Pulse D-2

沢蟹と揚子江

 流れの中にいるのだ、と思った。
 自分はいま水の中にいて、その周りを勢いよく流れていく川が取り巻いているのだと。
 それからふと、体の外ではなく自分の内側にそれはあるのではないかと感じた。さらさらと心地好い流れが指先にぶつかって緩やかに撥ね返るような、静かで清らかな錯覚があった。
 小さく息を吸いながら瞼を上げていく。
 暗がりに見えるテントの布、外に感じる淡い光。先程出ていった男はまだ戻っておらず、風の音と水の音に混じって一瞬、かすかに金属の触れ合うような硬い音が聞こえた。
 布団を抜け出して、五飛は天幕から顔をのぞかせる。さして離れていない場所に焚火があり、トロワの背が暗く影になって見えていた。
「起こしたか?」
 顔だけ振り向かせてトロワが問う。
「いや…起きていた」
「そうか」
 それだけ言うと彼は前へ向き直す。手にしたカップから立つ湯気が、白く漂って五飛の目に映る。その先の空を渡る厚い雲と、山の木々の遅い春の花が散っていく姿も見えていたが、姿勢が低いためか、すぐそこを流れているはずの大河の様子を見て取ることは出来なかった。
 だから余計に、テントを出て火のそばまで行った時、五飛はその近さに驚いた。
「どうした?」
 立ち尽くす彼に、怪訝そうなトロワの声が届く。
「あぁ、いや…」
 曖昧に答えながらも目を離すことが出来ず、五飛は黒い川のあちこちに立つ灰色の波頭を見つめていた。
 旧中国地区最大の川、長江。コロニーの歴史など遠く及ばぬ時代、黄河流域よりも更に早い時期に、人々はこの川の流域に文明を築いたとされる。遠い遠い祖先の話だ。
「飲むか?」
 声に視線を落とすと、トロワが火にかけていたポットを取り上げて示していた。中身はコーヒーの筈だ。
 小さく頷くのを確かめて、トロワは自分の使っていたカップにそのまま注いで差し出しかける。そうして、折り畳み式の椅子に座ろうとしている五飛にいたずらっぽい笑みを向けた。
「美味くはないかもしれないが」
「………謝々」
 五飛は嫌そうな顔をしてつぶやいた。トロワがおかしそうに喉の奥で笑う。
「あの時のコーヒーは本当にまずかった」
「味なんか分かったのか?」
「いや。当時は自分が参っていたせいだと思っていたが、今思うとあれは本当に煮詰まっていてまずかったのだ」
 随分長いことああしていたらしいから、と五飛は憮然として続けた。
「お前がずっと黙っていたからだろう」
「そっちが勝手に連れ込んだのだから、もてなしぐらい責任を持ってすべきだ」
「連れ込むか…いい表現だな」
「あのなぁ…」
 脱力してカップを口に運ぶ。冷えた体に温かい液体が心地好かった。
 最初に飲まされたのが随分と苦くてざらりと口の中に残るものだったため、しばらくはトロワのコーヒーは飲みたくないと思っていた。だが、実際に一緒に暮らし始めてみると、それが間違いだったことに気づいた。
 トロワは天然の豆を使ってきちんとコーヒーをいれる。苦みやコクの好みも五飛と合っていて、彼のコーヒーは五飛には正直においしいと思えたのだ。料理の味にはうるさくないくせに、どうしてこの飲み物にだけこだわりがあるのか。
 今飲んでいるのも夕食後に丁寧にいれた残りで、多少香りが抜けてはいるものの夜中に飲むには十分なおいしさだった。
「まずいか?」
 笑いを張り付かせたままトロワが尋ねる。五飛は一瞥したきりで答えなかったが、再びカップにつけた口元に薄く笑みを浮かべた。トロワが嬉しそうに目を細める。
「懐かしいな」
「ああ」
 今度は五飛も頷いて、静かに炎を見つめた。
 ようやく二人揃って取れた休暇だった。少し前の休暇の際、トロワの方が緊急の呼び出しを受けて休みを返上していたため、その埋め合わせも兼ねた休日を得たのだ。
 普段の忙しさが尋常ではないため、休みのときには二人とものんびりと家で過ごすつもりでいた。だが、二人同時の数日間の休暇を告げた途端、彼らと共に過ごしていた者たちは、勢い込んで旅行の話を持ち出した。
 そうして追い出されるような形で始まった旅だったが、それが彼らの為を思ってなされたこともよく分かっていた。お互いにも、周りの者たちにも、どこか遠慮がちに接する二人を、どうにかしてやりたいと皆も思っていたのだろう。
 それが分かって、少し照れ臭かった。
「ダムを越えたらあとは川を下って行けばいいんだな?」
 話題を変えるようにトロワが口にした。
「ああ。旅客用の定期船があるからそれをつかまえればいい…ということらしいが」
 五飛は顔をあげて答えたが、言い終わるか終わらないかのうちに目をそらし、視線を川の方へと向けた。ため息混じりの五飛に、その心中を察してトロワも苦笑いする。
「せっかく組んでくれた計画だ。合わせて動くのも悪くない」
 そう言われても納得できない五飛が、遠くを睨んだまま低くうなっている。要するに人任せが嫌いなだけだ。
「まあ、何とかなるだろう」
「…何とか、な」
 どうせ自分たちでプランを立てる暇などなかったし。
 出発前に何度も言い聞かせた言葉をもう一度くり返して、五飛は深く息をつきながらも目をトロワへと戻した。目線を合わせて、トロワも軽く肩をすくめた。
「あの頃は考えもしなかったことだ。まったく、お前とのんびり川下りとはな」
 トロワの言葉に、五飛も表情を緩める。
 川下りどころか地球にいることすら不思議だ。トロワに至っては、生き残っていることだって予想外だろう。そう思うと、安堵と共に少しの切なさが胸をかすめた。
 しかし、隣のトロワの表情は明るい。
「だがな。戦闘は厳しかったが、それ以外はそんなに悪い生活ではなかったとも思うんだ――今だから言えることだろうが」
 ヘビーアームズの弾不足には泣かされたが、サーカスのライオンはよく言うことをきいたし、団長の小言もキャスリンのお節介も今となっては楽しい思い出だ。
「食うに困ることもなかったし」
「…食うに困るか――」
 何気なく言うトロワに反して、五飛は考えこむ素振りを見せた。
「困ることがあったのか?」
「いや…困るという程ではなかったが…」
 また話が元に戻ってしまうと、五飛は不機嫌に口ごもる。トロワの足もとに置かれていた金属製の箸を取り、火の中の薪と炭とを寄せ整えるが、その間も物問いたげに彼を見ているトロワに、仕方なさそうに低く口にした。
「山にこもって動かなかった時期があったからな」
「ああ…」
 そうか、と納得いってトロワが小さく首を振る。トレーズを殺し損ね、自分とも別れたそのあとに、五飛が何日落ちこんでいたのか知らないが、その時に多少食糧事情が悪かったのかもしれない。
「手持ちの食糧が殆どなくなっても街へ移動する気になれなかった。かといって空腹で動けなくなるわけにもいかないからな。取り敢えずその辺で手に入るものを何度か食べた」
「例えば?」
 五飛はしばし考える。持ったままの箸を土に刺しては抜き出す動作を、ぼんやりとくり返す。トロワの目が興味津々に輝いているのにも気付かない。
 と、不意にその手が素早く横に伸びた。
「何っ」
「蟹」
「…カニ?」
 見れば、彼の突き出した金箸の先に、地面へ押さえつけられてもがく小さな蟹の姿があった。
「沢蟹だ」
 何を目指してわざわざこんな所まで出てきたのか、五飛が手をゆるめると、蟹はそそくさと暗がりへ去って行った。
 ゆっくりそれを見送ってから、ええと…とトロワは軽く眉根を寄せた。
「…食べたのか?」
「ああ」
 五飛は澄まして答える。確かに今の様子なら、一食分などあっという間に捕まえそうだ。その状況とそれを調理する五飛とを想像して、更にトロワは難しい顔になった。
「食べないか?」
「ああ…」
 怪訝そうに尋ねてくる五飛に、短く答えを返す。
「食べたことがない?」
「あー…いや――」
 曖昧に視線をそらすトロワを、横から覗き込むように五飛は首を傾げた。
「…嫌いなんだな」
 トロワは答えない。流れる沈黙、無言の肯定。僅かに目を細めて、今度は五飛が意地の悪い笑みを浮かべた。立場逆転。
 嫌な雰囲気になったなと、トロワが渋面を見せる。そして、変に突っ込まれないうちにと自分から話し出した。
「殻がな、どうにも苦手なんだ。蟹とかエビとか…」
「ザリガニとか醤蝦(アミ)とか要するに甲殻類が嫌なのか」
「いや、それだけとは言い切れない。…巻き貝もあまり好きではないな」
 腹を決めたらしいトロワが白状していく。
「さざえとかタニシとか鮑(アワビ)とか?」
「鮑はおいしいと思う」
「あれは巻き貝だぞ」
「そうは見えないから平気だ」
 見た目で決まるのか? ちょっと考えて五飛が続けた。
「ナマコは?」
「平気だ」
「ウニ」
「好きだ」
 では巻いてるものか。
「エスカルゴ」
「…どうしてそんなものを食べるんだ」
「俺に言うな」
 当たった、と内心ニヤリ。ついでに甲殻類が嫌なら昆虫もいけるかと、意地の悪い発想が展開した。
「イナゴ、蜂の子、蟻――」
「五飛、五飛、五飛」
 たまらずトロワが制する。降参して両手を挙げるのに、五飛が堪えていたのを吐き出すよう声高く笑った。暗い夜に不釣合いな、とても明るい声だった。
 ひとしきり笑って、それから五飛は、意外なこともあるものだ、と低く言った。
「お前はもっとサバイバルに適した人間だと思っていたが」
 黙々と敵を倒し、どこででも眠り、何でも食べて生きていく。その方がよほどしっくりくるのに。
「実は繊細なんだ」
 しれっとしてトロワが言い、それを五飛が軽くあしらう。
「今まで特に好き嫌いなど言ったことはなかっただろう」
 もう何年も一緒に暮らしているのに、それらしいことを聞いた憶えはない。何でも同じように食べてきたつもりでいたが、そうではなかったのだろうか。
 少しの間五飛は自分の記憶を探っていたが、その間、トロワは別のことを考えていた。五飛がそれに気づいた時には、彼はもう先程までとは全く違う空気をまとってそこにいた。
「それくらい、張五飛はトロワ・バートンを気にかけていないということだ」
 唇を薄く開いて彼はそう言い、伏し目がちに含みのある表情を見せてから立ち上がった。
「おい…」
「もういい。寝る」
 テントへと歩いていく。最初に見たのとは逆に背中だけが炎に照らし出されたが、それもすぐに暗がりに飲まれていった。一人になると、川の唸りが迫ってくるような感じがした。
 トロワが天幕の中へ消えても、五飛はしばらくそこを眺めていた。焚火の火が落ち、炭火だけが赤く微かな明滅をくり返す。そうなってようやく五飛は前へ向き直し、頭を抱えて溜め息をついた。
「まったく…」
 炭を平らにならし水を取ってくる。熱い焚火跡に少しずつかけていくと、鎮火の音と共にわっと水蒸気が上がる。立ち上る気体に合わせて目を上げ、深呼吸とも溜め息ともとれる息を吐く。雨にならないのが不思議なくらいに黒い雲が、相変わらず重そうに流れていた。
「…おい」
 気乗りしない様子でテントに歩み寄り、その入り口で五飛は声をかける。
「起きているか」
「そう見えるか?」
 中を覗き込むと、トロワは布団に潜ったまま低く返す。
「つまらんことで拗ねるな」
 中に入りながら言い聞かせ、五飛はまた溜め息をつきそうになる。それがよく分かっているらしいトロワは、携帯用の小さめに作られた布団の中で同じように重い息を吐いた。
「つまらないことでも拗ねてるわけでもない」
 そうしてゆっくりと顔を出す。五飛はそばに座り込む。
「お前は冷たい」
 愛情が薄いんだとトロワは続ける。
 人を見ているようで見ていない。気遣いがあるようで実は無神経。言葉は淡白、触れ合い好まず、可能な限り単独行動。
「お前は誰に対しても通り一片の付き合いしかしない」
「深く付き合ってる暇などあるか。だいたい、そうしたらお前はもっと嫌がるだろうが」
 嫉妬して絡んだり、不機嫌に黙り込んだり。そのくせ何が気に食わないのかはっきり言うわけでもないから、五飛の方は事情が分からないまま過ごしてしまう。
 トロワの方がずっとたちが悪い、と五飛は思うのだが、トロワの意見は少し違うようだ。
「それを言ったら、お前なんか嫉妬すらしないじゃないか。無関心は一番残酷だ」
「なっ…」
 それこそ何にも見ていない。そう怒鳴ってしまいたいのだが、自分がやきもちばかりやいていると思われるのは心底腹が立つので、五飛は言葉に詰まってその場に固まる。
 その間にも相手はとどめの言葉を用意し終えて、そっぽ向いたまま早口にまくしたてた。
「惰性で一緒にいるだけなんじゃないかと時々思う。どう足掻いてもお前の心はここにはなくて、その有りもしないものを必死に掴もうとしている自分が哀れになる。悔しくて悲しくて、これならいっそ一人になった方がましだと思う。そういうのは――ひどく堪える」
 そうしてもう話は終わりだというように、寝る、と言い置いて背中を丸めた。
 また、五飛は取り残される。
 一体何の話をしていたのだったか。今自分はどういう状況に置かれているのか。考えをまとめようとすればするほど、情報が散らばっていくようだ。何よりも、動揺している自分に集中力を奪われる。
 そうして、やっと出した声が掠れた。
「喧嘩をするために休暇を取ったのではない」
 怒るより、呆れるよりも先に顕れた焦燥に五飛自身驚いて、眉間の皺が深くなっていく。それでも必死に自分を抑え、トロワの顔の側に左手を突く。
「トロワ」
 覆い被さるような姿勢で表情を覗き込む。低く静かな声にトロワが目を開ける。ゆっくりと、視線を上げて五飛を見て、すっと細めた瞳に柔らかな彩を浮かべる。
「そうだ。喧嘩するためにここに来たんじゃない」
 トロワは手を伸ばし、五飛の頬に触れる。促されるように、五飛は僅かに身を屈める。右手でトロワの首筋を辿り、耳にぶつかって動きを止める。トロワの左腕が腰に回り引き寄せられたと思った瞬間、妙な方向への重力と共に世界が回転した。
 変に捻らないよう、咄嗟に腕と首を縮める。
「というわけで」
 声につられて見た先で、楽しそうに笑うトロワを見つける。決して速い動作ではない筈なのに、気づいた時には上からしっかりとトロワに抱きつかれていた。
 驚いて目を見開き、次の瞬間全てを悟って口を開いた。
「はっ、こっ、きっ…」
 謀ったな、この、貴様っ!!
 嵌められた。傷ついたふりをしていただけだ。
 思う間にもトロワの唇が頬と首筋を掠めていく。髪を梳いていく指に暴れようとした動きを止めると、背を抱いていたトロワの腕の力が少しゆるんだ。
「嘘か…」
 五飛の口から言葉が洩れる。
「嘘に決まってるだろう」
 瞼に口付けてからトロワは言って、そのままゆっくり唇へと移った。柔らかく五飛が受け止める。
「お前は優しい。とても…痛っ」
 恥ずかしいことを言うな。
 耳元で呟いたトロワの頭を、五飛が小突いて呆れる。トロワの笑う気配が伝わる。そうしてもう一度からだ全体で抱き直すのに、五飛も合わせて背筋を伸ばした。
 抱き締められて気付く。今のやり取りでどんなに自分が傷ついたか、どれだけ自分が不安を感じたか、どれほど一人になるのを辛いと思ったか。
 気付くと途端に呼吸が乱れ、五飛の胸が大きく上下する。
「五――」
 気にして上げかけたトロワの顔を、五飛はしっかりと抱え込む。肩が、指先が、震えるような希求と安堵。これまでにも何度か感じたことのある苦しさを、五飛と共にトロワも感じてしばし無言でその背を撫でた。
 やがて、
「くそ…」
 と漏らされた五飛の呟きが、不思議と空気を柔らかくした。
 万一、彼が怒って出て行こうとしても、飛び出す先は見知らぬ土地か遠い家だ。五飛はきっと知らぬ土地での衝動的な行動には出ないだろう。そう考えて、からかわれた腹いせにちょっとした悪戯心で仕掛けた言葉だった。悪趣味だったと、トロワの方でも思わないはずがない。
「怒って帰ってしまうかと多少は怖かったんだが――」
 それでも、もう空気を重くしないようにとトロワは笑う。
「思っていたより愛されていたようだ」
「…言ってろ」
 受け流す五飛の声に、悪かった、とトロワの謝罪が低く重なった。五飛は小さく頷きを返した。
 肌寒いテントの中で、静かに互いの体温を分け合っていく。口づけが深くなり、吐息が熱くなり、ようやく胸の芯に残ったしこりがとけていく。
「ああ、そうか…」
「何だ?」
 不意の五飛の呟きにトロワは即座に反応したが、何でもないと首を振って、五飛は相手の背に指を滑らせた。
 体の下でくしゃくしゃになった敷布団に少しの注意が向く。
 …だから布団を持ってきたのか。
 寝袋ではなくて。
 頭の隅で考えながら、トロワの肌を感じ続けた。



 三時間走ればやや大きめの街に出る。そこで車を返却し、不要な荷物を空港へ送り、宿泊先の予約確認をしてから電車で川沿いの都市へ向かう。一度川のそばに泊まっておきながら山中を迂回していくのは奇妙な感じがしたが、船の時間と車やテントなどの荷物の移動を考えると、このルートが最も時間のロスが少ない。
 そう、少ないのは確かだが、そもそも最初の地点でテントを使うこと自体が不自然なのだ。その真意が『一晩ぐらい完全に二人きりで過ごしなさい』というものだったのは、今となっては明白だ。
「――め…」
 企画者の名を忌々しげに呟く。それを聞いて、運転席のトロワがおかしそうに肩を揺らす。
「貴様もだっ! 調子にのって…くそっ」
 五飛は憎らしげに怒鳴り、そのまま顔をしかめて背と腰とを片手でさすった。
「そうか。それは悪かったな。お前があんまり気持ちよさそうだったから、つい」
「黙れっ!」
 昨夜のことを思い出して、五飛も僅かに羞恥を見せる。トロワを睨みはしたものの、どこかいつもの厳しさがない。調子にのっていたのは自分も同じかと、自覚したのを悟られないよう助手席のドアにもたれて目を閉じた。
「後ろで寝ててもいいぞ」
「余計な世話だ」
「声も嗄れてるし」
「それこそ大きな世話だっ」
 吐き捨てるように言って片ひざを抱え込む。それほど経たないうちに、規則正しい寝息が聞こえるようになった。
 道は特別混みもせず、午前中には目的の街へ着く。巨大な旅行用ネットワーク会社の、取り立てて愛想の良いわけではない社員が、それでも手際よく旅程と荷物の確認をする。最後に何か早口で五飛が尋ねると、短く「ここを出て左」と告げた。
 体調はすっかり戻ったのか、五飛はさっさと歩き出す。後をついて歩きながらトロワが尋ねると、
「昼食だ」
 と一言答えて先を急ぐ。行き着いた場所は、確かに食事のできそうな小さな店の立ち並ぶ一角。扉のないオープンな造りの建物が続く。ざっと眺め渡して、その一つに五飛は足を運んだ。
 大人数を対象としていないのか、店内は細長いカウンター席だけで構成される。料理をするのは痩せぎすな壮年の男性一人。周りも、一人二人で来ている労働者風の男性客ばかりだった。
 店内に貼られたメニューと他の客の様子を見て、五飛は何品か注文する。知らない名前のせいかトロワには一つも聞き取れず、全て五飛に任せて席につく。そうして時計を気にしたトロワの頭上でまた何かを五飛が尋ね、料理人が「ああ出来るよ」と返した。
 澄まして隣に座る五飛に、トロワは少なからぬ不安を覚える。絶対に五飛は何か企んでいる、と横目で相手を伺うと、五飛も一度ちらりと横目で彼を見遣った。だが、その視線はすぐに逸らられ逆にすっと引き上げられた口の端が、トロワの表情をこわばらせた。
「はいよっ」
 そうするうちに料理人から、小さな器が差し出される。白菜の甘酢漬け。
 澄まし顔に戻った五飛がすぐに箸をつける。ひとまずそれに続いたトロワの前に、同じ声と共に次の皿が置かれた。小エビの殻つき炒め。
 即座に隣を睨むトロワと、嬉しそうに箸を寄せる五飛。
「うまい」
 ぱくぱくと二、三尾口に放り込むと、五飛は満足そうにそう言った。
 五飛が『うまい』と言うのは本当においしい時だ。それなりのおいしさに対しては、彼は『おいしい』という表現を使う。それを知っているトロワには、目の前の五飛の科白はそれだけで十分説得力があった。試しにエビへと手を伸ばす。
 小さなエビの鮮やかな赤。心地好いネギとしょうがの香り。良く染み込んだ砂糖や醤油のまろやかな風味。そして弾ける殻、殻、殻……
「味は好きなんだがなぁ」
 情けない顔になるトロワに、五飛は肩をすくめて苦笑う。こんなに殻の薄い川エビでも駄目なのか。
「ほらよっ」
 そんな二人の間に少し大きめの皿が出てくる。筍と挽き肉の辛子醤油風味炒め。続けて出された茶碗には、どうだとばかりの山盛りの飯。肉の辛みと筍の食感の良さに、知らず思わずご飯がすすむ。
 その様子をちらりと見て、次に料理人が差し出したのは、酢で酸味を、胡椒で辛みをつけた不思議な味わいのスープ。トロワは反射的に手を伸ばそうとしたが、続いて目に入った皿に再び五飛を睨んだ。
「嫌いだと言ってるのに…」
 これまた色鮮やかな、小さな沢蟹のから揚げだった。
「はっ、ガキみたいなことを」
 五飛はからかうように笑って、蟹を一つつまむ。揚げたてのサクサクと快い感触。ほっくりと現れる蟹の味。やけどしないよう熱を逃がして『ほふほふほふ』と息を吐く五飛を見て、その隣にいた別の客が自分にもこれをと追加注文を出していた。また「はいよっ」という調子で答えながら、料理人はタレをふた皿五飛の前に置いた。
 他の料理を忘れたかのように、五飛は次々と蟹を口へ運ぶ。一つはシンプルな醤油と酒をベースにしたタレ、もう一つは辛味・甘味の調味料と山椒をたっぷり使った鋭利な辛さのタレである。
 口の中が辛くなって慌ててご飯を含むためか、普段よりがつがつと食べている印象を受ける。それがトロワには妙に新鮮で、つい、食事よりもそちらに夢中になる。
「何だ?」
「いや…」
 何でもないと答えるわりには片ひじ突いて眺めている。
「男らしいなあ、と」
 真面目な顔で物言うトロワを、ひと睨みして箸を置く。口の中をカラにしてから、五飛はかっちりと目を合わせた。
「食えっ!!」
 ああはいはいすいません。
 怒られてトロワはおとなしく食事に戻る。醤油ダレの沢蟹を噛み砕くと、パリリとした感触にやはり表情が歪む。
「お前、それは損をしているぞ」
 どこがそんなに嫌なのかと、呆れたような残念がるような複雑な顔を見せて、それから、
「残すなよ」
 と五飛は言い放った。
 食事を終えて電車に乗り、船下りの起点となる都市に出る。中流域の街まで二泊三日。二つのダムと多数の街や村を抜ける。その間には、ダムの建設によって市街の半分を失った街や完全に沈んだ村が存在し、濁流に削られ崩れた楼閣や岩場に取り残された霊殿が幾つも見て取れた。
「数百年前に沈んだままだ――」
 低く告げられた五飛の言葉が、沈んだコロニーへと向かうようで苦しかった。
 三日目の午後、下船した二人は川沿いの宿へ向かう。少し離れれば高級なホテルも並んでいたが、二人はあえて小さな民宿を予約していた。
 途中の船着き場付近では、漁船からの荷揚げがされている。船の数も魚の種類も多く、荷役と計量と買付の人々で賑わっていた。入ってきたばかりの船に珍しい魚がいたらしく、わっと上がった歓声と駆け寄る男たちの慌てぶりが楽しげに映った。
 この活気は懐かしい。ふいにトロワはそう思う。
 戦争を終えて地球に降り立ったばかりの頃、二人は一度この大陸を訪れた。それはもっと北の方だったけれど、食糧を求めて訪ねた市場で、人々の賑わいに安堵したことを思い出す。
 それは五飛も同じなのか、隣の雰囲気が柔らかく伝わった。
「よく二人で買い物に行ったな」
 目は川岸に向けたまま、優しい声がそう言う。頷くトロワと同じ気持ちで微笑む姿が清らかだった。
 すぐに宿は見つかり、二人は荷物をおろして暫しくつろぐ。そうしながら半分以上を終えた旅程を振り返って、一体これはどういう旅なのだろうとトロワは思った。
「なんだ、聞かれなかったのか?」
「何を?」
「史跡を巡るのと、街を観光するのと、食事を楽しむのと、どれがいいか」
 この旅行についてのことだと分かる。
 自分は聞かれていないとトロワが答えると、
「そうか。俺は聞かれたのだが」
 と五飛は少し不思議そうに言った。
 五飛の回答は『食事』だった。どうりで観光要素が少ないわけだ。そして、途中の街々や船上で嫌と言うほど食べさせられた蟹・エビの料理と多種多様な点心類を思い出して、トロワは腹のふくれる気がした。
「史跡はその歴史を知っていた方が面白い。お前と二人で街を見て回るのは陳腐な気がする。だが食事は違う。何も知らなくてもうまいものはうまい。その土地の食材、その土地の料理。その土地の人間が作るその土地の味がある」
 あまりそういうのを感じたことがないから、試してみたいと思ったのだ、と五飛は白状する。だが、それで終わらず、少しだけトロワにヒントを与えた。
「必要に迫られた食事ではなく、食事そのものを楽しむということを、お前は考えたことがあるか?」
 答えを求めることなく五飛は洗面所に消える。五飛の意図と自分の過去とを考えて、トロワはいつまでも唸っていた。



 入った途端に空気が変わった。湯の匂い油の臭い、鶏のだしと醤油の香り。蒸した肉、揚げた魚、炒めた野菜に煮た野菜。人いきれ、明るいざわめき、ひそひそ話と笑い声。急ぎ足、熱い皿、色とりどりの食卓の上。
 まだ早い時刻にもかかわらず、宿の食堂は人であふれていた。親族だけで運営しているというその店は、席数五〇といったところか。大衆食堂、もしくは居酒屋といった感じで、おそらく、宿泊客だけのためにあるのではないのだろう。親しそうに店員と会話する、いかにも常連といった様子の団体も混ざっていた。
 壁一枚隔てただけで、こんなにも違っていいものか。それは住と食の差というよりも、旅人と地元人との違いのように思えた。が、そんなトロワの思いとは関係なく、その横で五飛の様子も一変していた。
 入り口の彼らを見て元気な声を掛けた店の女性に、五飛もとびきり明るく答えている。
「不思議――」
 これを不思議と言わずして、一体何を不思議と称すれば良いのか。そんなセリフを頭の中ではっきりと告げてから、トロワも五飛の後に続いた。
 壁際の小さいテーブルに案内され、向かい合って座る。五飛が壁側、トロワが通路側。メニューを取って、五飛は幾つかの料理をトロワに指し示す。その中には飽きもせず、蟹とエビの料理が含まれていた。
「もしかして、根に持ってるか?」
 と、トロワ。
「何か恨みを買うようなことをしたのか?」
 そりゃあもう心当たりがあり過ぎて。
「やっぱりお前、本当は俺のことなど好きじゃないんだな」
 トロワが情けなく言うと、五飛は軽く笑う。
「どうとでも好きなように考えろ」
 それから安心させるように言った。
「殻がなければ平気なのだろう?」
 そして、ちょうどやってきた少々ふくよかな中年女性に目を向けた。
「いらっしゃい。さっき着いたお客さんですね。ご挨拶にも出ずにごめんなさい」
 そう言いながら彼女は何度か頭を下げ、自分がこの宿の主人だと名を告げた。
「後で困らないように…」
 と始めて、だいたいの予算はいくらかと彼女は尋ねた。トロワが答えると、「食べられないものはある?」と聞いてきた。
「ある」「ない」
 二人は同時に返事する。主人が面白そうに首を傾げて、意見を聞こうとトロワを見る。
「殻つきのまま調理された蟹やエビ、もちろん同様の昆虫類も苦手なんだが、こいつが必ずそういうものを頼むんだ」
「味は好きだというのだから食べられる筈だ。お前のはただの思い込みに過ぎん。そういうのは気に食わん」
 トロワの言葉に五飛が返す。事情の分かった彼女は、はいはいと笑って頷いた。
「大振りの蟹をみそまで食べるような料理はないのか?」
 五飛は試しに聞いてみる。
「残念だけどねえ、捕獲量が制限されてるんですよ。それに今は蟹の季節じゃない。上海まで行けば多少はあるかも知れないけど、この辺りで出せるのは小振りの川蟹か養殖もんばっかりさ。まあ、うちみたいな店にゃあそれで十分ですけどね」
 女主人はそう言って笑う。
 半年先ならもっといい蟹が手に入ると言い添えると、
「では半年後にまた来てみることにする」
 と五飛が請け負った。彼女がかかかと笑う。
「顔もよけりゃ物わかりもいいね。そういうお客にゃサービスするよ」
 そうして最終的なオーダーを決めて去って行った。
 すぐに、食前酒としてさっぱりめの果実酒が出される。そこではたと気づいて、何か食事に合う酒もと注文した。
 クラゲの冷菜、白菜の辛子煮込み、そら豆メインの炒め物、水餃子、鶏唐揚げ、蟹肉エビ入り蒸し団子。二人分の小皿がここぞと並び、やがて次々カラになる。
 それぞれ辛めの味がつくので、スープはあっさり茸とアサリ。店の主人に任せた部分は、具だくさんの煮物と炒飯が入った。
 料理はどれもとてもおいしく、食事に合わせて酒も進む。そうして気付くと、周りのテーブルは随分空いていた。
「だいぶ…長く居たようだな、俺たちは」
 五飛の言葉にトロワも頷く。
「何だか、いつになく話し込んだな」
 そのくせ何を話していたのかよく覚えていない。呆れたものだとトロワは思う。
 そこへ主人がやってきたので、ラストオーダーか会計かと身構える。しかし、彼女はちょっと笑って五飛の耳に口を寄せた。内緒話である。
「いいのか?」
「お客さんが良ければね」
 五飛はじっとトロワを見つめる。表情は変わらなかったが、また嫌なものが出てくるぞ、とトロワも五飛を見据える。
「頼む」
 五飛が言って主人が去り、次に彼女が皿を手にして現れるまで、二人はそのままの姿勢を保った。
 コトン、と小さな丸い皿が置かれる。
 五センチ程度の、サソリの唐揚げ。
「五飛…」
 トロワの嘆息を無視して、すぐに五飛は箸を出す。白っぽい海老せんべいの上に乗った二匹のサソリの内の一匹を、ひょいと口の中に放り込む。うっすらとかけられているらしい山椒の香りとわずかな塩味。香ばしさとカシャカシャといった感じの殻の感触がたまらない。おいしいというより心地好いという方が合っている。
 だが、本当に幸せそうに食す五飛に対し、トロワは恨みがましい目を向けていた。
「力がつくぞ」
「高級品だぞ」
「思い切りのサービス品だぞ」
 いろいろと言ってみるが、それでもしかめ面で迷ったままなので、仕方なさそうに五飛は指先でサソリをつまみ上げた。
 正面からサソリを見つめる。口元へ持っていく。当然食べるものと思っていたのに、彼の行動は違っていた。
 サソリの頭に軽くキス。
 それをトロワに差し出した。
「ほら」
「うっ…」
 これは食べないわけにはいかない。たとえ相手が何であれ、幸せすぎるシチュエーションだ。一生に一度あるかないか…
 目の前のサソリにかじりつく。
 端から見たら殴ってやりたくなる状態だったが、五飛はそこはかとなく満足そうだ。そんな彼を見ていると、口の中でシャカシャカ言うのも、特別気にはならなかった。
「おいしかった」
「なら、よかった」
 自然とトロワの口を突いて出た言葉に、今度こそ五飛は嬉しそうに笑った。
『絶対酔ってる。五飛も酔ってるが、俺も結構酔ってるぞ』
 気づいたところで、何が変わる訳でもない。
 夕食は、デザートのサツマイモの飴煮で締めくくられた。



「食事は皆で揃ってとるものだった」
 温かい茶を飲みながら、五飛は静かに話していた。朝の食堂には光が溢れ、外を行く人々のざわめきが伝わる。
「俺たちのために用意された料理。決して豊富ではないコロニーの食糧から選び出された食材。健康と好みを考えた調理。うまくない筈がない」
 実際に、自分は殆ど食事を不味いと思ったことはなかったのだ。一度おいしいと認識したら、次に好みに合わないものが出たとしても、不味い方を失敗として扱うだけだ。
「お前の食べることに関する意識が『義務』だとしたら、俺のは『権利』だ。望んでそうする。お前の味に対する態度が『嫌わない』だとしたら、俺のは『好きになる』だ」
 自分にとって食うに困るとは、権利が義務に変わることだ。何がなんでも食べなければいけない状況――それは自分の中での食事というものとは、少し違うものなのだ。
 結局、自分は恵まれた環境で育てられたのかも知れないと五飛は思う。それでも、それぞれの嗜好や体質とは別に心の支配する味覚があると、教え諭されたことは忘れずにいたいと思う。
「できればお前にも、おいしいと思って食べて欲しい。少なくとも俺は、この先もずっとお前と一緒に食事をするのだから、気遣ってくれてもいいと思うぞ」
 僅かに視線を逸らして、照れるのをごまかしながら五飛は言う。気づいて笑って、おいしいと思うこと…とトロワが呟く。
 脳裏に誰かのおぼろげな影が浮かんだ。おいしい? と自分に尋ねてくれた人。好みのコーヒー豆を街中探し回った人。
「そうだな。そう教えてくれた人が、俺にもいたっけ」
 五飛の中に残るコロニーの人々のように、自分の中に残る母の姿。それを教えてくれた人々は今はもういないけれど、だからといってその教えまで消えるわけではない。
「では、お前が少しずつ、おいしい食べ方を教えてくれ」
 歩み寄るようにトロワは告げる。五飛が顔を上げて、まぶしそうに目をすがめた。
 そうして、さあ、と立ち上がる。
「まずは上海だ!」
 川を渡る船人の力強い声が、応えるように響いていた。

掲載日:2008.08.08


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