Pulse D-2

in the air

 なんて情緒のない音だろう。
 仕事中、彼女はよくそう思う。
 中途半端ににぎやかで、軽快さを演出しようとして失敗したようなのっぺりとしたチャイム。客の出入りに合わせて反応を返すセンサーの、自分はまじめに仕事をしているのだと言いたげなその電子音が彼女は嫌いだった。
「いらっしゃいませ」
 それでも、ガラスのドアが開きその音と共に客が入ってくれば、彼女は柔らかな声を出して受付へ向かう。足取りは軽すぎず重すぎず、応対は押し付けがましくならない程度に丁寧に。声のトーンは高すぎないよう、無駄に明るくならないように。そんな態度を、勝手に自分のモットーとしていた。
 もちろん、彼女がそう思うのにも一理ある。彼女の勤務時間は主に早朝なのだ。客はどちらかというと少なく、店内には静かなクラシックが流れる。週末こそ半徹夜の賑やかなグループが現れたりするが、大抵はひとり二人とテーブルにつき、静かに、ただひたすら静かに時の流れに身を任せている。
 そんな雰囲気があるからそれを崩すのはもったいない。
 そう思うのだった。
 休日には変化があったが、平日には客の顔ぶれもかなり一定していた。夜明け前にほんの一時ほとんど客の居なくなる時間があり、小さな店だから仕方がないけれどと店員同士で言い合いながら、サラダバー用の野菜類のまわりの氷を取り替え、テーブルの位置を直し、チーフが切り上げて責任者が交替するのを確認する。そうするとそこからはほぼ毎日来る三人と週に二度から四度くらい現れる五人との、お決まりのやり取りが始まるのだ。その時間が、彼女は最も好きだった。
「おはようございまーす」
 低くこう呟きながらドアを開けるのは、毎日やって来る中年の男性。貧弱な口髭をはやし、ぼさぼさの頭で現れるが、食事の仕方は実に優雅で彼女の目を引いた。常に、最も奥まった席に陣取る。
 そしてフリーター風の青年と土方仕事の似合いそうな壮年の男、これからパートだと笑う中年女性と妙に顔立ちの整った若い女が続き、夜が明けきって街が動き出す頃、彼女のいちばんの楽しみの若い男が現れるのだ。
 黒い髪は珍しくはない。けれど、小柄ながらすっと伸びた背筋が颯爽とした印象を与える体と、静けさの中になぜか抜け目ない感じを与える切れ長の眼が、彼女の視線を引き付けて離さない。襟首でぴちりと一つに束ねた髪からは、不思議と硬質なイメージを受ける。外見的には自分と同じくらいの学生と思えたが、東洋系の人間は若く見えることが多いと言うから本当は自分よりずっと年上なのかもしれない、とも思ってみる。
『でもきっと学生だろう』
 そう考えるのには二つ理由がある。一つは、彼が時折持ってきて眺めている本が、二、三冊に限定されていること。多分それは学校の教科書なのだろうと彼女は思う。二つ目は、時折向かいの席に座る友人らしき青年に対する時、一人の時とは違う少し幼さを含む表情を見せることだ。
『いいなぁ…』
 心の中で本気でそう呟いた自分に笑ったのは、二ヵ月ほど前のことだった。
 流れていた音楽が静かな余韻を残して終わる。少しの静寂の後にゆったりとしたピアノ曲が始まったところで、その黒髪の青年がよく磨かれたガラスの扉を押して店内へと入ってきた。
「おはようございます」
 いつもと違う言葉を使ってみる。彼はぱちりと瞬いてから、微かに頷いて応えた。彼女は先に立って歩き出す。
『いつものお席へごあんな~い』
 彼の席は店内奥の道路側。部分的に不透明になっている飾りガラスのすぐ脇で、ライスを使った日替わりの朝食メニューをきれいにたいらげるのが常だ。それから一時間半ほどレポートを書いて(いるように見える)、そのままさっと帰る日が週三、四日。他は、友人らしき青年と合流してもう少しだけ長くいる。
 今日はどうやら待ち合わせている日らしい。食後のグリーンティーを運び終えたときに、こげ茶色の髪の青年が現れた。長い前髪が特徴的だ。一度あれを引っぱってみたいとは、一緒に働いている誰もが思っていることだった。
「コーヒーを」
 黒髪の彼の真向かいに座ってから、前髪の彼はいつものオーダー。静かな雰囲気は二人共通のものだったが、前髪君のほうが表情や仕種が柔らかいことを、彼女はよく心得ていた。
『たまにはゆっくりしてってくれないかなー』
 走ってきたのか、少し暑そうに襟元をくつろげた前髪青年を横目で見て思いつつ、彼女はコーヒーカップを用意する。だいぶ外がにぎやかになってきた。学生なら当然、そろそろ登校すべき時間だろう。だからコーヒー一杯だけなのだろうか、と考えると、自然と動きが早くなった。
 ところが彼は、持って行ったコーヒーを見てこれまでとは違う反応を返した。
「しまった…つい、いつもの癖で…」
 冷たい飲み物がほしかったのに、と呟くのを聞いて、くるりと彼女は向きを変える。
「お取り替えいたしましょうか?」
 二人が同時に驚きの表情を見せた。
『うわ、新鮮!』
 これは今までにないパターンだ、と彼女の心は浮き立った。朝からこのコンビにこの反応をもらえるとは、かなり幸先のいい一日だ。
「こいつのミスだ。甘やかさなくていいぞ」
 黒髪君が先に口を開く。吹き出しそうになるのを堪えながら、彼女はにこやかに言い添える。
「構いませんよ。アイスコーヒーになさいますか? それとも他のドリンクになさいますか?」
 左、右、と視線を移してもう一人へ尋ねると、彼は、
「いや、コーヒーはこのままでいい。フルーツボウルを一つもらえるか?」
 と、飲み物を変える代わりにフルーツの盛り合わせを注文する。聞いていた黒髪の彼が眉根を寄せた。
「長居するつもりかっ」
「まぁそう言うな。時間はあるんだ。それに、朝の果物は『金』だぞ」
「何のことだ?」
「体にいい順番だ。朝は金、昼は銀――あぁ、すまない。コーヒーも一緒にもう一杯頼みたい」
 はい、と明るく応じてから、オーダーの確認をして彼女はその場を去った。
『朝は金、昼は銀……じゃあ銅もあるのかしら?』
 知らないなぁと思いながら、厨房にオーダーをまわす。少しすると、常連の壮年男性が食事の終了を知らせ、会計のために彼女はその席へと向かう。若い二人の斜め後ろの席だ。悪いとは思いながらも、耳は二人の会話を追ってしまう。
「何故お前は知っていて、俺は知らないんだ?」
「今知っただろう?」
「そういうことではなくて」
「いや、そういうことなんだ。五飛にも伝えておいてね、とヒルデから言われている」
「ヒルデじゃない。あいつの名前はクリスティーナだ」
 まぁいいじゃないか、とか何とか言っているのが聞こえたが、目の前の男性と言葉を交わしたためにその先は聞き逃した。
『ウー…フェイ? 難しい名前だなぁ』
 多分これが黒髪の彼の名前なのだろう。声には出さずに口の中で、ウーフェイウーフェイ、と転がしてみる。不思議なもので、しばらくすると発音が舌に馴染んできた。うん、いい名前だ、とにこりとしてみる。
 食器を下げてテーブルを拭いている間に、また少し話が聞こえた。
「だからたまにはデートでも、と」
「お前は言葉を間違っている」
「いやいや、正しく使っているつもりだ。お前もそのつもりで今日一日付き合って…」
「付き合わん」
「そう言わずに、気晴らしも兼ねて」
「そんなことでは気晴らしにならん」
「お前が嫌がるようなことは何もしないぞ」
「今、しているだろうが!」
 つい、表情を窺ってしまう。相手に気づかれないよう一瞬で手元に目を戻すが、見遣った先のウーフェイの様子に口許が歪むのは止められなかった。
『ほんっとに嫌そう…』
 でも仲が悪いわけじゃないようなのが面白い。カウンターへと歩きながら、どうしてそう思うのかと自問する。
『…会話してるから、かな』
 しかもいろいろに表情を変えながら、一つ言われたら一つ返す形で、彼らが話し続けているからだろう。会話のテンポがいいから気の合う友人同士だと感じるのかもしれないとのんびり考えつつ、差し出された器を受け取った。カラフルな果物が目に眩しい。
『それにしても――』
 コーヒーをトレイに載せつつ、
『デートかぁ。私だったら即OKなんだけどなぁ』
 と小さくため息。話の展開がいまひとつ見えないのが腹立たしい。二人は今日、あとどれくらいこの店にいてくれるのだろう?
 早朝の常連客が去った今、店内はいつにもまして静かだ。あと二十分もすれば通勤途中に朝食をとっていくサラリーマンが現れるが、その前には無人になることもある店で、二人の若い客の周りだけは明るい空気の流れが見えるようだった。
 注文のフルーツとコーヒーを手に、彼女は店内を移動する。
「まあ、それはともかく、編入の件は大丈夫そうだ」
「お待たせいたしました」
『編入?』
 前髪の長い彼の言葉に首を傾げつつ、軽く声をかけて彼の前へフルーツの盛り合わせを置く。話を中断されたことを気にする様子もなく、おいしそうだ、と呟いてくれるのが彼の印象にマッチする。空になっているコーヒーカップを新しいものと取り替えると、深いグリーンの目が追ってくる。けれど、ウーフェイは向かいに座る相手を見つめているだけだった。
「本当か?」
 テーブルから一歩離れた途端、背中で聞いてもわかる、弾んだ声がした。きっと、自分の好きな年相応の顔を見せているのだろうと彼女は想像する。それを肯定するように前髪の彼が言った。
「今日、初めて笑ったな」
 ああやっぱり、と思うあいだ、ウーフェイの方は沈黙したままだ。一方だけが言葉を続ける。
「お前が笑うと、俺も嬉しい」
『――くうぅっ…見たいっ!』
 今、二人はどんな表情をしているのか。笑ったウーフェイの顔、それを眺めて『嬉しい』と言った相手の顔。そして嬉しいと言われた後のウーフェイの様子。振り返って目を向けられないのが悔しいったらありゃしない。
 思うそばから足が速まる。カウンターまでの数メートルがもどかしい。
 そして、客席から姿を隠すようにキッチンの入口に滑り込むと、彼女はぱっと身を翻して二人の動きに目を向けた。
 タイミングを計ったかのように、前髪の彼がウーフェイからキスを掠め取るのが目に入った。
『あ、そういうこと!』
 今までどうして考えなかったのだろう?
 二人の関係がようやくわかり、思わず声を殺して大笑いする。
 両腕を伸ばすウーフェイの顔は怒りと焦りと照れとがまぜこぜになって濃い朱に染まり、胸倉を掴まれた相手のほうはされるがままに揺さぶられながらしてやったりと笑っている。事情を知らない他の客と店員が何だなんだと二人を見遣り、友人同士のじゃれあいと見て取り何ごともなかったかのように元の姿勢に戻っていく。
「どしたの?」
 背後からの声に半分だけ振り向くと、ちょび髭の妙に似合う店長が首を傾げて彼女を見ていた。
「あ、いえ、ちょっと素敵な発見を…」
 普段から仲のいい相手なので、彼女の口調も柔らかくなる。
 個人的には失恋したのだけれども、彼にも特別な相手がいたということはきっと素敵なことなのだ。そう思って、心の中で二人にエールを送った。
 怒って帰ろうとするウーフェイをもう一人が宥めすかし、結局二人はこの日、彼女が勤務を上がる直前まで店で果物をつついていた。その後どこへ行ったのかは知る由もない。
『二人の幸せが長く続きますように。そして、お裾分けでいいので私にもいいことがありますように――なんて言ったら駄目かしら?』
 好きに飲んで構わないと言われているコーヒーを一杯飲み干すと、そっとカップを置いて、彼女は人の増えた午前の街へと足を踏み出した。

掲載日:2006.01.31


[3×5〔Stories〕]へ戻る