Pulse D-2


見て分からぬか。これが俺だ。
――所詮は外見での判断か?
馬鹿者が。姿変われど俺は俺。
――ならば証明してみせよ。お前がお前であることを。



「ご主人は居られるか」
 男の問いに、老いたメイドは無言のまま大きく扉を開いた。黒いコートに深く帽子を被り顔の左側を隠すように手をかざしている男は、小さく頭を下げると建物の中へと入って行く。風に舞うよう降り始めた細かな雨が、コートの襟から覗く少し長めの黒髪をしっとりと濡らしていた。
 案内された部屋はさして広くもない書斎。窓際の大きな古めかしい机の前にはこの家の若い主人が座しており、入ってきた男をまっすぐに見つめて言葉を待った。
「…あなたがミスター・バートンですか?」
 ややしてから低く男が尋ねる。丁寧に言ってはいるが、声の調子には微かな威圧感が混ざっていた。彼が、他人の上に立って過ごしてきたことを示すものだろう。
「ああ」
 机に手をついて上体を持ち上げる。
「そうだ」
 すっと立ち上がった姿はすらりと細く、暗い色の衣装とあいまって斜めから差す光に伸び上がる影を思わせた。
 ゆっくりと入口の方へ近づいてくる主人を、今度は男が無言で見つめる。不思議な力を持つと言われるバートン家の当主は、長く垂らした前髪の向こうから深い緑色の目で見返す。その静けさが、その妖しさが、彼から目を離すことを不可能にさせていた。
「用件を伺おう」
 目の前まで来た主人が、腕組みをして男に言う。もう大概の理由など分かっていたが、それは、絶対に来訪者に言わせねばならないことなのだった。
 ゆっくりと、男が口を開く。
「顔を半分無くしてしまったのだ」
 そして彼は左手を退けた。そこに現れる、真っ暗な空間。左半分だけがすっぱりと、表面の顔を失って黒い輪郭を見せているのだった。
「ほう、これは見事だな」
 宇宙のようだと澄まして笑う彼に、男はむっとした表情を浮かべた。男にしてみれば笑い事ではないのだ。気づいた主人が、失礼、と一言苦笑して言った。
「普通は皆、顔の一部だけを欠けさせてここへ来る。俺はそれを修復する」
 僅かに背の低い男の顔を覗き込みながら主人は言う。目だけ眉だけあるいは耳だけを失って、頬に穴が開き額に亀裂が生じて、そうして人々はここへ来るのだ。しかし、この男のはそういった類のものではない。
「…修復して欲しいか?」
「勿論だ」
 男は即答したが、それに対する主人の言葉はひどくそっけなかった。
「無理だな」
 言葉に詰まる男を尻目に主人は続く言葉を綴っていく。
「これはお前が多くの者を殺したからだ」
 罰か…、と男は唇を引き締める。数え切れない程の人間を殺した。間違えたつもりはないが、もし自分が愚かな殺人を冒していたのならその償いは進んでしよう。
「悲観するな」
 けれど主人はそう言って、男の帽子を取り傍のソファへ投げる。その軌跡を見遣る男へ左手を伸ばし、残る半分の顔に触れた。
「この顔は気に入った。これは俺がもらう」
 男が目を戻して怪訝そうにする。
 彼は顔を無くしたのではない。仮面が一つ、役目を終えて壊れただけのことだ。壊れた仮面は剥がしてしまえ。次の仮面を示してやろう。そこから新たなお前が始まる。
「新しい顔を与えよう」
 そうして男の欠けた唇へくちづけた。
「…何の真似だ?」
「頭金だ」
 怒りを押さえた男の問に主人は真面目に答えていた。
「何の――」
 すっと主人の右手が男の頬をさする。その感触の意味するところに気づき、驚いて男は自分の顔に手を当てた。
「あ……」
 無くしていた顔が、そこにはあった。
 主人が手で壁に掛けられた鏡を示す。映っている男の顔。
 同じ顔、でも、少し違う貌――?
「不満があるならば言え。今すぐここでお前を殺してやる」
 きつい眼差しの主人と、鏡の中の自分を交互に見遣る。
「お前は正しく一つの役目を終え、次の顔を与えられた。その顔はこれから生きるお前の為の貌だ。それが気に入らないのなら、お前にはこれ以上生きる資格がないと言うことだ」
 どうだ? と主人は言葉を切った。男は鏡の中の貌を睨みつける。そして、不敵に笑って主人へ答えた。
「結構だ。この貌を貰っていく。…いくら払えばいい?」
 それには主人は緩く首を振る。
「もう貰った。これ以上の謝礼は俺にではなく世間にしてくれ。すべての役目を終えた者には、俺とて新しい顔を与えることはできない。それができるのはお前に次の役目があるということだ。それを探し、果たせ」
 財布を手に男は不満そうな表情をしている。
「もっとも――」
 それに吹き出しそうになるのを懸命に堪えて、主人は妥協案を出してきた。
「それでは気が澄まぬというのであれば、時折ここへ来てくれると嬉しい。暇潰しに、お前の見聞きしたこの世の不思議でも聞かせてくれ」
 この奇妙な主人が気に入ったのか、男は喉の奥で小さく笑って受け入れた。
「世話になった」
 一言礼を述べ、帽子を手にして男は部屋を出る。
 その足音が消えてから、主人は書棚へ足を運び、なめし皮の表紙のついた厚い一冊のノートを取り出した。
 新しいページを開き左手をつける。すると、ふっと紙の上に白い顔が現れた。右半分の、男の仮面。
 貼り付けた仮面の下の台紙を左手の人差し指でざっとなぞると、後にはくっきりとした赤い文字が浮かび上がる。
『戦士=張 五飛=』
 正しき者に新しい道を開いてやるのが、この主人の役目だ。与えられたノートはまだ半分残っている。
「ファーザー…わたしは間違ってはおりませんよね…?」
 この一冊を終える時、自分も新たな貌を与えられるのだろうか…?
 どこまで行っても自分は自分。けれど仮面を外すたび、その本質を垣間見て、人とは何かと問い掛ける。
「ファーザー…」
 ため息混じりに呟くと、静かにトロワはノートを閉じた。





  *ファーザー…「父なる神」のこと

掲載日:2003.03.05


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