Pulse D-2

041. 眠い

「寝ぼけたお前を見てみたい」
 当麻にこんなことを言われたせいだろうか、目が覚めたと自覚してから実際に目を開けるまでに、征士は常よりもだいぶ長く間を取って自分の状態を探ってしまった。
『こうしていること自体、寝ぼけることからは遠いのであろうな』
 考えて苦笑する。どうやら今朝も『寝ぼけたお前』はいないようだった。
 決して眠くないわけではない。早朝・深夜は当然眠気が訪れるし、時には日中に睡魔に襲われることもある。休日には昼寝をする当麻に肩を貸し、こちらもうたた寝をする時もある。ただ、寝つきも悪ければ寝起きも悪い当麻と違い、征士はどちらも早いだけなのだ。
『スイッチ式か、私は』
 もう一度苦笑を漏らし、征士は自分の中のスイッチをONにした。
 瞼を上げて最初に見るのが当麻の朝、正直な話、この寝室以外の世界などいらないと思う。その他の一切を忘れて、当麻と過ごす時間さえあればいい。そのほうがきっと、当麻にとっても余計な悩みのない暮らしになるだろう。もちろん、そんな後ろ向きの考えは二人とも好みではないのだが…。
 征士の思いを知ることなく、当麻は静かな寝息をたてる。耳元の髪を撫でつけるよう手を伸ばすと、当麻は掌に頬を寄せてくる。覚醒してはいないようだがかすかな笑みが見えていた。
『お前の起きている時に、私が眠いなどと思える筈がないではないか』
 見つめるたび、触れるたび、全てを捕らえておきたくて必死になる。目を逸らしたら、手を離したら、消えてしまうのではと不安になる。それでも当麻の言葉を思い起こし、征士は心を鎮めるのだ。
『征士といると安心して眠れる』
 その言葉を信じよう。そして彼の眠りを守ろう。
 眠いふりをして当麻を抱き寄せ、静かな休日の朝の空気に征士も再び溶け込んでいった。

掲載日:2005.06.09

042. 早いね

 鈍い音を立てる階段を、当麻はできるだけ静かに下りていく。まだ暗い廊下を抜け今度はもう少し大きな階段を下ると、誰もいないだろうと思っていたリビングのドアから漏れる明かりに気付いた。
「あれ、おはよう。今朝はみんな随分早いね」
 室内にいたのは伸だった。テーブルの上に教科書とノートが広げられている。
 みんな? と尋ねると、みんなって言っても三人だけだけどと笑ってから、伸は、
「僕と君と征士」
 と付け足した。
「征士、起きてるのか」
 確認するよう呟くと、その表情を伸が覗き込む。少々居心地が悪い。
「素振りしてくるって。珍しく寝不足の顔してたよ。君もだけど――というより当麻、もしかして寝てないのかい?」
 きっと自分はひどい顔をしているのだろうと当麻は思う。征士が部屋にいないのを知らなかったことをばらしてしまったので、当麻が自室にいなかった事実も伸は知った筈だ。そして恐らく、自分たちが喧嘩していることも勘付いただろう。…ますます居心地が悪い。
「せっかく早起きしたんなら君も散歩でもしてくれば?」
 追い出されるように家を出る。しぶしぶ裏庭へ回ると、すぐに征士の姿が見えた。きっちりと剣道着を着込んでいるのは気を引き締めている証拠だ。
 振り向かないままに動きを止め、短く当麻の名を呼ぶ。当麻が答えずにいると、征士は振り返りまっすぐに目を合わせてきて、意外なほどあっさりと頭を下げた。
「すまなかった。つまらん嫉妬をした」
 そうして俯く姿勢を保つのに、当麻は軽く吹き出す。
「お前、早いよ、反省すんの」
「仕方あるまい。私はお前に惚れているのだ」
「…そりゃ、どうも」
 笑ったまま答えて歩み寄り、征士の肩に両手を掛ける。
「正直言うと、正面に同じ」
 当麻の言葉に一瞬考え込んでから、征士は破顔して口づけた。
『君たちは仲直りも早いんだね…』
 呆れて口にする伸の姿が、当麻の脳裏を掠めていった。

掲載日:2005.06.10

043. フレーム

「征士!」
 聞き覚えのある声に振り向くと、パシャリとシャッターを切る音が続いた。驚く征士にもう一度。笑ったところでもう一枚。
 さすがに苦笑すると、ファインダーを覗き込んでいた遼が顔を上げ、
「久しぶり!」
 と楽しそうな笑みを見せた。
 夏休みを利用してほぼ一年ぶりに柳生邸で顔を合わせると、やはり誰もが成長したという印象を受けた。なかでも遼はもとのイメージが幼かったため、一年も会わずにいるとぐんと大人びた感じがした。
「やっぱ当麻は来ねえのか」
 つまらなそうに発せられた秀の言葉に征士は頷く。広いリビングには当麻の姿だけが無い。
「だが連絡は取れている。元気にしているようだから、まあ良しとしてやってくれ」
 行方不明ではないだけましだと告げて、征士は話を打ち切った。
 夕食はベーべキューにするのだと言ってナスティが準備を始めた頃、空は柔らかな金に少しのオレンジを混ぜた優しい色合いに染まっていた。その空を写していた遼が、鉄板を運ぶ征士に気付いて再びシャッターを押す。
「当麻にたくさん送ろうと思って」
 バイト代をためて買ったというカメラを、遼は一日じゅう離さず持っていた。写真家になるべく勉強している筈の彼の撮る写真は、征士にとって楽しみなものだった。
 だが、当麻にはどうだろう?
 ほんの少し考えて黙り込んだ征士から空へと目を戻し、遼が静かに言葉を連ねた。
「『フレーム』って言葉には『温床』って意味もあるんだって。人の心を温めて、情を育てる苗床だって」
 ファインダーの中に見える温かな光景。そこにある思いをこそ見る者に届けたい。遼の写真の師匠は彼にそう語ったそうだ。
 遼は征士に視線を下ろす。
「きっと届くよ。征士の気持ちは、当麻に届くよ」
 そうあって欲しい。いや、遼が言うのだ、信じよう。
 願いと信頼をこめて、征士は深い頷きを返した。

掲載日:2005.06.11

044. 飛んだ

「真っ青…」
 不思議そうに口にして、征士が当麻の胸から顔を上げた。
「俺?」
 問うと、征士はゆっくりと頷いて当麻の髪を梳く。くすぐったそうに目を細め、それから落ちてきた唇を当麻は静かに受け止めた。
「今日は一日中よく晴れてたからな」
 昼間見た空があまりに綺麗でそのイメージが残っているのだろう。当麻の心を色として感じる征士にそれが反映されているのだ。
「もう一度、空を飛びたい」
 見つめてくる目を感じながら、当麻は伏し目がちに視線を逸らして言う。鎧を身に纏っていたあの頃のように、上空の風を感じたい。心が空を恋しがっているのだ、きっと。
「なんてさ、たまに思うんだ」
 顔を見なくてもわかる。征士は今、悲しそうな表情をしている筈だ。何度、不安も悲しみも不要だと言っても、征士の中から当麻を失った時の痛みが消えることはない。わかっていながら話す当麻には、征士の胸のざわめきが幾種も重なる鈴の音のように聞こえる。
「結界を張るとな、全ての空間が俺のものって感じがした。エネルギーの流れがいちいち掴めて面白かったよ。敵の波動も、それから、お前の鼓動も」
 目を上げて、金の髪へと手を伸ばす。引き寄せて、口づけて――にっと笑う。
「――ていう話をお前にするだろ? そうするとお前は寝つくまで考えて、そのまま夢を見るみたいなんだな」
 それは抱き合って眠る当麻にも伝わり、結果、似たような夢を見ることになる。
「…いいように利用されているな、私は」
「あったり~」
 さらに笑う当麻を軽く睨みつけてから、征士も仕方なさそうに照れて口元を緩めた。
 夢の中、青い青い鳥になって、溢れる光の中を飛んだ。

掲載日:2005.06.12

045. リズム

 どうやらほぼ三年周期らしい。
 機嫌よくトーストにバターを塗っている当麻を眺めやりながら、征士はふと気付いて頭の中で自分の年表を広げた。
 十五歳で同居を始め、十八歳で一度捨てられ、行方不明の一年ほどを挟んで二十二歳で再び会うようになり、二十五歳で家族や自分たちの将来について悩み、二十八歳で浮気に近い真似をされ、三十一歳で共用の土地と家を買う決意を固めた。
 三年。それくらいの時間を置いて、当麻は何やら自分の感情のはけ口を求める傾向にあるようだ。
 そうすると、と思ったところで当麻と目が合う。パンにかじりついたまま、視線だけで何だ? と尋ねてくる。
「いや、気にするな。何でもない」
 平然と答えてコーヒーを口に運ぶ。当麻も特に深く追求してはこない。
『ひとまず今年と来年は安泰だな』
 などと考えて、馬鹿者、と征士は即座に自分を叱りつけた。
 当麻が何かを訴える時、それは即ち、自分が彼に不満や不安を抱かせていることの証でもあるのだ。それを棚に上げて安泰だなどと言っているようでは、本当に捨てられる日がくるかもしれない。
「――何、難しい顔してんだ?」
 正面からの声に我に返る。眉間に皺が寄っているのが自分でもよくわかった。
「いや、気にするな」
「気にするって。コーヒー不味かったか?」
 いつもと違う豆だったからなーと自分でもカップを手にした当麻に、ふっと胸の中の曇りが晴れるのがわかった。
「この先何度、『三年目』を迎えることになるのかと思ってな」
 は? 三年目? と当麻が眉根を寄せる。
 そう、三年。そんな当麻のリズムに翻弄されながら生きるのもまた、それなりにおもしろい人生だろう。
「なあ。何だよ三年目って?」
 答えないままにサラダの中の綺麗なプチトマトをフォークに刺す。そっと差し出した赤い球に、当麻が笑って歯を立てた。

掲載日:2005.06.13

046. 視線

 妙に目が合うな、と思ったのは自分だけではないらしい。
 慌てて視線を逸らしながら、当麻は心の中で「参ったな」と呟いた。
 梅雨が明けた頃からだろうか。どこか自分自身、そわそわしている感じがあった。原因は間違いなく共に暮らす仲間にある。
「少し前から気にしてはいたのだが…すまん」
 再び征士の姿が視界に入り、焦る気持ちを悟られまいと当麻は息をつめて目を上げる。
「すまんって、何が?」
「つい、お前を見てしまって――取り立てて理由は無いのだが…」
 何となく目で追ってしまうのだと言って、征士はもう一度頭を下げた。
「あ、いや、まぁ…それはこっちもだし」
 頭を掻きながら告げると、今度は軽く首を傾げられた。
「私の視線が気になったからではないのか?」
「ん? あぁ、そうだなぁ――」
 見られているのに気付いて目を向けたのか、それとも先に自分から征士を見たのか。確かな判断はできなかったが、多分、半々なんじゃないかと思ってみる。
「よくわかんねえし、とりあえず嫌なわけじゃないから別に謝んなくていいって」
 答えを待っているらしい相手にひとまずそう言うと、更にじっと当麻を見つめたまま考え込まれ、どうにも対応に困った。
「では――」
 ようやく征士が口を開く。
「今後も同じことがあると思うが、構わんか?」
「………は?」
 お前何言ってるかわかってるか? と聞きたくなるのを押し止める。照れと混乱と笑いとが込み上げ、腹に力を入れて当麻は顔を引き締める。
「わかった、許可する。ついでにお互い様ということで、こちらにも了解をもらえるか?」
 真面目そうに言ってから、堪えきれずに吹き出した。見遣る先では一瞬のちに、すっと視線がやわらいだ。

掲載日:2005.06.15

047. スイッチ

 伸の横に遼が立っている。それは時折見かける光景だ。
 たとえば洗濯物を干す時、取り込む時。または食事の準備の時、食卓を用意する時。一緒に作業をしていることもあれば、伸からの指示を受けていることもあったが、征士が最もよく目にするのは、出来上がった夕食をテーブルへと運ぶ姿、そしてそれを伸から受け取るべく待機している姿だった。
「で?」
 話を聞いていた当麻が、先を急かすように征士の目を覗き込む。
「いや…何かに似ているような気がするのだが、それが何なのか今ひとつわからずすっきりせんのだ」
 前髪を掻き上げながら、征士は困ったように口にした。何かって言われてもなぁ、と当麻も軽く頭を掻く。
「犬っぽいとか、そーいうことか?」
 言われてしばし考え込む。少し違う気がした。
「それでは主従じみているではないか。そうではなく、もっと対等で、結びつきに深い意味のあるような――」
 ああ…と、征士の言葉を遮って、合点のいったらしい当麻の声がした。
「それはあれだな」
 そんな言い方では全くわからんのだがと、征士は眉根を寄せ掛ける。気にせず自分の机に向かった当麻は、すぐに紙片を差し出した。
「――うむ。これかもしれん」
 一センチほどの間隔をあけて、小さな白丸が二つ。そのうちの一つからは、やはり一センチくらいの直線が斜めに伸びる。円の左右には五ミリ程度の水平線。描かれていたのは、電気の回路図に使う記号――スイッチだ。
「待ち受けている様子が遼に似ているな」
「ぴたっと繋がる感じが気持ちいいよな」
 征士の感想に答えてから、それに、と当麻が続ける。
「信頼してるっぽくて、良くないか?」
 紙面を見つめたまま、征士も二、三度頷いた。
「スイッチ・オン」
 声と共に当麻が真横から征士の左肩に額を当てる。流れるエネルギーを感じながら、征士も笑って頬を寄せた。

掲載日:2005.06.16

048. メモ

 書き置き、伝言、置き手紙。
 遅い午前中に起きてみたらキッチンのテーブルに紙が置かれていた。そんなことは比較的よくあることだった。
 今日は何ですか? と思いながら目を落とした当麻は、それが買い物を頼むものであるのを知って小さく苦笑する。
「たまには何かこー、色っぽいこと書けんかね、征士よ」
 取り上げて光に透かしてみる。勿論、何が変わるわけでもない。ただ、リストに含まれている食品名から、今夜は早めに帰ってきて夕食を作るつもりなのだろうかと希望的観測を浮かべてみせた。
 簡単な食事をとった後、店のすいている時間帯を見計らって当麻は買い物へと出かける。
 征士のメモを見なくても、何を買うかはすっかり頭に入っている。だが、彼のメッセージはどうにも細かい指示が多く、それらを間違えないよう念には念を入れて、小さく折った紙を持ち歩くのが常だった。
 そこに書かれたメーカーの指定やら分量やらを確かめつつ、当麻は商品をカゴに入れていく。そのうちに、
『昔は食品の鮮度の見分け方まで書いてあったっけな』
 と思い至って、思い出し笑いに頬を緩めた。
 征士自身、一人暮らしを始めるに当たって、いろいろと調べたり学んだりしたらしかった。几帳面で自覚は薄いが完璧主義でもある彼は、それら全てを小さなノートにまとめていたものだ。
 そういえばあのノートは今でもあるんだろうか?
 ちらりと考えて、その出番のなくなった自分たちの生活を思う。と同時に、こんなことにまで二人で過ごしてきた歳月を感じる自分に脱力した。
「それにしても――」
 気を取り直すよう、わざと声に出しながら改めて征士の覚え書きに目を向ける。
『メモの文字まで几帳面な奴…』
 無地の紙にまっすぐに並ぶ形良い文字。
 真面目な顔でペンを走らせる征士を想像し、当麻は満足そうに目を細めた。

掲載日:2005.06.17

049. 思い出せない

 当麻の顔を見ると同時に深く息を吐き、征士はベッド脇に置かれたパイプ椅子へと腰を下ろした。
「お前は――」
 何をやっているのだ、と怒りたいところを溜め息でやり過ごし、小さく首を振りながら低く漏らす。
「あまり心配をかけんでくれ」
 俯き、膝の上で両手を握り締めた。寝不足の頭ではうまく考えがまとまらないと、自分自身に言い訳をする。そうして、
「…ごめん」
 と、短く聞こえた声に目を上げ、ゆっくりと顔を向けてきた当麻と初めて視線を合わせた。
 居心地悪そうにすぐに目を逸らす当麻は、左の手足に包帯を巻かれている。彼が家を飛び出して三日後、行方不明の当麻が交通事故で運ばれたと征士は連絡を受けてやってきたのだった。
 以前にも似たようなことがあった。その時はもっと状況は厳しく、征士は随分と胃の痛む思いをしたものだった。
「今回は、私を忘れたりはしていないな?」
 可能な限り静かに、責めることのないよう征士は口にする。当麻が苦笑と共に頷いた。
「ちゃんと覚えてるって」
 ほっと、征士は肩から力を抜く。そうしておいて、ふと気付いたように当麻の髪へと手を伸ばした。
「困ったことに、私のほうが思い出せんのだ」
 何をと問いたげな当麻の前髪を、そっと掻き上げて額に口づける。
「何が原因で私たちは口論をしたのだ?」
 問われて当麻も考え込むが、どうやら理由は思い浮かばないようだ。
「あー…っと、何だっけ?」
 逆に尋ねられ、無言のままに征士は当麻の背へと腕を回して抱き寄せた。
 簡単に忘れるくらい些細なことで彼を失ったのではたまらない。喧嘩の仕方も気を付けよう。そう思う一方で、
『ごめん…思い出せないんだ…』
 そう言った昔の当麻の声が、もう一度微かに胸を痛めて過ぎていった。

掲載日:2005.06.18

050. 日常

 洗濯物を干している背中に、
「コーヒー飲むか?」
 と問い掛ける。
「ああ、もらおう」
 顔だけ半ば振り向かせて答えた征士に、当麻も頷いてみせてキッチンへ入る。
 久しぶりに明るい時間に征士と話をしたな、と思いはしたものの、いつものように卑屈な気分になっていない自分にも気付いて軽く首を傾げた。
 バサッ、とシャツを広げる音がする。ベランダへと目を向け、リビングを挟んで見えている姿に思わず口許が緩む。およそ似合うまいと思われた黒いエプロンを、スーツを着るのと変わりなく当たり前に征士は身につける。小さくブランド名が刺繍されているだけのそれは、当麻が彼に贈ったものだ。
 手早くぴしりと干されていく衣類は、穏やかな日差しの中で見た目にも気持ちがいい。
『不思議なくらい清潔そうだ』
 思ったところでやかんが高い音を上げ、湯の沸いたことを知らせた。
 サーバーに落としたコーヒーと二人分のカップをリビングへ運ぶ。それぞれに注いだところで、作業を終えた征士もソファに座る。並んで腰を下ろしていた当麻は、ふとカップを両手で包み込んだままソファの上へ両足を上げ、征士の肩に背を預けた。
 行儀が悪いと注意されるかと思ったが、しばらく後に征士から伝わってきたのは、笑っているらしい気配だった。
「機嫌が良いのだな」
 征士の声は、自分もそうだと言いたげだ。
「いいらしい」
 笑いながら答えて、当麻は静かに思いを巡らせた。
 いつからだろう? 人といることに安らぎを覚えるようになったのは。
 いつからだろう? 何でもない時間を嬉しく感じるようになったのは。
 征士のいる日常に、同じ濃度で溶け込んでいる自分。その空気の柔らかさを実感して、当麻はさらに深く征士にもたれた。

掲載日:2005.06.19

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