Pulse D-2

ゆるやかな眠りの淵にて

 眠りは常に浅かった。
 木の家の家鳴りに目覚め、真夜中の霧雨に瞼を上げた。
 それが変わったのは、トロワと二人で眠るようになってからだ。
 最初はもちろん、慣れない気配に落ち着かない気分にもなった。だが、しばらくすると、逆に彼の気配を感じなくなる時が出てきて、驚いて寝返りを打ったりもした。間違いなくトロワがいることを確認すると、少しだけ眠りが深くなった。やがて、安心感が増すと共に不規則な覚醒は減っていった。
 今では時折思う。あの眠りの浅さは不安を抱えていた為だったのだろうかと。
 では、何がそんなに不安だったのか。いくら考えても、この答えは見つからない。
 一方、トロワに対し、自分では信頼感などというものは持っていないつもりだ。理詰めで正答を迫るくせに、こちらの質問は三割方をのらりくらりとかわす。信じられないことこの上ない。器用貧乏と思うくらい、何でもこなすが飽きっぽい。ヒイロの無表情ともデュオの笑ってごまかす態度とも違う、ましてやカトルの真面目さとは似ても似つかないトロワの意思表示の曖昧さには、苛立つこともしばしばだ。
 なのに何故、隣で眠れるのか。
 腕を伸ばせば触れられる位置に、時には呼吸を感じるほど間近に、彼と同じベッドの上で眠りにつく夜。強い風が吹き荒れていても、激しい雨が降りしきっていても、ひとたび訪れた眠りは朝まで途切れることがない。
 気付けば空気は静かに澄み、窓の外にはうっすらと白み始めた空が感じられる。そして、変わることなくそばにある、やわらかな体温と穏やかな息づかい。
『トロワ』
 声には出さずに彼を呼ぶ。答えない寝顔、静寂と夜明け。
 もうしばらく目を閉じよう。彼の指先が髪と頬に触れてくるまで――。





 眠りは常に浅かった。
 遠い車の音に目覚め、真夜中の鳥の羽音に瞼を上げた。
 それが変わったのは、五飛と二人で眠るようになってからだ。
 最初はもちろん、ひどく緊張した。彼の纏う空気は鋭く刺すようで、それをやわらげるにはどうすべきかと考えることが多くなった。向こうの不安定さも伝わってくるので、とにかく自分の精神を安定させることに努めた。それで気配が変わったのだろう。五飛の呼吸が深くなった。それと共に、こちらの眠りも深まった。
 今では時折思う。あの眠りの浅さは孤独を感じていた為ではなかったのかと。
 物心ついた時から続いていた一人の生き方を、苦にしているつもりなど全くなかったのだが。
 一方、五飛に対し、自分では安らぎを求めているとは考え難かった。彼の理念ははっきりしていて揺らぐことがない。それだけに意見が衝突すると理解を得るのは至難の業だ。気に入らなければいつまででも黙り込んでいる。一緒にいて落ち着くという点ならヒイロがベストだ。口にしなくても全てが伝わる。気楽さならデュオ、気遣いができていて快適なのはカトル。五飛にはどれも感じない。
 なのに何故、隣で眠りたいと思うのか。
 腕を伸ばして触れられる位置に、時には口付けそうなほど間近に、彼を引き寄せて眠る夜。港の汽笛も夜の鳥の鳴き声も、五飛の寝息と共に深い眠りの中へと消えていく。
 気付けば微かに朝を告げる小鳥の声が聞こえている。五飛の息はそれよりずっと静かで、彼が目覚めていることを感じさせる。けれど二人を包む空気に厳しさはない。
『五飛』
 胸の中でそっと呟く。答えさせたい、見つめられたい。
 今朝も迷わずこの手を伸ばそう。触れれば開かれる漆黒の瞳を求めて――。





 眠りは常に浅かった。
 知らずしらず、自分たちの参加することになる戦争の気配を彼らは感じていたのかもしれない。
 だが、戦いを終え、任務からも義務からも解放され、少しずつ変わり始めたという自覚が二人の中にも生まれた。そこから数年を経て、彼らも深い眠りを得た。
 目覚めるのは五飛が先。実際に目を開け身体を起こすのはトロワが先。早朝の静かなひとときのことだ。その時間を、二人はとても大切に思う。
 瞼を上げて、トロワはまず数秒間、五飛の寝顔を見つめる。本当は彼が目覚めているのだと知ったのは、こうして朝を迎えるようになって随分日数が過ぎてからのことだった。少しでも長く眠るためなのか、それとも別に理由があるのか、五飛に尋ねてみたことはない。理由よりも、彼が目を開ける瞬間が自分の目の前にあることのほうが、トロワにはずっと重要だった。
 時折ばっさりと短くされてはまた束ねられるくらいまで無造作に伸ばされる黒髪は、細く柔らかで触ると気持ちがいい。同様に、きめの細かい肌のしっとりとした感触も心地好くて、癖のように手を伸ばす。
 待ち構えたように、五飛は薄く瞼を開く。
「おはよう」
 かすれるくらいの小声で言う。そうしながら、トロワは五飛の目をじっと覗き込む。顔を上げた彼が応えるように視線を合わせる。そっと、時間が止まる。
 淡い朝のひかりの中に、五飛の目の黒がやわらかな輪郭を描く。トロワは、いつまででも飽きずに見とれる自分を不思議に思う。そうしながら、一瞬の別れさえ惜しむように瞬くと、それを合図に五飛の表情が変わる。その変化にトロワは息が止まりそうになる。
『どうしてここで笑みが漏れるのだろう?』
 思うのは、トロワかそれとも五飛か。
 トロワの目覚めとくすぐったいほどやさしく触れてくる指先を感じて目を開けると、いつでも同じタイミングで五飛のもとへと声が届けられる。朝一番のものだからか、それとも他に理由があるのか、その時の彼の声は静かで甘く、霧雨の降る森の音を五飛に思わせる。
 横になったままのトロワと視線を合わせるのは、五飛にとっての朝の儀式のようなものだ。空間が静止しそうなほどの神聖さを感じる。
 この時のトロワの目は、昼間より少しだけ虹彩の色が薄い。とても優しい緑。その目がまっすぐに見つめてくるのが嬉しくて、つい、誘われるように見つめ返す。自分でも感情がよくわからない。嬉しいと思う自分こそ不思議なのだが、ほかに分析のしようもないのだ。
 そうするうちに、ふっとトロワが瞬きをする。ああ、時間は流れているのだ、と五飛は実感する。同時に、自然と笑みがこぼれる。何故だろうと何度も考えるのだが、やはり答えは出ないのだ。
 こんなふうに笑う自分が照れくさくて、五飛はごまかすように目を逸らす。トロワが微かに口許をほころばせるのが雰囲気で五飛にも伝わる。追ってくる視線、髪を梳く指、目尻に落とされる小さな口づけ。
 さらに目を伏せようか、それとももう一度上げようか。必ず悩む自分に呆れながら、結局ちらりとトロワを見上げる。再び覗き込んでくる目は、緑の色を濃くしている。
「…おはよう」
 まだ言っていなかった言葉を口に乗せる。トロワの笑みが大きくなる。厭味のない笑顔。いつからこんな表情を見せるようになったのだったか。
 記憶を溯ることも、これまで数度、試みた。浮かぶ無表情をそれでもどこか身近に感じるのは、トロワの目の示すものが硬質なだけではなかったからかもしれない。肯定もしないが否定もしない。そんな雰囲気をいつでも彼は持っていて、いい加減で信用ならないと思わせると同時に、自分自身の持たない曖昧さに引き付けられもした。論理性と柔軟性のいずれをも持ち得るのが不思議で、苛立ちと同時に憧れをも感じた。
 だからだろうか。地球行きのチケットを見た時に、送り主として真っ先に思い浮かべたのはトロワだった。誰からのものかわからず、何の為のものかもわからないままに、軽すぎる荷物を手に宇宙港へ赴いた。誰かの罠ならそれでもよかった。自分の命にも人生にも未練は感じていなかった。別の相手でもさして気にしなかっただろう。つらいことがありすぎて、五飛も疲弊していた時期だった。
 けれど、待っていたのはやはりトロワだった。人のまばらな機内で、シート脇に立った五飛を、トロワは驚いたように見上げた。それこそ五飛の初めて見る表情で、同じくらい驚いたことを覚えている。そして、続いた笑顔に泣き出したい衝動に駆られたことも、こうして記憶を探るたびに切ないほどの胸の痛みと共に思い出すのだ。
 五飛、と声には出さずに彼を呼び、すっと細めた目が優しかった。
『あれが最初か』
 こうして朝ごとに目にするようになるとは思ってもみなかったが…と、小さく思いながら五飛は布団から手を出す。相変わらず長くてうるさいトロワの前髪を掻きあげ、楽しそうに笑い続けている目を掌で隠す。そうすると、残された口がはっきりと笑いの形を作るので、つられるように五飛も喉の奥で笑う。
 黒髪から離れたトロワの右手がゆっくりと五飛の手に重ねられ、そっと指先を握り込んで目の上から剥がしていく。ぴたりと合う視線を、トロワから先に逸らすことはない。
 もう一度、静かな口づけが落ちてくる。瞼に頬に唇に。
 朝は受け取る一方で、五飛から返すことはない。ただ、黙って目を伏せ、繋いだ指先に力をこめる。
 そうして、やがて告げられる言葉を待つ。
 まだ眠るものの多い、朝のできごと。


「このまま起きようか。それとももう少し眠ろうか」

掲載日:2008.08.09


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