Pulse D-2

I.L.Y.V.M.


誰よりお前を愛しているから
本当の心を見せてくれ




 さよならも、また会おうもなく、またひとり黙って彼は行ってしまった。その毅然たる態度は何者にも侵しがたく、止めることも追うこともできずに、トロワもまた戻るべきサーカスへと帰って行った。
「なあ、五飛――」
 公演を終えて、時折トロワは彼の名を呟く。何を言いたい訳でもなく、何かを聞いて欲しい訳でもない。会いたい訳でも傍にいたい訳でもないのに、その名は自然と口をついて出てくるのだ。
 切れ切れに聞こえるサーカスの動物たちの鳴き声やその合間の静寂は、五飛と共に過ごした地球での夜を思い出させる。ずっと黙ってただ一緒にいただけの、短く寂しい夜。そして、何よりも強く自分の中に彼という存在を焼き付けた夜だった。
 どうしているだろう。
 自分の見ていた五飛の目、聞いていた言葉、追っていた行動をよみがえらせて、さらにトロワは彼のことを思う。
 彼にとって戦うことと生きることとは同義ではなかったか。ならば、戦いを終えた時、彼は一体何を思ったのだろう。それを確かめることさえせずに、どうして自分は彼を手放してしまったのだろう。
「お前の正義とは何だ?」
 自分には理解しきれなかった五飛の正義。彼はそれをまっとうすることが出来たのだろうか。すべてを終え、すべてを納得して彼は去ったのか。
 ――そうは思えない。
「一言ぐらい…」
 せめて自分には言ってくれればいいのに。
 けれど思った直後に苦笑して、トロワはそっとため息をついた。
 そんな弱音じみたことを、五飛が他人に言うわけがないのだ。彼はいつでも自分の中で迷いを処理してしまって、他人に打ち明けることも、他人を頼ることもしない。それは潔く彼の心の強さを示すけれど、まわりの者にとってはひどく哀しいことだった。
 どれほど抱き締めてもどれだけ口づけても変わらないその態度が、いつしかトロワのことも臆病にさせていたのかもしれない。だから逃してしまう。手を、離してしまう。
 立ち尽くしていた窓際から離れ、トロワはベッドに潜り込む。
 無事でいてくれればいい。
 ただそれだけなのだと自分に言い聞かせて、静かに彼は目を閉じた。
 暗い夢の中で、繰り返し繰り返し五飛の名をつぶやいていた。



「やめろ」
 目の前に突きつけられた刀の切っ先を、一瞬、幻かと思った。それから刀身に沿って目を上げて行くと、そこには現実の彼の姿があった。
「五飛――」
 思わず漏れた呟きには、驚きと戸惑いと喜びと絶望が混ざり合う。かっちりと合わせた視線を外すことなく手にした銃を床へ置き、トロワはゆっくりと立ち上がった。
「約束通りこいつの身柄は俺が預かる。いいな」
 五飛の言葉に背後のデキムがしぶしぶ了解する。それを受けてわずかに顎をしゃくる五飛は、意図の読み取れない硬い表情のままだ。動かないトロワの首筋に、ひやりと冷たい刃が当てられる。
「歩け」
 声と青龍刀に促されて、無言のままトロワはその場を後にした。
 手錠はなし、足枷もなし。ただ背中に五飛の刀を添えられて、狭い通路を前進させられる。あたかも彼を拘束するにはそれが最も有効な手段だとでも言うように。
「物騒なものはしまってくれないか」
「黙れ」
 トロワの申し出には、はっきりと短い答えが返る。
「止まるな」
「前を向け」
 トロワの行動ひとつひとつに、有無を言わせぬ五飛の指示が飛ぶ。それが幾つか角を曲がるよう命令し、ようやく扉の前で彼を立ち止まらせた時、何時間も歩き続けていたような疲労感に気づいてトロワは深くため息をついた。
「入れ」
 冷たく言い放ち、五飛はトロワを室内へ踏み込ませる。それでも扉のロックと共に刀を鞘へ収めた五飛に、ほっとしたトロワが苦笑を浮かべた。
「似合わんな」
 何のことかと首を傾げると、一歩近づいた五飛が
「これだ」
 とトロワのシャツの襟をつまんで言う。
「…お互い様だろう」
 自分でもそう思っていたがとトロワも五飛へ手を伸ばし、無造作に緩めて掛けられたネクタイを、きつく襟元まで締め上げた。五飛がむっと眉を寄せる。そうやってきっちりと着込むと余計彼には不つりあいで、自分でやったくせにトロワ自身も吹き出しそうに口元を歪めた。
 彼らの着ているマリーメイア軍の制服は、どうやら彼らのふてぶてしさにそぐわないようだった。
「まあ…別に構わんがな」
 ふん、と鼻で笑って、五飛は窓際の椅子に腰掛ける。うつむき加減に黙り込む姿は、トロワの知る五飛そのものだった。
「奴だけ殺してどうするつもりだった?」
 沈黙を破った五飛の質問に、
「さあ…」
 と、トロワは曖昧に答える。咄嗟にとったその場凌ぎの行動でもあったのだ。
「多分、お前がいてくれて助かったのだろうな」
 彼がいなければ、今頃は自分もこんなふうにのうのうとしてはいられなかっただろう。思いがけない再会ではあったが、幸運だったと言えなくもなさそうだとトロワは思う。もちろん、分からないことだらけだけれど。
「名前ぐらい変えればいいものを」
 呆れた様子で五飛が言う。それに再び苦笑するトロワは、数歩下がってベッドの端に腰を下ろした。
「他に名前などないからな」
「――名無し、か…」
 呟く五飛はどこまでトロワのことを知っているのか。彼の潜入も分かっていたようだから、ある程度、トロワの過去についても聞いているのかもしれない。本当に名無しだった頃のことを。
「答えろ、名無し」
 ややして発せられた五飛の言葉は、過去を思っていたトロワを現実に引き戻す。
「これからどうする?」
 そして続いた質問に、おかしな聞き方をするなと首を傾げた。
「どんな選択肢があるんだ?」
 自分で決めることなどできるのだろうか。トロワには、五飛の、自分に対する扱いがよく分からなくなる。
「新型のモビルスーツがある」
「それに乗れと?」
 そうだと五飛が頷く。
「パイロットとしての腕は認めている」
 それは五飛だけではなく、デキムやマリーメイアなど、軍の支配者たちも同様なのだ。味方につくと分かりさえすれば、喜んで彼を用いるだろう。使えるものは何でも使うのだ。
「反乱分子なのに?」
 信用に値しないだろうとトロワは言う。
「寝返ればいい。…得意だろう?」
 澄ました五飛の物言いに、トロワが嫌そうな顔をする。
「また武器を持てというのか」
「不要な力を抑えるための武器だ」
 本当にそうだろうか。
 どんなに意味を付けてみても、偉そうなことを言ってみても、兵器は必ず何かを傷つけ、使い方を誤った武器は人にも平和にも脅威になる。抑制のための力が破壊の力になることなど、過去に何度もあったことではないか。ほんの一歩の違いなのだ。ほんの少しの間違いでしかない。
 間違える――自分が、それとも五飛が?
「アルトロンもここにあるのか?」
 五飛と共に行方不明になっていたモビルスーツの名を出すと、五飛は低い声で肯定してもう一度目を伏せた。
「俺にはまだナタクが必要だ」
 何故と尋ねれば、きっと同じ答えが返るのだろう。
 目を細め、膝の上で軽く指先を組んで、トロワは口を開く。
「ガンダムは――」
「分かっている!」
 トロワの言葉を遮って、五飛が悔しげな表情で叫んだ。
 ガンダムの存在が平和な世界に影を落とすことは、五飛にも理解できる。そのために、ガンダムを廃棄するよう、それぞれのパイロットたちはカトルのもとへとMSを送ったのだ。それらは今、太陽へ向けて宇宙を進んでいる筈だ。
 だが、五飛にはアルトロンを手放すことはできなかった。
「平和ならばガンダムは必要ない。しかし、今現在、世界は本当に平和なのか? 戦争が終わって、それで争いの種は尽きたのか? 兵士はいなくなったか? 兵器はなくなったか? 全てに関してそうだと言い切れるようになるまで、俺はナタクを失うわけにはいかない」
 正義を貫くためには、それなりの努力が必要だと言うのだろう。けれど、トロワには物分かりよく頷いてやることができない。
「お前は戦いを探しているように見える」
 火種を見つけ、自分からそこへ近づいているのではないか。そう思えてしまうのだ。
 眉を寄せて睨みつける五飛は、それでもまだ押し殺した低い声で告げる。
「貴様には分かるまい」
「…ああ、俺にはお前の正義は分からない」
 ずっと思っていたことを口にすると、それは実感を伴って胸に押し寄せた。彼のことが分からない。そのことがひどく胸を締め付ける。そして、ゆっくりと立ち上がる五飛に合わせて、トロワは苦しげな表情を上へと向けた。
「では死刑だな」
 見下ろして告げる、冷たい言葉。
「こちらにつく気がないのなら、ここで殺す」
 けれど、続いた台詞にトロワは微笑みさえ浮かべて言うのだった。
「お前に殺されるなら本望だ」
「このっ…」
 途端に激しく殴られて、トロワは勢いよくベッドに倒れ込んだ。胸ぐらを掴み引き上げる五飛の表情が、硬く怒りに染まる。食いしばった歯の隙間から唸りにも似た声が漏れた。
「貴様はっ――」
 悔しい。
 ただ、そう思った。
 悔しい――悔しい、悔しい、悔しい。
 こんな言い方しかしないトロワが、こんな接し方しかできない自分が、ひどく惨めで苛立たしい。どうしてこうなるのかと、悔しくて五飛はうつむく。
 そこへためらいがちに、掠れたトロワの言葉が届いた。
「お前といると寂しくなる」
 口の端に滲んだ血を親指の先で拭う。同時に口の中を切っていないかと舌で確かめて、それから指先の血を人差し指で擦り落とす。その手を、固く握り締めたままの五飛の右手へと伸ばした。
「お前は、本当の心を少しも見せてくれない」
 トロワの指が自分の拳をなぞるのを、下向きの視界の中で五飛は見る。この手は気に入らない。そう引こうとした腕は、力を込めたトロワの手に阻まれる。
「貴様の常套手段だな。…そうやっていつでも俺を惑わせる」
 左腕の力を抜き、五飛がトロワを解放する。
「貴様だって同じだ。いつでも嘘ばかりつく」
 ギリ、と奥歯を噛み締めて、さらに視線を逸らすけれど、見上げるトロワの悲しそうな目がぴたりとついて来る。
「では本音を漏らそうか」
 言って、トロワは右手で五飛の腰に抱きついた。制服の胸元に額を付ける。
「――元気そうで安心した」
 そっと告げる気持ちには、離れていた一年間に感じた苦い思いが混ざる。無事でいてくれればと、ただそれだけを願い、言い聞かせてきた時間がどれほど切ないものだったかなど、彼にはきっと伝え切れない。それでも、
「…嘘ばかりだ」
 と呟く五飛に構わずに、トロワは腕の力を強め、きつく彼の背を掻き抱いた。
「お前がどう思おうと勝手だ。…無事でよかった」
 キッと五飛が目を上げる。
「離せ。今すぐ切り捨ててやる」
 今度こそ右手を取り返して、胸に付くトロワを押し戻した。わずかに離れた中で、トロワが、泣き出しそうにも見える表情を向けてくる。細められた目が、薄く開かれる唇が、やけに静かに懇願する。
「どうか、最後にご慈悲を」
 深い緑色の目が、じっと五飛を注視する。
 この目は気に食わん。咄嗟に手が出て、トロワの両目を覆う。
「貴様にかけてやる慈悲など持ち合わせてはいない」
「五飛…」
「うるさいっ!!」
 この声は嫌いだ。
 続けて伸ばされた右腕は、しかし、今度は予測したトロワに掴まれる。そうっと五飛の手を顔から離していくトロワを、怒りを鎮めながら五飛が見遣る。その視線の先で、音を立てずにトロワの唇が動いた。
「――…」
「嘘ばかり――」
 綴られた言葉に五飛が呟く。
「本当だ」
 トロワが返せば、なおさら悪いと五飛は唇を噛む。
 音無く語られたのは、とてもシンプルな愛の告白だった。言うとも言われるとも思っていなかった、不可解な言葉。けれど胸を突く言葉だった。
「誓う」
 正真正銘の本心だと誓うからと、静かにトロワは繰り返す。
「何に誓うと言うのだ」
「何に誓えばお前は信じる?」
 尋ね返して答えを待つけれど、何も聞こえてこないまま時間だけが流れる。やがてトロワは掴んでいた腕を放し、五飛の掌の下で固く目を瞑った。気づいた五飛が、ゆっくりと左手を退けていく。
「何に誓っても信じないか…」
 力なく口にしてから瞼を上げると、肯定とも取れそうな無表情の五飛がいた。いたたまれない心情をごまかすように苦笑を浮かべ、トロワは彼へと手を伸ばす。頬に触れても抗わないのでそのまま頭を抱き寄せると、されるがままに屈んだ五飛が、片膝と両手をついてベッドへ乗り上げた。
 その耳元でトロワは悲しげな囁きをこぼす。
「真剣なのだがな…」
 そうして首筋に顔を伏せた。
 触れるほどに悲しくなる。近づくたびに寂しくなる。その心が手に入らないから、自分の欠けた心も埋まらない。
 こうして肌に触れることができるように、彼の心にも触れることができればいいのに。
「本当の心が欲しいのに――」
 うなじへと耳元へと口付ける。何度もそうしてきたように。けれどもう、そんなことでは渇いた心は癒されない。増す一方の渇望感に、微かにトロワの背が震える。
「――え」
 その時ふいに声がして、そっとトロワは視線を移動させた。出来る限り顔を廻らせた五飛の、白い頬が見えていた。
「俺に誓え」
 もう一度、今度はもっとはっきりと告げる。他の何かなどではなく、五飛の最も信じる、トロワが好きだと言う五飛本人に、その気持ちは本当だと誓えと言う。
「それなら認めてやる」
 横柄な言い方は照れているからか、それとも必死だからか、トロワにそれは判断できなかったが、それでも彼の言葉に心底救われる。体を離して五飛の表情を覗こうとするが、トロワの背に腕を回した五飛がそれを阻止していた。
「俺も同じだ。本当は――」
 飢えも渇きも不安も欲望も、告げたい言葉も本当は同じだけ持っている。ただ、トロワのように告げようと思わないだけ。それが正しいことかどうかまだ判断できないだけ。
「誓います」
 黙り込んだ五飛に、落ち着いたトロワの声が届く。
「俺の本心だと誓います。目の前にいる、張五飛に誓います」
 ほんの少しだけ五飛がこちらを向く。その頬に自分の頬をぴたりと付けて、
「認めてもらえますか?」
 と言い募る。明らかに笑いを含んだトロワの言葉に、五飛もまた晴れ晴れとした笑顔を作って言うのだった。
「上等だ」
 そうしてようやく互いの顔を合わせた。
 触れる肌も唇も一年前と変わりはしないのに、決して以前と同じではない感覚に二人は酔って互いを求める。話していた時の姿勢のまま五飛がトロワを押し倒すようになって、いつもとは違う体勢にへんな感じだとトロワが笑う。その、優しげな面差しを見下ろして、ふと五飛は思い出して言った。
「これとは別に考えて、答えろ、名無し」
 突然冷たくなった声に、トロワも真面目になって目を合わせる。深く黒い瞳が、声と同様な冷たさを備えてトロワを見ていた。この眼は好きだ、と思う。
「トロワだ。これが俺の名だ」
 告げると五飛は小さく二、三度頷いて、それから先の質問を繰り返した。
「こちらにつくか?」
 今度は瞳の奥に揺らぐものがある。五飛の中に、トロワへ願う気持ちがあると見て取れる。多分、それはトロワ自身も同じだったろう。
「お前の正義がはっきりと伝わるまで、お前と一緒に戦う」
 ひとつひとつ言葉を選びながら言い、だが、とトロワは続けた。
「それでも納得がいかなかった場合には、もう一度寝返る。覚悟しておいてくれ」
「…いいだろう」
 声に続いて五飛の体がトロワの胸へと落ちてくる。その背に指を這わせると、五飛がくすぐったそうに肩を揺らした。再び、耳に告白が聞こえてくる。
「I――…」
 トロワには見えない位置で、五飛は笑う。静かに嬉しそうに、そして、どこか寂しそうに笑う。
「――」
 自分も言い返そうかと口を開きかけるが、照れ臭さに途中で諦め、悔し紛れにトロワの頬をつねった。そのまま優しく撫で下ろし、反対の頬に自分の頬を寄せる。そんな仕種はトロワにも悲喜を同時に感じさせた。
 否定しきれない次の別れの可能性を孕みながら、二人は黙ってその目を閉じた。

掲載日:2002.09.12


[3×5〔Stories〕]へ戻る