Pulse D-2

ひかりふる

 四角く切り取られた空は、近づくにつれて青い色をトロワの視界の中で広げていく。窓際に立って見上げれば、それは遮るもののない空間にまぶしいくらい澄み、トロワに笑みを浮かべさせる。
「やはり高台はいいな」
 言って深呼吸をしたところで、背後からの低い声が彼を諌めた。
「わかったから手を動かせ」
 これは失礼した、と呟きながら振り返る。段ボール箱を床に下ろした五飛が、小さくため息を漏らしてトロワを見上げてきた。
「確かに見晴らしはいいが、そんなものはこれからいくらでも好きなだけ眺められるだろう。今やるべきことは別にあるはずだ」
「いつもながら正論だな」
 背すじを伸ばした五飛にトロワは歩み寄る。そうして、
「別とは例えば――」
 と言葉を切って、軽く五飛に口づけた。
「こういうことか?」
「こっのっ…馬鹿者がぁっ!!」
 振り上げられた手をひょいとかわす。
「まったく、いつになったらそういうふざけた真似をやめるのだ貴様は!」
 まっかになって凄まれても色っぽいだけなのだが、と考えつつ、トロワも言葉を返す。
「五飛こそ、いつになったら俺に甘いキスを返してくれるんだ?」
 俺はいつだってお前の愛を待っているのに、と続けた声は、五飛に首を絞められて途中で切れた。
「恥ずかしいことを言うな、誰がお前にそんな…」
 そこに第三の声が割り込んだ。
「おーおー、さっそく夫婦喧嘩とは、まったくもっておあついねえ」
 やはり段ボールを手に入ってきたのは、かれこれ一年近くの付き合いになるクラスメイトの一人だ。黙っていればいい男なのにと時折評される彼は、見た目のまじめっぽさとは裏腹に口を開けばくだけた男で、トロワとはたいへん気が合った。名前はレオ。
「どこが夫婦喧嘩だ。お前の目はどうなってる!?」
 食ってかかる五飛も、レオは笑ってやり過ごす。
「無理強いしないのも男の甲斐性だぞ、トロワ」
「わかった。覚えておこう」
「お前らっ!」
 怒鳴ってからようやく五飛も深く息を吐き、こうやっていちいち反応するからおもしろがられるのだと自分自身に言い聞かせた。
 五飛が口を閉ざし、トロワもまじめに働き始め、レオが次の荷物を取りに部屋を出ていく。やがて五飛も階段を下りていき、部屋に残されたトロワは一人、新しい生活の場を見回す。
 静かなリビングには備え付けのテーブルセットと作り付けの背の高い棚が一つ。トロワと五飛の暮らしでは運び込むものは少ないが、それでもそれなりの生活の匂いが漂えば嬉しいとトロワは思う。
 戦争を終えて三年弱、五飛と再会してから一年半。再会後に二人で学校に通うようになって一年が経つ。最初はカルチャースクールの延長のような学び方だったが、順々に系列の学校への編入を果たし、来月からは専修コースへと転入して学ぶことが許可されていた。トロワはジャーナリズムを中心とするコース、五飛は哲学と心理学とをあわせた人間情報学科の基礎コースを取っている。
「あら、五飛ったら、まだ大学に行かないの?」
 進路を聞いてこう言ったのはサリィ・ポォだ。五飛の法定後見人である。
「本当に興味を持って打ち込めるかどうかわからんからな。それにまだ、学校というものに対する不信感が完全に消えたわけではない。すまないが、もう少しだけ自由にさせてくれ」
 サリィはもちろん異を唱えはしなかった。
 トロワにしろ五飛にしろ、学費も生活費も今はあらかた自分たちで稼いでいる。そのうえで、過去の戦いに関与するわけでもなく法に触れる真似をするわけでもなく、まじめにごく普通の暮らしをしていこうとしているのだ。どこにも自分が口をはさむべきことなどないとサリィは思う。そしてまた、そんな二人の交流が続いていることにも安堵を覚えたのだった。
 彼女の想いを汲み取ったかのように、トロワは五飛へと同居を持ちかけた。
「今までより少し忙しくなるはずだ。それに、基礎コースを終えたら今度こそ五飛は上級のきちんとした教育機関で学ぶつもりなのだろう? そうなったら、学費も生活費も稼いでいくのは難しくなるのではないかと俺は思う。そこでだ」
 家賃も生活費も折半で一緒に暮らそうとトロワは考えたのだ。
 当然ながら、最初のうち五飛は拒否をくり返した。他人とともに暮らすなど面倒だ。トロワとなどもってのほか。そう言った五飛を、トロワは二か月かけて口説いた。
「本当にしつこい男だな…」
「自分の幸せには貪欲なんだ」
 呆れと落胆の息を落とした五飛を、トロワは笑って口説き落とした。
 こういったわけで、彼らは本日、新居へと越してきたのである。
 今まで住んでいた場所からは隣町に位置する新しい部屋は、小さな二間に広いリビングと綺麗なキッチンのついたアパルトマンだ。内部はコンクリートの打ちっ放しになった一見倉庫のような造りだが、無機質に統一されたその様子がいっそ潔くて五飛の好みに合った。トロワとしてはもっと温かい感じのところに住みたかったのだが(なんと言っても五飛と二人のスウィートホームなのだから――ということを五飛が聞いたらまた怒り出すのでトロワは一切口にしなかったが)、広くて明るいバルコニーとそこから見える景色が気に入ったので良しとした。
 引っ越すと話したら、もれなく友人三名の手伝いが付いてきた。先述のレオと女性二人――ミーナとクリスだ。この三人は、トロワたちが最初に入ったクラスからずっと一緒のメンバーで、本業は他の正規の大学内にきちんとあるはずだ。それにしては外部のコースを取りすぎなのではないかと五飛などは常々思ってきたのだが、さすがに今度の専修コースには彼らの名前は見当たらなかった。念のためトロワの履修するコースの名簿も見たが、やはり彼らはいなかった。
「大学との掛け持ちは無理だろう」
 トロワもそう言って笑う。後日レオに確認したところ、
「それなりに勉強してみたかったことは一通り手をつけたし、あとはきっちり大学卒業してからでも遅くないかなあと思ってな」
 との答えが返ってきたそうだ。はじめからそうしろ、と言いたいところを五飛は抑え、これで彼らとの縁も切れるのだろうかと少しだけ名残惜しく思った。それが五飛の考え違いであるのはすぐに明らかとなったのだが。
 トロワと五飛の荷物は、二人分を合わせても軽トラックで十分だった。大きな家具は部屋に備えられたものばかりだったし、これといった趣味の道具なども持ち合わせてはいない。服も本も限られていたし、大切な思い出の品が山積みになっているはずもない。だから、
「手伝ってもらうほどのことじゃない」
 と話したのだが、
「車出すから付き合わせろよ」
「食器類の梱包くらいするわよ」
「新しい部屋、見せてよー」
 と、三者三様に言われて断りきれなかったのだった。
「要するに暇なのだな」
 五飛の見解はおそらく正しいだろう。
 実際にはやはり他人の手を借りるまでもなく荷作りは済み、当日の朝、レオに車だけ出してもらって三人で荷物を積み込んだ。ミーナとクリスは荷物を降ろすほうだけ手伝うことになり、一段落ついたところで食事ができるようにと買い出しも兼ねて移動している。あとからここで合流する予定になっていたその二人の声が、ようやくトロワの耳にも届いた。
「あら、広い」
「明るーい」
 現れた二人が口々に言う。
「ようこそ。わざわざすまないな。いい部屋だろう? 見にきた甲斐があったか?」
 トロワが続けざまに口にすると、二人は明るく頷いて手にした買物袋をテーブルの上に置いた。
「家賃、高いんじゃないの?」
 とミーナが尋ねる。
「大丈夫。五飛はああ見えて金持ちなんだ。いい後ろ盾がいてな」
「じゃあトロワは玉の輿ね」
 澄まして答えるトロワに、素敵~とクリスが笑う。そこへ五飛の苦々しげな声と顔が現れた。
「ああ見えてとは何だ!?」
「ありがたいことだ。五飛、一生大切にするぞ」
「たわけっ! 誰が金持ちだ? どこが玉の輿だ? 何が大切にするだっ!!」
 トロワとクリスをねめつけてから、
「条件が悪いから安いんだ」
 とミーナに答えた。そこから聞こえていたのかと変なところでトロワは感心する。
「部屋そのものは悪くないが、中心部から離れているから生活するには少し不便なんだろう。どこから来ても坂を上ることになるしな」
 それは確かにね、とミーナとクリスは頷き合う。彼女たちはタクシーで来たのだそうだ。
「ま、それはそれでいいんじゃねえの? 若いんだし、元気なんだし」
 箱を抱えたレオが横から口を挟む。その言い方が年寄りくさいとクリスが笑い、トロワとレオが苦笑した。
 ほどなく荷物を運び終え、女性陣手製のサンドイッチと駅前で買ってきたという飲み物で軽く腹を満たす。爽やかな風が室内を抜けていき、それに乗るように皆の声が楽しそうに続く。
「ついに進路が分かれるかぁ…残念だなー」
「案外、来年は後輩になってたりして」
 クリスの言葉にミーナが返す。あながち無いとは言いきれない。
「ま、いつかは分かれる道ってこと。こいつらだってコースは別なんだし」
 レオが言うと、クリスは意味ありげに五飛を見た。
「ねぇ、それって平気なの?」
「何が言いたい?」
 途端に五飛の眉間に皺が寄るのはいつものことだ。
「だって、五飛って結構やきもちやきじゃない? 自分の知らないところでトロワが他の人たちと一緒に勉強してるのなんて、気になって仕方ないんじゃないのかなーって」
「馬鹿馬鹿しい。俺がいつ嫉妬などしたと言うのだ?」
「あらやだ、自覚ないのね、やっぱり」
 クリスはそう言って、同意を求めるようミーナに目配せする。うふふ、と小さく笑ったミーナは、ちらりとトロワに視線を走らせてから五飛に目を戻して言った。
「誰かと話している時のトロワを見る目が少し、ね、熱っぽいのよ」
「なっ…何だそれは!?」
 今度はさっと耳を赤くして、五飛は恥じるような困ったような、なんとも複雑な表情で声を詰まらせた。熱っぽいとはこれまたおもしろい言いようだと、トロワも笑った口元に手を当てた。
 こうしていると、五飛はやけに子供っぽく見える。以前と比べればずっと成長し、外見的には大人に近づいているのに、からかわれて照れたり怒ったり忙しそうなのが、見ているトロワには幼く感じられるのだ。もしかしたらそれは自分もだろうかと考えて、それからふと、少し前に聞いたサリィの言葉をトロワは思い出した。この部屋の契約時に立ち会ってくれたサリィと、その帰りに五飛の部屋で少しだけ話をしたのだ。
 五飛が席をはずした際にサリィが言った。
「今度のコースを決めたときに、五飛がこんなことを言ったの。大学に進まないのは本当に自分が夢中になれるものかどうかわからないから、そして学校というものに対する不信感が消えてはいないからだ。すまないけれど、もう少しだけ自由にさせてくれ、って」
 トロワは微かに頷いて先を促す。
「それを聞いた時ね、私、もう少しだけ子供でいさせてくれって言われたような気がしたの」
 サリィはわずかに目を伏せる。だがそれは悲しげなものではなく、やわらかに引き上げられた口角とともに彼女の静かな喜びをトロワに思わせる目だった。
「不思議ね。赤の他人だったはずの私が、気がついたら五飛の成長を楽しみにしているの。もともとがとても優秀な子でしょう? 大抵のことは、一度教えれば人並み以上にこなすようになるし、基準がはっきりしていて決断が早い分、失敗したときの立ち直りも早くて次に生かしやすいのね。そういうところ、とても頼もしいから、ついつい彼のほんとうの年齢を忘れそうになる」
 サリィは小さく肩をすくめる。
「同じくらいの年頃の子ばかりのところじゃ、相手が子供すぎてやっていけないんじゃないかと思っていたし、得意な分野で現場に出て過ごすほうが彼には絶対に居心地がいいとも思っていたわ。あなたたちが学校に通うようになってだいぶたってから、五飛が以前に行ったという学校での話も少し聞いて、なおさら無理にでも私の仕事を手伝ってもらえばよかったって後悔したの」
 でも、とサリィは目を上げた。
「会うたびに五飛の表情が豊かになって、彼の口からいろんな人の名前が出るようになって、困ってることや迷っている事柄についてほんの少しだけれど話してくれるようにもなって――なんて言ったらいいのかしら、彼の中のエネルギーがどんどん強く、熱く、でもとてもやわらかくなっていくような感じがして、それが今になってみるとほんとうに嬉しいのよ」
 ありがとう、あなたのおかげね、と頭を下げたサリィにトロワは首を振って答えた。
「それは俺も同じだ。五飛と引き合わせてくれたあなたにも、嫌々ながら俺の希望に付き合ってくれた五飛にも、俺のほうこそ感謝している。謝謝」
 五飛の発音を真似て口にしたトロワに、サリィが軽く声をたてて笑ったところで五飛が戻ってきたのだった。
 今、トロワの見遣る先で、五飛は年上の三人を相手に、トロワからの恋愛を想起させるスキンシップに自分がどれほど手を焼いているかを力説している。それがまた次の話題を提供することになるのだと知ってか知らずか、彼らと相対した初めの頃からは考えられないくらいの言葉を並べ立てていく。
「五飛、俺はそんなにお前を困らせていたのか?」
「今さら何を言っているのだ」
「それはすまなかった!!」
 強く言ってわざとらしく抱きつく。離れろ、と憎々しげな声を出す五飛をさらにきつく抱きしめると、
「だから、これが、お前の悪いところだと言っているだろうが。この、お調子者めっ!」
 と怒鳴ってから、五飛はトロワを引き剥がすことを諦めて、その脇腹へと手を伸ばした。強すぎず弱すぎずといった具合に肉をつまむと、驚きとくすぐったさとに声を上げてトロワはようやく五飛から離れた。
「嫌よ嫌よも…ってほんとなのねー」
「クリス、違う。それは女性に対して使う言い方よ」
 多分、と、横からミーナが小さくクリスに告げる。
「きっ、貴様らっ」
「まぁまぁまぁ。間違えたんだってことにしといてくれ、五飛」
 笑いながらレオが割って入り、そのまま席を立った。
「そろそろ俺たち帰るから。あとは二人でよろしくやってくれ。じゃ、またあさって」
 最終週の講義で会うことを約束して、三人は賑やかに去っていく。
「まったく、どいつもこいつも何なのだ」
「嬉しいんだ、お前が相手をしてくれるから」
「それはお前だろうが」
 ああそれはもちろん、とさらりと答えてから、これでこの話は終わりとばかりにトロワはさっさと部屋の片づけに戻った。
 やがて、それぞれの荷物を整理し終える頃、空は静かに暮れて室内へ差し込む光にやわらかな色彩を加え始める。ベッドの上に落ちる淡い茜色を目にしたトロワは反射的に窓を振り返り、そこに見た夕空に引かれるように立ち上がった。
 バルコニーへの出口で立ち止まる。胸いっぱいに空気を吸い込むと、体の中までほのかに茜に色づくような錯覚を覚える。そうする間にも雲は流れ、空は色を増したかと思ううちにさっと捨て去り、群青から濃紺へと姿を変える。
 見下ろす街には明かりがともり、色も形も大きさもさまざまな様子が暖かさを感じさせてトロワを魅了する。空では半月が冴え冴えと澄んだ光を放ち、遠慮がちに幾つかの星が小さな輝きを見せ始めていた。
 ずっと、同じように佇んでいた五飛の側へと、トロワはバルコニーを歩いていく。今は月を見上げたまま動かない背に、無言のまま寄り添い胸へと両腕を回す。振り向こうとした顔に頬を当てて留めれば五飛は抗議の声を上げようとする。それを止めるよう、トロワは左手で五飛の口をふさいだ。
「怒らないでくれ。ふざけているわけじゃない」
 そっと耳元で告げる。五飛が身体を固くするのが伝わってくる。
「前に、俺は五飛といる時にいちばん強く生きていると感じることができるのだと、そう言ったことがあったな。覚えているか?」
 五飛が頷くのを確認して、トロワは一つ深呼吸をする。
「今もそれは変わらない。むしろ、強い確信に変わったと言ってもいいだろう。信じてくれるか?」
 今度は五飛からの答えはなかったが、トロワは焦ることなく言葉を続けていく。
「情が移るというのとは少し違うと思う。お前に再会できたときに、既に俺は嬉しくて仕方がなかったのだからな。自分でも不思議だったが、お前に会えて、俺は一人ではないのだと思うことができたんだ」
「一人…?」
「そう。一人だ」
 お前には他にも…と言いかけた五飛は、トロワの手に阻まれて言葉を切った。
「他にもサーカスの仲間がいるだろう?」と五飛は言おうとしたのだろう。トロワはそう思うが、自分にとって五飛とサーカスの皆とでどう意味合いが違うのかを説明するのは難しく、できれば追い追いそのうちにさせてもらいたい話だった。
「何故だろうな。お前といると、生きるということを考える。初めて会ったときからそうだった」
 そしてそれは、ともに戦いながら、ともに学びながら、次第に強くなっていった想いだった。
「困ったことに、何をするにつけ、五飛だったらこうするだろうか、五飛だったらこう思うだろうかと、考えるようになってしまった。実際にはどうなのか、確かめたり確かめられなかったりしながら、俺は次にまたそうやってお前のことを考える時がくるのを楽しみにしている」
 そうやって暮らすのが楽しくてどうしようもない、と笑うトロワの声を、五飛は目を伏せぎみにして聞いている。
「お前は嫌がるかもしれないが、俺はお前のこれからを見ていきたい。できるだけ近くで、お前と同じ時を生きていきたい。許してくれるな?」
 この状況では事後承諾になってしまうがと言い添えて、今度こそトロワは五飛の口から手を離し、黙って彼の答えを待った。
 藍色の空を薄い雲が渡る。わずかに位置を変えた月の向こうに、至近のコロニーの鈍い光をトロワは見る。
 五飛の声は、骨を伝って聞こえてくるように少し低く身体の中へと響いてきた。
「俺はまだ、自分の生き方をしっかりと定めたわけではない。お前の言うような後ろ盾があるわけでもない。お前は昔からそうだったのだろうが、俺は大きな一族の中で育った時間のほうが圧倒的に長いから、今でも時折この先のことを考えて途方に暮れることがある」
 おかしいだろう? と苦笑しつつも、
「それでも」
 と低く言って話を続ける。
「お前と過ごす時間は、未来を思い描くことを俺にも許してくれる。ささやかでも幸せな未来を、自分なりに築いていけばいいと思わせてくれる」
「だったらこのままずっと…」
 言いかけたトロワを遮り、右手で彼の口をふさぐ。
「いつかはお前とも離れて生きることになるかもしれないが、たとえそうなっても、お前とのこの一年半もこれからのここでの暮らしも、俺は忘れずにいたいと思う。こう思えるまでお前に付きまとってもらえてよかった。ありがとう、トロワ」
 言い終わるか終わらないかのうちに、トロワの腕が五飛を締め付ける。
「そんな、もう終わりみたいな言い方をしないでくれ」
 これからだろう、俺たちは。
 希うよう言われて五飛がそっと笑む。泣きそうな顔になったのを、トロワに見られていないようにと密かに願う。
「本当に終わりの時がくるまで、このままお前とともにいられるなら――嬉しい、と、思う」
 想いをどうにか言葉にした五飛と必死に聞き取ったトロワとが、ほとんど同時に息を吐く。互いの身体のこわばりを可笑しいくらいに感じて、解きほぐそうとするかのようにわざと小さく声に出して笑う。
「お前の持つ生きようとする力を、今のお前の中にある輝きを、俺は何より信じる。その光で、俺を照らし続けてくれ、五飛」
 腕を緩め、トロワは五飛の顔を覗き込む。口づけを迷い、許可を求めるように五飛の目をじっと見つめる。
 薄闇の中、白い面は一度静かに伏せられる。そこにある逡巡を、トロワは黙って受け止める。
 そんなトロワの見守る中、やがて、五飛は自身に確認するようゆっくりと瞬く。
 そして、眼差しに決意を込めて顔を上げた。

掲載日:2007.05.01


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