Pulse D-2

Promise

 忘れたことなどなかった。必ず果たすと誓っていた。故に、戦いの終局にトレーズのもとへ向かうのは、自分にとっては為さねばならぬことだった。
「古い約束があるらしい」
 そんな言葉で肯定してくれたトロワに、背を押されたことを五飛は覚えている。
 そのトロワとも離れて幾年もが過ぎた。マリーメイア軍の中で再会したときには、正直言ってどうしてくれようかと思ったが、幸か不幸かまた生きながらえて今を迎えることができている。
「こっちの約束は覚えているか?」
 宇宙港から見える殺風景な月面に目を向けながら、五飛は軽く足を止めて呟く。OZの月基地跡地には食料生産のためのプラントが造られ、少なからず月面居住者の生活安定化に貢献しているらしい。
「少しは戦った甲斐もあったか」
 基地が造り変えられたこととその原因に、せめてもの意味を見出そうとする。そうして、相変わらず自分は戦争という過去とそれに加担した自分自身を正当化することばかり考えていると思い至って、一つ小さく溜め息を吐いた。
「約束を守れずにいるのは俺のほうだな」
 窓から離れ、街の中心部を目指した。
 何度か使ったことのあるホテルへ着くと、脳裏に思い描いていた通りの人物がロビーで五飛を待ち構えていた。
『否。違うな』
 自分の思いをそっと否定する。そこにいたのは、記憶よりも大人になり、予想よりも紳士的に微笑んだトロワ・バートンだった。
「何故ここだと?」
 挨拶より先に問いを口にすれば、笑みを崩さぬままに、
「偶然だ」
 とトロワは言い放つ。
「嘘をつけ」
 場所も日付も特定はしなかった。ただ、これくらいの時期に月面で会おうと――会えそうだったら会おうと――軽い口約束をしただけだ。それをこうも正確に居合わせたのは、五飛の休暇や足取りを事前に掴んでいたからに違いない。
「サリィに聞いたのか?」
「さぁ? 外部の人間にそんなに簡単に仲間の居場所を教えるものなのか、プリベンターというのは?」
 何が外部の人間だ、と五飛は内心毒づく。稀にだが、命の危険のない程度に、トロワがプリベンターの仕事を手伝っていたことは五飛も知っていた。情報屋の一種だ。デュオなども同様の位置付けにあると聞いた。彼らからの情報により実際に命を賭けるのは五飛のほうだ。
「…まぁいい」
 澄まし顔のトロワに嘆息し、五飛はチェックインを済ませた。
 一緒にエレベーターに乗り込み、当たり前のようにトロワは五飛の部屋へも足を踏み入れる。
「お前…遠慮というものはないのか」
 無駄だと思いつつも五飛は言う。
「遠慮なんかしていたらお前とは付き合えないだろう?」
 案の定の答えに肩をすくめ、それ以上は言わずに上着を脱ぐ。ベッドに腰掛けると、トロワは正面に立って見下ろしてきた。もう、彼の目は笑っていなかった。
「俺との口約束など、お前は軽く無視するかと思っていたんだが」
 静かなトロワの声に、五飛は首を横に振る。
「約束は約束だ。守るのが基本だろう。――座れ、話しにくい」
 五飛の言葉にもトロワは考えるそぶりを見せてしばらく立ち続けていたが、もう一度低く「座れ」と言われたのに合わせ、しぶしぶといった感じで五飛の隣に腰を下ろした。
「五飛」
 話しにくいとは言ったものの、いざ並んでみると話すべきことなど思いつかず、五飛は口を閉ざしたまま思いめぐらす。そのうちに名を呼ばれて目を上げると、階下で会ったときと同じ、どこかおとなしやかで遠慮がちな、皮肉な感じなど欠けらも含んでいない笑みに迎えられた。
「もう一つの約束が、きちんと果たされていないらしいな」
 トロワはそう言って、僅かに首を傾げる。こんな顔は知らない、と五飛は思う。他人の表情で昔の約束を語るトロワに苛立ちが湧いた。
「何故そう思う? サリィに聞いたか?」
 先ほどと同じ質問だ。言ってしまってから自分でも気づき、五飛は苦笑した。
「前を見ると言っただろう?」
 五飛の問いには答えず、トロワはすっと目を細める。昔と変わらぬ長い前髪が、片方の目を五飛から隠す。両目をそろえて覗き込めたらこいつの感情ももっと掴めるのだろうかとしばし思い、それから、ほうっと大きく息を吐いて、五飛はトロワから視線を外した。
「過去に囚われず、まっすぐに俺らしく胸を張って生きる。お前が要求したのはそういうことだったな」
 頷くトロワを視界の端にとらえる。
「確かに、果たしきれてはいない。だがこれには、達成の期限はなかった筈だ。努力はしている。お前に今、責められるいわれはない」
 開き直って答えたのをどう受け取ったのか、短い沈黙の後、ふいにトロワは肩を揺らして低く笑い出した。
「おいっ」
 笑うのは失礼だろうと眉根を寄せる。だがそうするとトロワはさらに笑いを大きくして、声高になるのだった。その楽しげな表情に、思いがけず五飛の胸が鳴った。
「お前――」
「やっぱり五飛だな。変わらない」
 言いながらトロワが両腕を伸ばしてくる。ちょっと待て、と思う間に抱き込まれ、五飛はしまったと舌打ちしそうになった。
「覚えているか?」
「何をだ?」
「俺のほうのもう一つの約束」
「知らん。そんなに幾つも約束した覚えはないぞ」
 強い調子で言い返すと、
「しらじらしい」
 と嘲笑うように言ってから、腕を緩めて五飛と目を合わせた。
「次に会ったときには、徹底的にお前を口説く」
 そういう約束だったぞ、と言い終わるか終わらないかのうちに深く口づけられ、さすがに五飛も焦って身を離そうとした。
 失敗した、と思ったときにはもう遅い。
 引き離そうと後退る身体はそのまま押し倒され、五飛の意に反してトロワに圧し掛かられる形になった。少し考えればわかりそうなものではないかと自分を叱咤しつつ、どうしてこんなに自分たちの身体は密着してしまっているのかと不思議にもなる。体術なら大抵の者には負けないという自負がある。なのに何故、こんなサーカスのピエロ一人に手こずるのか。
「おいっ…」
 やっと口を解放されたときにはすっかり息が上がっていて、五飛は心底驚く。なに一つ構わずに首筋へと唇を落とすトロワの髪を、忌々しげに掴み上げた。
「こういうのは、口説くとは言わんだろうが!」
 舌がもつれないよう、ややゆっくりと、けれど情けなくならないよう目にも声にも力を込めて五飛は主張する。
「熱いキスより甘い言葉のほうが好みか?」
 返された言葉に手を挙げかけて、トロワの左手に阻まれた。
「一日だって忘れたことはない。お前のことも、お前との約束も、全て」
 五飛の動きを制する手は、決して力強くはない。つむがれる言葉はありきたりのもので、五飛を脅す威力も感動させる響きも持ってはいない。なのに動けないのは、彼が、五飛の知るままの、言いたいことをあらかた飲み込んだような寂しい表情を見せるからだ。
「昔――」
 トロワの声はいつでも静かだ。だが、それが彼のほんの一部分でしかないことを、五飛は改めて知る。昔、と彼が言うとき、それがいつのことかを推し量るのは難しい。五飛の知らないトロワのほうが圧倒的に多いのだ。
「いつの、昔だ?」
 おかしな聞き方だ。苦笑してみせると、トロワは寂しそうな目のまま五飛の顔を覗き込む。あぁ、この仕種は、別れ際の約束を交わしたときと同じだと、五飛は思い至る。胸の奥のほうが鈍く痛む。
「最後の戦闘の際に」
 尋ねられたままに言い直して、トロワが一度まばたいた。それなら自分にもわかる時間だと五飛は安堵を覚える。
 その途端、急に時間の流れが遅くなったような気がした。それどころか、時間を遡るように記憶は後退し、一瞬、戦争を終えてからの時が全て夢だったかのように感じて、五飛の心は間違いなくピースミリオンの狭い船室へと立ち戻っていた。
『あの頃、こうして向かい合ったことがあっただろうか…?』
 そっと記憶の表面を撫でるだけで、容易くその情景は甦る。からかうようにトロワが繰り返した口づけを、あの時の自分はおざなりに受け流すことしかできなかったのだ。それをトロワはどう思っていたのか。聞くこともないままに別れてしまったけれど…。
「お前がトレーズと戦おうとしているのだと気付いたとき、本当は『また負けに行くのか』とでも言ってやりたかった」
 トロワの声に意識を戻す。その言い種に本当に失礼な奴だと思うが、事実、負けたも同然の自分には文句をつける資格はないのだと無言を通す。
「だが、そう言ってしまうと実際に戻ってこなくなりそうな気がして、お前を止めそこねた」
「――古い約束だと言ってくれたな」
 通信の声を思い出して五飛は言う。トロワは何故か、小さく苦笑いを浮かべた。
「自分で言っておきながら、あとでどうしようもなく嫌な気分になった」
「どういう意味だ?」
 首を傾げる五飛から、トロワはちらりと視線をそらす。
「約束なんて、随分と親密でしかも運命的じゃないか」
 わからない、と五飛はさらに首をひねる。トロワは溜め息まじりに告白した。
「俺とお前との間にはないものが、お前とトレーズの間にはある。それを俺自身が認めてしまったことが悔しかった」
 つまらない嫉妬だと自嘲した顔は、やはり五飛には見覚えのないものだった。その頬に、自然と手が伸びた。
「だが俺はあの時、お前に制止されずにすんで助かったと思った」
 あれはトレーズと戦う最後のチャンスだったからと付け加える間も、トロワは目を伏せたままだ。左手に触れる彼の長い前髪を、五飛はゆっくりと掻き上げる。
「忘れたことのない決意を、それでもどこかで怖れていた。トレーズをこの手で倒すと誓いながら、俺自身の死も考えた。あの時、『やめておけ』とひとこと言われたなら、止めるなと食って掛かる一方で安堵する部分もあった筈だ」
 そうしてきっと、永久に勝負の機会を失っただろうと五飛は思う。
「今になって、本当に感謝している。俺の行動を肯定してくれたお前に。俺の想いを、認めてくれたお前に」
 感謝している、と繰り返すと、トロワは驚いたように目を上げた。
「忘れたことなどなかった、俺も。お前との約束は常に心の内にあった。だが、だからこそ、振り向かずにはいられない。あの戦いは俺の中から消えることはない。何度でも後悔し、何度でも立ち止まる。そして、未熟な俺を思い、トレーズを思い、老師たちを思い、死んでいった兵士たちを思い、共に戦った者たちを思い、お前を思う。思うことで、漸く前を見ることができる。――まったく、難しい約束をしてしまったな」
 はっきりと苦笑する五飛に、トロワは再び目を細めた。いたわるような慈しむような表情の中に、戦いの中では振り切ってきた悲しみが見える。
「らしくない顔をするな。前を見るのだろう? ――俺を、口説くのだろう?」
 揶揄するようににやりと笑う。トロワの顔にも笑みが浮かぶ。
「口説かれたいのか?」
 五飛の見慣れた澄ました笑い。何度も耳にしたからかいの口調。
「馬鹿を言え。そんな筈があるか。…だが、約束だからな。お前は好きに口説けばいい。出来が良ければ口説かれてやってもいいぞ」
「では、お言葉に甘えて」
 言い終えた瞬間にキスが落ちる。耳元に寄せられた唇から、低く甘い声が届く。
『そうだ。お前はそうやって笑え。当然のように俺に話しかけろ。それに応えることで俺は前に進める。過去を背負いながら、先へと進んでいける。お前との約束を、確実に果たしていける――』
 子守唄のような囁きを聞きながら、やがて、五飛は心と身体を開いていった。

掲載日:2006.02.23


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