Pulse D-2

unity

 たしか、四十人ほどだった筈だ。
 開かれたままの入口から俺は中を覗き込む。ここに居る筈の学生たちの名前も顔も、既に資料で確認済だ。実際、その多くを見て取ることが出来る。
 いずれも歳は俺より二、三歳上――というのは書類上でのことで、俺の実年齢の方が不明なのだが――その割にすれてなさそうだと思うのは気のせいだろうか? いや、それ以上に俺たちが世間に揉まれすぎているのだろうか?
 そんなことを考えながら、後ろに居る筈の五飛を振り向くと、彼は三歩ほど離れた場所で妙に難しい顔をしていた。
「どうかしたか?」
 尋ねると、
「いや」
 と首を振るくせに、一向に動く気配がない。嫌がる五飛を宥めすかして(半ば騙して)連れて来たから、また頑な気持ちがぶり返しているのかもしれない。
 だから言ってみる。
「ここまで来て帰るなんて言うなよ」
「馬鹿を言うな」
 思った通りの返事をして五飛は歩き出す。そのまま俺の脇を抜けて教室へ入って行くのを、こっそり笑って見送った。本当に負けん気の強い奴だ。
 だが、それに頼っている訳にはいかない。
 俺が顔を見せた瞬間から、学友(となるべき者)たちの目が耳が意識が、こちらに向かってくるのがわかった。あるいは遠慮がちに、あるいはあからさまな好奇心と共に。
 勿論それは俺だけに向けられたものではなく、角度的には五飛を見た者もいたようだ。更に、彼が歩き出すと同時にそれらは完全に五飛へと目標を変えた。あまりにもはっきりとしていたため、その変化が音や光を伴わないのが不思議なほどだった。
 当然、五飛も感じていたのだろう。一瞬彼の纏う空気が恐ろしく険悪になったような気がしたが、そうした反応もまた何か笑える感じがして、俺は暢気さと警戒とをない混ぜにしたまま五飛の後に続いた。
「まあ、初日だしな」
 入口付近、最後列の席につくと、五飛の気をやわらげようと話し掛ける。五飛は俯いて自分の腕時計を睨みつけていたが、俺の言葉に顔を上げ、今度は俺をねめつけて静止した。
 …五飛、お前、今、極悪人の顔をしてるぞ。
 口にはしないが顔には出して、俺は小さく笑ってみせる。
「何だその顔は」
 五飛は低い声、固い口調。
「いい男で惚れ直すか?」
 俺はあくまで調子よく。
「誰がだっ」
 殺人鬼の顔になった五飛が俺の胸ぐらを掴んだところで、担当の教員が入って来た。
「トロワ・バートン、居るか?」
「あ、はい」
 途端に名を呼ばれ、俺は慌てて手を挙げ答える。五飛も驚いたように前へと顔を向けた。
 教員は淡々と告げる。
「後見人からのメッセージだ…『真面目にやらなければ強制送還』だそうだ」
「…了解した」
 軽い笑いのざわめきが教室に広がる。おそらく、これで俺に対する好奇の視線は少しばかり方向の違うものになったのだろう。
 やってくれるな、レディ・アン。
 後見人となっている彼女に、称賛と取れなくもない感想を持って、やれやれと俺は首を振る。横で見ていた五飛にも肩を竦めておどけてみせたが、彼からは反応と思えるものは見出せなかった。
 ホームルームの声に同調するよう、五飛は黙って再び向き直す。その、心を隠す横顔を、俺はいつまでも見つめていた。



 俺にはレディ・アンが、張五飛にはサリィ・ポォが、デュオ・マックスウェルにはルクレツィア・ノインが、ヒイロ・ユイにはリリーナ・ドーリアンが――というのはさすがに認められなかったので彼女の父親が――という形で、それぞれに後見人をつけ、ガンダムの元パイロットたちが政府の監視下から一応の自由を獲得したのは、先の戦争終結から約一年半後のことだった。十分過ぎるほど迅速な処置と言えるだろう。
 カトルだけは警戒の必要なしとみなされて故郷のコロニーへと帰って行ったが、それでも五ヵ月ほど、事情聴取とカウンセリングとを繰り返された後のことだ。
『この状況の方がよほどノイローゼになりそうです』
 カトルの言葉も、理解に難くはなかった。
 ともあれ、俺たちは自由になった。不正な手段で得た自由では無い。人としての権利を認められた自由だ。少なくとも俺にとってそれは、短い人生の中でごく限られた期間にしか手にしたことの無いものだった。
 だがそうして手に入れた時間と空間とを、さて何に使ったものかと俺はしばし悩んだ。取り立ててしたいこともなく、将来の展望なども全くなかった俺だ。取りあえず思いつくものといえば、度々連絡をくれたキャスリンの元へ行くことぐらいだったが、これにはレディ・アンからの条件が付けられていた為、即時実行することは出来なかった。曰く、しばらくは地球から出るな、という行動範囲の制限だ。
 これについて彼女を責めるのは理不尽だろう。彼女にも社会的立場というものがあり、戦時に背負って来た様々な経緯があり、人間的限界があり…まあ、細かい事情はさておき。
 結局何をするでもなく一月程を過ごした俺の元に、いつまでただ飯を食っている気だとレディ・アンが小言を言いに来、やっぱり一緒に働かないかとサリィ・ポォが再度の勧誘をしに来た。二人が揃って現われたのに俺は苦笑を禁じ得なかったが、やがて、彼女たちの本当の目的を察するに至って気持ちを引き締めた。それは、こんなやり取りだったと記憶している。
『誰か、会いたい人、なんているかしら?』
 サリィが少し取り繕ったような明るさを持たせて聞いてきた。
『そうだな…』
 俺は少し考えた筈だ。
『…五飛に、会いたいかもしれない』
『張五飛か? ヒイロ・ユイではなく?』
『いや。会いたくない訳では無いが、ヒイロは一人で平気だろう』
『五飛は平気じゃないと思うの?』
 俺は思わず苦笑する。
『そう言うと五飛は怒るだろうが、不安定な要素は持っているのではないか?』
『心配するほど、彼の何を知っているのだ?』
『何も。だから気にかかるのかもしれない』
『…よかったわ、会いたがってくれる人がいて』
 サリィとレディ・アンとが交互に話し掛けてきたが、最後のサリィ・ポォの言葉は、少なからず俺の胸に悲しく響いた。
 この時、当然、既に五飛はサリィの後見を得て自由になっている筈だった。あっという間に行方をくらますだろうと思っていたので、勝手にもう彼とは会うこともないだろうと決めつけていた。ところが、実はまだ彼はサリィの管理下にあったのだ。
『同じ質問をね、五飛にもしてしまったの』
 サリィは、後悔しきりといった様子だった。
 会いたい人――そんなもの、五飛には幾らでも居るだろう。正確には、会いたくても会えない人が。
 詳しい事情は聞かなかったが、五飛が俺とは違う理由から動き出せずにいるらしいことは分かった。それで俺は、五飛に会いに行ってみたのだが――まあ、この時のことを今話す必要はないな。
 最初の訪問時に「もう来るな」と言われなかったので、俺はその後も度々五飛のもとを訪れた。やがてそれは日課のようになり、五飛もいろいろな表情を見せるようになっていったが、最後まで、来てくれてありがとう、という類いのことは口にしなかった。
 ふっ…言うわけがないか。
 俺も五飛も相変わらず自分の生き方を決めかねていたが、それでも忘れていた『行動する』という感覚が戻って来ているのは確かだった。人に会うという行為そのものに、何がしかの活力を生む要素があるのだと俺は理解した。
 五飛が何を考えたのかは定かではないが、彼が居住区を変えるつもりになったことをサリィから聞くと、俺もそれに合わせて行動を起こすことにした。五飛の新居のすぐそばに、俺も部屋を借りたのだ。
 訪ねて行く俺を五飛は胡乱な表情で迎え入れ、時には追い返すこともあった。遠慮の無い態度が戻って来たとでも言えばいいか。そしてそれはこちらも同じだった為、結局のところ根比べになった。
 悪いな、五飛。根比べなら、俺はお前には絶対に負けない。
 そういうわけで、いやよいやよも…という感じになって来たところで、一緒に学生でもやってみないかと持ち掛けた。
 事、ここに至る。



 初日をやり過ごすと、俺に関して言えばあとは意外に順調だった。
 俺たちが通うことにしたのは、いわゆる公的な教育制度の中にある大学・専門教育・技術学校のようなものとは少し違う、私的な教育機関のものだ。専修科の短期コース、といえばまだ少し聞こえはいいが、要するに試しに軽く齧ってみたい科目に、興味半分実用半分で学生が集まって来る。
 大抵は本職も学生。正規の教育機関で専門知識を学んでいる筈の彼らが、何故別のコースを取る必要があるのか分からないと五飛は言うが、それは勿論、個人個人で様々な思いがあるのだろうと俺は思う。
 中には大学などの単位に換算されるコースもあるが、俺たちが取ったのはそれらには全く関係のないものだ。各種資格などにも繋がらない。ただ、学ぼうと思えば上位コースがいくらでも選択可能な『社会学基礎』に当たる三ヵ月コースだ。
 週三日、一日三コマ、一コマ二時間弱、つまり一日六時間弱を週三日。しかも基本的に聴講だけなのだから、まったくもって楽なものだ。
 更にふざけたことに、俺たちの目的はコースそのものの内容じゃない。基本的に、他人の中に入ること、戦闘と無関係な暮らしに漬かること、が目的なのだ。
 何も無理に今までの生き方を捨てなくても…という意見も当然あった。現に、ヒイロはリリーナの護衛についているし、俺にも五飛にもデュオにも、サリィからの協力要請があった。彼女は今、地域紛争やテロの対応に追われている。
 だが、俺とデュオはそれを即座に断った。食うに困らず命の危険もなく、という暮らしを、俺たちは根本的に望んでいたらしい。但し、一応学校というものを経験しそれなりに気に入っていたらしいデュオと違い、俺は全く経験が無かった。そのせいもあったのか、すぐに学生生活を始めたデュオに対し、こちらは結果として無為に数か月を過ごしてしまった訳だ。俺としたことが。
 話を戻そう。
 五飛がサリィに協力しなかった直接の理由が何だったのか、それは俺もサリィも未だに知らない。本人が言わないのだから仕方がない。それには触れずにおくことにした。
 代わりに俺が『学校』という言葉を出した時、五飛が最初に言ったのはこんな台詞だった。
『俺はギムナジウムを卒業している』
 これには俺も驚いた。
 頭のいい奴だとは思っていたが、どちらかというと一族の中で閉鎖的に集中的に必要なことだけを学び、あとは鍛錬鍛錬鍛錬…といったイメージを持っていたのだ。
 サリィに聞いてみたところ、五飛の学歴は明確に証明されているとのことだった。彼は、生まれたのとは別のコロニーで、飛び級までして学業を修めていた。
『やれやれ…』
 俺は思わず呟いたが、それなら学校には慣れているんじゃないかと、逆に気を取り直して五飛を強く誘った。
 彼は入学資格を持っている。(俺は簡単な試験を受け、合格した後に入学が許可される。)
 彼は学校というものを過去に経験している。(俺は全くの初体験だ。)
 そして俺たちは既に知り合いだ。誰か仲間がいた方が新しいことは始め易くないか?
 こんな調子で話を進めた筈だ。五飛は、特に最後の言い分に例えようもなく嫌そうな顔をしたが、最終的には「好きにしろ」と話を打ち切った。勿論、好きにさせてもらった。俺は自分が押しの強い人間だということを、この時初めて意識した。
 こうして俺たちの半学生生活は始まった。最初の印象に違わず、実際に話してみても学生たちは皆、俺たち二人に興味津々だった。理由は幾つかある。
 その一、俺たちの年齢。二名の社会人を除き、クラスメートたちは全て大学生だった。こういったクラス編成は稀にあることだが、今回は特に、年度の途中からコースが始まったため、自分の進路に疑問を持った学生たちがより多く集まったのだと担当教員から聞いた。当然俺たちは最年少。「しかも君たちは見た目がいいからね」とは講師の言葉だが、まあそれは置いておくにしても、要するに彼らにとって俺たちは『おもちゃ要員』だったのだと想像される。適当にからかって遊ぶつもりだったのだ。残念ながらそういう相手では無いことはすぐに分かったようだが、その分、数段良い関係を築くことができつつあると個人的には思っている。
 その二、俺たちの出身。L3・L5コロニー群からの帰還者(コロニー生まれでありながら地球に腰を落ち着けた者のことを、彼らはこう呼ぶ。別に帰って来たつもりは無いのだが…)であることは、名簿を見れば分かることだ。隠すほどのことでもない。だが、どうやらEU地区からも殆ど出たことの無い彼らにとっては、コロニーは大きな興味の対象であるようだ。俺たちが思っていたほどには、コロニーと地球一般市民との行き来は盛んでは無いのだろうか? とにかく最初の三日間はコロニーと先の戦争に関する質問攻めにあった。やれやれ。
 その三、学歴と保護者。名簿からは最終学歴を知ることが出来る。そんなものの記載がなぜ必要なのかと俺などは不思議に思うのだが、学生同士のコミュニケーションに何かしら必要だとでも考えられているのだろうか。とにかく五飛の出身校の優秀さ(EU地区内にも提携校のある大変優秀な学校らしい)と、俺の学歴皆無と思われる記述に、極端な対比を見出し興味を持ったという。細かいことにこだわるものだ。次に保護者だが、これはさすがに名簿では分からない。ただ、学校側にはデータとして置かれているので、それにアクセスするのは難しいことでは無い。勿論そんなことではいけないのだが、事実、彼は無断でデータを読み取ったらしい。
「いや、まあ、軽くノックしてみたら扉が開いたって感じでさ。にしても、レディ・アンってさ…」
 こう言った彼は、外見はとても真面目そうだが中身は三歳年をくったデュオのようだった。彼はレディ・アンの経歴もある程度調べ上げていた。だからこそ、その庇護者になっている俺に「お前って何者?」という問いが出たのだろうが、遠い親戚だと笑ってみせた俺に対しても、薄く笑って、まあいいかと肩を竦めた。悪意は無いようだ。
 その四、グループ編成。これは何と言うか…少し失敗だったかと一瞬思った。というのも、このクラスにはもう既に、数人ずつのグループが出来上がっていたのだ。もっと正確に言えば、グループ毎にまとまって、それぞれの大学から集まってきていたということになる。これに属していないのは、先述の二名の社会人と俺たち二人だけだった。
 出来上がっているグループには入りにくい。だから教室の様子を見て俺は足を止めてしまったのだが、これは自分から入ろうとするから難しくなるのであって、向こうから勝手に寄って来るものに関しては、こちらも適当に流されておけばいつの間にか仲間になっていたりするものだ。嫌だと思ったら抜ければいい。それなら得意だ。
 こうして、何となく俺たちも一つのグループの中に居るようになった。――俺たち、と言っていいものかどうか、少々疑問ではあるが。
 二週間ほどして学校の方が落ち着くと、俺は近所の花屋でバイトを始めた。花屋を笑うなよ、あれは厳しい仕事だ。ところで何故花屋か。まあ、家から近かったこと、一日おきでも構わなかったこと、動植物は基本的に得意であること、などが主な理由だが、もう一つ。売れ残った花を貰ったり安く買ったりして五飛のところに持って行く。そうするとだな、五飛がこれまた嫌~な顔をする訳だ。しかし、花束なんか恥ずかしい、と言って怒る割に最終的には受け取り、しかも長持ちさせようと努力するところが何とも五飛らしいじゃないか。そんな彼も見たくてな。これもバイトの効能と言えなくもないと考えている。…俺の性格は曲がっているだろうか?
 まあ、俺のことはどうでもいい。
 こと人付き合いにおいて、五飛の精神的限界はかなり近い場所にある。そのことはガンダムに乗っていた頃から分かっていたことだが、あの時は状況が特殊だったこと、そして周りにいた人間も皆個性的だったことなどから、余計に五飛の性格も際立って感じられたのだと思っていた。
 だが、今こうして普通に生活を始めてみると、それが昔からの五飛の基本的な性質であることがとてもよく理解出来た。
 通常、学内で彼の見せる表情は、取り澄ました考えの読めないものか、不機嫌に眉根を寄せたものかのどちらかしかなかった。自分から人の輪に入ることはまず無く、最低限の挨拶と授業に必要なやり取り以外、殆ど話すことも無い。五飛の最初の反応が冷淡だった為、その時話し掛けた者たちもその後は少し遠巻きにしていた。
 もっとも、これには仕方がないと思える面もあった。彼らが話題にしたのは、俺たちの出身コロニーについてだったからだ。
「話すようなことは何も無い」
 五飛はそう言ったきり堅く口を閉ざし、誰とも目を合わせようとしなかった。結果、集まっていたグループのメンバーの視線は、全て俺に向けられた。俺は、二人分の話を一・五人分にまとめて答えた。
 弁解したかった。五飛の冷たい言葉の意味を、暗い表情の理由を。だがそれは俺がやっていいことでは無いのだとも思う。だから俺は曖昧にごまかす。ごまかしながら、彼らとの距離を測る。これが俺のやり方だ。
 その点、五飛に弁解の意図も他人との接触に対する興味関心も無いことは、見て明らかだった。彼らと五飛との間に出来た距離は一向に縮まらず、主に五飛側からそこに厚い壁を築こうとしているようにさえ思えた。
 性格からの予想はついていたが、さすがにこれ程とは思っていなかった。以前、彼が過ごしたというギムナジウムでの暮らしはどんなものだったのかと、思わず俺は首を傾げる。そして当然の答えを得る。
 そう。つまり、その時も孤高の人だったわけだ。
 五飛なりに何か理由があるのだろうが、俺にはそれが何なのか突き止める術が無かったし、五飛も何一つそれらしいことを話してはくれなかった。
 そうこうするうちに、一月が過ぎてしまった。



「これでは駄目だな」
「何が?」
 俺の呟きを聞き止めたのは、例のハッキング男だった。彼のいるグループは十九から二十一歳のメンバーで構成されており、真っ先に俺たちに声を掛け引き込んだ。真面目に大学に行っているのかどうか疑わしい部分もあったが、概ね快活で厭味の無い奴らだ。
 難と言えば、授業の後に必ず食事に誘って来ることだろうか。いや、本来は難ではないのだろう。だが、俺はともかく五飛にとっては間違いなく煩わしいことだ。俺は、五飛の表情を窺いながら、週に一度の割合で飲み物だけ付き合うことにしていた。今も、その為に喫茶店に来ている。
「ああ、まあ色々とな」
 いつもの調子ではぐらかす。直接の質問者である彼はそれでこちらの気持ちを汲んだのか、笑って肩を竦めてみせた(これは彼のよくやるポーズだ)。
 しかしその隣から、面白そうに割って入った高い声があった。
「こ、い、の、な、や、みー」
 恋の悩み…?
「それは違う」
 彼女にははっきりと首を横に振って答える。頼むから変な話を始めないでくれ。
「えーっ、いいじゃない。誰かいないの?」
 言いながら彼女は、大きな目を楽しそうに細める。何と言う名だったか――確かヒルデだったな――彼女に似ていると思ったことがあるが、実際にはヒルデのことを俺はよく知らないのだからいい加減な感想だ。
 居ないな、と気のない返事をする俺に、今度は反対側から声が掛かった。
「あら。トロワと五飛ってそういう関係じゃないの?」
 こちらはもう少し冷静な物言いだ。彼女はサリィに似た雰囲気を持っている。だが口にしている内容は結構すごい。
 たっぷり十秒、俺は沈黙していただろう。
「いや。違う」
 つい真剣に答えてしまった…。
 自分でも馬鹿だなと思ったが、きっとそれが顔に出たのだろう。周りも皆ひとしきり笑い、それから一ヵ月間の(日数的には半月弱の)俺と五飛の印象らしきものを短く語った。
「だからね、教室以外ではもっとずっと仲良しなのかなって勘繰っちゃったの。ごめんなさい」
 その中で、サリィ(仮)はそう言って笑った。
 彼女が言うには、俺と五飛はお互いの立ち位置がとても近いのだそうだ。肩を寄せ合うように並び、秘密を打ち明けるかのように至近距離で話すと。
 なるほど、言われてみれば思い当たるフシはあった。多分、俺が常に五飛の顔を覗き込んでいるのだ。それにしても、いつからこうなのだろう?
「まあ、そうね。トロワがウーフェイを大事にしてるなーっていうのは、あたしも思わなくもないけど。でもさあ、ウーフェイって何でいつも怒ってんの? あたし何回も睨まれちゃった。あれって――何て言うか、寒いような怖さがあるよね」
 俺が記憶を辿る間も会話は続く。ヒルデ(仮)の言葉にもまた、別の鋭さがあった。
「…そうか、そういう見方もあるな」
 彼女の感じる寒さの正体は、怒りや嫌悪や憎しみではない。それは『虚ろ』だ、と俺は思う。だが、これは言えない。
「睨んでいるわけじゃない、多分。地顔が厳しいだけだ。凛々しくていいと思わないか?」
 冗談めかして言う俺に、ヒルデ(仮)は複雑そうに低く唸っていた。そうして席を外していた五飛が戻って来るのに目を止めて、眉間に皺を寄せながら更に重く声を落とした。
「終わったのか? 帰るぞ」
 五飛が素っ気なく告げる。本当にコーヒー一杯だけの付き合いなのだ。
「じゃあな」
 俺が立ち上がるのに合わせて、女性二人が何やら目くばせしたのが分かった。
『トロワ、しっかりねー』
「うまくやれよっ」
 …それは一体どういう声援なんだ。
 女声二重唱とそれに便乗したデュオ(仮)の声、そして他の笑い声にやれやれと手を振り、俺は店を後にした。
「何が『うまくやれ』なのだ?」
 案の定、五飛が不機嫌に訊いてくる。
「いや、何でもない。冗談の延長だ」
 俺は笑いながら、つい、ごまかすように言ってしまった。気づいた時にはもう遅い。五飛は明らかに気分を害した様子で足を速めた。
 すっと五飛の背が遠くなる。
 俺は慌てて追いすがる。
 今は、とてもよく分かった。俺は五飛との距離が開くことを恐れている。いつでも手の届く範囲に居たい、居させたいと思っている。
 五飛はどうなのだろう?
「聞いてもいいか」
 いつもの位置に並びながら、俺は何か胸の中が泡立つような感覚を覚えていた。
「何故、怒る?」
 五飛は答えない。
「五飛?」
「知らん」
 前を向いたまま短く返す。
「真面目に答えてくれ」
 仕方なく腕を掴んで引き止める。渋々振り向く五飛は、数秒間俺を見つめてから言った。
「貴様こそ、何を怒っている」
「はぐらかすな。聞いてるのは俺だ」
 待った甲斐の無い言葉に、俺の語勢も強くなる。それが五飛の癇に障ったのだろう。
「命令するな、強要もするな。貴様に指図されるおぼえは無い」
「命令も強要も指図もした覚えは無い」
「おっ…」
「だがいいだろう、教えてやる」
 何か言おうとする五飛を遮って俺は続けた。
「怒っているのは、お前があまりに身勝手だからだ」
 周りの通行人が俺たちに目を向けながら過ぎて行くのが分かった。俺は店側の端へと五飛を引っ張る。その手を振りほどき、俺を睨み、低く抑えた声に怒りを乗せて彼は言う。
「悪かったな、これが俺の性格だ。個性をどうこう言われる筋合いは無い」
「個性とはまた体のいい言葉だな。それで全てが許されると思うなよ」
「気に入らないなら貴様も他所へ行けばいいだろう。一緒にいてくれと頼んだことなど無い!」
「そうだな。頼まれてはいないな。当然だ、お前はいつも命令するのだからなっ」
 殴られるかと思った。実際、五飛の右手は動きかけていたのだが、彼がそれを振り上げることはなかった。代わりに吐き捨てるように言う。
「貴様に何が分かる」
「少なくともお前の考えは分からないな。俺に分かるのは、お前ではなくお前の周りに居る人間の気持ちだ。それこそお前に分かるのか? そもそも考えてみたことがあるのか?」
 五飛は再度きつく俺を睨み上げた。
「うるさいっ。保護者面するなっ」
「そんなつもりはない。友人として忠告しているんだ」
「誰が友人だ」
「違うのか? 冷たいことを言うんだな」
 俺は顔を背ける。
「今のは傷ついた」
 そうしてさっさと歩き出した。五飛は追って来ない。
 停留所近く、バスが俺を追い越す。小走りに追いつくと、俺はそれに飛び乗った。



 自己嫌悪、という言葉がある。今俺の腹の中には、これがぎっしりと詰まっているのだろう。胃がもたれている感じだ。
 あんなことを言うつもりでは無かったのに。
 バスの中、家まで歩く間、帰宅してから寝るまでの時間――五飛とのやり取りを反復し、俺は更に落ち込む。
 あんなことを言うつもりでは無かったのに…。
 だが、自分が本気で怒ったのだということは紛れもない事実だった。これは驚きだ。俺も人並みに怒りの感情を持っていたのだな。
 ただ困ったことに、何に対しての怒りなのかが今ひとつはっきりしなかった。五飛にはああ言ったものの、俺の中ではあれは真実ではないと警告が発せられ続けていた。だから余計に悔やまれる。思わず出た真意で喧嘩するならともかく、咄嗟に出た嘘で仲違いとは。まったく、俺らしくない。嘘はもっとうまく使うものだ。
 …いや、話がそれたな。
 重い胃を抱えたまま、俺は二日間バイトに励んだ。五飛と別れた後の土曜と日曜、花屋は盛況だった。近くのホールで大きなコンサートがあったのだ。
 花屋に来る客というのは面白い。花を求める理由は様々だが、昨日今日のように明るい理由のもとで花束を買って行く客に対しては、喜びと共に花を持って行く気持ち――これが最近は俺にも解ってきたので――がなかなか共感出来て楽しい。
 ただし、残念ながら俺の現状にはそぐわない。
「どうしたものかな」
 客のひけた店内で、俺は片隅の花に話し掛ける。何とも笑える光景だろうが、実はもう数時間、こうしたい衝動と俺は闘っていたのだ。
「やはり駄目だな」
「何が?」
 即座に問いが降って来た。店主がいたのだ。
「いや……喧嘩をしてしまった」
 またくだらないことを言われぬよう、少しだけ理由も答える。まあ、彼女は煩く首を突っ込んで来るタイプには思えなかったが。
「そう――」
 店主は一言口にしたきり、店じまいの準備に専念した。俺も無言のまま手伝った。
 俺が外のシャッターを閉め終えた時、店主は先程の花の前にしゃがみ込んでそれを見つめていた。
「残っちゃったね」
 花に言ったのか俺に言ったのかは定かではなかったが、近づいて傍に屈んだ。
「こんなに綺麗なのにねぇ」
 それはとても優しげな植物だった。
 固い蔓の先全体に、非常にたくさんの蕾をつける。薄紅のつぼみは、開くと五枚弁の白い花になった。そうして微妙な甘さを放つ。小さいが濃い緑の葉が、その奥に続く。
 俺としては好みだったが、コンサート向きの花ではないだろう。どちらかと言うと花嫁のブーケだ。
「この子、持ってく?」
 俺を見上げて店主が言う。
「ははっ。花束じゃだめかな」
「いや…いつもとても大切にしてくれる」
「そう? 嬉しい」
 喧嘩の相手といつも俺が花を贈る相手とが同じ人物だということは、彼女には分かり切ったことであるらしかった。
 俺が代金を払おうとすると、
「忙しい中よく働いてくれたから」
 と言って、彼女は首を振った。据わりの悪い蔓植物は、彼女の手の中で小振りに丸く纏め上げられ、白とごく淡い黄緑の柔らかな紙にくるまれた。他に加えるものはない。そう、この花は、他の花とは合わせにくいのだ。
「はい。私からのプレゼント。転送も許可しましょう」
 花束を差し出して、ふふ、と彼女は笑う。こういう表情はキャスリンに少し似ている。――という調子で誰彼と比べるのは失礼だろうか。おそらく、改めた方がいいのだろうな。
「ありがとう」
 礼を言って店を出た。



 どうせ俺が歩み寄るに決まっている。そんなことは最初から分かってる。別に構わない。俺はただ五飛に会いたいだけだ。会って、話して、俺の胃を軽くしたいだけだ。そんな俺を迎えたのは、例の如く眉根を寄せた五飛だった。
「だから、花は持って来るなと言っている」
 だが受け取る。
「お前がきちんと世話してくれるのを知っているからな」
「やかましい」
 五飛は短く言って顔を背け、そのまま室内へと戻り始める。俺もついて部屋に入った。
「こんな訳の分からん花を…」
 キッチンでぼやく五飛の声が聞こえてくる。
「そうか? お前には似合うと思ったんだが」
「どういう意味だ」
「また、怒るなよ。清楚だろう?」
「清楚な花は俺に似合うのか? ふん、そんな言葉はどこぞの女にでも言ってやれ」
 言葉が切れ、水道から流れ出す水の音が響く。
 もっともな意見だと頷きながら、俺はキッチンのテーブルについた。数日前に渡した花が、シンプルなグラスの縁から俺を見上げていた。
「何をだらしない顔をしている」
 呆れを含んだ声が落ちて来る。手にガラス製のボウルを持った五飛は、重く垂れ下がる花房を扱いかねているらしかった。
 手招いて、同時に俺はポケットから紙袋を取り出す。中から出て来たガラス玉が、水の中で浮きかけていた蔓を押さえた。
「…用意がいいな」
「まあな」
 それから、活けられた花に俺は手を伸ばす。柔らかい茎の部分を無理の無いようカーブさせ、容器の縁から落ちぬよう、水に浸ることの無いよう、形良く整える。
 椅子を引いてきて俺の横に座った五飛の目の前で、ボウルの中に、花の白が満ちた。
 見つめる五飛の、微笑の意味を俺は知りたい。その目に宿る暖かさを、三分の一でいいから俺にも向けて欲しかった。
 この時の俺はどんな顔をしていたのだろう。視線を上げた五飛は、一瞬、とても驚いたように息を詰め、それから軽く目をそらして、何だ? と尋ねた。
「いや…」
 妙なことになった。ひとまず当初の目的を果たすことにしよう。
 俺は大きく息を吐くと、気を取り直して話を始めた。
「人以外にはこんなに優しいのにな。お前は、人間に対してだけはやけに厳しい」
 五飛は僅かに首を傾げて、考える素振りを見せる。掌に付いていた水を指先で拭き取るのが見えた。
「…人か否かは問題ではない。大切なのは、その存在の本質がどこにあるかということだ」
 何やら難しい話になりそうだ。心して聞くことにしよう。
「本能とでも言えば分かりやすいか。その者にとって何が必要で何が重要か、それを知り、守り、貫いていく。その姿をこそ、俺は良しとする」
 抽象的だが、言いたいことは分かる気がする。それはおそらく明解な目的と確固たる自我を持った潔い生き方だろう。五飛には良く似合う見解だ。
「人間は最も無駄が多い。自分自身のことは勿論、他人のことや身の回りの物、動植物、資源、環境…そんな大袈裟なことでなくてもいい」
 言葉を切って、五飛はテーブルの上に目を移した。
「花とて…こんな切り売りにして、可哀想だとは思わんのか」
 まあ思わなくもないんだが。
「それは扱う相手次第だと思うぞ」
 俺の声に、五飛は視線を戻す。まっすぐに向けられる目が先を促した。
「きっとこの花は幸せになるさ。何故だか分かるか?」
 五飛は首を傾げる。
「簡単だ。お前が大切にするからだ」
 何か言いたそうに唇が動いたが、結局何も言わずに五飛はただじっと俺を見ていた。
「大事にすれば応えてくれる。お前の言う本能にも通じることだろう?」
 それは結果として自分を生かすことにもなるのだから。
 五飛の意見を俺は待つ。五飛も考えを巡らせているらしかったが、やがて、軽く渋面を作って言った。
「微妙に話題がずれているぞ」
「そうか?」
 そんなつもりは無いのだが。
「まあいい。お前の話を続けろ」
 何だ、珍しいな。続けるのは俺の方なのか。
 仕方がない。命令されたからには続けよう。
「その点では確かに、人間は鈍いだろう。損得勘定で狡く立ち回ることもあるだろう。だがそのことと、お前が自分から冷たい態度をとるのとは、必ずしも公平な関係にはないのではないか。俺もクラスの奴らも、多少の先入観や面白半分の興味こそあれ、最初からお前を一方的に嫌ったりはしていない。なのにお前にとっては皆ひと括りだ。無関心・無関係のジャンルにまとめて放り込まれているのだろう」
 言った自分の胸が痛んだ。
「待て。お前のことは…」
 違うと言ってくれそうだったが、俺はそれを遮った。
「そうだな。俺のことは後にしよう」
「後にするな、今話せ」
「いや、それは後だ」
 おや? 一瞬、五飛はやけに気弱そうな顔をしたように見えたが、すぐにそれは消えたので、俺も気づかない振りで済ませることにする。
「学校という社会の話をしよう」
 様子を窺い、俺は続ける。
「前にも言った通り、俺は学校というシステムに触れること自体今回が初めてだ。だからそれに対する認識の欠けている部分や間違っている点は多いと思う。それでも一つ、疑問に思ったことがある」
 一呼吸おいてから、極力静かに、俺は尋ねた。
「五飛。お前には、ギムナジウム時代に友人と呼べる者がいたか? 級友の顔や名前や、性格や彼らに関するエピソードを、俺に話して聞かせることが出来るか?」
 五飛の顔に淡く朱がのぼる。噛み締めた歯の間から、無理矢理殺した怒声が掠れて漏れる。握り締めた拳の震えもきつく閉じた瞼の上で揺れる睫も、俺の胸を切り刻むようだった。
「頼む…怒らないでくれ」
 泣きそうだった。五飛がではない、俺がだ。彼にこんな顔をさせてまで自分の言おうとしていることが心底憎かった。だが、今これを言える者は他には居ない。他の誰かに、この役を譲る気も俺には露ほども無い。そしてこの先も五飛と一緒に居たいのなら、これは俺が言わなければならないことだ。
「後でいくらでも怒鳴ってくれていい。好きなだけ罵ってくれて結構だ。だが今は俺の意見を聞いてくれ。怒りにまかせて否定せず、今だけでいい、俺の言葉を、聞いてくれ」
 殆ど懇願だった。
 この時、五飛が顔を上げてくれなかったら、実際に全てを話すことができたかどうか俺には分からない。聞いてくれと言いながら、俺は同時に、話す勇気を俺にくれと、誰にともなく願っていたのだ。
 それを、五飛は与えてくれた。何に反応したのか確定は出来なかったが、まっすぐに向けられた彼の黒い目の力強さに、俺の願いが認められたことだけはよく分かった。
 ゆっくりと、俺は話し始める。
「お前が他人を拒む理由を、俺は知らない。お前が何を嫌い、何を恐れ、何から目を背けようとしているのか、悔しいが俺には分からない。ここまではいいな?」
 五飛が深く頷く。それを確認して俺は続ける。
「それでも考えることはできる。いや、本当はもっと早くに、お前に聞けばよかったのだろう。すまない、答えてくれないと思ったんだ。俺の方こそもっとお前を信じるべきだったな」
 ごめん。小さく頭を下げる。
「いや」
 五飛は首を振る。
「いや……」
 もう一度。
 励まされて俺は話す。
「考えた結果、二つの可能性に思い至った。今現在のお前の理由と、過去のお前からの理由だ」
「…過去?」
「そうだ。…そっちの方が大きいのか?」
 五飛の反応から推測する。だが五飛は口を噤んだ。構わない、無理には聞かない。
「俺に分かる現在のことから話す。間違っていたら止めてくれ」
 再び頷く。確認して、俺は続ける。
「専門の教育を受けているくせに何故別のことに手を出す必要があるのか分からない、とお前は言ったな。それは関係あるか?」
 ある、と五飛が頷く。
「現在のお前の抱える理由の一つだな」
「そうだ」
 しばし迷う間があり、それから五飛は続けた。
「それぞれに理由があることはわかる。だが、やはり無駄だと思ってしまう。時間と費用と労力の浪費。もっと切実にここで学びたいと思っている者の場所を奪っているかもしれん。…それは俺たちも同じだな」
 すまん、と俺はつい誤ってしまう。
「いや」
 また五飛は首を振る。
「お前は――お前のことは後にするのだったな」
 今度は見間違いでは無い。細めた目が哀しげだった。逸らされる視線が淋しげだった。
「話を続けてくれ」
 沈む声には哀願。ゆっくりとした瞬き。
 何も言えない俺に、
「話を、トロワ――話を」
 言って、目を閉じる。次に瞼が上げられた時には、俺の知る五飛に戻っていた。残念なような、ほっとしたような困惑が俺の中に残ったが、何とか話し始めることは出来た。



「試行錯誤するのは悪いことか?」
「時と場合による」
 彼らの場合は認め難いと五飛には思えるのだろうか。
「だがな、少なくとも彼らは自分の人生について真剣に前向きに考えているのだと俺は思う。決めかねてふらふらしている俺たちに、彼らを責める資格はないだろう」
 俺の言葉をどう捉えたのか、五飛はじっと俺を見ていた。違うのだろうか。何か、別の理由なのだろうか。
「お前の――」
「許せないのだ」
 声が重なった。俺は黙る。
「――悔しいのかもしれん」
 五飛は視線を落とす。迷っているのがよく分かった。ただ黙って俺は待つ。これまでもそうして来たように。
 長い沈黙だった。胃がキリキリと痛んだ。それでも俺たちは黙していた。考えを纏めよう努力しているらしい五飛に対し、俺はフォローの仕方を知らなかった。
「…俺は、選べなかった」
 漸く告げられた言葉は、しかし、それだけでは俺たちの助けにはならない。
「選択の余地が無かったということか?」
「選択権を与えられなかったという意味だ」
 顔を上げた五飛が――今日何度目になるのか――俺と目を合わせて言葉を綴る。ともすると逸らしそうになるのを、懸命に引き留めて俺を見ているのが、こちらにもすぐに分かった。
「俺は自分に求められたことを、いつでも懸命にこなした。楽に何でも出来たわけではない。俺とて必死だった。だがそれが、更に俺を孤立させた。結局最後まで俺は一人だった」
 そこで一度切り、彼は苦笑する。
「過去から続き、現在の俺を縛っている記憶だ」
「ギムナジウムでのことか」
 静かな肯定があった。
 五飛が大きく息をつく。
「その上で突然呼び戻され、戦いを告げられた。それは俺が聞かされていた計画とは違っていた。自分の意志で決められることなど何も無かった。俺の意志で変えていけることなど、何一つ無かった。それまでも、それからも。…俺が自分で選んだのはナタクに乗ることだけだ。それだけが、俺に選択可能なことだった」
 乗るか否か、という選択だと五飛は言った。
 意外だった。戦争の中で出会った五飛は、物言いのきつい、意志の強い人物だった。自分自身で判断し、実行していくタイプだった。
 俺がそう言うと、五飛は当然のように応じた。
「それは、俺がそうあろうとしたからだ。何よりも俺は、従順さにつかり切った自分が嫌いだった。望むものを自分の意志で選び取れる人間になろうとした。お前たちはそういう俺だけを見ていたということだ」
 少々悲しい言い種かとも思う。だが俺たちの付き合いが平面的なものだったことは認めよう。
 納得して、話を戻すことにする。
「自由に選べる皆が憎いのか?」
「そこまでは言わん。いい加減なことをするのが気に食わんだけだ。だが、真剣な行動かどうかを決めるのは俺ではないということは分かった。考え直す」
 唐突な結論に意表を突かれたが、五飛らしいテンポの良さだと思った。心地好い。俺は笑って頷く。五飛は、照れを含んだ苦笑を浮かべてみせた。
「今なら選べるだろう? 自由に、お前のやりたいことをやればいい」
「言われなくても…」
 五飛は言いかけて、そのまま考え込んだ。今度の沈黙は大した長さでは無かった。
「今あるのは外からの制約ではない。さっきの話にも通じる――心理的な問題だ」
 ギムナジウムで、と呟いてまた黙り、すぐに言い方を変えた。
「お前の言う、過去からの理由だ」
 具体的な話は殆ど無かった。俺もそこまで聞こうとは思わない。ただ、予想以上のプレッシャーと彼の生真面目さから来る重い義務感、自分の考えや誠意の伝わらない理不尽さ、苛立たしさ、孤独感――その中で誰に助けを求めることもできず、孤立無援のまま五飛は傷ついていったのだろう。
「見識を広げるために行った筈の学校で、俺は自分の殻に籠ってしまったのだ」
 五年以上前の話だ。だが、胸の痛みは未だに鋭く残っている。言って胸を掴む五飛は、その痛みに耐えるよう目を閉ざした。
 戦時の五飛は、自分以外の人間を信じようとはしなかった。見下しているようにも見える尊大な態度は、彼の行動の大きな特徴だった。だが、その裏にあったのは他人に対する侮蔑ではなく、人と接することに対する警戒心だった。俺たちはそれを戦士としての、任務遂行のための特質と考えた。その更に奥にある、彼の心の傷については知ろうともしなかった。そのツケを、今俺は払わされているのかもしれない。
「他人の中に入ることは、嫌いな自分とその先にある怖れを思い出させる」
「逃げるなよ」
 違う、と言いかけて、五飛は黙り込んだ。一度まっすぐに俺を見、それからゆっくりと視線を落とす。そこに見えた白い花に手を伸ばす。水面が細かく揺れた。
「越えなければと思ってはいるのだ――いや、越えることができたと思っていたのだ」
 言葉を探すよう首を傾げる。目を俺に戻して、更に数秒間黙っていた。
「俺も考えた。もう一度試してみてもいい、違う人間が相手だ、お前もいる、何とかなる。…だが駄目だった。皆の目を意識した途端、怖くなった。信じられるか、足が竦んで動けなかったのだ、この俺が」
 自嘲して目を逸らす。そのまま手で顔を覆い、五飛は何度も息を吐いた。
 迷った挙句、俺は腕を伸ばす。彼を抱き寄せたいという衝動も確かにあったが、軽く頭に手を乗せただけで距離を保つ。大丈夫、手の届く位置に、俺たちは居る。
 やがて、ゆっくりと顔を上げていく五飛が見えた。
 置いたままの手に、五飛の左手が伸ばされる。振り払われると思っていたが、反して、指先を軽く絡めるようにして五飛は俺の手を取った。
「情けない――」
 腕の陰から声を出す。
「情けない姿を見せるくらいなら、怒りを撒き散らしている方が気が楽だった」
 あの時、恐い顔をしていたのはそういうことだったのか。思い至って苦笑する。そして、続いた言葉に、思わず息を詰めた。
「どちらかというと、お前に対する虚勢だった」
 五飛が手を離す。やんわりと押し戻されて、痺れたようにじんと震える手を引いた。
「俺も、怖れる対象だったのか」
 短い沈黙の後、五飛の背筋が伸ばされた。目を合わせるのが辛くて、俺は彼の首のラインを見つめていた。
「そうだ。ただ、これだけは言っておく。お前を他の者と同じに…一括りに考えたことなどない。そうしたいと、思ったことはあるが」
「一括りに?」
「――そうしておけば、いつでもお前と離れられる」
 漸く俺は目を上げる。
「何故そうなる…」
 五飛の目は、表情を決めかねていた。不安が見え隠れしていると思うのは、俺の気のせいだろうか。
「お前は、サーカスと合流していいのだ。そうすればいい。勿論、それまでの時間つなぎに何をしようとお前の自由だ。だが際限無く俺と一緒に居る義務はない」
「待て、お前のことは間繋ぎなんて思って無いぞ。それにサーカスに戻ると決めたわけでも無い」
「だが考えたろう?」
「それは、考えた。他に行く当てもないしな。しかし、それも一生の計画ということじゃない。俺はまだ何も決めていない。ただ俺はお前と――」
 息が切れて声まで途切れてしまう。しっかりしろ。
「お前と一緒に居る方が、俺にとって幸せだと思っただけだ。お前と居たがってはいけないのか?」
 責めるような口調になってしまったかもしれない。だが五飛は変わらず静かな調子で言った。
「それこそ、いつまでそう思い続けるかわからないだろう。今決められることでもないだろう」
「そうだが、それを言ったら確率はどちらも同じだけあるはずだ」
 俺たちが共に居る確率と、離れて生きる確率。そのパーセンテージは俺たち次第で決まる筈だ。
「あの時、残っていたのがお前じゃなくても、俺は会いに行ったかもしれない。いや、きっと会いに行っただろうな。だが現実に俺が訪ねたのはお前の所で、お前の顔を見たら他のことは全て消し飛んだ。お前に会えて、ただ、嬉しかった」
 もう二度と会うことは適わないと思っていた相手に、何の後ろめたさもなく、どんな制約もなく、会いに行くことのできる幸せを、きっと五飛は知らない。そんな風に会いに行ける相手を、知らない。
「――疑ってるな」
 俺は大きくため息をつく。
「まあいい、信用が無いのは承知している」
 もっと幾らでも言えるのだが。今はいい、やめておこう。自分でも理由の分からない感情は、時間を掛けて伝えていくしかない。相手が五飛なら尚更だ。
 五飛がまた何か言わないうちに、俺は話題を変えることにする。
「分からない未来の話はやめよう」
 五飛は文句を言いたそうだったが、俺はそれを無視する。その代わり、五飛の目から不安そうな色が消えていることを見て取った。多分、間違ってはいないと思う。
「一昨日の話をする」
 言い切って、体ごと五飛に向き直した。隣り合わせの椅子の上で、五飛は僅かに身構えた。
「まずは謝ってもらおう――と思ったんだが」
 自分の膝に両手を突く。
「俺も嘘をついた、先に謝っておく。すまなかった」
「…何がだ」
「俺の怒った理由だ」
 小首を傾げる五飛は、それなりに負い目を感じているようだ。素直に聞こうという態度がよく表れている。俺の方も誠意を持って話そう。
「あの時お前は、怒って急ぎ足になっただろう。直接にはそれが許せなかったんだ」
「………は?」
 五飛の困惑はもっともだ。
「お前との間に出来た距離が、俺を焦らせたんだ。他の人間と同じように俺との間に距離を取る、そんなお前が許せなかったんだ。俺もまた、横一列にされたような気がしてな」
 俺も身勝手さなら五飛といい勝負だ。
「そんな――」
「つもりは無かったのだろう? 分かっている。さっきもそう言ってくれたな」
 たとえどんなものであれ、特別な位置付けにあるということだけは分かった。ひとまずそれで良しとすることにする。
「だからこの点は俺にも非がある。すまなかった。だがな、その後はお前が悪い。絶対にお前が悪い。これは譲らないぞ」
 五飛はムッと口元を引き締めたが、異論は唱えなかった。
「俺たちの関係は友人同士、だ――取りあえずはな」
「取りあえずとは何だ」
「至急の間に合わせだが今のところは」
「そういうことでは…」
「もっといい関係にもなり得るという意味だ」
 お前さえ望めば。
 五飛はじっと俺を見る。目を逸らせば逃げられる。そんな気がして俺も見詰め返す。伝われ、と唱え続ける。だが、五飛が言ったのはこんな言葉だった。
「何を基準に友人と認識すればいいのかわからん。この件は保留だ」
 残念。もっと口説くべきだったか。
「…つれないな」
 わざとらしく大袈裟に、俺は溜め息をつく。まあいい、時間はある。
 では、と、気を取り直して提案することにする。
「約束をしてはくれないか」
 怪訝そうに五飛の眉根が寄せられた。
「一つだけだ。頼みがある。聞いてくれ」
 僅かに考える間があった。
「…既に二つ頼んだだろう」
 細かいことを気にするものだ。
 笑ってそれをやり過ごし、五飛へと手を伸ばす。軽く頭を引き寄せて、いつもより僅かに余計に俺は顔を寄せる。
「前の二つは忘れてくれていい。もう無効だ」
 素直な頷きが返る。
「一つだけだ。頼みがある。聞いてくれ」
 もう一度繰り返す。言ってみろ、と静かな声が落ちて来た。
「お前の気持ちを俺に教えてくれ」
 気に入らないことがあるなら言ってくれ。言葉にならないなら殴ってくれてもいい。お前の中に、感情を溜め込まないでくれ。お前の中だけで処理しようとしないでくれ。それでは俺の居る意味がないだろう。
「俺が勝手に考えることではなく、お前から正しく情報を得ることで俺はお前を理解したい。お前の協力なしで、どうしてお前を知ることが出来る? それとも俺の理解など、お前は必要としないか?」
 悲しい質問だった。この答えが『是』ならば、ここで既に友人とは成り得ないだろうと俺は思う。
 長い――この日、最も長い沈黙だった。
「……う」
 漆黒の瞳が、間近で揺れる。迷いと空虚が願いに変わる、そんな気がした。
「…違う。それは、違う。…必要だ」
 俺には、必要だ、と五飛は繰り返した。
「…はっ――─」
 全身から力が抜けていった。一気に緊張が解けていく。溜め込んでいた息を吐き出すと、体の奥から満ちてくる新しい力を感じた。
 五飛の肩に凭れて俺は言う。
「なら、約束してくれ」
 そしてすぐに顔を上げる。更に狭まる視界の中で、力強く頷く彼だけを俺は見ていた。
「わかった。約束する」
 そう言って五飛は、ゆっくりと瞬く。続く言葉に俺は微笑む。
「ただしお前もだ。俺に隠しごとはするな」
「了解した。努力しよう」
 五飛は笑顔を見せない。ただ、満足気に頷いて緩く目を伏せた。
 俺は腕を降ろし体を離して、ついでにきちんと座り直す。テーブル上の花に目を留め、他に話すことはと考えていると、
「では――」
 と横から声がした。
「ん?」
 見ると、同様に花を見下ろしたままの五飛がいた。
「何が『うまくやれ』なのか教えろ」
 五飛はぶっきらぼうに、そもそもの俺たちの言い争いの原因に戻って質問を発した。そう来たか。
 俺はにやりとしてみせる。
「聞きたいか?」
「――言ってみろ」
 横目で睨むように俺を見る。俺が話の間を取ると、徐々に眉間に皺が寄り、いつもの嫌そうな顔になった。焦れて口を開きかける頃を見計らい、揶揄するような口調で俺は言った。
「俺とお前はな、恋人同士に見えたのだそうだ」
「なっ…」
 驚いたのは確かなようだが、それ以上は判断に苦しむ表情だった。もう少し何かあると嬉しかったんだが…照れるなり呆れるなり慌てるなり。
「何故だと思う?」
「知らんっ」
 即答と共にそっぽを向く。俺は笑って、テーブルに両肘をついた。少し前屈みの姿勢で五飛を見遣っていると、怪訝そうに目を向けて来る。僅かに上体を起こすようにして顔を近づけると、憮然としながらも、五飛はいつも話している時のように寄って来た。そこで、小さく笑ってみせてから、俺は素早くキスを掠め取った。
「こういう距離だということだ」
 空白の一瞬とでも言えばいいか。完全に硬直したあと、五飛は見事に顔を朱に染めた。
「きっ、貴様、このっ」
 五飛に胸倉を掴まれる。声を上げて笑いながら、俺は両手を軽く挙げる。
「悪かった、もうしない。許せ」
 それでも暫くの間ガクガクと揺さぶられたが、やがて放り出すように手を離すと、
「もう帰れっ」
 と怒鳴って五飛は乱暴に腰を降ろした。勿論、俺には背を向けて。
 だがまだ話は終わってない。
「そう思う程度には注意を払い、それを笑って話す程度には俺たちを受け入れてくれている。そういうことだ」
「それはお前に対してだろう」
 聞いていないかとも思ったが、律儀に意見を返して来た。
「俺たちに対してだ」
 俺も真面目に話す。
「お前に知られたくないのなら、あの場面でしっかりだのうまくやれだの言う筈がない」
 敵意を持って接するなら、他に幾らでもやり方はある。悪意を示すつもりなら、あんなに楽しげに笑ったりするものか。俺はそう信じたい。だから。
「気付け。誰からも好かれる可能性はきちんとお前の中にある。目の前に俺という証拠もあるだろう?」
 それを、自分で潰すな。
 静かな背中に俺は望む。今度は、伝われ――─
 こんな風に願うことを、俺はいつ覚えたのだろう。願いの叶う喜びを、俺はいつの間に知ったのだろう。俺の願いの中心に、いつから、彼は居たのだろう…
 静寂に溶け込ませるよう、やがて微かに、けれど確かに、五飛は何度も頷いた。



 翌朝は家を出る所から二人一緒だった。何のことは無い、俺が無理矢理五飛の家に泊まったのだ。
「同伴出勤か……いいな」
 手元の携帯端末で、五飛は部屋のセキュリティ状況を確認している。それを軽く覗き込みながら俺が言うと、五飛は目一杯眉根を寄せて応じた。
「こういうのは普通、同伴出勤とは言わん。第一、出勤ではないだろう。ついでに言えば、お前と連れ立って行くのは今に始まったことではない」
 道順の関係から、普段は五飛が俺の家に寄ってくれるのだ。最初に俺がそう頼んだのを、律儀に守ってくれている。こういうところは本当に好ましい。
「まあ、端から見てそう思えるなら、結構それで楽しくないか?」
「お前な――」
 五飛は疲れたように溜め息を吐く。
「からかわれてその気になどなるなよ」
「さあ…確約はできんな」
 ここで五飛が固く拳を握り締めたので、この件にはこれ以上言及しないことにした。
 教室前の廊下は、朝の独特の雰囲気に包まれていた。これだけは俺にとって、未だに新鮮だ。
 その廊下から教室への入口で、中から来た人物とぶつかりそうになった。
「きゃっ、あっ、おはよっトロワッ」
「おはよう」
 ヒルデ(仮)だ。朝から元気だな。
「あー、ウーフェイも、おはよ」
「…おはよう」
 表面的には普通に挨拶をした彼女に、五飛もこれまで通りの言葉を返す。だが、何故かじっと彼女を見たまま動かない。
「なっ、何よっ」
 引き攣りそうになるのを懸命に抑えて、といった様子でヒルデ(仮)が尋ねる。二人の緊張が俺には妙におかしかった。
「言っとくが、睨んでいるわけではないからな」
 五飛は、それだけ言って歩き出す。笑いに肩を揺らしながら彼に続いた俺の背には、嬉しそうな彼女の声が届いた。
 窓に、壁に、床に、机に、明るい日の光が射す。この空間に満ちる、笑顔も、ざわめきも、全てお前次第。
「お前次第だ」
 囁きに上げられた目が微かに細められる。静かだが確かな力を湛えて、柔らかに、初めて俺に向けて笑う。その笑みが、俺に光を投げかける。
 目の前に恒星。生まれたばかりの小さな太陽。
 その横顔に、力の限り祈った。


 輝け、太陽。


掲載日:2003.05.08


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