siesta
夢より鮮やかに 君が 笑う。
* * *
潮の香りがする、と思った。
耳を澄ますと、確かに波の音も聞こえてくる。
目を開けることができないまま自分はどこにいるのだったかと考えていると、誰かがゆっくりと彼の方へ近づいてくるのが感じられた。
「わっ――」
突然降ってきた水滴に思わず声を上げると、相手は小さく声を立てて笑ってみせる。漸く上げられた瞼の向こう側には濡れた髪を無造作に束ねている五飛の姿があり、その髪の先端からまだ時折水滴が滴り落ちていた。
「いつまで寝ている?」
そう言ってトロワのタオルケットを剥ぎ取ると、そのまま彼はベッドの端に腰掛ける。そうして挑発するようにトロワの目を覗き込むくせに、寝転んだままトロワが手を伸ばすとそれを避けて体を引く。
「もう海も混んできた。…朝食にするぞ」
ベッドが軋んで彼は姿を消し、トロワは一人、明るい部屋に残される。それから、ああまた捕まえ損ねたと目をこすり、仕方なさそうに彼はベッドを抜け出した。
朝早くに五飛は起き出してすぐそばの海岸へ出掛ける。早朝の海は静かで美しく、とても優しく五飛を包みこむ。常夏の島の透明な水は、その時、五飛だけのものだ。ごくたまにトロワを連れ出すこともあったが、そんな時でも海に入るのは五飛一人だった。
「何故泳がない?」
五飛が尋ねると、さあ、とトロワは首を傾げる。
「入ってはいけないような気がする」
その先の答がないだろうことは五飛にもわかるから、二人の会話はそこで途切れる。そうして五飛だけが水に浸かり、トロワはタオルを手に僅かな木陰で再び眠り込むのだ。
結局連れ出してもそうやって眠ってしまうトロワに、
「よくも眠れるものだ」
と呆れて言ったことがある。それには本人も笑って、
「今は好きなだけ眠っていられるからな」
と答えていた。
確かにそうだがなと五飛が微かに目を伏せたのが、妙に印象的にトロワの中に残っていた。
キッチンに立って野菜を洗う五飛の横顔が、ふいにその姿と重なる。青いタンクトップの背が濡れているのが見え、Tシャツにパジャマのズボンのまま起き出してきたトロワは台所のタオルを取るとそれで五飛の髪の水分を吸い取る。
「朝食が遅れるぞ」
ゴムをはずしてまで執拗に髪を気にするトロワに、手を休めて五飛が言う。
「別にいい。急ぐ必要もない」
微笑んだのだろうか。
トロワが答えると小さく肯いて、五飛はそのまま黙ってトロワの好きなようにさせていた。
彼がおとなしいのをいいことに、トロワは軽く叩くようにして五飛の髪を乾かす。その時ふいに彼が首をすくめたので、何事かとトロワは手を止めた。
「ちょっと…」
くすぐったい。
そう言おうと思ったのだが、触れている場所がくすぐったいのかそれともそうされていることで心がくすぐったいのか判断に悩んで、五飛は言葉を切った。それで心なし照れて強く口を閉ざした彼を、斜め後ろから見遣ってトロワはふと、かわいい、と思った。
口に出したら殺される…
思うと同時に言葉を飲み込み、その代わりに手にしたタオルごと五飛の髪を掴んで持ち上げ、そこに現れた首筋へトロワは小さく口づけた。
潮の香りがする――
トロワの中に真っ青な海のイメージが広がる。それはかつて経験した暗い海ではなく、朝日を浴びて輝く、生命を育む海のイメージだ。
「なっ…」
途端に振り向いた五飛と目が合う。首に手を当て驚いた顔でトロワを見た彼は、だが、そこにいる相手の様子にさらに目を丸くし、思わずぷっと吹き出した。そしてさも可笑しそうに声高く笑った。
振り向いた時、そこには自分の方こそ驚いて瞬きを繰り返すトロワの姿があったのだ。
五飛と目を合わせた瞬間にやっと自分が何をしたのかに気づいた彼は、焦って体を離した。右手にタオルを持ち、左手の中指と薬指に髪を纏めるためのゴムを掛けたまま、彼は両手を挙げて硬直している。それは降参している姿にも似て、さらに五飛の笑いを誘った。
「取って食いやしない」
今までこんな触れ合いはなかったから驚いただけ。少し焦っただけ。不覚にもどきりとしただけ。
「もういいから…食事が終わったらシャワーを浴びるから。お前は着替えでもして待っていろ」
トロワからタオルとゴムを取り上げて、再び無造作に彼は髪を結ぶ。そうして追い出すように手を振って調理を再開した。
ああほらまた、と彼にかわされたことにため息をつく。と同時に、しまった惚れたかなと困惑して髪を掻き上げ、トロワはキッチンを後にした。
五飛から離れると、少し、潮の香りが薄くなった。
* * *
君が笑う夢を見た。
暑い暑い午後の眠りの中。
目が覚めて、まずそう思った。すぐそばには同じようにまどろむ五飛の姿がある。
窓は開け放って、薄いレースのカーテンを引き、足元に風が吹き付けるよう扇風機を回して、麻布を掛けたソファの上で、二人、泥のようにくったりとして眠る。明るい午後の、二つの死体。
朝食の後片付けをして簡単に部屋の掃除をし、五飛がシャワーからあがるのを待って洗濯をする。そうするともう他にはすることがなくて、五飛はゆっくりと時間をかけて昼食を作る。彼は特に材料や方法にこだわることは無いくせにとてもおいしい料理を作るから、トロワは一切手を出さずに出来上がるのを待っている。
「怠惰」
何もしないでいると五飛にそう言われるから、とりあえずニュースを確認したり本を読んだりして午前を過ごす。でも、それらは全て自分の中を素通りして行くようだとトロワは思っていた。
昼食をとって、それから二人で眠る。
シェスタの中で見る夢は、大抵の場合光か闇。五飛の泳ぐ明るい海か、五飛の戦う冷たすぎる宇宙。今日見た夢は、輝いていた。
もう一度思い起こしてトロワは昼寝を終える。二人が目覚める時、外はもう真っ赤な夕焼けに染まっていて、浜辺から引き上げる人々のにぎわいが彼らの元へも聞こえてくる。そうしてそれが完全に静まると、五飛は朝と同様に海へ出て行くのだ。
「何をしているのだろうな…」
まだ眠っている五飛にトロワは低く声を掛ける。
こんなところで何をしているのだろう、自分は。のんびりと、ぼんやりと、目的も無く、意味も無く、ただ時間をつぶすだけ。戦争が終わって、今度は好きなように生きられるというのに。
そもそも何故五飛と一緒にいるのかもわからない。確かにトロワが声を掛けて彼を地球まで引っ張ってきたのだけれど、その理由も目的もトロワにはわかっていなかった。五飛が来てくれたことも、今となってはかなり不思議だ。
その上、今日は少し事情が違う。困ったことに、こうしていても五飛にキスをしたくなる。こんなことは今まで思ったこともなかったのに。
少し頭を冷やした方がいいかもしれない。
「おい…五飛」
呼ばれて薄く五飛が目を開ける。まだ眠そうなけだるそうな目だ。
「海へ行こう」
その目が、トロワの言葉で急にはっきりとする。それから辺りの様子を窺って、まだ早い、と呟いた。
「いいから。少し離れれば人もいない。今すぐ行こう」
手を取り五飛を起き上がらせると、サンダルをつっかけただけで出て行く。掴まれたままの腕が嫌でトロワの手を振り払うが、そうすると彼が何だか情けない表情をしたので仕方なく五飛は手を繋いでやる。照れてそっぽ向く彼をトロワが小さく笑うと、ちらりと睨んでまた顔を背けた。
海水浴場の範囲を示す仕切に使われているテトラポットを越え、二人は人気のない海へ達する。さらに人々のざわめきから離れて静かな場所へ出るけれど、そこにあるのはトロワの求めた優しい海ではなかった。
地平線を金に染めて昇る太陽は、暮れる時には水平線を真っ赤に彩る。赤く染まった海は血のようで、自分たちがしてきたことを思い出させる。
「こんな海では泳ぐ意味がない――」
五飛の呟きが聞こえ、それでトロワには一つわかったことがあった。
「頭、冷やさなくてもいいのか」
トロワの声に五飛が顔を向けるよりも早く、彼は波打ち際へと歩き始める。途中でサンダルを脱ぎ捨て波の先端がやっと足に触れる程度のところで止まる。手を繋いだまま付き従ってきた五飛は、やはり裸足で一歩下がった位置に立った。
「溶けて拡散してしまうと思った」
ゆっくりと話すトロワの声に、五飛はじっと耳を傾ける。
「俺の中には何もないから、姿形すら簡単に無くなってしまうように思った」
五飛が泳ぐ意味が何となくわかった。そして、自分が海に入れなかった理由もやっと理解できた。
恐かったのだ。
朝の青い海に踏み込んだら、空っぽの自分など一瞬のうちに溶けてしまうのではないかと思った。細胞膜は崩壊し、全てが原始の海に溶け込んでこの惑星に還ってしまうように思われたのだ。
「何もない?」
「ああ、何もないと思っていた」
戦いを終えた後、自分の中には空虚な空間が広がっただけで他には思うものもすべきこともないと思っていた。
けれど、今なら大丈夫。やっと気づいた。自分の中にはこんなに大きな想いがある。
午後の死体は生き返り、漸く人の形を取り戻す。
「今日やっとそうではないことに気づいたがな」
振り向くと怪訝そうに自分を見上げる五飛がいる。
「夢を見た。真っ青な海でお前は気持ち良さそうに泳ぎ、時々顔を出して俺に笑いかける。とても無邪気に、本当に幸せそうに」
思い出してトロワは微笑む。そんな彼の方がずっと幸せそうだと思って、五飛は微かに目を逸らした。自分はそんな風には笑えまい。いつだって必死に笑っているのだから。
「俺の中には後悔と罪悪感が詰まっている」
低く五飛が口にする。それを洗い流したくて飛び込む海。だから、血の色の海では意味が無い。
「だったらそれを半分俺に分けてくれ。そうすれば俺にももう少し中身ができる。そしてお前は、空いた部分で俺を好きになればいい」
お前を? と五飛が呟く。
「大丈夫、必ず好きになる」
「自信過剰」
「お前と暮らすならそれくらいで調度いい」
トロワがゆっくりと左腕で五飛を抱きよせる。
一緒に暮らそう、これからずっと。俺たちにできることを探していこう。
トロワが言う間、五飛は視線を宙にさまよわせ言葉の意味を考える。一緒に、探す、トロワと。心の中で繰り返して、自分もそれを望んでいることに気づいた。繋いだままの左手に、ぎゅっと力を込める。
そんな五飛に勇気づけられてトロワが耳元で囁いた。
「とりあえず一つしたいことがあるんだが」
だめか? と覗き込むと、何だ? と五飛も目を向けてくる。
「お前にきちんとキスをしたい」
殴られるかと思ったけれど、念のために五飛の腕を押さえてしまったけれど、対する五飛は驚いて見返してきただけだった。何かを言いたげに何度か口を開きかけるのは、妙にぎこちなくてやはりかわいい。
そうして返された声は少し上擦っていたが、彼の目はしっかりとトロワを見据えていて彼を安心させる。
「構わん…俺も、お前とキスをしたい」
何を言っているんだ、ふざけるなとそう言う筈だったのに。
自分に戸惑いながらも五飛は、嬉しそうに近づくトロワに合わせて僅かに顔を傾けた。瞬間、波の音が消える。
驚かない、焦らない、怖じ気づかない。初めてのキスをゆっくり交わそう。
触れるだけ、けれど繰り返し重ねる長い口付け。いつのまにか閉じていた五飛の瞼の裏に、真っ赤な夕陽が光を焼き付ける。頬に触れるトロワの指の感触。激しく鳴り続ける鼓動。足元の水の冷たさ。戻ってくる潮の香りと波の音。
そして、離れても残る、トロワの唇の柔らかさ。
ほっと小さく息を吐き、お互いが離れるのに合わせて瞼を上げる。視線の先のトロワの瞳が優しげに幸せそうに、すっと細められる。
そうして彼は笑う。
夢よりも鮮やかに、トロワだけに向けて彼が笑う。
悲しみも寂しさも懺悔も後悔も越えて、本心からの笑顔を見せる。
「きっと、どこかで誰かを幸せにした筈だ」
戦いで、自分たちは不幸だけをまき散らしたのではない筈だと、ふいにトロワが告げる。
「本当に自信家だな」
呆れる五飛も、それを願っている筈だ。
「お前には負ける」
言い返して笑い、トロワはもう一度五飛に口付けた。
あれだけ強い色を放っていた辺りの景色が、みるみるうちに明度を落としていく。もうじき暗く美しい夜が訪れ、二人は三度眠りに落ちる。次に目覚めた時にはどんな二人に変わっているだろう――
生まれ変わって始めよう、新しい人生を。
大好きな大好きな、彼と一緒に。
掲載日:2003.03.03