Pulse D-2

SPEED

「キスマークみっけ」
 隣にいたデュオがそう言って、突然五飛の肌を指し示した。
 鎖骨の少し下、心臓に近いところに赤紫色のあざがある。タンクトップにかるく上着をはおっただけの五飛の横に座ると、ちょうど服の隙間からその色が見えるのだった。
「ああ…」
 もっと焦って顔色を変えるかと思ったのに、彼は澄ましてデュオの指先を見遣る。では何か言い訳をするのかと待ってみるが、五飛は特になにを言うでもなく手にしている新聞へと目を落とした。
「もしもし、五飛さん?」
 指のやり場にも困って再び声を掛けると目だけデュオの方へ向けて、それからやんわりと彼の腕をどけさせる。小さく音をさせて新聞を持ち直し、五飛はまた活字を追い始めた。
「言いたいことがあるならばはっきりと言え」
 口ではそう言うが顔は上げない。驚く程の速さで紙面を追い、やがてページをめくる。
「んーと、その…」
 軽くからかってみるつもりだったのに何故こんなに追い詰められた気分になっているのだろうと、デュオは頭を抱えて正面を見る。柔らかいソファの、テーブルをはさんだ向こう側にいるカトルが、吹き出しそうなのを堪えているといった様子でデュオを眺めていた。
「相手は誰かなあって……」
「答える義務はない」
 なのに五飛はそっけなく答える。そして何か気に掛かる記事を見つけたのか一ヶ所を繰り返し読んでいるらしい真剣な様子に、少しの間デュオも黙り込んだ。カトルの入れてくれた紅茶を、冷めないうちにとデュオは飲み干す。
「俺すっごく興味あんだけど」
 五飛が次へ進んだのを確認してデュオはもう一度話し掛けるが、
「お前の好奇心を満たしてやる義務もない」
 と、五飛はやはり冷たい。
 それでも少し調子を取り戻したのかそんなこと言わずになあなあと言い寄り始めたデュオに、うるさそうにため息をついてから五飛は顔を向けてきた。しばらくじっと見つめて来るのに、次第、嫌な感じがデュオの中に広がる。相手などわかっているのだからやめておけば良かったかなと、ちらっと思う。そしてその予感は的中した。
 彼を見据えたまま、五飛は意地悪くにやりと笑ったのだ。
「俺がその話をしたら、お前も自分のことを話さなければなるまい」
「え…」
 上目遣いに、デュオは体を硬くする。
「首の後ろに似たようなものが見えているぞ、デュオ・マックスウェル」
 げっ、と声を上げてデュオは自分の首に手をやる。その間に五飛はカトルへ小さくごちそうさまと呟いて立ち上がり、入口のドアへと向かっていた。気づいたデュオが声を荒立たせた。
「あっ、この、はめやがった…」
「簡単にはめられる方が悪い」
 薄く笑って五飛は言う。デュオの首筋にはキスマークなどついてはいない。
 ドアを開けようと手を伸ばすと反対側からそれが引かれて、五飛はいつもの無表情に戻る。
「あっと、すまない」
 だが、向かいに現れたトロワに態度を和らげる。会話の間に思い浮かべていた人物が突然現れて、なんだか少し照れ臭い。
「何だ?」
 じっと自分を見つめている五飛に、微かに首を傾げてトロワが尋ねる。それに首を振り、
「何でもない」
 と答えてから、五飛はゆっくりと静かに、とてもやわらかく微笑した。まさに微笑と呼ぶにふさわしい笑みだと、トロワはひっそりと思う。
「そうか」
 言い様のない暖かさに包まれて、トロワも笑顔で返した。
 トロワの後ろにいたヒイロの横をすり抜けて五飛は自室へと去って行く。その後ろ姿を見送るトロワに、ヒイロがぼそりと声をかけた。
「お前…」
 しかし彼はそれ以上何も言わず、見遣ったトロワに不思議そうな顔をさせた。
「あーあ、やってらんねえって……」
 部屋の中で、デュオがソファに沈んでいく。とうとう堪えきれなくなったのかカトルがおかしそうに声をたてて笑った。
「何だお前たち、どうした?」
 一人取り残されたようなトロワが、部屋に入りながら他のメンバーを見回す。二、三度尋ねてみるが誰も彼に答えてはくれないので、仕方なくトロワはコーヒーをいれてこようと立ち退きかけた。
「あ、僕が持って来ますよ」
 機嫌良さそうに動くカトルも、完全に目が面白がっている。
 やれやれとため息をつくトロワは、この時三人がそろって思ったことに思い至らなかった。曰わく、
『お前、愛されてるな…』
 と。



 サンクキングダムの空は美しい。特に夜の月は、凍えそうな凛と澄んだ空気の中で気高く冴え冴えと輝いている。
 その光の中で、五飛は一心に刀を振るう。それは基本動作であったり剣技の型であったり、時には見る者を魅了せずにはおかない剣舞であったりしたが、いずれにしても声など掛けようのない真剣さと神聖さと、確かな厳格さのなかでそれは行われていた。
 戦争が終わっても、尚、彼は戦士なのだ。
 刀をかざす彼を見るたびにトロワはそう思って、少し離れた位置の木にもたれ彼の動きが止まるのを待つ。決して自分の踏み込めない領域に彼がいることを、悔しくまたは苦々しくじれったく思ったこともあった。けれど、トロワだけではなく他の誰一人としてそこへたどり着ける者はいないのだ。そして何より、そこから解き放たれた時、彼は必ず自分の元へと来てくれる。まっすぐに、決して間違えることなく。
 静止し、深く呼吸をし、五飛は刀を鞘に納める。そうして彼が振り向く時トロワの中の迷いは一瞬にしてかき消される。彼を待つだけではなく、自分から近づいて行くことができるようになる。
 はじめはゆっくりと、それから徐々に速度を上げて、最後には駆け寄るようにしてトロワは五飛のそばへ行く。
 その様子を五飛は笑うが、同時にトロワの真剣な態度を誇らしく思う。そして降り注ぐキスの雨にまた笑う。
 幼い子供のように笑う。無邪気に笑う。元気に笑う。楽しげに笑う。おどけて笑う。はにかんで笑う。幸せそうに、満ち足りたように、気持ちが溢れ出すのを抑えきれずに困ったように、開き直って挑むように、大人びた目をして、不敵に笑う。
 やがてトロワが体を離すと、ほっと息をついてから「それで?」と黒い瞳で問いかける。笑いを含んだままのその目に答えようがなくて、トロワは困って前髪を掻き上げるのだ。
「昼間はすまなかったな」
 言うと、五飛は何が? と問い返す。
「キスマークを見られたって」
 答えると小さく笑って、ああそんなことかと五飛は首を振った。
「どっちが言った?」
「カトルから聞き出した」
 ふうん、と肯いて、カトルはどんな風に話したのだろうと小首を傾げる。
「お前も暇な奴だな」
 そんなことに時間を使わなくてもいいのに。そう思って五飛は鼻で笑う。しかしトロワは軽く肩をすくめてから柔らかく言った。
「お前に関することのようだったから」
 そして再び五飛の頬に触れる。
 トロワに触れられる時、五飛の中の渇きは癒える。気持ちが透明になり、心は波のない清らかな水を湛える。人に愛されること、トロワに大切にされるということが、自分の中でどんどん大きな位置を占めるようになっていく。それを心地好く感じる自分がいる。
「冷たい…」
 冷え切ったトロワの指先が五飛の頬を髪を滑っていく。それを捕らえてほっと息を吹きかけるとトロワは慌てたように腕を引く。阻むことなく自分も手を離して、僅かに背の高いトロワを見上げた。
「…部屋へ戻ろう」
 促すトロワに肯き、そろって歩き始める。薄い雲が出て、一瞬だけ月を覆った。
「嫌か?」
 しばらくして聞いてくるのに、
「何が?」
 と五飛は目を合わせる。今度は何だろうと興味が湧く。
「痕をつけられるのは嫌か?」
 後? と考えて、それからああ『痕』かと思い至る。
「別に」
 もちろん隙間もなくつけられたら嫌だが、そうでないなら別に大したことではない。愛されている証だ。
「ではそれを見られるのは?」
 今度はしばし考える。デュオに指摘されてどきりとしたのは確かだ。それがデュオの指に伝わらなかったかと心配したのも確かだ。それでも――
「好ましいとは思わないが…それほど気にすることでもないだろう」
 ゆっくりとそう言う。
 もうしばらくしたら故郷のコロニーへ戻るカトルはともかく、まだ当分の間この国で共に暮らすヒイロやデュオに対してまで気を使ってはいられない。そもそも彼らは自分たちの関係を知っているのだから、気紛れな好奇心や暇潰しのからかいに付き合ってやる義理はない。
「そうか」
 だが、ほっとしたらしいトロワを見ているうちに昼間デュオが示して見せた胸のあざと昨晩それをつけた時のトロワが思い出されて、急に五飛は胸が詰まるのを感じた。外気に相反するように頬がほてってくる。
「ん?」
 突然立ち止まった五飛をいぶかってトロワが振り返る。するとそこには耳まで赤くなってうつむき気味の彼がいた。
「どうした?」
「いや、別に、何でも…俺は知らん…わからん」
 驚いて尋ねるとしどろもどろに答え、その間にもどんどん赤くなってしまう。そんな様子はさすがに珍しくてトロワも焦る。胸の内側から湧いてくるものにつき動かされるように五飛を抱き寄せる。
「五飛…五飛、五飛、五飛……」
 囁く声が心地好い。首筋にかかる息が心地好い。コートごしでもわかる心臓の動きが心地好い。背中にまわされた腕の感触が心地好い。
「トロワ――」
 息がつけない、と思いながら何とか声を絞り出す。
 どうしてこんなにも強く一人の人間を感じることができるのだろう? 何故こんなにも激しく心を動かす必要があるのだろう?
 ひときわ強い風が、ざっと音をたてて五飛の背後から吹き抜けた。
 例えばいま自分たちに翼があったなら、この風に乗って夜空へ高く舞い上がるだろう。決して離れることなく、同じ速さで、同じ高さで、自分たちは飛んでいくだろう。誰にも止めることはできず、何物にも邪魔させることなく、どこまでも羽ばたいていけるだろう。
 胸の中に星屑の海が広がる。熱い想いの波がその海に加えられ、繰り返し繰り返し押し寄せる。
 月明りの中でお互いを手放すことができず、ふたりは長い間そうしてたたずんでいた。

掲載日:2003.03.20


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