Pulse D-2

031. 去年

 家までの一本道を、当麻はぶつぶつ言いながら付いてくる。車の通った跡にも既に雪が積もり再び路面を平らにしようとしていたので、彼の文句も仕方がないのだろうが、征士は特に宥めるでもなく澄まして先を行く。
 門のそばには人影が見える。弥生だな、と思う征士を向こうも認めたのか、一度門内へと姿を消した彼女はまたすぐに二人を出迎えるように現れた。
「おかえり、征士。いらっしゃい、当麻さん。二人共いいところに来ましたね」
 威厳を備えたまま彼女はにこりと笑い、手にした雪掻きスコップとほうきを差し出した。
「ただいま戻りました。いい雪ですね」
「ええ、本当に」
 話しながら征士は雪掻きを、弥生は征士の荷物を受け取る。征士から竹ぼうきを手渡された当麻の荷物も手にして、当然のように家の中へと入っていった弥生を、当麻は恨めしそうに見つめた。
「来た早々、この扱い…」
 俺、凍えてんですけど、と呟く当麻に、
「良いではないか、家族同然ということだ。すぐに暑くなる」
 と言い放ち、征士は一度、当麻の帽子とコートの肩に乗った雪を払う。歩きにくくて傘を閉じてきた当麻は、雪を被って見るからに寒そうだ。だがそれでも、征士の言葉に小さく口許を歪める。そうして照れ臭そうに目をそらしたのを征士も嬉しく見遣ってから、道脇の田んぼへと大きく雪を落とした。
 去年は一人でこの作業をしていたなと、征士は静かに思いを巡らせる。あれから一年、当麻はどんな思いで過ごし、今日、ここへ来たのだろうか?
「去年は俺……寝てたな、一日中」
 年末に食べ物を買い込んでそのまま寝正月になだれ込んだ、と背後で当麻が笑って言う。
「どちらがいい?」
 手を止めないままに征士は尋ねる。顔を上げ、彼を見遣る当麻の姿が視界の端に映る。
「さあ?」
 ちらりと目を向けたその先で、当麻の掃いた雪が細かく舞った。

掲載日:2005.01.16

032. 夢なのか?

「君の将来の夢は何?」
 昔から当麻は、この手の質問が嫌いだった。言外に、「何にでもなれるもんね。こっちの希望通りの答えを言ってみせてよ」という思いがあるのを、感じ取ってしまうからだ。
 だから就学前には、内緒、と答え続け、小学生になると難しそうな職業を選んで適当に返し、中学生の時には「仏門に入ります」で通した。社会生活から隔絶されたトルーパー時代はある意味出家するのに似ていたと、後に思ったりもしたものだ。
 高校に入ると、夢は進路という名称に変わり、具体性を求めて当麻に迫った。さすがに何にでもなれるとはもう思っていなかった。むしろ、どの道へ進めば自分を失うことなく生きていけるのか、どんなに考えても答えが見つからず悩み続けていた。最後に分かったことは、最も側にいたい人物から可能な限り早く離れなければいけないということだった。
 そうして選び取った大学生活の中で、環境や将来性には満足しながらも、常に消えることのない痛みを胸に抱えている自分に気付いた。夢は、財産でも職業でも決められない場所に見えていたことを知った。
 幸せになりたい。それだけだったのだ。
 知力だけではない、運だけでもない、もっと複雑でそれでいて単純な、人間関係というもののなかから生まれてくるもの。自分が欲しかったのは、信頼と安らぎを軸とした幸福感だった。そして、それを得られる場所は、一箇所しか思い浮かばなかった。
「夢見んのも、自由じゃねえんだな…」
 当麻の帰りを待つと、征士は言う。
「当たり前みたいに言いやがって――」
 彼の手を自分は振り払い、酷い言葉で彼を傷つけて離れたというのに。
 夢は儚く消えてこそ夢なのか。それとも、叶えてこその夢なのか。
 堂々巡りの思考の中で、征士の悲しげな顔ばかりが浮んでは消えた。

掲載日:2005.01.22

033. 拒絶

 遼の背中は一所懸命、秀の背中はエネルギッシュ、君の背中はとても偉そうで当麻の背中はすごく冷たい。
 いつか、伸に言われた言葉だ。
 文句を言うだけ言って背を向けた当麻に、征士は伸のこの言葉を思い出す。
 冷たい背中――初めて目にするわけではない。これまでにも何度も見てきた。その背を頼もしく感じることもあれば、悲しく思った時もあった。憎らしくて無理矢理振り向かせたこともあれば、ひやりとしたものを胸に感じながらなすすべもなく見遣ったこともあった。
 だが、今はいずれでもない。征士の中にあるのは、静かな怒りと深い後悔だ。
 玄関を出ていく当麻を引き止めれば、彼はひとまずこの場には留まるかもしれない。いつになく感情的になって当麻の言い分も聞かずに怒鳴りつけたことを詫びれば、とりあえずは部屋へ戻るかもしれない。けれどそれに、現状に対するどんな効果があるというのか。
 浮気、という言葉が、自分たちにも当てはまるのかどうか、征士には確固とした意見を述べられる自信がない。ただ、当麻がその手の意識をもって他者と過ごしていたこと――しかも征士の誕生日の夜にまで――を知って、昏い怒りが湧き上がってくるのを止めることができなかったのだ。
 返す当麻は直接的な答えを述べない。これは抗議だ。俺の気持ちを分かれよ、という当麻の抗議だ。そして冷たい背中の意味するものは、徹底した拒絶だ。分からないなら一緒にいたって仕方がないと、征士の怒りも悔しさも撥ねつける、当麻の強い決意だ。
 ここまでは分かるのに、その先を考えて話し合うことが征士にはできない。まだ、そこまで冷静にはなれない。
 オートロックの扉が閉まる。
 二人を隔てる確かな壁を感じ、征士は深く息を吐いてソファへと沈んだ。

掲載日:2005.02.13

034. タイル

「なぁ、こういうのはどうさ?」
 目に付いた住宅を指し、当麻は軽く尋ねた。
「うむ…」
 征士は短く、肯定とも否定ともつかない声を返す。当麻はそれを、否定と解して話を進めた。
「ま、お前には和風のほうが似合うけどな」
「そうか?」
「そ。中身が見た目を裏切るからな、お前」
 自覚があるのだろう。征士は特に反論することもなく、目を建物へと戻した。彼らが話題にしたのは、壁のところどころに茶と薄茶のタイルの貼られた、まだ新しい小さな一戸建てだった。
「お前はタイルっていうより漆喰って感じだし、レンガっていうより瓦って感じだよな」
「そう言うお前は、タイルより土器、煉瓦より埴輪のほうが好きであろう?」
 今度は言い返す征士に、当麻は声を立てて笑う。
「確かになー。埴輪はいいぜー、あれこそ芸術だって」
 それはよく分からん、と征士が呟いた。
 静かな夏の午後にひとしきり笑い声を響かせてから、当麻は思い直して隣を向く。
「じゃなくって、家だろ、家。どういう家にするかって話だろ」
 二人で住む家を建てることに決めたのは、二か月ほど前のことだ。だが、まだ具体的な話は何ひとつ進んでいない。
「そうだな…」
 いつもそこで征士は言葉を切る。多分、彼の思いは実家の建物へと向かい、それゆえに次の言葉を告げられないのだろう。当麻の苦手意識を知っているのだ。だから、当麻のほうから口にする。
「もう一つ好きなもの、足してやろうか?」
 目が合うと、当麻はにやりと笑う。
「書院造」
 少なくともタイル張りよりは二人とも落ち着く筈だ。
 澄まして前へ向き直し、記憶の中の征士の実家へと当麻はそっと思いを寄せた。

掲載日:2005.02.20

035. 意味

「気持ちが伝わらないなら二人でいる意味なんて無いだろ」
 それは極論だろうと征士は思うが、当麻の基本的判断基準が『要不要』であることを考えると、多少は理解できる気もした。
 気持ちが伝わるという点では、仲間たちの中でも征士と当麻はその率が高かったと言える。勿論、常に以心伝心などというわけもなく互いの行動や意見に驚くこともあったが、それがまた余計に楽しく、当麻の突拍子も無い思いつきに心が浮き立つのを征士は時折感じてきた。だが、そう好意的に受け止めてはいられないこともあるのだ。
「当麻、起きているか?」
 部屋のドアをノックする。短い沈黙の後に、低く肯定の声が返る。
「昨日の続きを話し合いたいのだが」
 正確には、前夜の喧嘩の決着をつけたい、という意味だが。
 近づく気配がある。しかし扉は開かない。
「昨日はすまなかった。お前の話を聞かず一方的に怒鳴ったことは謝る。あれは私が悪かった。だが、本当に許せなかったのだ」
 昏い怒りは消えたわけではない。それは決して消えることなく征士の中に留まり、より深くより大きな感情の一部となるのだ。
「怠っていたな、私は」
 想いを伝えるということを。一緒にいることに安堵して、その状態に慣れすぎて。当麻の浮気はその罰だ。そう認めたうえで伝えようとすることにもまた、意味はある筈だ。
 扉が開く。当麻がきつく征士を睨む。
「たまにはそうやって本気で怒れよっ」
 そして彼はいつでも、悔しそうに泣くのだ。
 言えやしない。そう思いながら、最も伝えたい言葉を押さえ込むよう、歯を食い縛って。
 だからこそ、きっと、一緒にいることに意味はあるのだ。縛り付けることなく、けれど確実にお互いを結ぶ心の繋がりを、静かに保っていけるように。
 青い髪に頬を寄せ、強く強く抱き締めた。

掲載日:2005.03.06

036. 小包

 入ったばかりのマンションの玄関チャイムにもようやく慣れた。当麻が思っているうちに、部屋の扉を征士が叩く。
「大層な荷物が届いたぞ」
 ああ、そういやそうだった。
 新しく買ったパソコンが届くことになっていたのだ。当麻がリビングへと足を運ぶと、過剰包装ととれなくもない大きなダンボール三つと、不機嫌そうな征士が待っていた。
「んな顔すんなってー」
「別に、いつもどおりの顔であろう」
 まぁそう言えなくもないけどな、と気にせず当麻は梱包を解き始めた。
「分かり切ったことを聞くようだが――」
「ん?」
「嬉しいか?」
 当麻は顔を上げる。立ったままの征士が、今度は不思議そうに当麻を見下ろしていた。
 質問の意味をよく考えてから当麻はにやりとして、照れ笑いしそうになるのを抑えた。
「わっくわくすんだよ、荷物開けるのって」
 更に首を傾げた征士から目を逸らし、箱をいじりながら当麻は続ける。
「嬉しかった記憶が鮮明だからだろうな。航空小包の中から更に小さな包みがいくつも出てきてさ、すげー楽しかった」
 何人もの人が自分のことを考えてくれたのだと思うと、それだけで胸が熱くなった。その相手が征士の家族なら尚更だった。
「それは――」
 しゃがみこみ、確認するように征士が目を合わせてくる。当麻は小さく頷く。
「お前んとこから送られてきたプレゼント」
 海外の大学へ通う当麻へ届けられた、誕生日のプレゼントの記憶だった。一つひとつはなんということのない品々でも、当人たちには深い意味のある贈り物だった。
「ま、この先お前からそんな小包が届くことはないだろうけどな」
 一緒に住んでるんだし。
 言って、当麻は部屋を見回す。そうして、
「お前が望むならいくらでも」
 と、澄まして口にした征士に、喉の奥で楽しそうに笑った。

掲載日:2005.04.13

037. 館

 当麻の部屋の乱雑さには、征士は目を向けないことにしている。それは個人の空間であり、他人がとやかく言うべきものではないと思っているからだ。
 勿論、物申したくなることはある。更に突然、その巣穴のような部屋の中で工作を始めたりするのはどういう神経なのか。怒りも呆れも通り越すというものだ。
 一度だけその様子を目にした伸に、
「君が指導しなくてどうするんだい」
 と言われたが、逐一反応していたのでは身がもたない。彼のことだけで日を送れるわけではないのだ。
 そしてこのところの当麻は、困ったことに模型に凝っている。年代順に並ぶ飛行機、船舶、汽車、電車。また、対象は乗り物に限らず、木製の姫路城や平等院鳳凰堂などを作られた時にはさすがに征士も製作過程を見守ってしまった。さして器用ではないはずの当麻だが、集中力の勝利とでも言うのか、完成作品の出来は文句なしだった。
 結果、模型は恐るべきはやさで増え続け、彼の部屋だけでは収まらなくなる。
『模型の館って感じ?』
 当麻は笑って言うが、事実、リビングは展示室のようだ。
「良い出来だがな…どこに置くのだ?」
 軽く新作完成、と上機嫌で現れた当麻に、銀閣寺とはこれまた渋い選択だな、と征士は内心呟く。
「んー…俺には博物館一つくれよ。そしたら片付くって」
 自分で作るまでもなくなるしと戯けたことを口にする。
「そういう問題ではあるまい」
 溜め息混じりに言えば、当麻はさらりと無視し、
「あ、そういやさ」
 と別の話を切り出した。
「鹿鳴館の模型が――」
「作らんでいいぞ」
 すかさず返すと、違うってー、と当麻は苦笑する。
「展示されてるらしいから一緒に見に行こうぜ、って話」
 征士と目を合わせて、にっと笑う。
 こういうところに弱いのだと、人生で何度目かの確認をしつつ、つられて微笑みそうになるのを思い直す。そして、
「お前の部屋が綺麗になったらな」
 と、征士は表情を引き締めて言い放った。

掲載日:2005.04.23

038. 朝のできごと

 休日に揃って朝食をとることは稀だった。というのも、当麻は用事がなければ平気で昼過ぎまで眠るからだ。
 皆で暮らし始めた当初こそ、そんな生活態度を改めさせようという意見もあったが、いくら言っても当麻本人にその気が皆無なのは明らかだったため、言うだけ無駄、苛々するだけ損、と伸が放り出したのを機に、休日に限り叩き起こされない平穏な朝を当麻は手に入れたのだった。
 ところが。
 当麻自身、狭量だなと思うところではあるのだが、遅く起きたがためにつまらない思いをすることもままあった。
 たとえば洗濯物を出しそびれる。食べ物がなくなる。外出の際の頼みにしていたナスティの車に乗り損なう。話の輪から外れる。一つひとつは小さなことで、皆もわざとそう仕向けているわけではない。それはわかる。わかるのだがやはり面白くはなかった。
「あ、ほら、これだよ」
 遼が雑誌片手に征士に話し掛ける。征士が新聞から目を上げる。ああ、なるほどな、と呟きながら静かに頷くのが妙に癇に障った。
 何の話か尋ねるのも億劫で、当麻はソファを立とうとする。すると、
「すまん、忘れていた」
 と言って、征士が先に腰を上げた。付いていくような形になりながら階段を上り、二人で部屋へと入っていく。
「朝のうちに郵便が届いてな」
 征士が机の上から取り上げたのは、遼の父親が送ってきたという写真だった。
 夜明けの瞬間のぴんと張り詰めた空気。群青の空に、遠く一羽、胸を張る鳥の姿。
「本には使われなかったそうだが、遼から聞いた私たちそれぞれのイメージらしい」
 そう言う征士の手にした写真は、大樹の間を縫って射す細い光のもとで静かに朝露を輝かせる若木を写していた。
「私も早く、お前が羽を休められるような木になりたいものだな」
 征士の言葉に神妙に返す。
「隣で寝てられれば十分です」
 そうして右手の写真を翳し、照れた口元を隠してみせた。

掲載日:2005.04.30

039. 証明

 例えば何か気持ちを試すようなことを、二人で暮らすようになって後、征士は当麻から殆ど言われたことがない。友人たちからは口々に意外だと言われたが、言葉にしろ物にしろ、その他の生活における約束事や条件にしろ、当麻が強く願いその結果として征士が行動するということは滅多になかった。それは当麻が望まないからではなく、征士が進んで行うことが当麻の希望にも沿うことが多かったからだ。
 だから、突然の浮気には征士も混乱した。頭の中が真っ白になって、常になく怒鳴って、冷たく返されて――漸く気付いた。
 当麻が欲しがったのは明らかな想いだ。次第に慣れて空気に溶け込むような柔かく温かいけれど静か過ぎる好意ではなく、独占欲にも繋がる荒々しいけれど彼を引き止めずにはおかない強い感情だった。
 たまには本気で怒れと、もっと彼のことを見ていろと、そう言った当麻に、征士は何も与えられなかった。
「証明してみせる手段を思いつかんのだ」
 すまん、と呟いて、当麻の頬へと口づける。
「もういいって…俺も、いきなり悪かったよ」
 裸の肌を合わせながら、当麻は苦笑を浮かべる。
「俺にも何もない」
 証明する術などない。繋ぎ止める方法もない。二人でいなければいけない理由も変わらず想い合える保証も、目に見える形で示せるものなど何一つない。
「だから愛想が尽きたらいつでも捨ててくれ」
 と、つまらない論文でも読み上げるように当麻は言う。
「馬鹿なことを…」
 当麻のそんな言い方が征士は大嫌いだった。嫌い、というよりも、怖い、に近かったかもしれない。だが、今それを言わせているのは自分なのだ。
「十分だ。お前が私のそばにいれば――それで十分だ」
 そうして当麻の肩口に顔を埋めた。
 こんなふうに抱き締めることでしか彼への想いを表現できない。その不甲斐なさ、悔しさ、申し訳なさ。
 なのに背に回された当麻の腕の力の強さに安堵する自分に、征士はそっと溜息を吐いた。

掲載日:2005.05.18

040. どきどき

 驚いて、ひゅっと息を吸い込んだ。その間にも状況が飲み込め、慌てた自分に当麻は苦笑する。驚くほどのことじゃない。目の前に征士がいただけだ。
 目を開けた時そこに彼の姿を見ると、当麻は胸の高鳴りと同時に様々な感情が湧き出してくるのを感じる。今も昔も。違うのは、少し離れた別のベッドに見るのではなく同じ布団の中で間近に彼を見ることだけ。
 雨降って地固まる。ぽつりと浮かんだ言葉に、今の状態はまさにそれだろうかと当麻は思う。
 直接的に雨を降らせたのは自分で、固いと思っていた地面がやけに頼りなく感じられたからこその行為だったはずだが、現状に落ち着いてほっとしている度合いは征士よりも自分の方が大きいだろうとも思うのだ。
 以前、別れを告げた時のように、また静かに身を引かれるのではないかとも考えなかったわけではない。本当は逃げ出したいくらいに怖かった。それでも、恨み言の一つも言ってやりたかったのだが。
『試すようなことはするもんじゃない』
 不義の真似事をしてみせた自分を小さく戒めた。
 当麻の髪に額を寄せるようにして征士が眠る。頬に落ちかかる金髪に当麻は手を伸ばす。りん、と指先から音の伝わるような感覚。再び目を閉じ意識を澄ますと、耳に心地よい程度に高音の、軽やかに光の弾けるような音が流れ込んできた。そこに混じる心音の優しさに、初めてそれを聞いた時の記憶が重なった。
『あれ。起きたかな?』
 不意に音が揺れる。と同時に、頬に当てたままだった左手を征士の右手が掴んだ。咄嗟に目を開けると、一瞬おいて征士がふっと口の端を上げた。
『やっぱり起きやがった』
 手を握り返すと、少しだけ心拍音を表す揺れが大きくなる。不愉快ではない酩酊のように、気持ちが解きほぐされていく。
 この小さな高揚と柔らかな鼓動を抱えて、共に在り続けられればいい――
 胸に満ちる征士の心の音に誘われるまま、当麻は穏やかな眠りに落ちていった。

掲載日:2005.05.20

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