Pulse D-2

感 / 触 / 誓

感(かんじる)

 見た目では分からないことは意外と多い。
 例えば髪のやわらかさとか、肌の滑らかさとか、吐息の熱さとか、預けられる体重の心地よさとか。
 自分の持つイメージが覆されることも意外と多い。
 例えば屈託の無い笑顔とか、驚いて体を躍らせる様子とか、縋り付く腕とか、上げる声の甘さとか。
 彼に初めて会った時、声を掛けることすらはばかられて内心ひどく困惑したことを覚えている。彼に対する言葉も動作も慎重に選び恐る恐る使った。戦争が終わって二人きりになったばかりの時は、特にそうだった。
 時が経ち、そこから脱して、自分は彼に随分慣れたと思う。色々知ったし自然に動けるようにもなった。彼の望みが理解できるし、何をどう感じているか、ずっと正確に掴めるようになった。それなのに、まだ時折はっとしたりする。知らない彼に戸惑ったりする。
「くだらん」
 突然、髪を梳く手を押さえて五飛が言う。
「何が?」
 全く意味が掴めず、トロワは芸無く聞き返した。
「お前の考えていることだ」
 薄く目を開ける五飛は、冷たく言い放ってトロワの右手を布団の上へ下ろす。トロワが指先を絡ませるとちらりと視線を向け、それから「どうだ?」と尋ねるように相手の表情を覗き込んだ。
 自分は今、彼に何か言っただろうか、とトロワは内心首を傾げる。確かに独り言は得意だが、五飛といる時には迂闊に何でも口に出さないよう気をつけているつもりだ。
 だから多分、自分の言ったことではなく考えたことを、言葉からではなく黙って彼の髪を梳いていた自分の雰囲気から、五飛は何かを感じて『くだらん』と言い捨てたのだろう。…どうにも鋭いことだ。
「お前にはお見通しだな」
 観念して告げると、ふふん、と五飛は鼻で笑う。そんな彼を見て、小憎らしくも愛しい態度だ、などと思うのもどうかしていると今更ながらにトロワは思う。
「ずるい」
 呟いて五飛を見下ろし、そのままくっと眉を上げた。
「そういうわけで…仕切り直しだ」
 言うと同時に、五飛のはだかの胸へ口を寄せる。
「おいっ、何がっ、馬鹿者っ」
 五飛が暴れるのに合わせて、二人の乗ったベッドが軋む。
「俺もお前をもっと知りたい」
「はぁ?」
 どうしてそうなるのだと五飛は呆れる。
「もっとお前を感じたい」
「俺はもういい!」
 叫ぶ五飛に声を立てて笑い、いかにも楽しそうにトロワは彼を抱き締めた。

掲載日:2003.05.27


触(ふれる)

 疲れているのだろうか。居間のソファで、座った姿勢のまま眠っているトロワの姿が見えた。手にした本が落ちそうになるのを寸前で受け止めて、五飛は閉じた本をソファへ置く。トロワは気付いた様子もなく静かな寝息をたてていた。
 こんなに傍にいるのに安心して眠っている。それはもう、本当に心安らかにいられる場所を見つけたということだ。それが嬉しくて、自然と口許がほころんだ。
 ベッドの中でなら、トロワの寝顔を見たこともあった。暗い夜中に目覚めてのこともあったし、カーテンの隙間から零れる光に透かして見たこともある。五飛の知る限り、彼の寝顔はいつでも静かで優しかった。
 このところお互いに忙しくて、同じ家に住みながらあまり顔を合わせていなかった。そんなのは些細な事だと言い聞かせてできるだけ考えないようにしていたけれど、こうして近づくと自分の中にある感情に気付かされてしまい、ひどく困った。
 また前髪が伸びたなとか、少し肌が荒れているようだとか、何かに引っかけたような細い傷が頬についているとか。そんな変化にすら嫉妬するように、胸がチリ、と焼けるのだ。
 触れたら起きてしまうだろうか。
 考えるけれど焦がれる心の方が強くて、五飛はゆっくりとトロワの体へ腕を回した。ことあるごとに彼が五飛に対してそうするように、静かに、柔らかく、背後から抱き締める。そうして首筋に顔を埋めると、慣れてしまった微かな体臭に彼との生活を思った。
「――ィ?」
 やはり起きてしまったな。
 トロワの声に、五飛は少しだけ顔を上げる。頬の触れ合う感触がくすぐったい。そのくすぐったさが心地よい。思う自分に、少し笑えた。
 不思議そうに顔を巡らせるトロワは、まだ覚醒しきっていないのか、僅かにぼんやりとした様子が伺えた。滅多に見られない表情なのでひどく嬉しくなる。そうして微笑んだ五飛を見て一瞬きょとんとした後、トロワもこの上なく幸せそうに笑った。
 自然と唇を寄せて――触れる。触れる。
 何の言葉もいらず、何の形もいらず。
 記憶も時間も揺らいでも、触れる唇が、触れる心が、確かに互いを伝えると、この瞬間に焼き付けられた。
 だからもっと、触れて、触れて――─

掲載日:2003.05.28


誓(ちかう)

 木の床に、無造作にごろりと横たわる。手足を伸ばし目を瞑り冷たい床の感触に酔っていると、向こうから近づいてくる足音が響いてきた。すぐにドアが開かれる。
「――何をしている?」
 驚いて見つめる間があり、それから呆れたような声が落ちてくる。聞きなれた低い声にゆっくりと瞼を上げて、トロワは足元で自分を見下ろしている五飛へと目を向けた。
「気持ちがいい」
 ゆっくり呟くと小さなため息が返る。
「まぁ何をしていようと勝手だがな」
 そうして、ほら、と一通の封書を床へ落とした。キャスリンからのトロワ宛の手紙だった。
 起き上がり手紙を手にするトロワを横目に見て、五飛は部屋を後にする。自室までのドアを全て開け放して窓から入る風を家じゅうに通すと、街のあちこちに咲いている梅の香りを風が一緒に運んできた。
「結婚したそうだ」
 奥からトロワの声がする。
「サーカス内の調教師とらしい」
 へえ、と口にした五飛がトロワの部屋へ行くと、同封されていた写真を手渡された。いつも楽しそうなキャスリンが、一層の弾けそうな笑顔を浮かべ金髪の男と並んで写っていた。
「よかったじゃないか」
 笑って写真を返す。そうして部屋の窓を開けようとしていると、床に座ったままのトロワが落ち着いた声で言った。
「俺たちも結婚しないか?」
「――」
 一瞬、何のことだかわからなくて手を止める。それから窓を全開にして振り返ると、片膝を抱え込んで彼を見上げているトロワがいた。
「何を馬鹿なことを」
 冗談か本気か判断できず、とりあえず五飛は軽く笑い飛ばす。
「法律上は問題ないだろう?」
 やはりどちらとも取れない表情のまま、トロワが澄まして言う。同性での婚姻も認められているし年齢制限も越えている。別に反対する人間もいない。オールクリアだ、と笑う。
「それに何の意味がある?」
 半分本気で半分冗談、と判断を下し、やれやれと五飛は意見を述べる。
 名前を変えるわけでもない、子供が出来るわけでもない、親戚関係を築く縁者がいるわけでもない、譲ったり分割したりする地位や財産があるわけでもない、社会的な体面が良くなるわけでもなく、どちらかがどちらかの扶養家族になるわけでもない。今でも互いが相手の保証人であり、自由で対等な関係の中、それなりの生活を手に入れている。
「これ以上何がある?」
 部屋の出口に移動しながら問う五飛に、うーん、とトロワは悩む振りをする。それから軽く口の端を上げて言った。
「一緒の墓に入れる」
 五飛の眉間にしわが寄るのを可笑しそうにトロワは見るが、その後静かに告げられる台詞は、水面の微かな波紋のように五飛の心に響いた。
「一人は嫌だな」
 トロワが目を伏せる。斜めに差し込む午後の日差しが、その髪と睫を淡く金色に映す。
「…だったら一緒の墓に入れろと遺言状でも書いておけ」
「拒否しないか?」
 トロワは自分の足元を見つめたまま尋ねる。
「――しない」
「――…」
 顔を上げ、念を押す言葉を出すべきかどうか迷ってトロワは沈黙する。その間をうまく五飛が捕えた。
「拒否などしない」
 そうしてトロワを見て、微笑むようすっと目を細めた。
 出て行く五飛の背を黙って見送る。スリッパの音が遠ざかり、壁の向こうへ影が消える。
 心の中で、何か、暖かい音がしているようだ。そんなことを感じながらトロワは再び寝転がる。
 過ぎて行く風に吹かれ、状況が許す限り傍にいようと思った。

掲載日:2003.05.29


[3×5〔Stories〕]へ戻る