Pulse D-2

小夜

 不思議だったのだ。
 あの時からずっと、不思議で仕方がなかったのだ。
 何故、トロワだったのか。
 何故、俺だったのか。
 何故、現れたのか。
 何故、受け入れたのか。
 俺はトロワに尋ねた筈だ。何故お前がここにいるのだ、と。奴は何と答えたか。
『勿論、お前に会いに来たんだ』
 そういうことではない。何故、会いにくる必要があるのかということを俺は訊いたのだ。
 だが俺は、そう尋ね直すことをしなかった。いや、違う。しなかったのではない、出来なかったのだ。言葉が、出てこなかったのだ。随分長く、サリィ・ポォ以外の他人と口をきいていなかったことに気付いたからだった。
 トロワとも勿論そうだった。終戦後、顔を合わせたのは恐らくこれが初めてだったろう。
 一年以上、俺は政府の監視下にあった。俺に限らず、他のガンダムのパイロットやピースミリオンのクルーたち、ホワイト・ファングやOZ両陣営の人間の中にも、軟禁状態で日を送った者は少なからずいたようだ。
 逃げ出そうと思えば出来ただろうが、その必要性も感じなかった。ここを出て、何処へ行くというのだ? 日陰の生活に戻り、それで何を為そうというのだ? 日々、ぼんやりとそんなことを考えていた。戦いを終えても、俺にはその先の己の在り方が、何一つ見えて来なかった。食事も僅かな情報収集も、惰性で続けているにすぎなかった。
 この時期、ガンダムのパイロット同士は会うことを禁じられていた。当然だ。集まったらまた何をしでかすか分かったものではない。
 一度だけカトルが故郷のコロニーへ帰る時に挨拶に寄ったが、俺とカトルとの間では特に話すこともなかった。ヒイロやデュオの行動は、サリィが報告の形で俺に語った。
『あなたとトロワはいつまでこのままなのかしらね。まったく。手伝ってくれればいいものを』
 ぼやくサリィの言う『手伝い』は、既に何度も断っていた。絶えることのないテロ行為や戦争の残焔を消して回る仕事だ。戦う、という点では俺には合っているだろう。だが、自分もついこの間まで同じ立場にいたのだ。どの面を下げて粛清をしろというのか。
 そう思うと、彼女の要請に応えることはできなかった。
『サーカスに帰ったのではないのか?』
『駄目なのよ。コロニーで巡業中だから、まだ合流出来ないの』
 俺に対してサリィ・ポォが付いたように、トロワにはレディ・アンが、法定後見人として付いていた。政府の事情聴取とカウンセリングとを受け、未成年者である俺たちに親権者の存在しないことが判明した段階で決定されたものだ。彼女たちにしても完全な政府側の人間ではなく、戦争の当事者であることも確かだ。俺たちの身許を引き受けるには反対の意見もあっただろう。だが、彼女たち自身が直接にまたは間接に、地球圏統一政府のために働く意志を示したこともあり、認められるに至ったという。同時に、こんな厄介な人間の後見を引き受けようという者が他には存在しなかったのだろう。
 よって、監視の目は解かれたとはいえ、多少の行動の制限が後見人たちから言い渡された。今のところ、相応の理由が無ければ地球を離れることは許可されない。その為にトロワは、地球を出てサーカスへ戻ることが出来ずにいたのだ。
『ではサーカスが降りて来るまでこのままなのだろう』
 俺は当たり前のことを言ったつもりだったのだが、それを聞いたサリィからは、もうっ、と短く憤慨してみせる声が上がった。
『ねえ、何かやりたいこととか、行きたいところとか、会いたい人とか、思いつくことはないの?』
『勝負、故郷、老師』
 窓の外へと目を向けたまま、俺は即答した。別段、厳しい口調ではなかった筈だが、サリィはしばらく黙り込んでいた。何を思っていたのか、俺には分からない。
『…そうね』
 やがて、ごく低く呟いてサリィは出ていった。
 トロワが現れたのはこの五日後のことだった。サリィから何かしら話がいったのだろうことは容易に見当がついたが、トロワは特に何も言わなかった。
 俺のいる家の敷地内に不意に姿を見せ、先のやり取りの後にこう続けたのだ。
『五飛………老けたな』
『なっ…このっ』
『あ、いや、違った』
 掴みかかる俺に慌ててトロワは言い直した。
『大人っぽくなったな』
 そうして――何と言えばいいか――とても、本当に、馬鹿かと思うほど幸せそうに笑ったのだ。
 俺の驚きが分かるか。あんなにもはっきりとした、あんなにも深い好意の表情を、俺はそれまで向けられたことがなかった。少なくとも俺の記憶にはなかった。
 今思うと、この顔を見たのがそもそもの間違いだったのだ。柄にもなく安心し、ほだされた部分があったに違いないのだ。
 お陰で未だに付き纏われている。――いや、この言い方は公平ではないな。俺の方にも、奴を引き止めておきたい気持ちがあるのは確かだ。悔しいが、認めよう。
「まったく――」
 俺は大きく息を吐く。
 何故こんなことになっているのかと自分でも呆れるが、日が経つにつれトロワのことを考える時間が多くなるのは止めようがなかった。振り切るつもりで住居を移したら、もれなく奴もついてきた。何てことだ。自主性が無いにも程がある。
 邪険に扱っても甲斐はなく、気付いたときには奴と一緒に学生に逆戻りすることになっていた。俺も…余程、動揺していたらしい。
 正直、行きたくない気持ちの方が圧倒的に強かった。
『馬鹿馬鹿しい。そんなことをして何になる』
 トロワにも言ったことがあった筈だ。
 それでも奴はしつこく俺を誘い、俺と一緒の方が自分も安心だからとまで言ったのだ。
『安心?』
 意味が分からずに尋ね返すと、
『誰か仲間がいた方が、新しいことは始め易くないか?』
 と、澄まして答えた。
 当然のような仲間扱いも気に食わなければ、俺を巻き込もうという魂胆も気に入らなかった。何よりも、あれこれと理由をつけては俺にちょっかいを掛けてくるトロワの在り方が、俺を精神的に不安定にさせた。
 ――錯誤の無いように言っておく。決して、嫌だったわけではない。側にいられるのを嫌っていたわけではない。
 むしろ、逆だ。
 心地好かったからこそ、離れたいと思った。
 誤解しそうになる。望みは叶うものなのだと。錯覚しそうになる。愛も信頼も手に入るものなのだと。ここにいたいと思ってしまう。辛いことは全て忘れて。
 同時に、それを失った時の痛みを思ってしまう。耐えられるのだろうか、俺は。
 そんなに大層なことかと、自分に言い聞かせたこともあった。今までどうにかしてきたように、これからもそれなりのやり方で過ごしていくのだろうと。結局、なるようになるのだから、恐れることなどないのだと。
 だが、予想よりも早く、俺はその怖さを思い知ることになった。トロワと、喧嘩をしたのだ。
 小さな見解の食い違いの筈だった。よくある、軽い言い合いの筈だった。違ったのは、トロワが俺に背を向けたことだった。
 ひやりと、胸の中が冷たくなったのを感じた。呼吸を、多分、俺は、暫くの間忘れていただろう。道行く人と肩が触れて漸く我に返った時、トロワの乗ったバスはとっくに姿を消していた。
 あの日の帰り道のことは、途中からしか覚えていない。今、目の前にあるこの公園で、重い足を止めたのだった。
 あの時と同じように、俺は寄り道をしていくことにする。子供用のブランコに腰を下ろすと、鎖も座部も不満そうに軋んだ。
 こういう小さな公園に、俺はとても弱い。人には言えない思い出があるからだ。
 戦争の始まる以前、俺はあるギムナジウムへ行っていた。L5コロニー群の中で少々厄介な事件が起こり、内政的にも外交的にも危険な状態になったため、万一のことを考えて他のコロニーへ送られたのだ。
 だが、そこでの生活は苦痛以外の何物でもなかった。異なる文化、異なる常識、年齢にそぐわない編入学年。どれか一つでも自分の拠り所となるものがあればと、何度も思った。今なら、異なるそれらを学ぶべく行かされた場所だったのだと考えることもできるが、当時の俺にはそんな気休めのようなことに思い至る余裕は無かった。
 教師ともクラスメートとも衝突を繰り返し、ますます俺の居場所は無くなっていく。
 俺は悪くない、何も悪いことはしていない。悪いのは向こうだと言ってるのに、何故誰も聞いてくれない?
 何度訴えても状況は変わらなかった。
 謹慎を言い渡されたその日、俺は部屋から抜け出した。故郷に帰りたかった。もう学校などどうでもよかった。けれど、帰れる筈がなかった。
 あてもなく歩き続け、街の境を越える。商業区から居住区へと移り、更に人を避けて裏道へと入って行く。
 公園は、その一角にあった。
 静かな公園だった。ぽつりぽつりと老人や子供連れの若い母親が通りすぎるだけの、遊び場にもならないような場所だった。辛うじてブランコが二つと小さなすべり台、砂場らしきものと木製のベンチがあり、俺はずっとブランコの一つを占領していた。
 子供の声がしているのに、最初、俺は気づかなかった。やがてごく近くに声を聞き目を向けると、ちょうど一人が転ぶ瞬間だった。
『あっ…』
 思わず声を出してしまったが、手が届くわけでもない。目の前で転んだ女の子に何をしてやることも出来ず、駆け寄った母親が彼女を抱き上げるのを、ただぼんやりと眺めていた。
 火がついたように泣き出す子供、穏やかに笑いながら宥める母親。一、二歳違いくらいの弟が、母親の横で目を瞬かせる。
 途端に、涙が湧き出してきた。堪え切れない嗚咽が漏れて、自分では全く意識しないうちに号泣に変わっていた。
 人前で泣いたのは、先にも後にもあの時だけだ。
 なぜ、あの瞬間に涙が出たのかは分からない。子供の泣き声につられたのかもしれない。宥める声が優しすぎたからかもしれない。ただ、涙が止まらなかったのだ。
 泣いている俺を残して、親子は姿を消した。ああ、こうやって、誰にも相手にされず、奇異の目で見られながら過ぎていく人生もあるのだと、馬鹿馬鹿しいほど実感し、無力感が身体中を支配していった。
 こんなところでこんなことをしていても仕方がない。そう思って立ち上がりかけた時、また子供の声がした。
『おにいちゃん』
 さっきは泣いていた子が、母親の陰から顔だけ出してにこにこと俺を見ていた。ほっとした表情の母親は、子供二人を従えたまま歩み寄り、手にしたカップを差し出した。
『甘すぎたらごめんなさい。でも、これくらいの方が落ち着くし、あったまると思うから』
 受け取り、一口含む。甘さが口の中一杯に広がる。だが、甘すぎるとは思わなかった。甘さと温かさが、凝り固まった心と体とをほぐす。また涙が浮かびそうになり、俺は慌てて深呼吸をしてごまかした。
『謝謝…』
 言葉が通じたかどうかは分からない。それでも気持ちは伝わったのだろう。静かに笑った彼女に安堵し、俺は手にしたココアへと視線を落とした。何口か続けて飲むと、気怠さがすっと消えていった。
 子供たちがすべり台へと向かっていく。下の子は、上るも下りるもうまく出来ない。それでも姉の後について回る様子は楽しげで微笑ましかった。ふと、俺にも兄弟がいたら、という考えが頭を過った。
『本当は、不安なんです』
 不意に母親が話し始める。何が? と尋ねる代わりに顔を向けた。
『この子、ちゃんと産めるかなって』
『え?』
 腹に手をやる彼女に俺も事情を察した。そうと思わなければ分からない程度だが、腹部が少し脹らんでいた。
『初めて産む子だから』
 再び驚いて、俺は彼女の顔を見た。
『あの子たちは、私が産んだんじゃないの』
 おかしそうに笑い、それからふっと彼女は目を伏せた。詳しい事情は聞かなかったが、産む不安、育てる不安、そして血の繋がっている怖さと繋がりのない怖さとがあるのだと、彼女はゆっくりと語った。何故、俺に話すのだろうと、頭の隅で不思議に思いながら聞いていた。
『いつか本当のことを知って、彼女たちが私から離れていくんじゃないか、私を他人と見てしまうんじゃないか。そんなことばっかり思ってしまうの』
 目を上げて、すべり台を滑り下りる娘に手を振る。
『でもね、マーサが言うの。いつかじゃなくて、今が続いていくってことを大切にしなさいって』
 マーサは私の育ての親、と言い添える。
『私がマーサを大切に思うように、きっとあの子たちも私に心を向けてくれる。人同士の関係は書類で決められるわけじゃない。一つひとつの触れ合いが、お互いを結びつけたり離したりするの。だから、触れ合える今を何より大事にしなさい。マーサはそう教えてくれた』
 そこまで言ったところで横を向き、彼女は俺と目を合わせた。深い緑色の虹彩が、光に透けてはっとするほどの輝きを放った。
 初めて見る目の色だった。それまで意識したことのない輝きだった。同じような色をした目の者がクラスにいただろうかと考えてみたが、思い当たらなかった。目の色まで思い出せるほどに覚えている顔など存在しなかった。
 子供たちが遊びに飽きるまで、俺たちはその公園にいた。学校のことも家庭のことも語らずに、一体何を話していたのか、今となっては不思議なばかりだ。
『あなたの今が、輝きますように』
 彼女の最後の言葉を胸に、俺は自分の部屋へと帰った。
 もう一度築き直そう、周りの者たちとの関係を。自分だけで不可能なら、せめて誰か、相談に乗ってくれそうな人を探そう。それならできる筈だ。時間を掛けてやってみろ。相手を理解しようともせずに自分のことだけ分かってもらおうなどと、そんな都合の良いことばかり思っていては駄目なのだ。何故、そんな簡単なことを、こんな当たり前のことを忘れていたのかと、自分に呆れ、言い聞かせながら戻ったのだ。
 だが、その暇もなく、俺はL5への帰還を命じられた。再度、情勢が変わったのだ。
 中途退学にするか休学にするか卒業資格を取るか、と尋ねられた。休学を、と言い掛けて、それこそ不可能なのだと気付き、卒業資格を得たいと答えた。試験が行われ、その結果と短い論文だけで俺はギムナジウムを卒業した。その事実に意味があるかと尋ねられれば、未だに確たる答えは返せない。
 公園を訪れる時間は作れなかった。
 あの親子にも二度と会うことはなかった。
 結局決意は半端なまま、俺は故郷へ戻り、ナタクに乗ることを選び、戦争を始め、戦争を終えた。
 その間にどんな変化があったのかと考えてみても、帰る場所を失い、生きる意味を見失っている自分が見えてくるだけだ。妻も故郷も守れず、半ば意義を失った戦いに明け暮れ、本当に倒したかった敵も自らの力では倒すこと適わず、流され続けて来たようにしか思えなかった。
 だから未だに弱いのだ。あの時から一歩も進めていないような気がして、当時の悔しさ切なさと、俺のその時その時を願ってくれた彼女に対する申し訳なさとが溢れてくる。
 実際、この地区で暮らすようになってからも、一、二度泣きかけた。…言っておくが、完全に泣いたわけではないからな。
 いずれもトロワと言い争いをした時だ。
 大したやり取りではない。ギムナジウムでの理不尽さに比べたら、何ということのない口喧嘩だ。
 だが、トロワが相手だとそれがひどく堪えた。いつも怒っている者に何か言われるのと、普段はとても優しい人物にごく稀に怒られた時とでは、受けるショックの大きさに格段の差があるという。それと同じだ。
 初めてトロワに背を向けられた時の、あのひやりとした感じは、その後も俺の体の芯の部分に残っているようだった。喧嘩のたびにそれが出てくるわけではないが、ほんの少しの語勢の違いやそらした視線の冷たさに、過剰に反応して不安になるのは、すぐに自覚するところとなった。
 分かっている、あの時からだ。喧嘩の後、トロワの態度が変わったのか、それとも俺の見方が変わったのか、奴の表情がやけにはっきりと見えるようになった。
 学校やクラスメートに対する俺の態度を、トロワは快く思わなかった。当然だろう、俺だって自分で嫌だと思っていたのだからな。トロワは、そう思いながらも一歩を踏み出せずにいた俺の、手を引き、背を押してくれた。――器用な奴だ。
 トロワを通し、俺は少しずつ昔の決意を思い出してきた。助けとなるトロワという存在も、今はすぐ側にある。今度こそ変わっていこう。そう思うことが出来た。
 ところが、そうやってクラスの奴らといるのが平気になったら、今度は、トロワと共にいるのが辛くなった。何かにつけて苛々してしまう。何をしたいのか、どうさせたいのか、少しも分からない。ただ、苛立つのだ。
「まったく――」
 同じ言葉と、似たような大きな溜め息ばかりが漏れる。
 こんな夜を幾つ過ごしてきたのだろう? ここ数週間で急に増えたような気がする。学校でとは別に一緒にいる時間が多くなった分、喧嘩の回数も増えているだろう。
「あぁ…マフラーを忘れたな」
 ふっと気付いて呟いた声が、思ったりもずっと大きく落ちた。そうすると、さらに辺りの静けさが強く感じられ、一瞬、自分の居場所の認識が怪しくなった。そっと息を吸い込みながら、ゆっくり目線を上げていく。
 黒というよりは、深い深い藍色と言うべき空が広がっていた。所々に薄い灰色の雲が浮かび、その向こうの、小さな星の光を隠している。いったいどこへ行ってしまったのか、昼間はあれほど多くの人々が歩いていたというのに、公園から見える通りには、今はただ一人の道行く者の姿もない。
 吸い込んだ息を、はっと一気に吐き出してみる。微かに凍る息も見たような気がしたが、思っていたほど白くはならない。自分で感じていたほどには、もう空気は冷たくないのだ。
 けれど、冬場に感じていたあの清涼さはまだ確かに残っていて、それを意識して吸い込むたびに、胸の中に凝り固まったものが溶けだしていくように思えた。
「ココアとは全く違うのにな」
 コロニーでのことを思い出して呟くと、俺は小さく笑いながら公園を後にした。
 細い街路、暗い街灯。
 立ち止まっていては自分まで静寂に飲み込まれてしまいそうに思えて、何をばかなと首を振りながらもトロワの家へと歩き続ける。
 打って変わって意識される、規則正しい硬い音。辺りに響き渡るのは俺の靴音だ。自分の足音が響くのは、実はあまり好きではない。自分がそこにいることを誰かれ構わず主張するようで、どうにも居心地が悪いのだ。
 だいたいにおいて俺は、己の意に反して目立ちがちな自分というものをいまいましく思っていた。
 一見地味なくせに何かにつけ動きの派手な友人(と本人が言い張っているだけだが)と違い、俺の動作は基本的に静かな筈だ。少々怒りっぽいという自覚があるので、それも極力出さないよう注意している。自分の育った環境と今いる場所での生活には相違する部分も多いので、知らないことや新しい常識を身につけながら、自分なりになじもうとしているつもりだ。
 それでも、行動するごとに、良くも悪くも目立ってしまい、他人の評価を聞かされることになる。
『何をしてても気にもとめられないより、ずっといいだろう?』
 ある時トロワにそう言われたけれど、素直に頷くことができなかった。嫌なものは嫌なのだ。
 対して、当たり前のように周囲に溶け込んでいくあいつのことが癪だったし、さして努力しているようにも見えないのに、何をやらせても大抵人並み以上にこなしていくのが不思議でもあった。
『五飛だって十分、そうだと思うんだが』
『俺はできる限りの努力をしている』
『俺もそれなりに努力はしてるんだが…』
 トロワは苦笑していたが、
『俺は器用貧乏なんだ。突き詰めたものは何もない。それに、最高に努力した五飛には敵わないさ、やっぱり』
 と言って僅かに目を伏せた。
 何かとても悪いことをしたような気になって、この時は俺も目をそらした。
 トロワとは、それ以降も時折、似たようなやり取りがあった。随分とはっきりした劣等感だと俺が考えるようになるまでに、さして時間はかからなかったが、そんなことを感じた自分にはひどく驚いた。ほとんど経験のないことだった。
「あ……」
 そんなことを思い出しながら歩いていた俺は、ふいに小さく声を出して顔を上げた。風に乗って、淡い花の香が漂ってきていた。
 宅地にも公園にも駐車場にもされずに残っている、小さくて複雑な形をした空地の前に来ていた。その隅に、幹は太くないが丈は高い一本の木が立っていた。伸び放題の枝に、花の姿はない。香りはどこか他からのものだ。だがそこに、一輪だけ花弁を開いたかのように、小さく白い月がかかっていた。
 浮かんでいた雲はすでに無く、晴れ渡った夜空に、遠慮がちに半端に欠けた月は佇む。
 真冬のような鋭利さはなく、かといっておぼろでもないその光を見ているうちに、やはり以前の、仲間たちとの会話が思い出された。
『太陽のようだね』
 何の時だったか、カトルが俺を指して太陽と評したことがあった。力強く輝き、明解に道を示す光だと。
 だが、それを言ったらカトルこそそうだろう。温かく優しく皆を支えながら、且つその中心となり統べていく存在だ。また、力強さならヒイロも同じ。信念の深さ、行動力の豊かさ、その存在感の大きさ。そして、明るく周囲を照らすというなら、俺よりもむしろデュオの方が合っている。
 俺の意見に対し、カトルはそれぞれ他の比喩を示して太陽説を否定した。そうしておいて、
『トロワは月ですよね』
 と、俺と並んで座っていたトロワを、どこか意味ありげに見遣った。トロワは肯定も否定もしなかった。
 この時、唯一トロワだけは太陽にたとえられなかった。ある意味、日光の恵みのようなものは持っているかもしれないが、イメージとして強い輝きを放つ太陽にはどうしても考えられなかったのだ。
 確かにそうだ。口には出さなかったが、俺もそう思ったのは間違いない。確たる理由のない、短い付き合いの中で受けた印象からだったが、今でも似たような心象は抱き続けていた。
 トロワは、記憶喪失から回復すると、暇さえあれば俺の側に寄ってくるようになった。特別に話をしたり、共に作業をしたりするわけではない。トレーニング中の俺の後ろで本を読んでいたり、解析データを示す画面を一緒に覗き込んでみたりと、ただ静かに空間を共有している。他のパイロットたちに対しても同じなのだろうと思っていたのだが、次第に違うらしいと感じるようになった。
 気になって、尋ねたこともあった。何故、俺の近くにいるのかと。
『――居心地がいいんだろうな』
 余計、理解に苦しんだ。
 そう感じる理由も分からなかったし、言われたこともなければ自分では考えてみたこともない言葉だった。
 そして、俺の困惑はそのままに、何故か今でも付き合いがある。
「お前といると調子の狂うことばかりだ」
 月を見上げたまま呟いてみる。
 今日は珍しく自分の方からトロワを訪ねて行ったというのに、その自分がどうして今、こんな所でぼんやりしているのか。
 答えは簡単だ。俺が、自分でトロワの部屋を飛び出してきたからだ。
「何をやってるんだ、俺は」
 言いながら月を睨みつける。そして、軽く溜め息を漏らしてから、止めていた足を再び動かし始めた。
 背後に回った月が、楽しそうに薄い笑みを浮かべて俺を見下ろしているような気がする。絶対に気のせいに決まっているのに、足を止めて振り返る。月は澄まして光を落とすだけ。
 舌打ちひとつしてまた歩く。すぐに月光は立ち並ぶ家々や小さなビルに遮られたが、そうすると今度は、物陰から目だけ覗かせて妙に嬉しそうに俺を見るトロワの姿が浮かんでくるのだ。
「くそっ」
 歯ぎしりしそうに噛み締めた中から、短く声にする。静かな夜に変わりはなかったが、それでも先ほどまでのように重く響きはしなかった。
 代わりに自分以外の足音を聞いて、もう少し落ち着こうと思った次の瞬間、角を曲がってきた人物にぶつかりかけて焦った。
「わっ、あっ、よかった…五飛――」
 トロワだった。
 向こうもこんなに近くに人がいるとは思わなかったのだろう。慌てた様子でとりつくろい方を探しているのがよく分かった。それがおかしくて、思わず喉の奥で笑う。
「いや、マフラーを届けようと思ったんだが…そんなに寒くなかったな」
 トロワは小さく苦笑して、右手のマフラーを差し出した。
「そうらしい。…わざわざすまなかった」
 走ってきたのか、トロワの方は首筋に薄く汗がにじんでいる。受け取りがてらそれに気づいて、俺はそのままマフラーでトロワの汗をぬぐった。
「…大雑把だな」
「構わんだろう。どうせ相手はお前だ」
 照れ隠しのように言い合い、どちらも口を閉ざした。
 視界の端にトロワの静かな表情を捉える。暗い街灯の下でもわかる、左の頬が少し赤い。――俺が殴ったからだ。
 こいつは三回に一回の割合で、俺の攻撃を受けるようにしているようだ。殴られてやっているのだと言わんばかりの態度は癪だったが、それで俺の方も少し冷静になる機会を得ているらしいことにも最近気付いた。
「悪かった」
 短く謝罪する。今回のは、ほぼ間違いなく、俺が悪かったのだと思う。
「いや。殴っても構わないと言った筈だからな」
 だが、トロワは何でもないことのように言う。殴って気が済むならそれでいいとも、何度か言われていた。
「殴られたことは今の言葉で水に流す。気にしてない。お前も気にするな。その代わり、説明が欲しい」
 これも聞き覚えのある科白だ。
 俺はトロワに対し、トロワは俺に対し、隠しごとを無しにして何でも正直に話すという約束をした。以来、可能な限り秘密をなくすよう努力している。
 だが、それでも、トロワの望むような答えを返せないことはあった。説明の為の言葉が見つからないのだ。
 今日も、どう言えば良いのか分からない。そもそも、トロワを殴り付ける程の苛立ちの理由など自分でも分かってはいないのだから、トロワの求める説明ができる筈もないのだ。
 黙っている俺に、諦めたようにトロワが小さく溜め息を吐く。…また、そういう顔をしないでくれ。
「この頃、時々思うんだ」
 何をだろう? 無言のまま目を向けると、トロワはまっすぐに見下ろしてきた。
「五飛は、俺といてもつまらなそうだ」
「――何の話だ?」
 俺としては、誰かと楽しそうに過ごしている自分を想像する方が余程難しい。そういう意味で、トロワの言葉は理解不能だった。
 だが、トロワは気にした様子もなく続ける。
「俺とお前の話だ。登場人物は二人だけ」
 だから余計なことは言うな。簡潔に話せ。
 俺の苛立ちが伝わったのだろう、トロワは軽く肩をすくめてみせた。
「俺は誰かと一緒にいた方が、生きている実感を持てるらしい」
「ならば、別に俺でなくても」
 きっと、もっとずっと適した相手がいるだろう。トロワと手を取り合って、こいつの望むように楽しみながら人生を創っていける者が。
「それが良くないらしい。五飛といる時が、いちばん強く、生きていると感じられるんだ」
「他にこれといった相手がいないだけだろう」
「ふむ。否定はしないが」
 ……つくづく腹の立つ奴だ。と、思う自分にも呆れるが、どうやらこの辺りが俺の気持ちの落ち着かない原因らしいと、今、気付いた。
 他者を入れたくない。登場人物は二人に限定しておきたい。――何だ、それは?
 俺の困惑などお構いなしに、トロワは話を先に進める。
「もし、誰か別の人間が現れたとしても、すぐに五飛以上になるとは俺は考えていない。お前といるのは楽しい。心が踊る」
「お前は――」
 言葉を間違えているのではないかと言いたかった。
 楽しい? 心が踊る? 誰に言っているのだ?
 だが、そう思いながらも俺自身、嬉しく感じていることも認めずにはいられなかった。そして、言葉を探して周囲に走らせた視線をトロワへと戻した時、そこにはあの、馬鹿みたいに幸せそうな表情が待っていた。
 ――泣きたくなるのは何故だろう?
 息を呑んだ俺に、トロワは僅かに首を傾げた。
「笑って欲しいんだが…駄目か?」
 覗き込んでくる目の、深緑の色が好きだった。吸い寄せられるようにこちらも覗き返してしまう。
 その距離が近過ぎると、今のクラスの奴らに言われた。
 何とでも言え。俺にとっては間違いなく、心を開かせる力を持った目なのだ。
 どう返したら良いのか分からず、必死に目を伏せた。
 トロワが俺を引き寄せる。肩から背中へと腕が回され、緩く抱き寄せられる。
「何を――」
 言い掛けた俺の声に、トロワの声が重なった。
「この頃、時々思うんだ」
「…何をだ?」
 今度は何を言い出すのか。トロワの考えはいつでもうまく読めず、俺は振り回されてばかりだ。なのに、真剣に次の言葉を待ってしまう。
「恋人の方が、嬉しいかもしれない」
 そして、続いた言葉に頭の中が真っ白になった。
 …………だから、何の話だ?
 頭の中とは裏腹に、合わせた胸が激しく波打つ。その動きが恥ずかしくて離れたいと思うのに、トロワは相変わらず暢気に質問を投げて来る。
「お前は、友人と恋人と、どちらがいいと思う?」
「わからんっ。友人も恋人も持ったことがない。だから、その質問には答えようがないっ」
 俺は早口に言い返す。
 トロワがぱっと顔を上げた。
「はっ。そうか。悪かった。変な質問をしたな」
 俺は何となくムッとした。
 何だその嬉しそうな顔は、と食ってかかりたいのを捩じ伏せる。
「やはりお前とは話が噛み合わん。帰る」
 無理矢理身体を引き離し、俺はトロワに背を向けた。
「おやすみ。また明日」
 少しも気にした様子のないのに、またひどく腹が立つ。
 だが――それが良いのかもしれないと、今夜は少し鷹揚に構えてみたい気もした。
 知り合い、クラスメート、友人、仲間、恋人……他に、もっとうまい関係はないものだろうか。
「まったく――」
 いろんな物を吐き出すように、大きく深く息を吐いた。
 ああ…人付き合いは何と難しいのか。
 公園で会ったあの彼女に、どう触れ合えばいいのかと尋ねたい気分だった。
 まだ当分、俺は不安定に揺れ続けそうだ。
 だが――それも悪くないだろうと、トロワのにやけ顔を思いながら、俺は小さく笑った。
 見上げた空には、やはり笑い出しそうな月が、白くやわらかに浮かんでいた。

掲載日:2005.01.10


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