Pulse D-2

Plunus dulcisの見る夢

 僅かにオレンジがかった薄明かりの中に、彼の白い顔が浮かび上がる。対照的に黒い髪に指を絡ませ耳元から輪郭を辿って唇を寄せると、ゆっくり顔を逸らせて彼は首元をあらわにする。そうしておいて、その手は拒むように動き、口付けを繰り返すトロワを押しのけようとするのだった。
「花が見ている…」
 低い五飛の声にトロワは顔を上げる。ベッドのすぐ傍にある窓には厚手のカーテンが引かれていたが、その二枚の合わせ目が三センチほど開いていて、外の木に咲く白い花が室内を覗き込むように姿を見せているのだ。
「別に見てない」
「…見ている」
 かたくなに言って、五飛はカーテンへと手を伸ばす。高い位置にあるため容易には届かず体を起こそうとする彼に、仕方なさそうにトロワがその手を押さえた。そうして自分の身を起こして窓へ向き直す。
 シャッ、と小さく音を立ててカーテンを合わせる。
 空間がぴたりと閉ざされる。
「誰も見てない」
 口にして五飛の目をじっと見つめれば、彼はゆっくりと口を結んでから目を伏せる。その瞼へ唇を寄せ、低く低く彼の名を呼びながら、トロワは再び黒髪を指で梳く。両腕をトロワの背へと回した五飛はまた何事か呟いたようだったが、それはトロワには届かなかった。
 やがて呼ぶ声も消え、息をつぐ音だけが微かに響く頃、消しようの無い痛みを胸に抱えながら二人はただ、互いの肌を求め合う。

 とても静かな夜だった。
 窓の外、花の開く音まで聞こえそうなほどに。



 ** ブーケ **

 教会の鐘の音で起こされた。
 まだ眠っているトロワを一度見てから、五飛は彼の腕を抜け出す。カーテンを開けると真っ白な光が飛び込んできて、しばらく目を細めたまま彼は外を窺っていた。
「どうした?」
 背後から、起き抜けの少し掠れた声がする。
「さあ…」
 首を傾げる五飛に寄り添うよう、トロワも起きて窓際へ寄った。
 裸の肌に、部屋の空気は薄ら寒い。けれど早春の街には人々の明るいざわめきが満ちていて、人の姿など見えない狭い庭にもその笑い声が小さく聞こえてくるのだった。
「ああ…結婚式、かな」
 裏の教会で、とトロワが呟く。
「それにしても長いな」
 鳴り続けている鐘をさすがにうるさく感じたのか、言いながら髪を掻き上げるトロワを、機嫌良さそうに一瞥して五飛は緩く笑った。
「見に行こう」
 言うが早いかトロワを乗り越え、五飛はベッドを下りる。白いシャツを着込み洗面所へ消えていく姿を見送っていると、
「お前も早くしろ」
 と軽い感じの声が掛けられる。
「元気だな…」
 昨夜のことを思えば今日はだるいと文句を言ってもおかしくはないのに。そんなことを考えもしたが、言えば一日が台無しになるのは明らかなので、何も言わずにトロワも急ぎ支度を始めた。
 南欧のこの街には教会が多い。そのうちの一つ(けれど有名でも何でもない小さな教会だ)の敷地へ入ると、建物から出て間もないらしい集団が楽しげな声をあげて集まっていた。
 中央にいる若い二人が新郎新婦なのだろう。純白の上品なドレスに、ブーケの中の黄緑色が映える。おどけながら放り投げられたそのブーケを手にしようと駆け寄る女性たちを気にしながらも、五飛の目は、ブーケからこぼれ落ちる小さな淡いピンクの花へと向けられた。
「あっ…」
 思わず上げた声に、トロワがちらりと五飛を見る。
「あ、いや」
 何でもないと返して目を人々へ戻すと、彼の気にした小さな花を拾い集める少女たちの姿が目に入り、気づいた五飛を微笑ませた。
 その様子を見たトロワも、同じように微笑んだ。
 ブーケを手にした若い女性。小さな花束を作る少女たち。照れくさそうに目を見交わす夫婦になったばかりの二人。囲む知人たちも立ち会った牧師も、皆がみな幸せそうで、何の不安も持ち合わせていないように見える。
 そんな光景が嬉しいようで、それでいてどこか切ないような感じがして、二人は互いに声を掛けることもなくその場を去った。



 ** 棺 **

「また教会か」
 呆れたように声を上げたのは五飛だった。
 細い砂の道を一時間ほど歩いてきただけなのに、その間に二人は三つの教会を目にしてきていた。
「だから多いと言っただろう」
 ある程度街のことを調べて知っているトロワが口にしたが、言いながら彼もやれやれと思っているのは確かだった。どうしてこんなに教会が必要なのか、宗教という観念を持たない彼には正直言って理解し難かったのだ。
 それとも、突然戦争が起きたりするから不安に駆られて信仰に走ったりするのだろうか。そんな余計なことまで考えそうになり、トロワは小さく頭を振って打ち消した。
 その彼の前で、ふいに五飛が立ち止まった。
 視線を追っていくと、さして遠くない場所の、一様に黒い衣服を纏った一団に行き当たる。
 それは教会の裏手に作られた仮の墓地で、肉体を大地へ返すという儀式と共に残されている葬儀の場だった。聖堂内でも行われたのだろうが、その場を外に移して更に続けられているらしい献花には、別れの花を手向けようとする人々が列をなしていた。
「よろしければ花を贈ってやってください」
 つと、列を離れてやってきた女性が言う。歳は彼らとそう違わないだろうか。確かに喪服を着込んでいるのに独特の打ちひしがれた様子はなく、むしろ毅然とした態度を保っている。
「どなたなのかも存じませんので」
 彼女に近い側にいた五飛が答えると、
「私の祖父です。大好きな、祖父です」
 と彼女は静かに笑う。
 そして、ほら、これでもう誰だか知っているでしょう、とでも言わんばかりに娘は花を差し出した。
「できるだけ多くの方に、旅の無事を祈っていただきたいのです」
 八重の花びらを持つ白い花は、この街にあふれんばかりに咲き乱れているものだ。ただし、花は時によって色合いを微妙に変えるので、葬儀のための白を集めるにはそれなりの時間がかかったに違いない。それでも篭に摘まれた花々は一点の染みもない純白で、彼女のそんな細やかな心遣いに気付くと、二人はどちらからともなく彼女の持つ花へと手を伸ばしていた。
 年齢も性別も、おそらく職業や思想もまるで違う人々の、無言で真剣で奇妙な列。けれどよく見れば、自分たちと同様の普段着姿もあることが分かる。彼らもきっと娘の様子に導かれたのだろうと思いつつ、前進する列に従って二人もゆっくりと歩を進めた。
 やがて訪れた順番に、五飛が先に立って棺へ向かう。そして花を添えようとして、不覚にもどきりと、彼は動きを止め目を見張った。
 これが、死んだ者の顔だろうか。
 安らかで、不思議なほどに穏やかな表情をして、老人はその場に眠っていた。
 長い一生の中には辛い思いも苦しい経験も数え切れぬ程あった筈なのに、今目の前にいる彼にはそんな様子は少しも見られない。きっと彼は、あの娘の持つような愛情に包まれ、真実満足してその生を終えたのだろう。だから彼は笑みさえ浮かべて花に埋もれ、それを知る娘は涙の代わりに優しい微笑みを見せるのだ。
「こんな…」
 こんな最期は誰にも与えていない。
 自分の為に死んだ者、自分がこの手で殺した者。
 二年以上も前に終えた筈の戦争は、こんなふうに折りにふれ、いまだに彼を苦しめる。そしてこればかりはどうにも出来なくて、ただ、痛みと憤りとを堪えるよう彼は歯を食いしばるのだ。
 五飛が立ち上がるのを待たずに隣にしゃがんだトロワが、そっと老人の胸元に花を捧げた。
「こうありたいものだな」
 その声に答えることもできず目を細める五飛に、トロワもまた、何も言うべき言葉を持たない。
「よい旅を」
 老人へと一言贈って去る彼に倣い、五飛もそっと花を置く。
 きっと自分ではこんなふうには死ねやしない。だが、周りの人間にはこうあって欲しい。勿論、トロワにも。
 去り際に娘と目が合った。嬉しそうに笑う彼女に会釈を送ると、胸の奥でまた小さな痛みを覚えた。



 ** アーモンド **

「アーモンドの花を見に行こう」
 突然トロワがそう言った。手にした小さな雑誌がその出所らしかった。
「アーモンド?」
「そうだ。学名はプルヌス・ドゥルキスという」
 白い花が咲くらしい。
 言いながら雑誌に載っている写真を見せる。
「巴旦杏」
「そう言うのか」
 五飛の発音した中国名を聞いて、それは知らなかったとトロワは笑ってみせた。
 ずっと、戦争を終えてからも二人で一緒にいた。何故そうなったのか、端から見れば不思議なことだったらしいが、その時の二人には当たり前のことと感じられた。もう一度一緒に地球に降りようという約束をしていたからそれを実行しただけ。そう思っていたのだ。
 戦争中、一度だけ体を重ねたことがあった。ピースミリオンの狭い船室で、何故とも何の為にとも思うことなく、心のままに真剣に五飛を望んだトロワに誠実に五飛が応えた、そんな触れ合いだった。
 その時にたった一言、トロワは五飛に好きだと告げていた。
「突然何だ?」
 だからそのアーモンドがどうしたのだと、五飛は少しじれったそうに尋ねる。互いに気紛れにはもう慣れていたが、時に言いたいことがはっきりしなくて首をひねることもあった。
「卒業旅行だ」
 答えるトロワの方は平然としたもので、花見を兼ねて旅行に行こう、と繰り返した。
「ほとんど旅行などしたことがなかったからな。まあ、ちょっとした思いつきだ」
 そうして本当に何でもないことのように軽く笑うのが、彼のいつものやり方だ。強く主張せず、最終的な決定権はどんな時でも五飛に委ねる。それをずるいと感じることも少なくはなかったが、大抵受け入れてしまう自分はそれでは何なのかと、時折五飛はそんなことも思うようになっていた。
「卒業するのは確かだし…」
 この時もこう言って了解したから、今二人はこの街にいるのだった。
 実際に見てみると、白よりは淡い桃色の方が花の色としてはふさわしいようだ。八重のもの、一重のものと、街に植えられた木々は幾種類かあるらしい。
 そんな街の中、道端で、公園で、庭先で、店先で、笑いながら、話しながら、歩きながら、待ちながら、誰もかれもが花の中、柔らかな光を浴びているというのに、トロワは、自分たちだけが冷たい異空間にいるような錯覚を覚え、黙って歩く五飛へと時折視線を向ける。
 地球へ来てからは何度か五飛を抱いた。抱き締めて眠ることは多かったが、本当に触れ合うのはごく稀なことだった。自分が無理強いをすることもなければ、五飛が拒むこともない。それは互いを思い合ってのことなのだろうが、同時に、本心を見せてはいないのだという気もして、トロワの中に寂しさを連れてきた。
 その上、辛い思いに行き当たった彼を、慰めることも励ますことも出来なくて、不器用にただ傍にいるだけ。最初から自分はずっとそうだと、トロワは情けない気持ちにさえなる。
 そうして何も変えられぬまま、再び咲き乱れる花々に、新しい季節の訪れを感じ、生まれ変わる大地の息吹を聞き、明るさを増しながら清らかに降り注ぐ光を見る。
 いつまでこうしていられるのだろうか。
 小さな遺跡を持つ高台へ足を運びながら、ふいに、隠してきた筈の言葉がトロワの胸に浮かぶ。
 二人でいられる時間は永遠じゃない。いつ、どのような形で訪れるかも知れないけれど、無いとは言い切れない別れの可能性に気付き、このまま時が止まればいいとすらトロワは思う。
 なのに、そんな彼の思いを砕くかのような五飛の言葉が聞こえたのだ。
「もうこんなことも出来なくなるな」
 驚いて見遣るトロワを見返して、五飛の方こそ意外そうに眉を顰める。
「忙しい所なのだろう、俺たちが行くのは?」
 途端にトロワは破顔する。一瞬でも不安に駆られた自分に呆れたように、小さく首を振って彼は五飛を抱き締めた。
 これから自分たちは、新しい街へ行き、新しい仕事に就き、新しい人々に出会い暮らしていくのではないか。自分たちで選んだ医者という道へ向けて、寄り添い助け合い、共に歩んでいくのではないか。
 何を心配する必要がある?
 思いながら五飛の髪へと頬を寄せるトロワに、この時になって初めて五飛は気付いたのだ。トロワの中の静かで根深い不安に。触れ合う時に感じる、鈍い胸の痛みの正体に。
「トロワ――」
 二人の背後から吹きつける強い風が、五飛の言葉を奪い去る。目を細めて、彼は視線を吹き抜ける風に流す。

  ふくふくふく、風の吹く。
  ふるふるふる、花の降る。

 丘の上から眺める街は、薄紅色の波間へと声もなく沈んでいく。その光景に、二人もしばし言葉を失い、共に波間へ意識を沈める。
「何の花だか知ってるな?」
 やがて低くトロワが尋ねた。
「…アーモンドだろう?」
 お前がそう言ったのだろうと五飛は怪訝そうに答える。そしてトロワの次の言葉に、嫌な予感がして微かに眉根を寄せた。
「何を象徴するかは、知っているか?」
 いや、と簡単な否定に対してトロワは言った。
「〈不滅の愛〉と〈純愛〉だ」
 途端、露骨に五飛は嫌そうな顔をする。またお前は、と睨みつけるが、トロワは意に介したふうもなくにやりと笑って、それからふいに、思いつめた表情を見せた。それを隠すよう、五飛の背へ顔を伏せる。
「お前と見たかったんだ」
 本気で告げる大切な言葉を決して聞き逃すことのないように、五飛はじっと黙り込む。すぐに消えてしまう言葉も、決して忘れることのないように、トロワの一言ひとことを丁寧に心に刻む。
「…見られて良かったな」
 こんな言い方しか出来なくてすまない。
 口には出さない部分をそれでもトロワは感じ取ったのか、彼の微笑むのが背中越しに五飛にも伝わった。
 いつでも背中から自分を抱き締めるトロワの、骨張った腕の置き方も首筋に触れる髪のくすぐったさも、こんなにもよく知っているのに、それでもその度に鼓動は跳ね上がり、胸は痛み、息が詰まるのは何故なのか。この喜びと不安と緊張はどこから来るのか。
 いつでも拒まずに腕の中へ収まってくれる五飛の、微かな首のすくめ方も触れる肌の持つわずかな香りも、こんなにも自分は知っているのに、それでもその度に動悸は激しくなり、胸は張り裂けんばかりになり、息もつけなくなるのは何故なのか。この喜びと不安と緊張は消え失せることはないのか。
 それぞれに思う二人の上へ、絶えることなく花が降り注ぐ。顔を上げたトロワの目に、黒髪に落ちる白い花弁が映って、それを払い落とすようもう一度彼は五飛の髪へと頬を寄せた。
 そのまま静かに、彼の頬へ口付けを落とす。
「こんな所で」
 今更ながらに身を引くが、それが形だけのものだということは本人もトロワも承知している。こんなやり取りも幾度となく繰り返してきたことだった。
「誰も見てない」
 その言葉に、五飛は昨晩のやり取りを思い出して冗談混じりに呟く。
「花が…」
「見せつけてやれ」
 おかしそうにトロワが返し、笑って二人は口付けた。
 不滅なんて言葉は、今の自分にはとてもじゃないが信じられない。五飛はそう思う。
 けれどトロワは本気だろう。そして、出来ることなら自分も本気で応えたい。自分の中にもそんな気持ちがあることを、しっかり覚えておきたいしいつか彼にもきちんと伝えたい。
 だからせめて今は、触れる度に感じるこの痛みを、混じりけのない彼への想いとして留めておこう。永遠のものじゃなくてもいい、繰り返し繰り返し、何度でも自分の中に焼き付けよう。
 願わくば、その時間が出来る限り長くあるように。
 降り続ける花びらに二人の姿は柔らかく、どこまでも優しく彩られる。
 まるで、季節のめぐる毎に咲く花の、つかの間に見る、夢のように。

掲載日:2003.03.31


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