ、と肩をすくめる。
「ふうん…」
 どこか釈然としない様子で頷いて、五飛は自分のカップを取り出した。
 パサリ、と新聞のページを繰る音がした。
 コーヒーとはまた違ったやわらかな香りのする液体を、五飛はことさらゆっくりと飲む。まだ体が起きていないという自覚があった。
「課題は上がったのか?」
「ああ。一時間前にな」
 トロワの問いに、もう提出した、と言って五飛は小さくあくびをする。実質三十分の睡眠ではいくら五飛でも眠い。それでもベッドを出たのは、これからバイトに行かなくてはならないからだった。
 それを考えて今度は大きく溜め息を漏らす。そんな彼を、トロワは複雑そうに見つめていた。
「休んだ方がいいんじゃないか?」
「……行くだけ行ってみる。一度引き受けた仕事だ、半端にはしたくない」
 今日必要な分だけでも済ませてくる。五飛はそう言うとカップを口に運んだ。
 あやうく、頭の働かない頭脳労働者ほど役に立たないものはないだろう、と言いそうになったが、すんでのところでトロワは口を噤む。そうして、思っている自分の方が余程ぼうっとしていることに気づいた。
 こめかみに軽く指をあて、目を細めて紙面を凝視する。先程からなかなか頭に入ってこない文章に、苛々と重い息を吐く。飲み物に手を伸ばして気を落ち着けようとするが、一つの記事を読み終えるよりカップが空になる方がずっと早かった。
 いつもと同じことをしているのに妙に辛そうなトロワを、しばらく怪訝そうに五飛は眺める。それから何かに思い当たって、すっと手を伸ばした。トロワの前髪の下に差し入れてその額に触れる。
「やっぱり」
 熱があるぞ、と五飛は低く告げた。
「えっ…」
 トロワは驚いて自分の額に手をやる。…よく分からない。
「寝冷えでもしたかな」
 言いながら首の後ろにも手を当てて、ようやく熱いかもしれないと感じる。
「いや…」
 だが、五飛は僅かに考える素振りを見せてから、トロワの言葉に違うだろうと緩く首を振った。
「多分きのうの夜からだ。お前、夕食のときに妙にこぼしていただろう」
 あの時にもう熱があったのだと、気づけなかったことに苛立ちを覚える。けれど勿論、そんなことは口には出さない。
「自分で気づけ、馬鹿者」
 冷たく言って紅茶を飲み干した。
 新聞をたたみ溜め息をつき、トロワは軽く首を廻す。首筋も肩もひどく凝っていたし、眠いせいかと思っていただるさや微かな頭痛も、発熱のためだと言われれば確かに納得のいくものだった。
 今日は何もないのだろう? と予定を尋ねる五飛に、トロワはレポートの資料を整理するつもりだったと答える。
「おとなしく寝ていろ」
 言われてトロワは短く唸ったが、別段反論するわけでもなく立ち上がった。五飛が二人分のカップを流しに運ぶ。
「食事はいいのか?」
「ああ」
「昼も抜きになるぞ」
「…寝てる」
 トロワが朝食を摂らないことは珍しくなかったが、このまま五飛が出掛けてしまえばきっと彼は昼食もなしにしてしまうだろう。そう思って確認してみるが、既に寝る気になっているらしいトロワは、軽く手を振って自室へと消えた。
 五飛は台所の時計に目を向ける。午前8時15分。朝食は行きがけにファーストフードでいいとしても、規定の仕事の開始時刻までには余裕がなかった。
 ちっ、と小さく舌打ち。少しでも眠ろうと思ったのが裏目に出たか。思って、それから何かを少し迷ってから、五飛は洗面所へ向かい、取り敢えずハンドタオルを濡らしてトロワの部屋へと持って行った。
「極端な冷やし方はしない方がいいと思うが…乾いたら自分で濡らしに行け」
 冷たいタオルが額に置かれると、トロワは静かに目を開けて、
「それくらい出来る。たいしたこと無いから気にするな」
 と返して再び瞼を下ろした。五飛は暗に、氷も洗面器も無いから、と言っているのだろう。彼のことだからボウルや鍋に水を張って持って来ることも考えたかも知れない。そう思うと、申し訳なくも口元がほころんだ。
 小さく頷いた五飛は、すぐにトロワにパジャマのありかを尋ねる。汗をかいたらすぐに拭け。そうしたらさっさと着がえろ。いつまでも冷たい寝巻きで澄ましているな。喉が渇いたと思ったら水分を取れ。俺のスポーツドリンクがあるから、欲しければ飲んで構わない。
 言いながらパジャマを取り出し、五飛は窓際の机を見遣った。
 衣類を置こうと思っていた机の上は本とコピーとトロワのメモとで一杯になっていた。パソコンの電源も完全には落ちていない。忙しく提出物の下調べをしていたのだろう。調子の悪いまま、彼もかなり遅くまで起きていたのかもしれなかった。
 仕方なく五飛は椅子の上にパジャマを置く。それから洗面所へ戻り、汗拭き用のタオルを取ってくる。それをパジャマの上に重ねて、椅子をベッドサイドに寄せた。
「薬はいるか?」
 試しに聞いてみると、トロワは目を瞑ったまま、予想通り首を横に振った。
「無駄にするだけだ」
「まあな」
 買った分を使い切らずに治る、という意味だ。勿論、残りをすぐに使う可能性も低い。また、トロワは体質的に薬物が効きにくいのだと聞いたことがあった。それが元からのものなのか、それともエージェントとしてそう変化させられたものなのかとも尋ねてみたが、トロワは分からないと答えていた。きっと、本当に知らないのだろう。逆に、五飛には効きすぎる気があり、二人とも薬というものを敬遠している感じがあった。…それでは少し困るのだが、と思いながら。
 意外なほど素直にトロワが眠ろうとしているようなので、五飛の方も邪魔をしないようにと黙り込む。
 目を覚ました時の為に、何か用意してやった方がいいだろうか。
 そう思ってもう一度トロワを見遣る。だが、もう本当に五飛の方にも時間がなかった。
「すまん…」
 低く口にして、彼は部屋を後にした。


「トロワ君、お熱下がった?」
 自分を君付けで呼ぶ女性など、トロワには覚えがなかった。だが、その声には確かに聞き覚えがある。夢を見ているのだという自覚と共に、懐かしさと安心感と顔の見えないもどかしさが浮かんできた。
 そうするうちに、ふいに冷たい掌が額に当てられ、トロワは少し緊張して息を吸い込む。それから前髪が掻き上げられて、それまでより僅かに温かいものが触れてくる感触が伝わり、そっと息を詰めた。
「少し上がったな」
 低い声が囁く。独り言だろうと放っておく。
 すると、一度部屋から出て行く音がして、水道を使う音と冷蔵庫を開けたらしい音が続き、そのまま再び誰かが部屋に入って来る気配へとつながった。
 さっきよりずっと冷たい布が額に置かれる。薄く目を開けると、離れていく五飛の背中が見えた。彼がカーテンを閉める。途端に部屋の中は薄暗くなり、静けさも増したような気がした。
 振り返った五飛と目が合い、トロワは軽く目を細める。
「腹は減ってないか?」
「いや、喉が渇いた…何時だ?」
 14:00。
 答えた五飛に「早かったな」と掠れた声で言うと、
「ああ。俺も眠いから」
 と五飛は苦笑した。朝の会話の通り、必要とされる分の仕事だけはこなしてきたのだろう。律義な彼の性格に、トロワは頭の下がる思いを感じながら小さく頷いた。
 冷蔵庫の中のスポーツドリンクと、夜食代わりに二人の愛用しているインスタントのコーンスープの袋が、五飛の留守中に空になっていた。一度は着替えもしたようで、用意していった替えのパジャマとタオルも、ベッドサイドから消えていた。
「何か作るか?」
 小型の清涼飲料のパックを手渡しながら尋ねる。スープなりシチューなり、体を温めるものを作ろうかと思ったのだが、トロワは緩く首を振っていらないと返した。
「少しでも食べた方がいい」
「…そうだな――」
 それでも五飛の言葉に異論はなく、トロワは考える素振りを見せる。何か思い当たるふしがあるらしく、何かを言いかけては首を傾げる。そんな仕種は珍しくて、五飛の方もトロワの動きに合わせて首をひねってみたりした。
「リンゴを…2個」
「2個?」
 ようやくそれが何なのか分かって、トロワは一人で小さく笑って口にした。そして、2個いっぺんに食べるのかと確認する五飛に再び首を振った。
「ひとつは俺が食べる。もうひとつはお前が食べるんだ」
 何だそれは。
 まじめに聞いていたのにこの男はまたふざけていたのかと、五飛は眉間に皺を寄せて黙り込む。それに気付いてトロワが付け足した。
「ひとつめを食べている間に次も剥いてもらうんだが、ひとつ食べ終わる頃には疲れてしまって、結局ふたつめは看病してくれている彼女が自分で食べることになってしまう」
 だがもしかしたら今なら二つ食べられるかもしれないな。
 トロワはそんなことを言っていたが、五飛は別の部分を尋ねたくてベッドに腰を下ろした。
「誰がだ?」
「何が?」
「だから、誰が看病したのだ?」
 語調が強くなる。すまん、とすぐに五飛は小さく謝罪する。それに曖昧に頷いてから、
「誰だろう…?」
 と、トロワは考え込んだ。
 はっきり分かっているのではないのかと、また憮然としながらも、五飛は深く追求せずに立ち上がった。一旦、台所へと姿を消し、すぐに戸口へ現れる。
「どっちがいい?」
 右手に青いリンゴ、左手に赤いリンゴ。
「買ってきてくれたのか」
 嬉しそうにトロワは言う。
「俺も食べたかったからだ」
 済まして言うが、トロワの表情に少しだけ機嫌が直った。
 トロワは青いリンゴを好んでいたが、今はひとつずつ食べると言っておとなしくベッドの上で待っていた。熱でぼうっとした頭に、リンゴをいくつかに切り分ける音が、トン、トンと切れ切れに響く。布団の中で聞く調理の音は、何故こんなにくすぐったいのだろう?
「ほら」
 ひとつめを切り終えた五飛が、皿を手にしてやってくる。だが、手渡しがてら見遣ったトロワは恥ずかしい程の笑顔で、五飛は居心地悪そうにキッチンへ取って返す。途中で振り返って見てみると、小さめに切られたリンゴをフォークで刺して、実に楽しそうに食べていた。
 本当に病人か? と思いながら、ふたつめのリンゴの皮を剥いた。
 結局、トロワは1と3分の1個のリンゴを食べた。


 薄暗い中で目を覚ますと、それがどういった時間帯なのかと困惑する。朝か、夕暮れか、それとも降雨の前の暗い昼か。だが、24時間表示の時計がその疑問を晴らすとすぐに、五飛は起き上がって隣の部屋へと足を運んだ。
 夕方の弱い光を更にカーテンで遮った室内は、病人の持つ独特の空気に満たされている。熱っぽく重い息を吐きながら、トロワは壁側を向いて眠っていた。
 三度、額に手をあてがう。トロワが緩く寝返りを打つ。
 その様子にやはり薬を買って来ようと考えながら、枕の脇に落ちたハンドタオルを拾い上げた。冷たくはないがまだ僅かに湿っている布で、トロワの額から胸元までの汗を静かに拭う。ごく薄く目を開けたトロワに、
「眠っていろ」
 と告げると、彼は言われるままに瞼を下ろした。
 食糧のストックを確かめ、洗濯機を回し、他に何か忘れてはいないかと室内をぐるりと見回してから、五飛は買い物のために外へ出る。すぐそばのマーケットへ足を向け、買い物リストと売場の配置とを頭の中で照らし合わせる。
 そうしながら一方で、明日までに熱は下がるだろうかと考えて、そんな自分にむっと唇を結んだ。
 他人の世話など面倒だ。仕事でもなければ義務でもない。やらなければならないことは他にいくらでもあるし、放っておいても自分でどうにかするだろうとも思う。なのに、気にせずにはいられない。
「厄介だ」
 じゃがいもの山を睨みながら呟くと、横にいた女性が怪訝そうに目を向けた。五飛が横目で見遣る。慌てて視線を逸らし、彼女は離れて行った。
 五飛はまた、むっと押し黙った。
 買い物用のカートに必要なものだけを適確に入れながら、五飛はトロワへと考えを戻す。
 昼間のアルバイトはいいとしても、明日は二人揃って夕方からの講義を取っていた。それは、数の上では決して多くない彼らのカリキュラムの重なる部分で、聴講と質疑応答、そのレポート提出によって単位が付与されるものだ。
 聴講の申込みは受理されている。欠席は、最後までついて回る学生個人を評価するためのデータとして記録される。レポートの出来や試験の結果より余程重要視されるポイントだった。
 受講のキャンセルさえ避けられればいい。質疑応答はポイント加算制だから、参加しなくても問題はない。自分が一緒に受けるのだから、レポートに関してもまず問題ないだろう。なら、熱さえ下がれば何とかなるか。
 ひとまず今夜一晩様子を見よう。朝になっても回復していなければ、トロワが何と言おうと医者を呼ぼう。夕方3時間動ければいいのだから――
「だからそういうことを考えるのが鬱陶しいというのだ!」
 気のよさそうな肉屋の主人が、びくりと体を揺らして何事かと彼を見る。
「あ…」
 すみません、何でもありません。素直に謝罪してシチュー用の肉を購入した。
 ほらみろ、貴様のせいで余計な恥をかく。
 理不尽だとは思いつつも、声に出さずに悪態をつく。どう考えても、こんな風に他人を気にかけるのは好きではないのだ。
 だがきっと、自分が熱を出したりしたらトロワは嬉々としてこまごまと世話をやくのだろう。その様子は容易に想像できて、五飛は顔を覆いたくなる。
「…恥ずかしい」
 今度は、右手にいた男の子が興味津々に覗き込んできたが、五飛は顔を背けてさっさとその場を離れた。
 やがて薬局の前へと辿り着く。だが、処方箋なしで買える薬は限られていた。そうだったと、妙なところで一般の生活に馴染んでいない自分を発見する。いや――柄にもなく動揺しているのかもしれない。そう思い至って溜め息が漏れた。
 気を取り直してできる限りシンプルな解熱剤を買う。ついでに氷枕の類いの売場を尋ねると、若い女性の店員を一人つけてくれた。
「今いちばん売れているのはこちらになります」
 言いながら彼女の取り上げた商品は、薄い小さな枕だった。表面には柔らかく毛足の長い布が巻かれていたが、それを外すと、青と水色の2色の丸い印のついた本体が現れた。
「5段階に温度調節が出来るんです」
 手で5を示してみせる。状況に合わせて、マイナス10度からプラス10度まで温度の設定ができるようになっているとのことだった。
「ついでに温めるタイプもございますので、ご入り用の際にはどうぞ」
 付け足しの宣伝も忘れない。覚えておこう、と五飛は頷いた。
 額に乗せるタイプや貼りつけるタイプ、バンダナ式のものやもっと大きめの枕タイプもあったが、五飛は最初に薦められた人気商品を買って帰った。トロワがまだ眠っているのを確認して、袋から取り出す。
『常温ではプラス10度を保っております。必要に応じて5度ずつ温度を下げていくことができますので、お好みに合わせてご使用下さい。また、長時間のご使用に際しましては附属の緩温布をご利用下さい』
 厚さ6ミリ程の枕の裏面に温度別の使用パターンが描かれていた。丸い印を指で強く押して使うのだ。その押す位置が、使用温度によって異なるのである。
 0度の設定は簡単だった。五飛は水色の丸を順番に親指で押していった。
 枕の内側は格子状に区切られている。それは外側から触ってみるとよく分かった。その区切りごとに違う物質が配置されており、格子に合わせてプリントされた丸印を押すことによって細い連結部から各物質が流れ出て、ゆっくりと結合していくらしい。反応時に温度を下げ、時間の経過と共に逆の反応を示して10度に戻る。同時に、元のセル内にも戻るよう設計されているそうだ。図入りでそんな説明書きがされていたが、勿論成分の詳細は企業秘密だった。
「面白い…」
 触った感じでは中はゲル状だ。使用パターンの違いは、物質の量と触媒の種類の違いだろう。見た目も使用法もシンプルだが、中身は結構手の込んだ商品のようである。これに使われている物質は何なのか、今度、バイト先の研究室で尋ねてみよう。
 そんなことを思っているうちに、枕はすっかり冷たくなった。
 店で見たのと同じ触り心地のいい布を手に取る。冷た過ぎないようするための緩温布となってはいるが、二層構造で保冷の役目も果たしているようだ。それを枕に巻きつけて五飛は立ち上がった。
 部屋へ行ってみると、トロワはまた壁の方を向いて眠っていた。五飛にも共通の、心臓をガードする体勢だった。それが今は更に、背を丸め、顔を毛布に隠すことで他者を拒絶しているように見える。自分しかいないのにと、少しだけ五飛は胸を痛める。それから、濡れて張りつく髪に触れても、冷たい枕を置くために頭を動かしても、目を覚ますことなく荒い呼吸を続けるトロワに、いましがた一人で面白がっていた自分を反省した。
 実際にトロワが起きてきたのは、五飛が夕食を終えてからだった。
「どうだ?」
 五飛が調子を尋ねると、トロワは曖昧に首を傾げてから、
「少し、腹が減った」
 と答えた。いい傾向だと五飛は軽くシチューを温め直す。
「お前の愛を感じる」
「…殴るぞ」
 ひとくち食べてにやけるトロワを睨んで言い返しはしたが、言葉ほど悪い気はしなかった。
 自分で起きて来られたなら上等だ。
 だるそうな様子は確かにあったが、軽口をたたくトロワに少し安堵して五飛は一度キッチンを出た。乾燥させたままだったトロワのパジャマを取り出して、タオルと共に持ってくる。そのままトロワの部屋へと入って行ったが、やがて枕だけを手にして自室へ移った。
 トロワが最後のひとくち分を掬い取ったところで、五飛は顔を出して扉を開け放つ。シチューを飲み干しながら目を向けると、彼はトロワの隣に椅子を引いてきて言った。
「着替えたら俺のベッドで眠れ。俺はお前の布団を乾かしてからそっちで寝る」
 汗を吸って冷たくなった毛布も、地下にある住人共同の大型ランドリーでなら洗濯と乾燥ができる。その間に室内でのマットレスの乾燥も終わるだろう。
「だいぶ汗をかいたらしいな」
 左手を伸ばしてトロワの髪を掻き上げる。普段よりぼんやりとした深緑の目が、ひどく嬉しそうに細められた。
「こんなにお前に優しくしてもらえるなら、たまには熱ぐらい出してもいいな」
 だが言った途端に、ぺち、と額をはたかれた。
「冗談ではない」
 五飛は、湯の入ったカップと薬の袋を差し出した。
「薬は…」
「嫌でも飲んでおけ」
「命令か?」
「命令だ」
 強く言い切られる。いつの間に五飛に命令権が生じたのだろう、と思わなくもなかったが、世話になっているのも事実なのでトロワは渋々と薬を手に取る。
「明日は講義がある。朝までに治せ」
 打って変わって静かな声で言われては、黙って頷くしかなかった。


 00:00。
 画面の隅で時計の表示が変わる。その小さな動きが目に入ったことで、五飛は自分が時間ばかり気にしていたことに気づいた。
 そろそろ枕の使用時間が切れる。
 思いながら腰をあげる。そして、少しもデータの整理がはかどっていないのに呆れて小さな端末を待機状態にすると、途端にキッチンは夜中の静けさに包まれた。
 立ち並ぶ建物の似たような窓、細い路地とひらけた通り。人がいない筈は無いのに、車の音も人の声も少しも聞こえてはこない。普段なら当たり前に二人で動いている時間帯に、一人だけ取り残されたような奇妙な感覚が生まれる。寂寥感か、心細さか、無聊(ぶりょう)か…
 コンッ。
 気を引き締めるように軽くテーブルを叩いて、五飛はその場を離れた。
 真っ暗な五飛の部屋に、ダイニングキッチンからの光が遠慮がちにさし込む。布団の足元部分だけが明るくなるよう気をつけて、五飛は自分のベッドに横たわっているトロワへと歩み寄った。
 机の上のタオルを取り、額の汗をふき取る。次に手をあてて熱の状態をみる。そして最後に、少し落ち着いたようだと思いながら額を合わせて様子を窺った。
 一日何回こうしているんだか。
 考えると苦笑が洩れる。自分でも意外だった。
 しばらく間近で見つめていたせいか、身じろいだトロワが薄く目を開ける。
「Mutti…」
 だが、呟かれた言葉に五飛は、うっ、と表情を引きつらせる。
「誰がお前の母親なのだ」
 ひとことだけで眠り込んだトロワを、五飛は眉根を寄せて見下ろした。
 彼の記憶に間違いが無ければ、『Mutti』=『Mam』(ママ)の筈だ。トロワにそう呼ばれる筋合いはない。
 ただ、これではっきりした。トロワの言ったリンゴを剥いてくれる彼女とは、彼の母親のことだったのだろう。終戦後、個人情報の確認の際に、自分の正規のIDが残されていると知ってトロワは驚いていた。とっくに抹消されたと聞いていたんだ、と苦笑していたが、同時に明らかになった筈の血縁関係については一言も触れなかった。
 一緒に暮らし始めて三月あまり。未だに、五飛は何も聞いていなかった。
 ひとつ深呼吸をして、五飛は上体を起こす。ゆっくりとした動作で枕を取り上げ、巻いてある布を取り外す。そのまま机の上に置く。加圧のない状態で10分ほど休ませてから、再度使用するのだ。
 卓上の時計でもう一度時刻を確認して振り向くと、ベッドの上ではトロワが枕に抱きついていた。冷たくなくなって物足りないのかとも思ったが、心地好い場所を探して頬をすり寄せる姿はまどろみの中で甘えているようで、見ていた五飛に新鮮な驚きと笑みを浮かべさせた。
 だが、その甘える相手はいったい誰なのか。
「五飛…」
 そう思ったところで声を掛けられ、こころなし嬉しくなって五飛は微笑み返した。
「少しは楽になったか?」
 薄く目を開けたトロワが、ああ、と短く肯定する。それから小さな冷たい枕を探して僅かに体を浮かせた。
「そこには無い。10分休憩だ」
 言われたことがよくわからなかったらしく、トロワは首を傾げたが、枕が無いことだけは理解できたようで黙って元通り寝ころんだ。
 何か飲むかと尋ねると、トロワは冷たいものを少しだけ欲しいと言う。昼間買ってきた清涼飲料のパックを五飛が取りに行く間、トロワは体を起こして数回肩を上げ下げする。体じゅうが軋んでいるようだ。
「着替えは必要か?」
「そうだな…上だけ替えたいか」
 飲み終えて、五飛の問いに今度はそう答える。それから、うーん、と伸びをして、差し出された着替えを受け取りながらトロワは軽く笑った。
「まとめて洗ったな?」
「まぁ――許せ」
「別にかまわない。世話を掛けているのはこっちだ」
 洗濯されたパジャマはいつもよりふわりとしていた。そう言うと聞こえはいいが、何のことはない、毛布と一緒に洗濯したために細かい毛が表面にくっついているのである。それをトロワは笑ったのだった。
 けれど、そのままうっすらと目を細めて、彼はしばし口を噤む。また何かを思い出しているのだろうかと、五飛も黙り込んだ。こんな時のトロワは見ず知らずの人間のようで、五飛は落ち着かなげに視線をさまよわせる。そんなことを感じる自分をまた滑稽に思いながら。
 静かな表情のまま、やがてトロワは着替えを始める。背中の汗を拭いてやろうかと五飛もタオルを手に寄り添う。だが、横から背へと手を伸ばす間に、トロワが腰に腕を回してきた。
「…おい」
 抱きついたままトロワは動かない。
「また熱が上がるぞ」
 うん、と一度頷いたようだったが、それでも彼は姿勢を変えなかった。
「夢を、見た」
 そうして低く告げた。
 家族の夢だろうか、と五飛は思う。思ってしまったら、不思議な程、言葉が出てこなくなった。自然と、トロワからも目を逸らす。だが、気づかないトロワの台詞が続く。
「脈絡のない、曖昧な、切れぎれで矛盾だらけの夢だ」
 熱のせいだろうな、と腕を少し緩める。
「だが、時々とてもはっきりとしたものがある。サボテンの花とかよく知った声とか、カーペットの色とか小さなリュックとか――」
 ゆっくりとした口調がそこで途切れ、トロワは五飛を解放する。見える筈のない遠くを見遣るような目を、五飛は避けるように、乾き始めた彼の背中の汗を拭う。うなじから首筋を辿ってトロワの視界に入ると、あとは自分で拭けとタオルを差し出したが、それを受け取ろうと伸ばされた手は、タオルを掠めてから思い直したように五飛の手首を掴んだ。
 すぐそばの五飛を見上げる。そこで初めてトロワは、彼がすっかり表情を消していることに気づいた。
「…何か悪いことを言ったか?」
 焦って尋ねてしまう。すると、「何故そう思う?」と五飛は逆に聞き返してきた。
 お前が泣きそうだから…
 明らかな答えを、それでもトロワが言い淀むと、
「早く着替えてしまえ」
 と促して、五飛はベッドの端に腰を下ろした。
 うまく作られ過ぎた人形のような冷たく整った横顔を、トロワはしばし見つめて彼の心中に思いを巡らす。そして、自分が何を話そうとしていたのかも、もう一度よく考えようとした。
 汗を拭いてパジャマに袖を通す。柔らかい布地と清潔な香り。熱を測る冷たい手。胸を痛めながらもそばにいる、大切な相手の寂しげな背中。
「今日だけのことじゃなくてな」
 トロワの声に、五飛は少しだけ顔を向ける。
「お前と暮らすようになって、時々、昔のことを思い出すようになったんだ」
 説いて聞かせるような口調は、トロワもまだ迷っているという証拠だった。理詰めの得意な彼が、整った理論ではなく、不確かな感情や自分の中に眠る感性を伝えようとする時の、少しずつ理解してまとめながら話していく態度だった。
「夢の中にはっきりと現れるのは、その思い出と一致する部分だ」
 とても断片的な、連続性も一貫性も無いイメージ。昔の自分のかけらを拾い集めているのだとトロワは思う。それは確かに、こうして五飛と生活するようになって浮かび始めたものだった。だが、五飛は言う。
「それは単に、戦争を終えて落ち着いたということだろう」
 あくまでも静かに告げ、僅かに俯く。
「俺といることとは無関係だ」
 トロワは苦笑気味に彼を見遣って、それからゆっくりと視線を下げた。
 そうじゃないんだ、五飛。
 熱に揺らぐ思考回路の中でトロワは思う。
 思い出しているのは人の気持ちだ。自分の、他人に対する感情。他人の、自分に対する感情。寄せる好意、寄せられる好意。注ぐ愛情と注がれる愛情。掛ける気遣いと掛けられる思いやり。
 でもこれは、五飛に言ってもいいものだろうか。
 彼がいるのを確認するように、トロワは五飛の右腕に手を伸ばす。
「お前とだからだ」
 それだけ言って眠りについた。
 熱いトロワの指先を右の手首に感じながら、五飛は身動きもとれずに数分を過ごす。やがてふっと力の抜けるのを感じて、漸く彼は布団の上に落ちたトロワの掌を見遣った。
 彼の思い出す事柄の一つひとつが、自分と彼との間に距離を作っていくような気がした。一緒に過ごしていきながら、共有できないものが増えていく。そんな馬鹿なと思うと同時に、記憶を探るトロワの表情と彼の探り当てる幸福な光景に、羨望とも嫉妬とも取れる感情を抱く自分を否定できなかった。
 溜め息と共に五飛は立ち上がる。
 すっかり元に戻った氷枕を、もう一度冷却用にセットして、眠るトロワの頭を預けて五飛は静かに彼を見下ろす。
「少し、俺には辛い」
 聞く者がないから言える言葉だった。
 思い出させないでくれ、甦らせないでくれ、親のない幼い日々を、目の前で砕けていく故郷のコロニーの哀しい光を。
 俯いたまま大きく首を振り、彼は部屋から立ち去る。
 寝るための準備を始めても、キッチンの照明を落としても、胸の内でキリキリと彼を締めつけてくる力は増すばかりで、堪えるように奥歯を噛み締めて五飛はベッドに潜り込む。
 こういう夜こそ傍で眠りたいのに…
 洗濯したての寝具の中で、放っておいた枕だけが、僅かにトロワの香りを残していた。


 目覚めてまず、違和感を持った。
 そうだ、ここはトロワの部屋だ。
 思いながら五飛は体を起こす。ベッドの向き、机の位置、本棚の大きさとカーテンの色。窓の方位が違うから、差し込む朝日の強さも違う。
 そんな確認をしながら床に下り、ドアまで歩いて少しだけ立ち止まった。嗅ぎなれた香ばしい香りが漂ってきていた。
「何をしている?」
「ん? ああ、おはよう」
 麻布のエプロンをつけたトロワが、調理台の前で五飛を振り返った。
「不思議なことに、目が覚めたらコーヒー豆があったんだ」
「…不思議でも何でもないだろう」
 俺が買っておいたのだと五飛は脱力する。
「ありがとう」
 分かっていて澄まして言うのがトロワだ。その暢気そうな笑顔に呆れながら、五飛はテーブルの上で小さく気泡を上げ始めた湯とコーヒー用のサイフォンとを見遣った。
「コーヒーは身体を冷やすのだぞ」
 だから弱っている人間にはあまり奨められないと軽くたしなめると、トロワは小さく、そうなのか、と首を傾げてから、再びとぼけた調子で言った。
「気持ちがこもっていれば大丈夫だ」
「馬鹿を言え」
 こいつのこういうところが俺には全く分からん。
 豆の入ったサイフォンの上の部分をセットして、五飛は洗面所へと足を向けた。
 二人揃って朝食をとるのは珍しいことだった。トロワが作るのは特に珍しい。うっすらとココアの入ったパンケーキと、色鮮やかな温野菜のサラダ。ふわりときれいに仕上がったスクランブルエッグと淹れたてのコーヒー。
 看病の礼だろうかと思う反面、病み上がりがこんな風に朝から動いて平気だろうかと心配もして、五飛はテーブルについたトロワへと目を向ける。そうして昨日と同じように額に触れると、トロワはその手を取って腰を浮かせた。
「この方が分かるんだろう?」
 長い前髪を空いた手で上げて、トロワは五飛と額を合わせる。間近で目を覗き込むのに、五飛は息を詰めて視線を下げた。
 自分でするのは平気なのに、相手から寄って来られるとこれはかなり照れる。
「どうだ?」
「…下がったようだな」
 必死に平静を装って答える。トロワが満足そうに笑んで離れた。
 雲が晴れたのか、東向きの窓からさっと朝日がさし込む。窓枠から飛び立っていく小鳥の影が、その光の中にくっきりと浮かんだ。
 五飛が、パンケーキに薄くメイプルシロップをたらす。トロワは、珍しくミルクを入れたコーヒーを口に運ぶ。同じ建物内のどこかの玄関が開け閉めされ、住人の階段を駆け下りていく音が彼らのもとにも届く。
 そんな朝の光景に、五飛は他人の存在を感じてほっとする。たいした平和ボケだと自分でも思う。だがそうしていると嫌でも昨夜の孤独感が甦ってきて、胸の痛みを感じずにはいられなくなるのだ。
「誰か――」
 皿の上で手を止める。
「血の繋がった者が生きているのか?」
「………は?」
 何の話かとトロワが目をあげた。五飛は彼を見ないまま話を続ける。
「親兄弟や――要するに親族が」
 トロワは眉根を寄せ、朝からヘヴィだな、と腕を組んだが、すぐに、
「付き合おう」
 と言ってまじめに向き合った。五飛も顔を上げる。
「6親等までいけばいるらしいが…まあ、他人だな」
 名前も特に聞いていないしおそらく会ったこともないだろう。
 トロワはどう繋がっていく関係かは述べなかったが、両親やその兄弟などからでは年齢的に難しいので、もう少し離れた親戚なのだろう。頭の中で系統図を描いていると、それくらいならお前にもいるだろう? とトロワは聞き返す。五飛は小さく肯定して口を噤んだ。
「どうしたんだ急に」
 コーヒーを一口飲んでからトロワは問う。だが五飛には答える様子が無かったので、話は終わりかと思って食事に戻った。スクランブルエッグをパンケーキに載せる。
 と、五飛がぼそりと呟いた。
「Mutti」
 トロワはぎょっとして彼を見る。五飛は真意の掴み難い顔で、まっすぐに彼を見返していた。
「俺はお前の母親になった記憶はないのだが」
「言ったのか? 俺が?」
 表情を引きつらせつつトロワが言う。その慌てた様子がおかしくて、五飛はわざと意地悪く表情を曇らせた。
「お前は、母親に頼りたかったのだな」
 そばにいる自分ではなく、記憶の中に現れる優しい女性を求めていたのだと、五飛は寂しげに視線を落とす。そしてきつく唇を引き結ぶと、トロワは更に慌てて言い募った。
「違う、誤解だ、そんなことはない。俺は誰よりお前を信頼してる。たまたま親のことが浮かんだだけで、第一、顔も思い出せな――」
 だが、そこで言葉を切った。
「五飛っ!」
 向かいの席で肩を揺らした五飛は、トロワの声に顔と声とを上げて笑った。
「すまん、つい」
 どうも昨日からこいつはかわいい。
 今まで考えてもみなかったことを密かに心で呟きつつ、それでも五飛はトロワの言いかけた台詞を気にして言葉を継いだ。
「親の顔を覚えていないのか?」
 静かにトロワが頷く。落ち着きを取り戻した表情からは、その心中は見透かせない。
「冷たい奴だ」
 非難の響きは僅かだったが、トロワは微かに苦笑して目を細めた。そしてそれきり、何も答えなかった。
 今度は五飛が食事を再開する。甘いパンケーキの味が口の中に広がるのを楽しんでいると、また誰かが慌ただしく出かけていく。その音にふと、トロワは今日バイトに行くつもりなのだろうかと考えると、それに合わせたかのようにトロワが話を始めた。
「顔を思い出せないのは、彼らを失って悲しかったからだ」
 とても、悲しかったからだ。
 その目はまだ遠くを見ている。
「両親は事故で死んでいるらしい。俺の記憶はその後しばらくした頃から始まっている。ショックで記憶をなくしたのだろうとサリィには言われた」
 淡々とした口調に、彼の感情は読み取れない。ただ彼にとって忘れることが、自己防衛の手段であることはよく分かる。そして、その行為によって人を傷つけることのある事実も。分かっていながら言葉が洩れた。
「俺が死んだらやはり忘れるか?」
 言ってしまってからはっとして五飛は口元を手で覆う。顔も耳も首筋も急激に熱くなる。今の場合、これは、特別に愛されていることが前提の質問だ。
「あ、いや…」
 どう言って取り消せばいいのか。口ごもる五飛に漸く目を戻して、トロワは少し驚いてみせてから微笑んで言った。
「かもしれない」
 五飛が息を呑む。
「忘れなければ生きて行けないだろうな」
 膝の上に落とした五飛の指先が震える。トロワの声が続く。
「だが、忘れても死んだような気分になると思う。多分…忘れる方が辛いな」
 心に穴があくだろう。自分自身までも呑み込むような深くて暗い穴が。そこに本来あった筈の存在を思って泣くかもしれない。
「お前のことは覚えていたい。楽な方を選ぶわけではなく――覚えていれば、それはそれでとても苦しいと思う。それでも俺は、お前を忘れたくない」
 自分には既に彼を忘れていた時期があったから。記憶を取り戻した後で、本当に深く悔やんだから。そしてあの時とは比べ物にならないほど、今の自分にとって五飛は愛しく、大きな存在なのだ。彼と彼に関する記憶を失って、それでも自分という人間は成り立つのだろうか?
 まっすぐに五飛を見つめるのは、今にも泣き出しそうな目だった。
「…悪かった」
 こんな顔はたまらない。こんなことを言わせるつもりではなかったのだ。
 五飛が小さく謝罪すると、トロワは辛そうな瞳のまま笑って緩く首を振った。
「思い出せるといいな」
 両親のことに話を戻す。
「そうだな…」
 応えるトロワは表情を少し明るくしたが、すぐに考えるよう首を傾げた。
「いや、それは少し違うな」
 訝しむよう五飛も眉根を寄せる。
「ああ、誤解しないでくれ。忘れたい過去があるという意味じゃない」
 トロワが慌てて続ける。五飛は小さく頷き、続きを促す。
「勿論、昔のことは思い出したい。好きだったのだろう親のことも。俺はきっとそこに色々と忘れ物をしてきているだろうから、そういうものはできる限り取り戻したい。だがな、単純に以前の暮らしを掘り返したい訳じゃないんだ」
 静かに見つめている五飛をトロワも見つめ返す。何を言いたいのだろうと、五飛は微かに首を傾げた。
「そこにあった気持ちを知りたいんだ。毎日何を思っていたのか、どんなことを気にして暮らしていたのか。子供の、恐らくは狭い世界の中で、俺なんかでももしかしたらがむしゃらに生きていたかもしれない。そういうことを思い出したいんだ。…お前だってそうだったかもしれないだろう?」
 俺? と五飛は呟く。
「俺は――」
 親の顔など知らんぞ。そう言いかけて、すぐに別の言葉を探した。
「人に聞かせるほどの思い出など持っていない」
「いいんだ。話したいと思えることを思い出したときに、少し聞かせてくれればそれでいい」
 彼は過去の自分の何を知りたいのだろう。やはり五飛には分からなくて、結果黙り込むことになる。その、困惑しているらしい五飛をトロワは少しの間見ていたが、やがて自分でも考えがまとまったのか、やわらかな表情を崩さずに話し始めた。
「今のこと、これからのことは精一杯大切にしていく。だが俺は欲張りだから、お前の過去さえ欲しいと思う。そして、それを聞いたときに少しでも近い気持ちで理解できるように、自分の過去も思い出したいんだ」
 分かってもらえるか? と窺うように、トロワは五飛の目を覗き込んだ。
 不機嫌そうに五飛が目をそらす。
「本当に…欲張りだ」
 怒っているのか困っているのか、はたまた照れているのか、量りかねてじっと見つめると、五飛は更に顔をしかめて視線を横へ流した。
 照れてるのか。
 トロワが歯を見せて笑った。
 忙しい筈の朝の時間が、やけにゆっくりと流れていた。向かいの席で野菜をつつくトロワの手にしたフォークの先を、見るともなしに眺めながら、五飛は密かに自分の過去を思う。
 何を思っていたのか、どんなことを気にかけていたのか。
 そんなことはもうよく分からなかった。けれどきっと、とても強く愛されたがっていた。それは認めよう。
 肉親の情よりも、社会的な規律と尊厳とで守られた世界だったけれど、その中にあって時折与えられる微かだがやわらかな情を、必死に胸に貯えた時間があったことを思い出す。
「そうかもしれんな」
 呟いても、トロワは軽く目を上げるだけ。五飛は、何でもないと緩く首を振るだけ。
 思い出したいトロワと忘れたい自分。けれど、思い出せないトロワと忘れてはならないと思う自分。共通点などないだろうと思う過去と現在にそれでも接点を探そうとするトロワと、そこから逃げることなく全てを受け止めることを求められる自分。
 相反するものだと考えていた自分たちの在り方が、ことばひとつ、心の持ち方ひとつで、きれいに重なり合うことに気づく。そうしてまた、そこにある自分に対するトロワの気持ちに、寄りかかり頼りたがっている自分自身にも気づいてしまうのだ。
「もう半日ゆっくりしていろ」
 食器を片づけながら五飛が言うと、トロワは少し悩んでから、
「そうしよう」
 と頷く。
「半日かけてお前の夢でも見るとしよう」
「馬鹿者」
 こんなやり取りに慣れ始めて、自分は、何処へ行こうとしているのだろう。
 感じずにはいられない、頼り合う心地よさと恐ろしさ。
 そんなことを思う五飛に、背後から軽く抱きついて、トロワはふざけ半分に耳元で囁く。
「次の時には、お前の名を呼んでもいいか?」
 嫌そうに表情を歪めて――こういう時の五飛は見るからに心底嫌そうだ――濡れた手をもう一度きれいに洗い、トロワの目の前で軽く振った。
「好きにしろ」
 水滴と共に降ってきた声に、トロワは緩く笑って首肯する。そしてそのまま五飛のシャツで水を拭うよう彼の背に顔を伏せたが、同時に、明らかに別の感情を持って寄せられた頬に、五飛の胸がざわりと鳴った。
 五飛の不安を何で感じ取るのか、トロワの静かな動きには、癒すような、なだめるような気遣いがこめられていた。
 ざわつく心で五飛は思う。
 思い出したら思い出しただけ、彼は自分に伝えてくれるだろう。そこから自分も、何か彼に話せることを呼び起こすことができるのではないだろうか。
 そうやって少しずつ、互いの空白を埋めていけたらいい。自分のことも相手のことも知りながら、自身の心に感じる隙間を、互いの間に感じる距離を、優しい気持ちで満たしていけたらいい。それは、自分たちには難しいことかもしれないが、自分がトロワを求めた最大の理由が、そこにあるような気がした。
「講義には間に合うよう声を掛けてやる」
 腹に回されたトロワの腕に、ゆっくりと手を添えながら五飛が言う。また頷いて、名残惜しそうにトロワが体を離す。
 その様子に気づいて軽く笑うと五飛は手を振ってトロワを部屋へと追い立てる。小さく肩をすくめて、トロワは苦笑と共に自室へと去っていった。
 明るいキッチンで、一日前とは違う自分を確かに自覚して、五飛もまた苦笑する。でもきっと、好ましい変化だ。そう思うことにしよう。
 時刻を確認し、今日の予定をチェックして、それから、やはり余ってしまった薬と次の出番さえ危うい冷却用の枕を、五飛はそれぞれ戸棚にしまった。

掲載日:2001.07.31


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