Pulse D-2

水中花

 それを「花」と言い表すのが正しいことか、征士には判断のしようがない。花弁を持ち「咲いて」いるのだから花なのかもしれないが、明らかに生物ではなく成長もしなければ枯れることもない。
「でも色が変わるらしいよ」
 征士の言葉にこう言って笑う伸は、花の定義を試みるかのような征士を軽くいなして食事の準備を進める。
「色が?」
「そう」
 だから確かめてみようかと思って買ってきたんだよ、と続けて口にし、フライパンの中身をひとつまみ口に運んだ。
「そうか」
 深くは追求しない。伸がそうしたいと言うのなら自分も付き合ってみるまでだ。別に害がありそうにも思えないし。そんなことを考えながら、征士はテーブルの上に置かれたバレーボール大の金魚鉢を再度まじまじと見つめた。
 ガラスの中にたっぷりの水。そしてそこに揺らめく淡い黄色の開きかけの花。水中花だ。
 小さなテーブルの上でその水鉢は存在感を放っていたが、暑苦しい感じがしないのは水の透明感が勝っているからだろう。花も小振りで優しげだ。開ききったら変わるのだろうか? 子供の頃に見た水中花はもっとずっと派手な感じで、いかにも作り物めいた素材感があった気がする。
「開くまでどんな花になるのかわからないんだって。大きい花が咲く可能性もあるから、大きめの水槽をどうぞって言われたんだ。…でも大きすぎたかな?」
 伸が振り向き小首を傾げる。征士に対してというよりは、自分自身に問うような様子だ。
「大は小を兼ねる。いずれにしろもう買ってきたのだから今更言っても仕方あるまい」
 征士の言葉に、伸は低くうなっている。テーブルを挟んで征士はその様子をじっと窺う。すぐに気づいて伸が苦笑とともに肩をすくめた。
「何でもないよ。邪魔じゃないかなって思っただけ」
「邪魔ではない。…夏らしいと思う」
 征士はうっすらと目を細める。今度は伸も、やわらかい笑みを浮かべて花を見遣った。


 夏の夜はにぎやかだ。梅雨も明け、学生たちの夏休みが始まったともなればなおさらだ。二人の住むアパートにも通りからの声が届き、熱帯夜の空気とあいまって独特の雰囲気を辺りに漂わせている。
 その喧噪を閉め出すかのように、征士は部屋の窓を閉める。空調機具は備え付けの古いエアコンと各自の持つ小さな扇風機。リビングからの冷風を取り込むため、その横に位置する伸の部屋の入口を開けておく。
 やがて風呂から上がった伸は、すっかり涼しくなった室内に満足そうにやってくると、ベッドの端に腰を下ろして新聞を読む征士の耳の後ろに小さくキスを落とす。
「少し髪切ったら?」
 明日行ってくる、と短く答え、征士は新聞を畳んだ。途端に部屋が暗くなる。照明のスイッチを切った伸がベッドに戻ってくる。腕を伸ばし、彼の頭を引き寄せる。今度は深く口づける。
 征士の大学進学と同時に二人で暮らし始めて二年半。こういうことをするために同居を希望したのではなかった筈だが、なってみれば実に幸せな環境だと時に征士は強く思う。幸福か否かなどたいして考えたこともなく高校卒業の年まで過ごしてきたが、
「君が幸せなら僕はそれでいいよ」
 と、初めて肌を重ねた夜に伸に囁かれ、胸が痛んで眠れなかった。
 征士にとって伸は、もっとも年の近い従兄弟だ。それぞれの実家は離れた場所にあるが、家同士の行き来は比較的多かった。母親同士がとても仲のいい姉妹なのだ。その相性を受け継いだのか、征士と伸も子供の頃から妙に気が合った。
「あしたはバイト、なし?」
「ない」
 短く答えて鎖骨に歯を立てる。息を詰める伸の強張る身体をほぐすよう、胸から腹へと唇でなぞっていく。脇腹をさする左手がなんかいやらしい、とこれまで何度か伸に言われた。では他はいやらしくないのかと聞きたい気持ちを抑えたまま今に至る。
 時折強く風を吹き出すエアコンと忠実に仕事をこなす扇風機の音に、押し殺した伸の嬌声とベッドの軋みが混ざり込む。その不思議な和音に興奮を高めながら、この時間の長く続くことを深く征士は願った。


 グラスに麦茶を注ぐ手をふと止める。
 花が咲いている。鮮やかな橙色の水中花だ。
 征士は金魚鉢を上から覗き込む。丸く並んだ細長い十二枚の花弁。中央に小さく黄緑色の芯が見える。
『随分と違う形になったな』
 色が変わるどころか、花の種類まで違うではないかと征士は首を傾げた。自分が眠っている間に伸が別の花を入れたのではあるまいかとまで考えそうになる。
「それで何の得がある」
 損得勘定はあまり得意ではないが、伸が自分をからかって面白がるとは思いがたい。呟いておきながら肩をすくめ、征士は麦茶に口を付けた。
 十分ほどして起きてきた伸は、征士の向かいに腰を下ろすと両肘をテーブルに突き、嬉しそうに卓上の花を見つめる。上から見ると円を描いている花びらは、真横からは先端が浮き上がって逆三角形に見える。全体では綺麗な円錐だ。根元から伸びた細い紐状の葉が、ふわふわとその横で揺れている。
「僕の想像とはだいぶ違う変わり方だよ」
 やがてため息混じりにそう言って、伸はくるりと目を上げた。楽しそうな視線が征士を見上げてきた。
「どうやったらこんな仕掛けができるのだ?」
 真面目に尋ねてしまうのは征士の性分だ。
「そういうのは僕に聞かないで。完全に専門外」
 伸は経済学部の学生である。
「すまん、そうだな」
 苦笑しつつそれは自分も同じだと考える彼は法学部だ。
 伸から花へと目を戻す。いくら見たところで答えは見つからない。そんな少しの間の後に尋ねられた。
「征士は仕組みを知りたい?」
 見遣る先の伸は静かな表情だった。
「可能ならば知りたいと思う。不思議な現象だからな」
 そう…と呟いて、伸は目線を水中花に移す。
「僕はね、世の中には不思議なこともあったほうがいいと思ってるんだ」
 綺麗なもの、楽しいこと、素敵だと思う気持ち。理屈がわかってしまったらつまらなくなるものも、その中には含まれるかもしれない。
「伸はもっと合理主義かと思っていたが」
 意外に感じて首をひねる。すると伸は、妙に力なく微笑んで言うのだった。
「合理的なことだけ考えてるんなら、君を好きになったりしないよ」
 そうして、咄嗟に返す言葉が出ない征士に、
「ご飯にしようか」
 と目をそらして口にしながら伸は立ち上がり、二人の間に漂う想いを封じ込めた。


 橙色になった翌日に花弁はふたつずつに分かれ、二十四枚の朱色を華やかに水中に揺らした。これを、不思議、の一言で済ませてしまってよいものだろうかと征士はやはりどうにも落ち着かない。
 だが、伸はその変化に満足げだ。
「この調子でどんどん豪華になっていくのかな」
 彼の中でどんな想像が膨らんでいるのか、自分も目にすることができたらいいのにと征士は無言のままに思う。
 次の朝には真紅になった。花びらは横幅を増し、伸に牡丹の花を連想させたようだ。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
 朝食をとりながら彼は呟く。
「君はどれかって言ったら百合だね」
「――嬉しくないぞ」
 コーヒーを一口飲み征士は低く返した。花のようだと言われて喜ぶはずがあるか。そもそも女性の形容ではないか、と考えつつも、伸ならどうかと真向かいに目を向ける。
「あ。僕を花になんかたとえなくていいからね」
 すかさず伸が言ってくる。何とも察しがいい。
 小さく肩をすくめ、征士は特に何も答えずに食事を進める。可笑しそうに口元をゆがめた伸がちらりと花を見遣り、満足そうに目を細めた。その表情が征士に既視感を抱かせたが、それが何なのかはわからないまま彼はバイトに出かけた。
 夏休み中のアルバイトは、週三回の家庭教師と二、三回の建築現場の手伝いだ。だが、頭脳労働と肉体労働の極端な二分は、この夏で終わりにしたいと征士は思っている。学校での専攻に即したアルバイトを紹介してもらえるよう、学生課にも申請を出していた。
 一方の伸は、一応の就職活動もしてはいるが、主体はまだ別の部分にあった。週二日の家庭教師と、週三日の介護補助の仕事では収入的にはきつかったが、学生のあいだは両親に仕送りを頼むこともできるのでどうにかなっている。このうち、ボランティアから始めてアルバイトへと進んだ介護関係の仕事を続けたい思いも少なからずあり、大学卒業後の進路を決めかねているのだ。
 伸の思うようにすればいい、と征士は思う。今はアルバイトなので介護の仕事そのものをするわけではないが、話を聞く限り、伸には介護や福祉の仕事も合っているように思える。大学でやったことが無駄になっちゃうね、と苦笑し、資格を取得するまでの時間と決して良くはない収入について考えると気が重くなる、と伸は言うが、今のところ卒業後もこのまま同居を続けていきたいとも言ってくれているし、二人で暮らす分には経済的な問題はどうにでもなる筈だ。自分が就職すればまた違ってくるだろう。
 このところ、伸が介護施設へ出かけていくたびに征士はこんなことを考えたりするのだが、実際にこの日の彼が向かったのは電車で二十分の場所にある建築中の個人宅だ。夏場の現場は蒸し暑く埃っぽく、開始十分で汗が顎からしたたり落ちるが、その分、報酬は良く休憩時の飲み物もこの上なくおいしく感じられる。また、きつい作業でも一切不平を言わず的確に黙々と作業する征士は、重宝がられて指名されることも度々あった。
 日差しの強い中、約八時間働いて帰宅する。現場の水道で頭から水をかぶり、汚れた汗まみれのTシャツも着替えて電車に乗ったが、赤く焼けた肌だけは替えようがない。テーブルに肘を突いて料理本を眺めていた伸に、ただいま、と言った途端、
「君も色が変わったね!」
 と大笑いされた。


 赤い水中花は、色を少しずつ深くしながら三日間咲いた。
「結構、情熱的な花になったと思わない?」
 夕食時にそう言ってにやりとした伸は、今は征士の傍らで静かな寝息を立てている。
「次は紫。その次が青。色味的にそんな感じかなぁと思うんだけど、どうかな?」
 なるほどそれはありそうだと征士も頷いた。では花の形はどうかと尋ねると、
「そうだなぁ…バラみたいになるとか、逆にまたシンプルになっていくとか」
 と小首を傾げていた。
『薔薇、か――』
 紫の薔薇、青い薔薇。枕に頬を預けている伸の髪に軽く触れながら、征士は少し想像する。自分の中の伸のイメージとは違うようだ。
『もっと淡い色の、もっと印象の柔らかな…』
 そんな花のほうが伸には合うような気がする。何故そう思うのか、考えながら目を閉じた。
 次に目覚めたのは喉の渇きを感じたためだった。征士はしばらく耳を澄ましてから身体を起こす。エアコンがついたままだ。自動停止の設定にしておいた筈だったが、設定を間違えたのか、機械が壊れたのか。
 暗い中でリモコンを取り上げる。ピッ、という小さな音と共にエアコンが止まる。
 そのまま征士はキッチンへと向かった。煮出してから冷ますのがちょっと面倒なんだよねー、と言いながら伸が作っておいてくれる麦茶があるはずだ。だが、台所の入口まで来たところで、征士はぎくりと足を止めた。
 卓上に光があった。
 大きなものではない。むしろ蛍の発光よりも儚いくらいの小さく微かな光だ。それが妙にしっかりと見えたのは水中にあったせいかもしれない。
 ゆっくりとテーブルに近づく。銀色の輝きに、ほのかに浮かぶ水中花。その花弁のあちらこちらが、僅かずつ光っては消え、場所を移してまた光る。水に乱反射しながら動く輝きは深海の生物を思わせ、不気味さと不思議な魅力とで征士の思考をしばし奪い取った。
 ふっと頬に触れた風で、征士は我に返る。扇風機が首を振る、その動きに合わせて冷たい空気が流れてきた。
『伸を呼ばねば』
 思う心とは裏腹に、征士の足はその場に吸い付いたままだ。暗闇に慣れた目に花の変化が見えてくる。その色は、白。
 毎晩こうやって花は姿を変えていたのだろうか。それとも今この瞬間の変化だけがこうなのだろうか。そしてまた、この様子を目にする者が一体どれだけいるのだろうか。
 征士は息を詰めて水中を見守りながら、今度はさまざまに思いを巡らす。花はこうなってなお不思議な存在だ。けれど、これは果たして伸の望む不思議さと同種のものだろうか。
 揺れる花。流れる光。消えていく赤と淡く浮かび上がる白。どれもが曖昧で美しく、そして冷たく悲しげだった。
 一枚、また一枚、下方の花びらが水中に散る。底へと向かう途中でそれらは溶けて消え、その分だけ征士の胸に重い何かを沈めた。見る間に花は形を変え、やがて再び闇に沈黙した。


 目覚めると一人だった。伸がいた筈の場所は既に冷たい。
 開け放った窓から外の音が聞こえてくる。ラジオ体操第二、と記憶を呼び起こし、今でも夏休みの早朝には集団で体操をしているのかと密かに感心する。足元だけカーテンが少し開けられ、朝の光を部屋に呼び込んでいた。
 身体を起こし、前髪を掻き上げる。あ、起きた? と部屋の入口で声がした。
「そろそろ起こそうかと思ってたとこ」
 君より早く起きるのって快感、と伸は明るく言う。朝食のものらしいおいしそうな匂いが征士の気持ちを明るくさせた。
 すぐに顔を洗い着替えを済ませる。さっぱりしてダイニングに行くと、テーブルの上では金魚鉢が光を反射してさわやかに輝いていた。花は微かに銀色がかって見えた。
「昨日――」
「ん? 何?」
 つい言葉を漏らしてしまった征士に、伸は軽く顔を向けてくる。一瞬迷い、ごまかすような問いを口にする。
「…よく眠れたか?」
 うん、と笑って伸は頷く。
「そうか、それならいい」
 短く言って征士は炊飯ジャーの前に立つ。
「眠れなかったの?」
 背後からの声に、エアコンがずっとついていたことを話すと、あとで確かめておくね、と伸も答えた。
 二人分のご飯をよそい、征士は食卓に着く。目は自然と水中花に向かう。
「急に清楚になったね。予想大外れ」
 僕としたことが、と呟きながら、伸は焼いた鮭の切身を持ってくる。
「不思議だな…」
 本当に不思議そうに言った征士の言葉を伸は特に気にした様子もなく、二人は揃って食事を始めた。
 この日から快晴が二日続き、雨の日が二日続いた。土砂降りの中を家庭教師のバイトから戻ってみると、伸は冷ましかけの麦茶を飲みながらぼんやりとキッチンのテーブルの上を見つめていた。
「ただいま」
 声を掛けても返事がない。征士が金魚鉢を挟んで向かい側に座ると、ようやく気づいて顔を上げた。
「あれ? もうそんな時間?」
 一日中薄暗かったので、時間の感覚が曖昧だったのかもしれない。
「どうかしたか?」
 征士が尋ねると、伸は一度「何でもない」と言いかけたようだったが、すぐに口をつぐんで目を伏せたのに征士も黙って様子を窺った。
 弱い光の中、水中花はひっそりと咲いている。五枚弁の白い花は、つぼみの状態から三日掛けて半ばぐらいまで開いたきり、それ以上の開花の気配も色や形を変化させるそぶりも見せずにいる。僅かに覗く黄色いおしべが生花のように実りを望む錯覚を起こさせる。
「僕ね――」
 やがて、伸がゆっくりと話し始めた。
「面白かったら、持っていってみようと思ってたんだ」
「これを? どこへ?」
 伸は頷く。答えは予想できたが、征士は一応聞いてみる。
「緑水苑」
 伸の行っている養護老人ホームのことだ。
「でも、やめた」
 何故と問おうとした声を征士は飲み込んだ。小さな花に向けられた伸の視線は何かを迷うように揺れ、言葉を探すかのような少しの時が流れる間、緩やかに肩を波打たせて細く長く伸は息を吐いた。
「少し、淋しいと思う」
 ようやく選び出されたのはこんな言葉だった。
 淋しい、と、征士も胸の中で繰り返す。何も言わない造花の、人の想いを試すかのような変化。おそらくは作り出した者の思惑をはるかに超えて見る者の心に寂寥を抱かせた、清らかで美しく残酷な白い花弁。変わらない筈のものが変わること、続くと思いたいものが終末を予感させること、その中に、伸は己のどんな姿を感じたのか。彼が淋しいと言葉にする時、それを埋められない自分を征士は歯がゆく思わずにはいられない。
「苑でね、花を育ててる人がいるんだ。今年も梅雨明けぐらいから綺麗な花が咲き始めて、よかったですね、素敵ですねってみんなで言ってた。その人もすごく喜んでた」
 ふっと笑った伸を見て、征士の中に以前の彼の姿が浮かぶ。
『そうだ。花をもらってきた時の表情だ』
 数日前、真紅の水中花を見て笑んだ彼の満足そうな顔。それは昨年の夏に、小さな花束を手にして帰ってきた伸が、照れくさそうにしながらも心からの喜びを口にした時の表情によく似ていたのだ。
 ――育てた花が咲いたからって。いつも本当にありがとうって、その場で切って僕にくれたんだ。
 こう説明した伸を、やけに羨ましくそして誇らしく思ったことも征士は思い出す。
 だが、伸は声のトーンをいくらか落として続けた。
「なのに毎日、夕方になると彼女は泣く。終わってしまう、消えてしまう、自分を置いて行ってしまう、って」
 毎日泣くんだよ、と言って一度声を切り、伸は軽く唾を飲み込んだ。
「また次の花が咲くよ、それも終わっちゃったらまた次の花を育てればいい、って最初は言ってたんだ。でもね、そのうちにわかった。花だけじゃない、彼女にとっては、身の回りの全てが現れては必ず去っていくものなんだ」
 時々やってくる家族も、交代制の介護士も、ボランティアの学生たちも、同じ施設の住人も、花に飛び交う虫たちも、咲いては枯れる草花も、昇って沈む太陽も。
「去年はこうじゃなかった。花の世話をする彼女はいつでも楽しそうだった。しぼんでいく花にすら、しっかり種をつけなさいって笑って話し掛けていたんだよ」
 悔しそうに唇を噛む伸の、次の言葉を征士はじっと待つ。
「…この一年で、何があったわけでもないんだ。僕が知らないだけかもしれないけど、こうやって変わっていくのを見るのはやっぱり辛い。時間が経って変わってしまった、ってことしかわからないから――僕は、時の経過が怖いよ」
 それは多かれ少なかれ自分でも感じる怖さだ。伸だけが臆病なわけではない。ただ、それを本当に肌で感じるような出来事が今の自分にはない。だから、恐れず向き合っていくしかないと伝えたくても、言葉だけが空回りしそうで征士は口に出せなかった。
 言うべきことを見つけられず、静かな息を吐いただけで唇を結ぶ。急に濡れたままの衣服が身体を冷やしていくのを感じて肌を粟立たせた時、伸がすっと目を上げ征士と視線を合わせた。
「一年後、君は僕を好きでいるかな。二年後に、僕たちは離れて暮らしてやしないかな」
「伸」
 征士は思わず立ち上がる。テーブルの上に身を乗り出し、伸の両肩に手を掛ける。睨むよう強く瞳を覗き込むと、伸は苦笑と共に目線を落とした。
「ごめんね、先のことはわからないよね。こんなこと心配しても仕方ない、考えるだけ無駄だってわかってる。君は馬鹿正直だから答えに困るよね、それもわかってる」
 ほんと、だから、ごめん、と繰り返される言葉が堪らず、征士は伸の肩から手を離すと左腕をテーブルに突いて空いた右腕で彼の頭を抱え込んだ。明るい茶の柔らかな髪に頬を寄せる。
「そんな言い方をするな。私はこれからも伸のそばにいていいのだろう?」
 責めるつもりはないのに口調が厳しくなる。それがまた自分でも腹立たしく、さらに伸び上がり左腕を伸の肩へと回す。右の脇腹に水中花の鉢が当たったのがわかった。
 対して、返る声はひどく静かだ。
「もちろんだよ。できるだけ長く、なるべく近くにいて。君がそうしたいと思う限り、僕にそれが許される限り」
 命令でも約束でもなく、現時点での個人的な希望だけど、と小さく笑うのに、金魚鉢がテーブルの上で移動される気配が続いた。
「――でも、たとえその時間に終わりがくるとしても、こうして君が抱き締めてくれたこと、僕はきっと忘れないよ。……忘れたくないと、今は思ってるよ」
 私もだ、と発しようとした声は乾いて喉に詰まった。代わりに髪に指を絡ませると、伸も両腕を上げ、
「冷たい」
 と呟く。頬にも首筋にも背に回した腕にも、濡れた征士のシャツと髪が当たっていた。
「すまん」
 短く謝罪し、ゆっくりと髪に口づけ、小さなため息を漏らしてからようやく諦めたように征士は身体を離す。見下ろすと、伸は困ったように首を傾げて征士を見上げていたが、すぐに右手がそっと上げられ征士の頬に触れた。子供をあやすようなやさしい手だった。
 その手を取り、征士は自分の椅子へと戻る。繋いだままの指先を振り払うことなく、伸は征士から花へと視線を巡らせる。
「この花、どうやって終わるのかな」
「知りたいか?」
 伸はちらりと征士を見遣って苦笑しつつも頷く。
「うん。知りたくなった」
 そして花を見つめながら口にした。
「もし、終わりがあるなら、きちんと見届けたいと思うよ――どんな終わり方でも」
 声の確かさに似合わない指先の震えが伝わった。気づかぬふりで頷くと、
「髪、乾かしてあげる」
 と、彼はいつもの調子で明るく言った。
 立ち上がる伸に合わせて手を放し、征士も着替えてくると言い置いて伸から目を逸らした。


 深夜、花は、ゆっくりと溶けていった。
 音も光もないままに、不思議なほど自然に透き通り、欠片すら残さず消えた。
 二人は寄り添ってそのさまを見守った。言葉もなく、息も殺して。だが、伝わる体温も互いの鼓動もそこにある存在を確かに感じさせ、一瞬の夢のようだった花の記憶と共に手放さずにいられるようにと二人に願わせた。
 一つ取り残された金魚鉢に小さな魚が数匹棲むようになったのは、秋の初めのことだった。

掲載日:2009.09.22
伊達生誕祭2009にて発表。
もっとさらっと幸せそうなお話にしようと思ってたのですが、
水中花の寿命が延びるにつれて作品の内容も重めに…(^_^;)。
久しぶりに不思議アイテムを書けて楽しかったです♪


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