Pulse D-2

春雷

 日本の春という季節は美しいものだと、トロワは歩きながら思う。通ってきた道は若い黄緑色の小さな葉をつけ始めた街路樹で彩られ、家々の庭にはやわらかい色合いの花が咲く。
 梅、桃、辛夷(こぶし)、雪柳…殊更に彼の目を引いたのは白木蓮の花だ。まだ少し寒いと感じられる朝の空気の中で、その花ははだかの木枝に誇らしげに姿を現し、淡い水色の空に向かって凛と真っ白な花弁を開く。香り高く麗しく、清潔な花だ。
 そこまで思ってトロワは隣の五飛を見る。衿ぐりの広いラフな長袖のTシャツに丈の短いジージャンをはおっただけの格好で、彼は何を話すでもなく歩き続けている。道の反対側に見えてきた目的の公園へと目を向けているようだ。
 五飛は白木蓮のようだ。ふと、そんなことを思う。
 他には例えば大輪の白い椿。高貴な牡丹。夏に咲く白い蓮の花、澄まし顔の白百合。
 こんなことを言ったら怒るだろうか?
 意識せずに笑っていたらしく、五飛が怪訝そうに見上げてくる。何でもないと首を振って見せるが、五飛に納得した様子は見えない。
「何か良からぬことを考えていたな」
 曖昧にごまかそうとするトロワに、五飛が睨むような視線を向ける。
「褒めたつもりなんだが…」
 トロワがもごもごと答えると、拍子抜けしたのか五飛は少し表情を和らげて立ち止まる。それに並んでトロワも足を止め、「後で話すから」と静かに告げる。
「…わかった」
 五飛は了解して清々しく微笑んで見せた。
 やっぱり白木蓮だと思うトロワの前で、信号が青に変わった。
 この日が『春分の日』というものなのだと認識したのは、ほんの一週間ほど前のことである。ヒイロに会ったのだと突然五飛が話し始めて、一年近くその名前を聞きも言いもしていなかったことに気づかされた。
「地球にいるのか?」
「用があって来ただけらしい。一週間でL1へ戻るそうだ」
 その時『春分の日』の話を聞いたらしい。ヒイロ自身はコロニー育ちであるから特別考えたこともなかったそうだが、地球に来たついでに墓参りの話を聞いたので自分もドクターJに花の一つも送ってやろうかと合同慰霊会に参加することにした、と言っていたらしい。
「随分人間がまるくなったな」
「やっぱりそう思うか?」
 トロワの洩らした感想に、五飛がにやりと笑って言った。そして二人は目を合わせてくっくっと喉の奥で笑った。
「俺も会いたかったな」
 ヒイロに会いそびれたのを残念がってトロワが言う。
「出掛けているお前が悪い」
 五飛が取り合う筈もない。冷たく言われてトロワには返す言葉がなかった。
 旅行・観光の為ではなく、もちろん慰霊会の為に来たわけでもない。用があって来たと言いながらそれが何であるのかは言わず、時間もそれほどないからとトロワの帰宅を待たずに去ったところを見ると、ヒイロはまた何か、人には言えぬことをしているのだろう。角が取れてもヒイロはヒイロか、とトロワは呆れたような、安心したような、おかしな気持ちになったものだった。
 そのうちに五飛が、その日は自分たちもどこかへ出かけようと言い出した。
「どうせ休みだろう」
 特別しなければいけないこともないし。
「デートか?」
「そういう言い方をするな馬鹿者」
 からかい気味に言うトロワに澄ました口調で答え、それでもトロワが同意していることに気づいて彼の頬へキスを落とした。お前もまるくなったなと、幸福感に包まれながらトロワは思った。
 雨が降ったら家で映画をみる。外が晴れたら公園へ散歩に出る。そういう約束をしてこの日を待った。
 普段なら通勤通学の人々であふれる時間でも、休日には静かなものだ。広い公園内に入るとそれは更に強く感じられ、空気の色さえ違って見える。
「ここでいいだろう」
 古びた木のベンチに腰掛けながら五飛が言った。太陽の動きと共に木々の影が位置を変え、ベンチにはゆっくりと日の光が当たり始めたところだった。途中のコンビニで買ってきたサンドイッチを広げ、二人で食べ始める。何か作ろうかという五飛を「ゆっくりするのが目的だ」という意見で止めたためのメニューである。
 パリパリという包装をとく音が、辺りに吸い込まれていく。しばらくの間それが続いて、やがて二人の密やかな笑い声が取って代わる。お互いの持っている食べ物に、それぞれがちょっかいを出し始めたのだ。トロワが五飛の野菜サンドを一口ほおばり、五飛がお返しとばかりにトロワのツナサンドをかじる。いつもなら行儀が悪いと言って叱る五飛も、今は何も気にしない。
 その二人の前を、時折犬を連れた人が通っていく。
「犬の散歩の時間なのだろうか?」
 オレンジジュースのビンを手に五飛が呟く。五百ミリリットルのガラス容器は、あっという間に中身を半分に減らしていた。
「そのようだな」
 答えて、トロワは缶コーヒーを飲み干した。ごみを全てひとつの袋にまとめる。
「あ、あの犬…」
 袋の口を結んでいると、五飛が明るい声を出した。老人の連れている赤茶色のもこもことした犬を見ている。
「昔飼っていた犬に似ている」
 コロニーで犬を飼っていたのかと、トロワは五飛と犬を交互に見遣る。
「名前は?」
「福(フー)。食用だった」
「は?」
 驚いて見ると、
「冗談だ」
 と五飛は薄く笑った。
 トロワがまた、喉の奥で笑う。
「犬を食べた時代もあるというが、俺にはその経験はない。必要もない」
 言い切って五飛はジュースを一口飲んだ。下ろそうとした手を取って、トロワが同じくジュースを飲む。
「お前も買ってくればいいだろう」
 一応、そう言ってみる。
「もういらない」
 五飛の予想通りの言葉を返して、トロワは軽く五飛の肩に自分の頭を預けた。
「トロワ…」
 五飛がゆっくりと名を呼ぶ。
 目を閉じたまま何だ? と尋ねかえすと、何でもないと彼は黙る。
 けれどトロワには、目で見る以上にはっきりと彼の様子がわかった。彼は今、とても穏やかな表情をしている。目を細め、微笑を浮かべて、優しく自分を見ている。
 やがて静かに五飛の頬がトロワの髪に触れた。彼も半ばトロワにもたれるように、体を屈めたのだ。
「五飛」
「ん?」
 今度はトロワが名を呟く。呼んでからどうしたものかと考えて、
「お前が好きだ」
 とゆっくり告げた。
「知っている」
 笑っているらしい五飛の返答に、そうか、と一言答えてトロワも笑う。
「ここは気持ちが良いな」
 五飛の声が耳に心地好い。肯いて、そうしてもう少し深く、彼に寄り掛かった。



「実物はないのか…」
 ガラスケースを覗き込み、残念そうに五飛が呟いた。
 公園内にある郷土資料館には、古い時代からの土器、武器、様々な生活の道具、開拓や統治の歴史を示す文献、奇妙な発明品やその他多くのものが展示されている。基本的にはケースに入れられその横に簡単な説明がつけられていたが、ものによっては映像やホログラフによる再現がなされていた。
 五飛が最も興味を示した『カタナ』は、残念ながらこの場に展示されてはいなかった。傷みが激しくなったため別の場所に保管されているらしい。
「どうせ持つこともできないのだから、実物があったところでどうということもないだろう?」
 対するトロワはさらっと言って先へ進む。
「貴様にはわかるまい」
 持ってみたかったのだ、自分は。
 三秒間その場でむっとケース内の資料を眺め、仕方なさそうに五飛はトロワを追った。
 日が高くなるにつれて、外は暑いくらいの気温になった。人が増え始め、二人もベンチを後にして公園内を散策し始める。そして程なくして見つけたこの資料館へ足を踏み入れたのだった。館内は涼しく、人も少ない。初めて目にするものも多く、知識と実物とが自分の中で結び付いていくのがはっきりと感じられた。それを感じたからこそ、余計に五飛は、本物の和刀を手にしてみたかったのだろう。
 諦めた五飛と共に順路通り館内を巡り、やがて二人は明るい外へ出る。
 二つのグラウンドではソフトボールの試合とサッカーの試合が行われており、それぞれの応援がやかましい。その向こうにはスケートボードの少年、何匹もの犬を連れた婦人、アイスクリームを食べながら歩く少女たち…
 姿は見えないけれど、どこかでトランペットの音もしている。
「墓参りをするのではなかったのか」
 人の多さに、五飛がため息まじりに言った。ヒイロはそう言っていたのに、と。
「みんながする訳ではないのだろう」
「フム」
 五飛は納得とも憤慨ともつかない声を出して歩き出す。散策の再開だ。
 グラウンドを囲む形で、バラ園と森林とが配置されている。森林と言っても、別に向こう側が見えないくらい鬱蒼と繁ったものではなく、通り抜けた先にもまたグラウンドがある。その先にテニスコート、更に先には体育館。
「歩くと結構あるな」
 林に沿って歩きながらトロワが言う。確かに外から眺めた感じよりも、中はずっと広く思えた。
「情けないことを言うな」
 そう言い返しはするものの、五飛も多少の疲れを自覚していた。だが二人は歩くのをやめない。木々を眺め、空を眺め、花を眺め、鳥を眺め、建物と人と時折現れる犬と猫を眺めて、二人は歩き続ける。
 そのままぐるりとまわって再び資料館の見える場所まで来た時、突然雨が降り始めた。
「あそこまで行こう」
 資料館の軒下まで二人は走る。
 辿りついた途端に急に雨は激しさを増し、その音が耳を覆う。カーテンを引いたように景色は薄れ、狭い軒下が世界の全てになる。こんな雨はコロニーでも地球でも、まだ経験したことがなかった。
 これなら建物の中に入った方が良かったなとトロワが思った時だった。
 ピカッ、と、突然空が光を放つ。
「何だ?」
 二人は同時にその方角を見遣る。
 と。
 ドーン、と地響きがしそうなほどの大音響がして、二人は思わずビクリと肩を震わせた。ドキドキと大きく心臓が鳴る。
「――雷?」
 トロワが伺うよう、五飛へと目を合わせた。
「では、さっきのは――」
 五飛が何故か嬉しそうな目をして空を見上げる。それを待っていたかのように、再び空が輝いた。雨のカーテンにも遮られることなく存在を見せつける、黄金の色の、光の帯。
「稲妻…」
 恍惚とした五飛の呟きは、光を追ってやってきた音にかき消される。
 もっと見たいと思ったのか、五飛が雨の中へ身を乗り出しそうになるのをあわててトロワは引き寄せた。腰に回した腕に力を込めると、五飛が我に返って体を寄せる。そのままトロワに寄り掛かるように力を抜いて、彼は空を眺め続ける。期待に応えようとするかのように、東へ西へと移動しながらいくつもの稲妻が空を裂いた。
「こんな――」
 五飛の声に、トロワは空から彼へと視線を移す。
 何を言うのかと、じっと次の言葉を待つ。
「圧倒的な力を見せられると、人など話にならんほど小さなものだと思えてくる」
 自分の体を抱くように、五飛は両腕を上げる。それを更に抱きしめるよう、トロワが左腕で五飛を抱え込む。そっと、頬を触れ合わせる。
 その小さなものが、自分にとっては何よりも大きな存在なのだ。全てのコロニーより、地球そのものより、ずっと大切な存在なのだ。そして、五飛にとっての自分も、できることならそうであってほしいと思う。
 二人の動きを合図にしたかのように、次第に雷は遠ざかって行く。突然降り出した雨は、同じように急速に勢いを失っていく。空に、明るさが戻る。
「やんだか?」
 トロワの腕から解放されて、五飛が軒下から手を出す。触れる空気は湿り気を帯びているが、雨の粒はもうない。
 五飛が、ぬかるんだ大地を踏みしめ歩いていく。その足元に、トロワは、所々ひっそりと葉をつけている草を見る。自分の足元まで視線を戻して、それが何であるかを知った。
「はこべ…」
 やわらかい葉の間に、小さな白い花が覗く。特別に愛されることも褒め称えられることもない、存在感のないちっぽけな雑草。
「木蓮とは大違いだな」
 朝の白木蓮の香りを思い出してトロワは呟く。
 五飛が木蓮なら、自分はこのはこべではないだろうか。目立たず、香らず、ひそかに咲き、しぼんでいく。天を向く木蓮は、生あるうちに足元のはこべを見ることはない。毎年毎年、はこべは茶色くなって降り注ぐ木蓮の花びらを受け止めるだけだ。それでもきっと、はこべは木蓮に恋をするだろう。
「どうした?」
 軒下から出てこないトロワへ、五飛が振り向いて声を掛ける。そのまま彼が首を傾げて見ているので、仕方なくトロワは歩み寄った。
「今朝の話だ」
「今朝?」
 すぐにはピンとこなくて五飛は聞き返す。
「お前を、白木蓮のようだと思ったんだ」
 五飛は必死に考えてやっと心当たりのある会話に思い至ったが、それが花の話になるとは思いもせず、トロワの話を聞き逃さないようにとじっと相手を見つめた。
「気高く清らかで美しい。こびるところなく、まっすぐで、主張がある。色も形も香りもいい。皆に観賞され愛される。――褒めたつもりだ」
 驚いた顔で五飛が自分を見る。誤解されないように、褒めたつもりだ、と付け加える。
 何をどう言えば良いのかわからず、五飛はしばらく黙ってトロワを見ていた。それから少しずつ整理して、ぽつりぽつりと言葉を綴った。
「褒めたというのなら、とりあえず礼を言う。…お前が、俺をそういう人間だと思うのなら、それは、俺がそうありたいと願い、また、せめてお前の前ではそういう自分を見せていたいと思っているからだ。それが実践できているなら、良かったと、思う。…謝謝」
 そこまで言って、五飛は視線を下げた。そしてふっと目を細めて笑みを浮かべた。
「だが俺は、はこべもいいなと思う」
 足元の草に目を向け、しゃがみこんで手を伸ばす。優しげなその様子を、トロワは息を詰めて見守った。
「目立たないが、優しさがある。柔軟さと奥ゆかしさがある。摘まれても踏まれても容易に負けない強さがある。小さいけれど、役立つ種をつける。それに――」
 葉を撫で、五飛はトロワを見上げる。
「こんなに綺麗ではないか」
 花にも葉にも水滴が玉をつくり、遅い午後の陽光に輝いている。花はすっきりと白く、葉はくっきりと黄緑色に。
「…ああ、綺麗だな」
 トロワも微笑んで答える。それを満足げに見遣る五飛がいる。
 緩やかに風が吹いて、二人の髪を揺らした。
「散る度に、木蓮ははこべになりたかったと思うだろう。散る姿を見せず、ひっそりと実を結びたかったと思うだろう。やわらかな葉を見てみたいと思うだろう。地上にはどんな風が吹くのかと尋ねてみたいと思うだろう。きっと、何度でも木蓮ははこべに恋い焦がれるだろう」
 立ち上がり、再びはこべへ目を戻して五飛が言う。僅かに視線をさまよわせるのは照れている証拠だ。
「五飛……」
 堪らずにトロワは五飛を抱きしめた。その腕に自分の手を添え、頬をよせて、五飛が笑って言う。
「知っているか?」
 トロワが首を傾げて次の言葉を待つ。
「俺もお前を好きなのだぞ」
 ふっとトロワが笑う。やわらかい微笑み。
「知っている」
 答えて腕を緩めると、そうか、と呟いて五飛がトロワへ向き直る。
 ゆっくりと二度、三度、小さなキスを繰り返す。
 と、五飛がふいに声を上げた。
「トロワ、見ろ」
 彼はトロワの背後の空を見ている。
 言われるままに振り向いて――
「虹――」
 水色の空にうっすらと、細い虹が掛かっていた。初めて見る本物の虹。
「今日は大サービスだな」
 いろいろと見られたなとトロワが言い、まったくだと五飛も肯いた。
「ああ、そうだ。さっきの話」
 突然五飛がトロワを見て言った。二人はまだ半分抱き合ったままだ。
「木蓮は駄目だが、はこべなら食べられる。どうだ、役に立つだろう?」
 何を言い出すのかと、トロワは頭をかかえた。
「だからと言って今夜のおかずなどにするなよ」
「何だ、そのつもりだったのに」
 五飛が澄まして言う。
「犬は食べなくてもはこべは食べるのか?」
 トロワが切り返すと五飛はおかしそうに声を立てて笑った。それから静かにトロワを見上げて言った。
「帰ろう、俺たちの家へ」
「ああ」
 一瞬だけ手をつなぐ。
 照れ臭いからその手はすぐに離してしまうけれど、でも心はずっと、離さずにいよう。
 木々の香りの濃い公園を抜け、白木蓮の咲く道を、二人並んで歩いた。

掲載日:2002.09.11


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