Pulse D-2

雪の窓

 初めて触れた時、一瞬で掻き消えた白がひどく哀しかった。
 差し出した掌の上、受け止めたと思った瞬間に透明になり、決して再び白を取り戻すことのなかった雪。後から後から降りしきるのに、最初の一片がこの手に返ることはないのだ。
 呆然と頭上を見つめる自分を呼んだのは誰だったか。
 そんなことすら思い出せない、今はもう遠い昔の記憶だった。


 目を開けても、あるのは闇と沈黙だけだと思っていた。けれど、予想に反して室内を漂う細かい光を見た。
 ああ、これは幻だ。
 トロワはそう思って一度目を閉じる。
 そうすると今度はぱさぱさと何かがぶつかり合うような音がする。それがあまりに微かなので、さらさらと水の流れていく様を思わせる。
 ああ、これも幻聴だ。
 確信を持って彼は再び瞼を上げる。すると室内を舞う光はすでに無く、鼓膜をさする音も消え失せた。
『いろんなことを忘れていくからね』
 ふいによみがえる誰かの声に、トロワは小さく首を傾げる。何の話だろう。誰の言葉だろう。どういう意味だろう。考えながら寝返りを打ってうつ伏せた。
「寒い」
 思い出すよりも早く声がして、彼はゆっくり横を向く。眠っていた筈の五飛の声だった。トロワは面白そうに笑い、目を閉じたままの彼に覆い被さるよう体を寄せる。胸を重ねて緩く抱き締める。
「重い」
 五飛の言葉を無視して彼の首筋へ顔を埋めるトロワは、そこでようやく口を開いた。
「雪かな」
 掠れるほどの、低く小さな声だった。
 促されるように瞼を上げた五飛は、二、三度瞬きを繰り返してから首を巡らせる。パイプベッドの向こうに見える窓は、まだ閉ざされ薄いカーテンが引かれていた。その小さな出窓の前には、昨夜トロワの持ってきた鉢植えのゴールドクレストが、幾分所在なげに佇んでいる。
「賭けるか?」
 外の様子を見たわけでもあるまいに、トロワは何をして雪だと言っているのか。そんな思いから、ちょっとした悪戯心が出てきて五飛は言った。
「昼飯をおごってもらおう」
 トロワの返事は即行だった。
 おごるもなにも、ここは自分の家でどうせ朝も昼も夜も自分が食事を作るに決まっているではないか。
 呆れる五飛の表情を笑って一瞥し、トロワは素早くベッドを抜け出した。
 パジャマ一枚、素足のままで窓へ向かう彼に、五飛の方が驚いてしまう。けれどトロワはさっさと窓際へ辿り着き、腰ほどの高さの鉢植えを少しだけ横にずらした。カーテンを端にまとめてガラス窓を押し上げると、僅かにいつもとは違う車の音が耳に入る。そのまま、彼は外の木製扉を押し開く。二枚の扉の間に、淡い灰色の世界が広がった。
 細かく斜めに流れる結晶を眺めながら、深呼吸したトロワの息が雪よりも白く凍る。それが何だか不思議な感じがして五飛は見つめていたが、すぐに下ろされたガラスに我に返り、戻ってくるトロワへ視線を向けた。
「…寒い」
「当たり前だ、馬鹿が」
 外からの冷気で室内もさっと温度が下がった。そのなかで毛布にくるまるトロワに、五飛の冷たい声が掛かる。それでも、残りの毛布を掻き寄せて体をつけてくるのがトロワにはとても嬉しかった。
「寒いが、雪は見たい」
 うつ伏せて耳まで布団に埋まったまま、トロワはぼそりと口にする。
「わがまま」
 言い返す五飛はもう目を閉じていたが、口許が笑っていて優しげだった。
 今夜は寒くなりそうだから。
 昨晩、トロワはそう言って五飛の部屋へ上がり込んだ。ワンルームのマンションは、一人増えるだけで随分手狭に感じられる。知っていてなお、トロワは澄まして出入りする。スペアキーなど渡すんじゃなかった、などと思ってみてももう遅い。
 彼の言ったとおり、日暮れと共に急に気温が下がった。室内を温かくし、他愛もないことを話しながら食事をとっていればそんなことも忘れるが、灯を落とし、最低限の室温調節だけにしてベッドに入ると、夜の暗さ、辺りの静けさ、忍び寄る空気の冷たさを感じずにはいられなかった。
「何故、雪だと思った?」
 ごく小さく五飛は尋ねる。
「静かだったし…」
 トロワの答えには続きがあるようで、五飛は黙ってそれを待つ。自分が目を閉じたままだったので自然と相手もそうだと思っていたが、ややあって僅かに瞼を上げると、静かだがまっすぐに自分を見つめるトロワの瞳に出会った。
「見えたから」
「何が?」
「雪の粒が」
「どこに?」
「このへん」
 トロワは左腕を布団から出して、伸ばした指先で大きく円を描いた。
 五飛は眉根を寄せて彼を見ている。それは、騙されてなるものかと警戒する、大人びた子供の表情にトロワには見えた。
「音も聞こえたし」
 付け足すとさらに眉間の皺が深くなるのでトロワは面白がる。
「…やめないか」
 つい五飛の皺の上を人差し指で押さえてしまい、彼に注意された。
 おとなしく手を布団の中へ戻す。そんなトロワを静かに見つめてから、五飛はもう一度目を閉ざし、うす暗い瞼の裏に故郷の雪を思った。
「俺は、人工の雪しか見たことがなかったのだな」
 コロニー生まれのコロニー育ち。なら、それは当然のことだ。そこで見た雪も同じように白く、冷たいものだった。ただ、
「静かだな」
 と、それだけは初めて感じたような気がして、五飛は記憶の中の雪に低い呟きを重ねた。
 赤い壁に白い雪。屋根に積もる白い雪。大地で溶ける白い雪。常緑樹の緑に白い雪。それらを、いつか、窓の中に見ていたように思う。あれは現実だったろうか、とふいに不安になった。
 今、窓の外で降り続くものは、人の力の関与できない地球の自然の作り出したものだ。いつ降り始めるかもいつやむのかも定かではない。避けることも止めることもできない。その力の大きさに、不安は密かな感動に変わる。それは、海の深さや日の出日の入りのその強い輝きに、畏怖ともいえる気持ちを抱いたのと共通していた。
 そうするうちに、首の下にトロワの腕が潜り込んできた。僅かに体を浮かすとするりと肩まで達した腕に抱き寄せられる。反対の肩に、トロワのゆっくりとした息づかいが感じられた。
「見えた、と言ったな」
 五飛の言葉に、トロワの頷くのが分かった。
「もちろん幻覚だがな。多分、脳と心とが憶えているんだ。初めて、雪を見た時の情景を」
 灰色の空から舞い降りる儚く白い欠片。想像もつかない彼方からやって来るのに、掴もうとすると消えてしまう。そのくせ、髪にも肩にも地面にも、これみよがしに積もっていく。
「少し悔しかったな」
 白状するトロワに五飛は目を閉じたまま微笑む。
「音も聞こえる筈がない。水のイメージと視覚からのイメージとが合わさって聞こえたように錯覚しているだけだ」
 けれど確かに聞いたと思って、外の雪を確信するのだ。
 五飛には、よく分からない感覚だった。冬が長いというこの街で、自分もトロワと同じように微かな淡いイメージを持つようになるだろうか。
 トロワが、乱れた五飛の前髪を掻き上げる。優しい指先に促されるよう、五飛が睫を揺らす。現れた漆黒の瞳が、トロワを柔らかく見つめてからその向こうのガラス窓へと移っていった。
「雪の窓、だ」
 五飛は小さく言う。
「俺の持っている雪のイメージだ」
 枠もガラスもぼんやりと白く、その中の景色も時を経るごとに白く染まっていく。一枚の絵画が描かれていくような、同時に、消されていくような光景。
 そうか、あの頃はまだ雪の中になど立たせてもらえなかったのだ。
 思い出して五飛は語る。自分は幼い頃とても体が弱かったから、雨の日も雪の日も、それを窓から眺めて過ごしたのだと。
「消えそうな子供だと、母が泣いたと聞いたことがある」
 その母親の方が先に亡くなったけれど。
 体を回して窓を見遣っていたトロワは、五飛が言葉を切るとそちらへ向き直して口にした。
「信じられないな」
「そうだろうな」
 緩く笑んでそう言って五飛は体を起こす。見上げるトロワの首筋に、長めの五飛の髪が落ちる。その先端が肌に触れ、頬にかかり、やがてゆっくりと唇が触れ合う。
「昔の話だ」
 まだ若い自分が言うのはおかしな言葉かもしれないが。
 掠れた声はトロワの肩口に沈んでいく。細い髪が、胸の上に黒い波を幾筋も作る。その柔らかな筋に指を絡ませながらトロワは思う。
 そう、昔の話だ。
『いろんなことを忘れていくからね』
 甦った言葉が誰のものなのかはやはり分からなかったが、忘れてしまったということは、きっと忘れてもいいことだという意味なのだろう。
 消えていく雪の悲しさと、語られた言葉の寂しさが、自分の中でどこか繋がっていたのだろう。
 そう思い至って大きく息を吐いた。
 黒い髪に白い肌。俺を覆う、黒くて白い雪…
 今はもう、触れても消えない確かな雪が彼の腕の中にあった。
 その背を静かに抱いて、もう一度トロワは、沈黙の中の浅い眠りに落ちていった。

掲載日:2001.12.21


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