Pulse D-2

どおる


人の形をしたもの。
真似たもの。
自分を持たないもの。
他者の為すがままのもの。

ひとつの姿を持つもの。
いくつにも分かれるもの。
壊れるもの。
創り直せるもの。




 一本裏手の道へ入ると急に人の姿は稀薄になり、木々や建物に遮られた灰色の光の中で、人々は影も持たずにゆるりゆるりと歩いて行く。木造の家々は取り壊しの日を夢見て待ち、砂地の道では小さく鳥と犬の足跡が付いては消えてを繰り返していた。
 角を曲がった二軒目は、金貸しの看板を下ろした代わりに古びた『商ひ中』の札が下がるようになった。暖簾が掛けられることはなく入口も常に閉ざされていたが、その引き戸が触れればいつでも開かれることは、店を訪れる者たちは皆存じていることであった。
 からり、と音をさせて引き開ければ、昼なお薄暗い店内に散乱した大小さまざまの品物たちが目に入る。あるいは床にあるいは棚に、足の細い卓の上に、低い天井の梁からぶら下がるかたちで、めいめい思いのままの方向を向いてたたずんでいる。一見雑多なその有様は知らぬ者には眉を顰めさせたであろうが、これが、この品々にとって存在の可能性のすべてをかけた配置であることを、店の主は心得ているのだ。そしてまた、悪戯に手を触れれば粉々に砕け散り、存在の意味付けを成せぬままに消滅してしまうことを、見る者たちは知っているのであった。
「檀那様ぁ、また五飛の姿が見えないのでございますぅ」
「あら、そう、またですか…。ほんに困ったお子ですねぇ」
 店の奥、やわらかな女性たちの話し声が聞こえている。ひそりと、けれど悩めるそぶりもたおやかに、黒髪の主は細い指を頬にあてて微かに首を傾げた。美しい光沢を持った鮮やかな青色の着物が、陰になった場所でもその存在を確かにさせていた。
 彼女たちの位置を定かにしてから、入口を一歩踏み込んだ場所に立ったままほんの僅かに首だけ廻らせて、トロワは『位置する』物たちを見渡した。
 赤青紫の色の付いた大きくて不安定な壺。細い蝋燭。緑の硝子の小瓶とそれを映す壁掛け式の鏡。金銀銅の装飾品。古い本。薄汚れた縄。どれもがうっすらと埃をかぶり、待ち人来らぬと嘆きの姿を見せている。そしてそれらは、トロワにとっても目的の物ではなかった。
 足元の小箱に気を付けながら、トロワは声の方へと踏み出す。主よりも年若の娘が数歩歩み寄って、主の前へと身を進めた。
「階下を見せてもらえるか?」
 尋ねるトロワににこりと笑い、小さく肯いた顔を横の棚へと向ける。そこから赤い持ち手のついた洋灯を取って、彼女はトロワへと差し出した。
「下には闇がおりますゆえお持ちくださいませ。それから多分、今日は五飛がおりますので、そちらにもお気をつけください」
 ゆっくりとけれどはっきりと述べ、小首を傾げて異国の青年を見上げる。いまだ開かれきっていないこの国に、きちりと背広を着込みかつりかつりと音を立てる革靴を身に着けた若者を見掛けるのが、少々物珍しいのである。掲げた洋灯の先に見える髪は暗い茶色、二つの眼はやはり暗い緑色だ。長い腕が伸び、すらりとした指が小さい明りを引き取った。
「五飛とは?」
 先程から彼女たちの話に上っている名前をトロワは尋ね返す。姿が見えず、気をつけねばならぬものとは何だろう?
 開きかける娘の唇をトロワがじっと見つめる。しかし、実際に声がしたのは彼女の後ろ、闇に紛れそうな主の唇からだった。
「魔訶不思議なる――」
 低いけれどよく通る声に、引かれるように目を向ける。歳は三十をいくつか越えた頃であろうか。黒い髪をひとつに束ねて小さく丸める彼女の首が、ふいに着物から現れたような錯覚を覚えた。
「げに美しき『どおる』にございます」
 紅をさした唇の端が、ゆうるりと引き上げられて艶やかな笑みを形作った。
 背筋を何やらぞくりとしたものが走りそれ以上を尋ねることができず、促されるままに主の前を抜けて、トロワは暗い木の階段を下って行く。洋灯の明りだけが浮かび上がる、真の闇が迫ってきた。
「部屋の明りはつかないのか?」
「つければ皆が死にまする」
 闇にしか存在できぬ物もあるのだと述べて、彼女は困ったような表情を浮かべた。
「そうか、すまなかった」
 謝罪して階段を下り切る。お気をつけて、と言い残して店員は階上へと消えた。
 こつんと床へ下り立つと、手近なところへ明りをかざしてトロワは光の輪の中へ顔を寄せた。すぐ傍まで行かないと見えない物たちは、上にあったものよりも厚く埃をかぶりさらに待ちくたびれた様子を見せていた。釦や釘といった細々とした物がほとんどで、それらをひとつひとつ見て回るのはとても骨の折れることだった。それでも、間違って触れてしまうことのないよう注意深く寄りながら、トロワはゆっくりと自分を待つ物を探した。
 もっとも、彼はそれがどんな形をしているのかを知らない。探し物はいつでもふいに現れ、気づいて触れると自分の一部になるのだ。どこにあるのかも分からない。出会いは偶然の積み重ね。そうして順番に組み合わせていけば、いつか自分は本来のひとつの体になり正しく存在すべき世界へと戻れるのだ。
 とりあえず半分に。
 そう考えながら歩を進め、部屋の一角へとたどり着く。壁に掛けられているのか、上の方から時計のたてる、かた、こと、という音が聞こえていた。
 目前の机の上にひとつ、小さな木の人形が置かれていた。もとは操り人形だったのか、手足に付けられた糸が切れて机の端から垂れている。色の剥げた三角帽をかぶった、道化師の人形だった。
 興味を引かれてじっと見ていると、突然彼が目を開けてけたたましく喋り始めた。
「カカカカカ、お前は誰か。お前はカケラ」
 そしてくるりと目を回す。
「カカカカカ、わたしは誰か。わたしは道化」
 わたしは道化、狂った道化…。
 驚いて見遣るトロワに、高い声で彼は繰り返した。時計の音を消すほどに彼の声が響き渡る。
 と、その時ふいに何かの気配を感じて、トロワは背後を振り向いた。
 闇から――
「……っ?!」
 するりと伸びた白い腕がトロワの首に絡み付く。まるでそれだけが単独の生き物であるかのように、真っ黒な視界の中で腕だけが浮かび上がっていた。
「カカカカカ、わたしは道化…」
「黙れ、人形!!」
 騒ぐ道化師に一瞬視線を移す。それを前へ戻した時には、そこに声を発した人の形が現れていた。
 黒い目の整った東洋人の顔に、袖のない黒い中華服。肩のあたりまで伸ばされた黒髪は、そのまま背後の闇へと溶け込んでいる。
 道化師が黙り再び静寂が訪れた。その中で、彼が顔を寄せてトロワの匂いを嗅ぐ仕種をする。彼からは何の匂いもしない。
「お前は『どおる』ではないのか…」
 低く告げて彼は腕を離す。急に空気を吸い込んで、トロワは噎せながら問うた。
「どおるとは?」
 すると彼はふん、と鼻を鳴らすようにしてからゆっくりと口を開く。
「凡そこの世にある人の形をした物で、意志を持ち言葉を持つ物は、間違った部品で満たされた人間か気の狂ったヒトガタか、半身を探し求めるどおるだ」
 そして彼は一度言葉を切り、トロワの反応を窺った。まだ、疑問符が浮かんでいるといった表情だ。
「間違った世界に生まれた物は、遅かれ早かれそれに気づく。俺もお前もそこの道化も、気づいてそれぞれのカケラを求めた。道化はヒトガタゆえ動くことならず、この店の主に救われここへ来た。だがその時にはもう充分に狂っていた。あまりに長い時を待ち続けた為に、自分が何であるのかが分からなくなったのだ。まわりの物たちが自分を道化と呼ぶから、時折そう言って己を確かめる。ヒトガタは皆そうして更に狂う」
 見遣る先の道化は、今は我関せずと澄ましている。ただの古びた人形だ。
 五飛が言葉を続ける。
「自分を探し始めたカケラは、やがて半分を探し出して『どおる』となる。どおるはカケラよりも人に近い。道を歩く姿などは人と何ら変わりない。しかしそこから人間になるのと故国へ戻るのとは大違いだ。故国へ帰れば相応の役目も与えられようが、そのためにはもう一人のどおるを探し出さねばならぬ。どおるは正しきどおるとしか結びつくことはできぬ。多くは、永い永い時を待つ…」
 ゆっくりと五飛が瞬く。彼の経てきた時を振り返っているかのような、深い寂静を伴っていた。
「一人を見つけるのは、幾つものカケラを集めることより難しいということか?」
 トロワが尋ねる。それにはっきりと肯いて彼は答える。
「そうだ。互いが探しまわり、出会うことがない。その上どおるは歳をとる。老いて死ぬればカケラに戻り、再び一からやり直し。故にどおるは孤独と闘い、それに負けた者は人間への道を辿る。半分でいる寂しさに耐えられず、自分ではないと知りながら散らばるカケラを自分の中へと埋め込んで行く。ちぐはぐな部品、ちぐはぐな人間。そうして出来上がった人間は、何とかこの世界に溶け込もうと必死に生きる。それを非難しようというつもりはないが、それでも俺にはそんな生き方はできぬ。己の為すべきことを為さず、何が人間か」
 言い切る彼の瞳に宿る、恐ろしいほどに強い意志。本来の彼の役目にも、きっと必要な強さなのだろう。
 じっと見つめるトロワに対し喋り過ぎたと呟いて、彼は一歩後退さる。急速に、全てが闇へと近づいて行く。
「待ってくれ、一つ聞きたい」
 消えようとする彼に、ふと気づいたトロワが声を掛けた。僅かに首を傾げるよう立ち止まり、彼はトロワの言葉を待つ。
「店の者からお前に気をつけろと言われた。どういう意味だ?」
「ああ…」
 何だそんなことかと薄く笑う。そして続けられた言葉は、あまりにも彼に似合い過ぎて恐かった。
「俺が時折どおるを殺すからだ」
「殺す? 何故?」
 辛さを知りながらどうしてそんなことが出来るのかとトロワは不思議に思う。彼の心理が分からない。しかし闇の傍から告げられる台詞は、さも当り前という響きを持つ。
「奴等の持つ、弱い心が憎いからだ」
 容易く挫ける脆弱さが疎ましいからだ。どおるであることを悲しみ、故国への帰還よりも自分への到達よりも人間となり手っ取り早く安定することを明らかに望んでいる、その逃げ腰でいい加減な態度に憎悪するからだ。それは、自分自身で嫌っている、自分の中の不安を浮き彫りにさせる。
「言っても仕方の無いこと…貴様には心すら存在していないからな」
 ただのカケラであるトロワには、どおるの心など分かる筈がない。それこそ説明しても仕方のないことだと、五飛は再び数歩闇へと近づいた。
「どおる以外に用はない。俺が欲しいのは…」
 仕方の無いことと言われたことが淡い悲しみを連れて来て、去って行く姿からつと目を逸らす。その耳に、遠く声が届いた。
「トロワ……」
 驚いてトロワは顔を上げた。彼は今、自分の名を呼ばなかったか?
「おい、待てっ」
 しかしもう五飛は完全に闇に紛れてしまっている。
 彼の求める『どおる』が自分であるなら、半分になるための最後の一つの部品を、今、間違えるわけにはいかない。
 決心と共に、トロワは道化師の人形を振り返る。見つめ返すヒトガタがぐるりと目を回してにたりと笑った。
「お前であってくれ…」
 願いながら道化に触れる。すると、きん、と金属のぶつかり合うような音がして道化の姿は掻き消えた。ふんわりと、トロワの中に心が生まれてくる。
「これが、どおる――」
 半分しか存在しないもの、自分の半身を探しているもの、そして初めて自分の本当の心の存在を知るもの――それが『どおる』だ。
 故国への、強い強い想いが満ちてくる。闇の中に、驚き振り返る五飛の姿が見える。知らなかったこと、気づかなかったこと、見えなかったこと、感じなかったこと、カケラからどおるへの変化は、トロワにそれらを含めた新しい世界を見せた。自分が自分であることを、トロワは初めて自覚したのだ。
 ゆっくりと歩み寄る五飛を目の端に捉えながら、トロワは道化の消えた空間に洋灯を置く。それから、懐より財布を取り出し幾許かの金を並べ、最後にその財布も光のあたる場所へ配置して、彼は五飛へと体を向けた。
「お前が、トロワか?」
 未だ半信半疑といった様子で、傍まで来た五飛が声を掛けた。探し回り待ち続けたもう一人のどおるが、今、すぐそこで自分に目を向けている。そして自分の問にしっかりと首肯しているのだ。
 確かめるよう、更に近づいた五飛がトロワの首筋へ鼻を寄せてくる。くん、と空気を嗅ぐ。
 今度はトロワにも分かった。
 寄ってきた彼から微かな香りがしている。それは遠い故国の草の匂い。聞こえているのは、知るはずのない子守歌。
 遥か彼方を見晴るかすように虚空を見つめる五飛の目が、満足げにゆっくりと細められた。彼は、どおる。もう一人の自分。
「共に――」
 そっと五飛がトロワの腰へ腕を回す。同様にトロワも手を伸ばす。二人の間の空気が引き合って僅かに風を巻き起こした。見えてくる故国の遠い街並み。
 そして――
 触れ合った瞬間、りん、と鈴の音が辺りに響く。
『故国へ…』
 静まり返った空間を、かたり、ことり、と時計の音が、我も早くと広がり続けた。



「お客様ぁ?」
 店の娘が、なかなか上がって来ない客を訝って、明りを片手に下りて来る。しかし部屋の中に彼の気配は感じられない。異国の男が持っていた小さな洋灯が、部屋の片隅で心細げに炎を揺らしていた。店員はそろりと歩み寄る。そして、その横に置かれた少しばかりの銭と姿を消した物、現した物とに気づいて、ほうっと小さく息をついた。
 銭をしまい込み残された洋灯の炎を消して、それを手に下げ部屋を後にする。
 階段を上る足音と共にゆっくり告げられた彼女の言葉に、闇が静かに嗤った。
「檀那様ぁ、今日は道化の姿も見えませぬぅ…」

掲載日:2003.03.08


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