Pulse D-2

蛇腹


行きつ戻りつ繰り返す、どれほど続けるものなのか。
戻りて再び行く先は、前と同じかそれとも否か。




 トロワは床へ座り込みずっと本を読んでいる。
 五飛は窓際の椅子へ腰掛けじっと外を見ている。
 トロワが動くのは本のページを捲る時だけで、五飛はそのトロワを見る時だけ部屋の中へと目を向ける。
 飽きることなく途切れることなく、彼らはそれを続けている。
 一冊読み終えるとトロワは立ち上がり、五飛の傍へ行って何やら長いこと話し続ける。五飛は黙ってそれを聞き取り、やがてトロワは話し終えて離れていく。抱えた本をもとの棚へしまい、次を手にして所定の位置へ戻る。そこからはまた、繰り返し。
 外は常に夕方で、落ちそうで落ちぬ太陽が白い世界を朱色に染める。木も道も建物も、全てが白く、全てが朱く、変わることなく彩られる。そよがぬ風に吹かれるようにふらりと傾いだ木の枝は、ちからを無くしてそのままくずおれ細かな塵と成り果てる。
 世界は、崩壊の時を間近にしている。



「ずっと子供のままだ」
 部屋の外から二人を見遣り、トロワが事実を述べていく。
 内にもトロワ、外にもトロワ。
「何故だ?」
 彼の隣に静かに並んで、五飛が疑問を口にする。
 内にも五飛、外にも五飛。
 部屋の中で過ごす彼らは十歳前後の姿をしている。けれどその瞳は疲れ、虚ろに動く唇は自らのものではない言葉ばかりを綴っていく。
「これ以上の成長を望んでいないからだ」
 淡々と述べるトロワは青年の域に達している。二人を見つめる表情には、これと言った感情を表すものは浮かんでいない。
「何故だ?」
 同じ問いかけを口にする。こちらも大人びた顔つきに心中を覗かせる様子はない。
 答えることをためらって、白衣のポケットから出した手で前髪を掻き上げると、トロワは澄まして押し黙った。聞こえなかった振りでもするようなその態度に、五飛はしばらく待った後に肘で小突いてきた。横目で彼を見てから、苦笑してトロワが口を開く。
「悲しい思いをするからだ」
 そうして答えておいて、次に彼は五飛へと質問を投げ掛けた。
「何の本を読んでいるか分かるか?」
 いや、と五飛は首を振る。彼の場所からでは遠くて書名までは見えないし、トロワと違って観察者ではない五飛にはその興味の範疇となるものまでを知る術などなかった。
 当然の返答にトロワは肯き視線を部屋へと戻した。
「彼らの歴史を読んでいる」
 冷静なトロワの声が、意味の分からないことを告げた。
 部屋の中には、壁に沿って大きな本棚が幾つも並べられている。どの棚にもぎっしりと本が詰め込まれ、小さなトロワはそれらを端から読んでいた。
 本は全て『トロワ』と『五飛』の物語だった。彼らは幾つもの時間を生き、生まれ変わってまた新たな物語を作る。時に英雄となり時に偉人となり、彼らの歴史は洗練され華やかですらある。けれどそれらは決して幸福なだけのものではなく、どちらかと言えば辛く苦しいものだった。
「トロワは読み、伝える。五飛はそれを聞き、記憶する」
 そして子供たちは気づいたのだ。全てのトロワと五飛が、自分たちであるということに。このままいけば、自分たちにも絢爛で残酷な運命が纏わりついてくることに。
「彼らは歴史の記録者であると同時に、歴史を切り開く者でもある。その者たちが自ら時を止めた。その結果がこれだ」
 空間は閉鎖され、歴史は停滞する。世界は滅びへの道を辿り、それを見守るためだけの存在が生み出される。即ち自分たちだ。
 それでもトロワはページを繰ることを止めない。
 繰り返し繰り返し人の犯してきた過ちとほんの一握りの平穏を、己の中へ読み込み、昇華し、飾り無き言葉で伝えていく。そして五飛は、その一言一言を余すところなく自分の中に、深く深く刻み付けていくのだ。そうして、避ける為に止めた筈の時間の中で、過去を紐解くことにより同じように二人は傷付き続けていく。
「どうするつもりだ?」
 低く尋ねる。
「別に。世界の終わりを待つだけだろう」
 答えるトロワに一瞥をくれて、五飛は強く言い放った。
「それは単なる学者の意見だな。俺はそんな他人まかせは気に食わん。終わると分かっているのなら、さっさと終わらせてしまえばいい。それに…」
 途切れる声に感情が覗く。視線を下げて、それからもう一度上げて、五飛は言葉を続けた。
「あいつらはもう、充分悲しんだ筈だ…」
 そして彼は勢いをつけて扉を開けた。
 突然開かれた空間に、子供たちは彼を見る。
「もうこんなことは止めるがいい」
 言いながら近付き、小さなトロワから本を取り上げようとする。無言で避けてトロワは後退り、驚く小さな五飛の座る椅子にぶつかった拍子にぱさりとトロワの手から薄い本が落ちた。素早く五飛が拾い上げる。
 それは背表紙のない蛇腹式の本だった。最初から捲っていくと、これにもやはり『トロワ』と『五飛』の戦闘の記録が記されている。彼らは戦い、実に多くの者を殺した。その表面の文章を最後まで読み、今度は裏面を捲っていく。ここには彼らの内面の、不安、悲しみ、憤りが言葉少なに語られている。
 ざっとそれらを読み終えて、自分を見上げてくる小さなトロワへ返そうとした時、ふと五飛は、表紙の上辺に細かな金具が付いていることに気づいた。よく見てみるとそれは裏表紙にも付けられていて、それぞれの金具の凹凸をはめ合わせることができそうだった。
 トロワが背後で扉を締めて、足音低く歩み寄った。
 手元で何かを始めた五飛を、二人のトロワと小さな五飛が不思議そうに覗き込む。パチ、と微かな音がして、金具はきちりと合わされた。
 その瞬間。
 手の中の黒い表紙は消え去って、丸められた蛇腹の一部に新しい表紙が現れた。淡いグリーンの表紙。そこから開くと小さな本は、その中身を一変させていた。
「お前たち…見るがいい」
 五飛がしゃがんで子供たちに本を示す。そろりと寄ってきた子供たちは、新しい暖かい文字を見る。
 二人の物語は、彼らを取り巻く全ての世界の物語へ。
 彼らの物語は、二人と関わる全ての者たちの物語へ。
 そこに綴られているのは、怒りや憎しみにかき消されそうになりながらも懸命に生きる人々の、祈りと感謝の言葉だったのだ。


『ありがとうありがとう、勇気を見せてくれてありがとう。
 ありがとうありがとう、新しい道をありがとう。
 大好きです大好きです、あなたたちのことが大好きです。
 ありがとうありがとう、愛させてくれてありがとう。
 ――どうか、あなたがたに幸あれ』


 ゆっくりと、時間が流れ始める。
 明度を落とす部屋の中で、手を取り合って彼らは泣くのだ。
 救えなかった命のために、気づけなかった愛のために、滅びていく、世界のために。
 五飛が子供たちを抱き寄せる。
 その五飛を、トロワが更に抱き締める。
『免罪符を!』
 どうか彼らに、罪を許すと言うその証をお与え下さい。
ちから無き子供たちを、もうこれ以上苛むことのないように。すべての歴史の罪を被ったこの悲しく優しき子らを、永遠に許し愛し給うことを。
 願う声はどこへ向けたものなのか。彼らに知れる訳もなく、世界の砕ける音がする。


 たとえ再び世界が創られ愚かな争いが繰り返されても、彼らの優しき魂だけは、潔く潔くあるように――――


掲載日:2003.03.11


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