Pulse D-2

マム

「2カ月前に見かけた」
 ヒイロの話はこう始まった。通信の画面の向こうには、久し振りに見る暗い色の髪と、以前よりも幾分険しさの消えた表情が見えていた。
「声を掛けてくれても構わなかったのだが」
 トロワは返したが、その時のヒイロの状況によってはそれは無理な話だったのかもしれないと、一方で考えてはいた。目立たぬように、けれど的確に。これがヒイロの任務の重要点の一つである筈だった。案の定、
「そうもいかなくてな」
 と、ヒイロは告げて、そこまでの会話などなかったかのように話題を変える。
「五飛には会っているのか?」
「まあな…時々ふらりと現れる」
 こちらも当然のように合わせて、トロワはやってくる五飛の姿を頭の隅に描く。何の連絡もなく訪れる彼は、いつでも突然トロワの視界に入る。その唐突さを楽しみにしている自分にも気づいていた。
「そうか…」
 静かなヒイロの声はトロワの思考を邪魔しない。言外に
『良かったな』
 のメッセージを含んでいるようにも感じられ、
「あぁ…」
 と短く答える中に、トロワの方でも、
『気遣い感謝する』
 との思いを込めた。
 ヒイロからトロワの元へ連絡が来るなど滅多にないことだ。否、ヒイロに限らず、AC195の戦争で共に過ごした者たち、または顔見知りになった者たちが、今現在どうしているのかをトロワが知ることはごく珍しく、たとえ知ったとしても断片的で他愛もないことでしかなかった。
 強いて言えば、キャスリンを始めとするサーカスの面々、外交官として活躍を続けるリリーナ、そして時折訪れる張五飛だけが例外と言えた。
 終戦後、戻ってきたトロワをサーカスは何も問うことなく迎え入れてくれた。以来トロワはサーカス団の一員として各コロニーを巡る生活を続けている。その中では特別な情報操作も込み入った世情の調査も必要なく、また彼自身、そういった裏世界に通じる行動は避けるようにしていた。もう、テロリストでも破壊工作員でもないのだからと。
 ただ、マリーメイア軍の反乱の際には、彼も再度武器を手にした。仕方がない、実際にサーカスにも手が伸びてきたのだ。行動しないわけにはいかなかった。まさか、その先で真っ先に会うのが五飛だとは予想していなかったが。
 軍内で顔を合わせる時、何故自分たちはいつも敵対しているのだろう? 笑い出したくなるような思いと共にそう考えたことを今でも覚えている。睨み付けてくる五飛の目は嫌いではなかった。確かにそこに自分がいて、その自分を確実に彼が見ていると実感できたからだ。そういう五飛の、自分とは違うまっすぐな生き方が好きだったのだろうと、再び彼と別れた後に改めて思ったものだった。
 幸い反乱は長引くことなく終結し、今度こそ一般市民としての暮らしを期待しながら、トロワはガンダムを手離した。機体が廃棄される以上、もうヒイロにもデュオにも五飛にも会うことはないだろうと思った。可能性があるとすればカトルだろうと思ったが、やがて少しずつその連絡も稀になっていった。受け継いだ事業の立て直しから拡大へと移行する中で、総責任者として彼も忙しい日々を送っているのだ。そうなると、トロワには一層、他者の情報は遠いものとなった。
 だから、五飛が現れた時には驚いた。どこで情報を仕入れたのか、トロワの移動先へ彼が姿を見せたのは、MM軍との戦いから三年ほど過ぎた頃だった。
 ひどく疲れた顔をしていたので、また誰かに負けたのだろうかとトロワは冗談半分に思った。最低限必要な言葉だけを交わして、愛用のトレーラーハウスに泊めた。寝場所を提供したときに短く述べられた
「謝謝」
 に、自分でも意外なほどの懐かしさがこみ上げ、ああ本当は会いたかったのだな、と胸の深いところで感じさせた。
「またな」
 翌朝、暗いうちに出て行こうとした彼の背中に、ベッドの上からトロワは声を送った。振り向きはしたが、確たる返事はなかった。まあいいさと、閉まる扉に目を閉じた。
「そっちは? 五飛に会うことはあるのか?」
 尋ね返すトロワに、画面の中のヒイロは首を振る。
「いや、無い。多少、プリベンターとの情報交換はあるが」
 ヒイロが五飛を見たのは、ガンダムの引き渡しの際にちらりと目にしたのが最後だと言う。だが、と続きを口にしたヒイロに、トロワは意識を向け続けた。
「今は、特に不満もなくやっているらしいな。メンバーの質が上がったと喜んでいたそうだ」
「…という情報はどこから来ている?」
 やけに伝聞を含んだ物言いに、小さく首を傾げる。
「デュオにカトルから連絡があった」
 そのデュオからヒイロに話が伝わったのだな、とトロワは思い至った。おかしな伝言ゲームが行われているようだ。
「デュオとはよく連絡を?」
 続けて尋ねたが、これにもヒイロは首を横に振った。
「5年振りといったところだろう」
 そうして、デュオとカトルとの間のやり取りも似たようなものだと語った。
「時々会っているのなら、お前と五飛が最も多く顔を合わせていることになる」
 言って微かに笑ったヒイロに、トロワも小さく笑みを見せた。五飛と特に親しくしているつもりはなかったが、こうしてみると確かにヒイロの言うとおりだった。もしかしたら意識の上よりもはるかに特別な立場にいるのかもしれない。それは少なくとも自分にとっては嬉しい発見だと、くすぐったいような気持ちと共にトロワは目を細めた。
 こんな話があったせいもあり、1週間ほど後に五飛を視界におさめたトロワは、思わず吹き出して彼を迎えた。
「何だ?」
 途端に眉根を寄せた五飛が、低い声で問い質す。
「いや…いや、いや、何でもないんだ」
 返しながらも笑ってしまうトロワを、五飛はさらにきつく睨み上げた。
「相変わらず失礼な奴だな」
 だが、それ以上の詰問はなく、大きく肩を揺らして溜め息を吐いただけで五飛は視線を逸らした。その様子に、変わったな、と、トロワは改めて感じていた。
 最初に現れた時がそうだったように、五飛はその後も幾度か暗い表情でやってきた。回数こそ多くはなかったが、姿を見せては物思いに沈む彼の精神的な状態には、さすがのトロワも無関心を装うのが難しくなってきた。次第に間隔が短くなってくれば尚更だ。
 前回から2カ月ほどで五飛が現れた時だった。
「2晩泊めてくれ」
 そう言った彼に、トロワは初めて条件を出した。
「何をしにここへ来ているのか教えてくれるのならな」
 何を…と言いかけて、五飛は一度口を結んだ。
 迷っているらしい五飛の顔を、トロワは正面に捉えて見つめていた。室内の時計が短く電子音を鳴らして、日付けが変わったことを告げた。
「分からん」
 やがて低く言った五飛に、
「…そうか。残念だな」
 と、トロワも静かに口にして目を伏せた。
「残念…?」
 五飛は怪訝そうに呟いたが、トロワは何も答えなかった。無言のままに二人は眠りについた。
 翌日は朝のうち数時間だけ雨が降ることになっていた。まだ暗い時刻にトロワが目覚めると、五飛は毛布を肩に掛けたまま窓際に座っていた。ベッドの上、トロワの足元だ。
「雨か?」
「ああ」
「予定通りだな」
「ああ」
「今日もここにいるのだろう?」
「………」
 トロワは、いて構わないのだ、と言ったつもりだったが、五飛は前夜の質問の答えを求められたように感じたのかもしれない。彼は雨から目を離すことなく低い声で言った。
「自分を見つめに来ているのだ」
 日常からは隔たれた、それでいて誰も五飛を特別視しない場所で、自分自身の行動をまっすぐに見つめ、これからの自分のあり方を落ち着いて考えることが必要なのだと、時折無性に感じる。そんな話をすること自体、五飛が憔悴している証拠のようなものだと思いはしたが、その状態に気を遣うつもりは露ほどもなかった。
「それは、ここでなくても出来るのではないか?」
「…出来る」
「では、何故ここへ来る?」
 一度俯き、それからトロワを振り返って言った。
「お前といると、思い出すからだ」
 トロワは首を傾げ、短く問う。
「何を?」
 薄暗い中で、見つめ返してくる目があった。厳しさと苛立ち――おそらくどちらも彼自身に対しての――とに覆われた視線だとトロワは思う。
「自分が完璧ではないことを。俺が負けたという事実を。常に自分よりも上にいる者の存在を。先を行く者が必ずいるということをだ」
 そして返された言葉に、トロワは唸るように呟いた。
「トレーズか…」
 五飛は窓へ向き直す。
「甘えだ」
 きっぱりと言い切る彼の表情を窺おうと、トロワは移動する。ベッドが鈍くきしむ。暗いガラスに映る両目は僅かに伏せられていたが、裏切るように口調は強く硬い。
「情けない話だが、一人で考え込むと浮上できなくなる。深く考えたいことは嫌というほどある。己を理解しなければ進めないと思うこともある。だが沈み込んでいる暇はない。仕事は捌ききれないほど控えている。明日には次の任務に就かねばならない。そして精神的な不安定さは、自分自身も同僚をも危険に曝す。絶対に排除すべきものだ」
 だから押さえ込み、冷静なふりをして毎日をやり過ごす。集中力と怠ることのない鍛錬、正確な情報と的確な判断、そして知識や経験を踏まえた上での鋭い勘と技術を駆使して、数々の作戦をこなし多くのものを守るのだ。
 けれど、消えることのない迷い、不安、恐れ、悲しみは静かに彼の中に積もっていく。やがてはけ口を求めて暴れ始めるのはごく当然のことだ。そんな時、トロワに会った。最初は偶然、彼を見かけただけだったのだ。
「ここにはトレーズの影とお前だけがいる。トレーズは俺に現実を突き付け、お前は俺に静寂を与える。トレーズは俺に考えることを強制し、お前は俺に他の何ものをも強要しない」
 トレーズとの比較は、正直、トロワには楽しくなかった。だが悪く言われているわけではないと、黙って聞く。
「俺の生活とは違う種類の落ち着きと安定とがここにはある。しかし澱みがない。進歩といえるほどの目に見える変化はない筈なのに、倦怠、怠慢、憂慮を伴う停滞もまた存在しない。朝になると目覚め、日の光の中を歩く暮らしがある。静かで弱いものだが、深い場所から確実に俺を引き上げる力がある。自然に、俺を浮上させる何かがある」
 思考の邪魔をせず、かといって自己嫌悪と物思いの中に五飛を置き去りにすることもなく、気づくと与えられている活力があると言う。そして、それは居心地の悪いものではない、とも彼は告げた。
 分かる気がした。それは多分、トロワも感じ取ってきたものだ。だからここへ戻ってきたのだと言うこともできただろう。しかしそれは白状しない。
「誰でも持っているものだ。多かれ少なかれ、人や場所や状況に対し与えられている特性とも言えるだろう。一人で生きていける者のほうが圧倒的に少ないのだからな」
 簡単に言えば、思いやる雰囲気、といったところだ。確たるものではない。はっきりと告げられる言葉や明確な意思表示としての行動ではなく、漂う雰囲気なのだ。
 五飛にもそういったものが分かるようになったと思っていたのだが、自分の買いかぶりだったのだろうか。それとも、忘れてしまったのだろうか…?
 小さな失望を感じかけたところで、トロワはふと気づく。違う、忘れずに感じているからここへ来るのだ、と。
「ただ、俺やこのサーカスという場所は、お前にとってトレーズに負けた当時の記憶に繋がるものでもあるのだろう。その点で、一般的な癒しや安心感以上の意味を持っているとも考えられる。緊張感と平静とが同居する面白い場所なのかもしれない。お前にはきっと、安心できるだけの場所よりも合っているのだろうな」
「――だが、それを、俺は当然のものとは思いたくない。…思うわけにはいかない……手離せなくなる」
 絞り出すよう口にした五飛に、トロワは静かに首を振る。
「手離そうとする必要がどこにある?」
 ガラスの中で二人は視線を合わせた。長い長い沈黙だった。やがて五飛は目を閉じ、深く一度頷いた。
 その日、夜明けと同時に彼は帰途につき、その後1年、サーカスには姿を見せなかった。
 心配しなかったと言えば嘘になる。プリベンターの仕事に戻り、無事に過ごしているのかどうかさえ不明だったのだ。今度こそもう会うこともないのかもしれないと考えることもしばしばだった。
 それら全てが喜ばしい方向に裏切られた時、コロニーは穏やかな夕暮れの中にあった。夜の公演を控えて慌しい楽屋に、彼は慣れた様子で入ってきたのだ。
「甘えに来たのか?」
「馬鹿を言え」
 即答した五飛にトレーラーハウスのキーを差し出す。
「何日でも泊まっていってくれ。大歓迎だ」
「1泊で帰る」
「残念だな。ではもっと頻繁に顔を出してくれ。それなら納得しよう」
「別にお前に納得してもらう必要はない」
「つれないな」
 だが、言い終えて微笑んだトロワに、キーを受け取りながら小さく口の端を上げて五飛も笑みを見せたのだった。ここへ来るようになってから初めて見せた笑顔だった。
 以降は、少なくとも3カ月に一度は会っている。移動先も予めトロワのほうから連絡するようになっていた。
 自分は五飛に対して何もしていない。そうトロワは思い続けている。五飛は彼自身で越えてきているのだ。様々なものを、彼の力で、彼の意志で。時に五飛を助ける者はいるかもしれないが、それは自分ではない。多分、そんなものになる必要はないのだ。変わっていく彼を、変わることなく受け止めていける一つの場所であればいいのだ。そんな意識のもとに、五飛と過ごすようになっていた。
 漸く笑いを収めたトロワと並んで歩きながら、五飛が、
「今年は忙しくなりそうだ」
 と、やや早口に言った。
「今までが忙しくなかったとでも?」
 即座に返したトロワに、はたと黙り込む。また笑いそうになるのを堪えてトロワは先を促した。
「記念テロでもあるのか?」
「まぁ、そんなところだ。…不謹慎な言い方はよせ」
 たしなめられて軽く肩をすくめる。
「10年か。早いな――それとも長かったか?」
 五飛はちらりとトロワを見遣り、ゆっくりと首を傾げた。
「さぁ――」
 僅かに遠い目をする横顔に、出会った頃の刺々しさは見受けられない。それは自分もだろうかとふとトロワは思う。10年の歳月は二人に等しく流れた。では死者はどうなのか。
「墓参りにでも行くか?」
 トロワの言葉に顔を上げた五飛が答える。
「無事に記念セレモニーを終えたらトレーズに顔を見せてやってくれと、レディ・アンから話が来ている」
 懐かしい名前だとトロワは呟く。
「返事はしていない。向こうも求めてはいないだろう」
 終戦記念の式典は、10年目の今年、例年より盛大に執り行われる予定だ。同時にそれを阻止しようとする者、この機に乗じて混乱を企てる者の動向も注意深く探られている。
「何かにつけトレーズの名を出す割には何一つその思想を理解していないと、憤慨していたぞ」
 レディ・アンらしいと頷きながらも、トロワは、
「トレーズか…」
 と口にしていた。またちらりと五飛が視線を投げた。
「一生その存在の消えない男だ」
 そのようだな、とトロワは思う。今でも五飛は、自分の隣にいながらトレーズとの戦いをなぞることがあるようだ。そう考えると、彼が『勝ち逃げ』と評したトレーズの最期は憎くすら思えた。しかし、五飛の言葉はこう続いたのだ。
「だが、俺次第で、いつでも越えていくことのできる男だ」
 暮れる空を、清々とした表情で五飛は見上げている。
「生きている者の強さを思い知らせてやる」
 そして確かに言い放ち、トロワに目を向け不敵に笑った。
「ああ…そうだな」
 答えるトロワの中にも、湧き出す力が感じられた。
 生き続ける限り自分たちは、死を越えて、時と共に、様々な思いを育んでいくだろう。時にこうして並び立ち、きっと、その重さに負けることなく歩んでいけるだろう。
 二人を包むコロニーの夜に、柔らかな灯りが点り始めた。

掲載日:2008.08.09


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