Pulse D-2

051. ここだよな

 目覚めたのはまだ朝と呼べる時刻だったが、平日とかわりなく用意された朝食は既に当麻抜きで終えられていた。まぁ別にいいけどなと思う当麻は、室内に征士の姿が無いことに気付く。
「秀と一緒にジョギングに出たよ」
 背を向けたまま答えた伸は、やがて当麻の前に彼の朝食を置く。サンキュ、と洗濯の続きをしにいく背中に呟いて当麻は食事を始めた。
 前夜、珍しく自分より遅くまで起きていた征士が当たり前に早起きをして普段どおりの生活をしている。それは多分、当人的にも世間的にもいたって普通のことなのだろうが、何となく当麻には気に障る。それを払いのけるよう、当麻は急に食事の手を早めた。
 朝食を終え廊下へ出たところで、外から戻った秀と会う。
「おかえり。…征士は?」
 秀ひとりなのに声を掛けると、庭で遼とナスティの手伝いをしていると言う。庭の一角に家庭菜園を作るのだと張り切っていたから、それに手を貸しているのだろう。
「あ、そ。ご苦労さん」
 俺はパスだな、と書斎に入る。そうしてパソコンに向かっている間に昼と呼ぶべき時刻になっていたようだ。
「あれ? 当麻だけ?」
 昼食だからと呼びに来たらしい遼が口にする。
「征士、どこにいる?」
 そっちこそ一緒にいたんじゃなかったのかと返してから、ふと当麻は思い至って言った。
「十五分たっても戻らなかったら、二人分の食事、冷蔵庫にでも入れといてくれるように伸に伝えてくれ」
 そうして不思議そうな遼を置いて外へ出た。
『あ、いたいた』
 向かった先は森の中。太い木の幹にもたれる影がある。
「やっぱ、ここだよな」
 昨夜も読んでいた本を手にしたまま、征士が瞼を閉ざしていた。さっぱりした様子から、シャワーを浴びたらしいことが分かる。まだ少し髪も濡れていた。
 当麻の好きなこの場所へ、征士も訪れるようになってどれくらいになるだろう?
「やっぱ…こうだよな」
 征士の左肩に寄り掛かり、当麻も笑って目を閉じた。

掲載日:2005.06.21

052. 細い

「うっ…なんじゃこりゃ!?」
 隣の部屋から聞こえてきた声に、征士はディスプレイから目を上げて様子を窺う。何やら当麻が動き回っているようだ。
 数分後、ようやく静かになったと思ったら、今度は本人が現れた。扉を開くなり言ったのはこんな言葉だ。
「なあ、俺、太った?」
 見つめること数秒。征士はわざとらしく深い溜め息を吐いた。
「…んだよ、嫌な態度だなー」
 口を尖らせる当麻は、手にしたジーンズを突き出す。立ち上がって受け取ると、征士はそれを目の前に広げてみせた。はき慣らした感じのあるジーパンだ。
 これが何だ? と言う代わりに当麻とズボンとを交互に見遣る。
「入らねえ」
 つまり太ってズボンがはけなくなったと言いたいのだろうか。
「――いつのものなのだ?」
「大学行ってた頃」
 答えを聞き、再び征士は深く息を吐いた。
「そんなものをよく持っていたな。だが、それは入らなくとも問題あるまい」
 ふつう時と共に体型は変わるものだし、あの頃のお前は私の知る中で最も痩せていた、と付け加えると、
「お前だってそうだったじゃねーか」
 と、当麻も思い出して口にした。
 馬鹿者あれは痩せていたのではなくお前のせいでやつれていたのだ、と言いたいところを堪えている征士にお構いなく、当麻はぶつぶつ言っている。
「くそー…ダイエットだけはしたくねぇ…」
 そんな必要あるものか、とさすがに声に出しながら、広げていたジーンズを右腕に掛け、当麻の腰に掌を当てた。
「今のままで十分細い。そういう身体が好きだと、前にも言った筈だぞ」
 当麻がちらりと見上げてくる。
「そうか、お前、俺の体が目当てだったのか」
「――お前の細い身体好きだぞ」
 言い直し、目を合わせて笑った。

掲載日:2005.06.22

053. かみなり

 窓いっぱいに空が光った。視界の端にそれを捉えて、当麻は急ぎ、作業中のデータを保存する。そして、予想以上の大音量で鳴り響いた雷に顔を上げた。
 夕方になって降り始めた雨は次第に激しくなり、近くには遮る物の殆どない地上十階の窓からの景色も白い雨脚に閉ざされている。
 少し考えてから、当麻はパソコンの電源を切った。窓際に立ち、雲間を走る紫電に目を凝らす。
『昔は嫌いだったんだよな』
 幼い日、住み慣れた部屋の中で感じていた孤独――それは母を失った二日後の台風の午後から始まった。暗い室内で雷の光を見、音を聞きながら、本当に一人になったのだと思い知らされたのだ。
 光があるから影を感じる。音があるから静寂が際立つ。自分ひとりでは埋められない深淵を現出されるようで、雨は好きだったにもかかわらず雷が鳴ると人を求めた。
 それが平気になったのは、光輪と出会った直後だった。彼の発する技はその名の通り雷光を思わせ、大気を震わすエネルギーの流れは当麻の中に雷鳴の如く轟いた。それは、そこに仲間のいる証となった。
 同時に当麻は知る。巨大な力の中にひそむ自分たちの心の不安定さを。
 大気の中にありながら、吐き出されて空を渡る光。大地を目指して駆け下りながら、地そのものになりきれずに示す破壊力。天にも地にも属しきれない雷は、人にも邪にも疎まれる自分のようで哀しかった。
 けれど、悲しんでも怯えず、戸惑っても立ち止まらない征士が共にいた。その光を信じると決めた当麻がいた。この時、雷は進路を示す指標となり、彼らを鼓舞するリズムとなった。
「今日も派手だな…」
 遠ざかり始めた雷鳴を聞きながら、本人の意に反して目立つ征士を、当麻は静かに思い続けた。

掲載日:2005.06.23

054. 羨望

 間違いなく自分は彼に憧れている。そう思ったのは、仲間が揃って間もなくのことだった。
 薄闇に包まれた部屋の中、横たわる当麻を静かに見下ろしながら、征士は十年近く前の記憶を辿る。
「何?」
 短く尋ねて当麻が見上げてくる。首を傾げて返すと、何か考えてるだろう? と軽く責めるよう口にして、当麻は微かに眉根を寄せた。
「ああ…すまん」
 額へ目尻へ頬へと小さく口づけていくあいだ当麻は黙っていたが、長いキスの後に唇同士が離れると、ごまかされないぞ、と言いたげに再び征士と目を合わせた。
「信じられんなと思っていた」
 内心の苦笑を隠し当麻の髪を掻き上げる。目を逸らさない彼に、征士はゆっくりと続きを告げる。
「私はお前に憧れていたからな。お前と特別な関係になって、これは本当に現実なのか、私の単なる妄想ではないのかと、何度も思ったものだ」
 面目なさそうに苦笑する。当麻は面白そうに笑っていた。
「だが、お前だけ先に夢から覚めてしまった。恨んだぞ」
 互いの笑みが消える。征士は小さく息を吐く。
「恨んだがな――それ以上に羨ましかった。私を切り捨ててでも飛んでいける強さが、その奔放さが、羨ましくて仕方がなかった」
 当麻への想いも家族の期待も捨てきれなかった自分とは違う生き方があるのだと、責められるように感じながら肯定する思いも持っていた。
「だから余計に思うのだ。こうしてまたお前を繋ぎ止めるのは本当に望むべきことなのかと」
 自由な風に焦がれすぎて小さな箱に閉じこめてしまったようなやるせない罪悪感。言うなればそんなものだと征士は思う。だが、当麻からは違う言葉が返った。
「吹き過ぎるだけが風じゃない。お前の周りで吹く風もある。俺は、そうなりたいと思ったんだ」
 まっすぐな視線に捕えられる。
「いつか話してやるよ。俺がどれくらいお前に感謝してるか。どんなにお前に憧れてきたか。どれだけお前の家族を羨ましく思ってたか。お前が恥ずかしくて聞いてられなくなるくらい話してやるから」
 覚悟しとけよ、と語る息を、深く口づけて奪った。

掲載日:2005.06.24

055. 戦い

 何が辛いって、眠くて仕方がないのにどうしても起きなきゃいけない理由があって無理矢理体を起こそうとするんだけど布団がコンクリート並みに重くってこりゃダメだ起き上がれんと力尽きかけた時に刺すような空腹を感じてやっぱりこのまま死んじまうかも…と思いながら結局もう一度眠っちまってとんでもない時間に目が覚めた時の敗北感と腹の減り具合ほど辛いものはない。
 ある時こう征士に言ったら、無言のままに握った拳で頭を挟まれ、両側からこめかみをぐいぐいぐいぐい押された。
「いっいっ痛ェって、まじでイタタ…」
 涙目で訴えると、目は覚めたか? と傲慢とも思える顔で見据えられた。
 解放されたこめかみをさすりながら、当麻は恨みがましい目を征士に向ける。いつから自分はこんな扱いを受けるようになったのだろう?
「トルーパーやってた頃は、行動の中にもう少し気遣いが感じられたよな」
 もちろん喧嘩もしたけれど、庇い合ったり励まし合ったり、くすぐったいくらいの思いやりがあった筈だ。
「どういう意味だ?」
「戦いは人を美しくさせるんだなぁと思ってさ」
 尋ねてくるのに答えると、征士も負けじと返してきた。
「それこそお前のことであろう?」
『天空』の時は凛々しかったのにと、小さな溜め息まで吐いてみせる。
「今や、眠気や空腹感が最大の敵とはな」
「俺はそうやって日々戦ってんだよ。小さな敵に対抗しつつ大きな敵を迎え撃つ心構えを持ってだな――」
「勝ってから威張れ」
「協力を求む」
「甘えるな」
「愛がないぞー」
「品切れだ」
 澄まして言い放つ征士にムッと結んだ口を、当麻はやがてこころもち緩めた。気付いた征士がちらりと見遣る。
「じゃ、入荷されるまで作戦でも練っとくか」
 ふてぶてしく見えるよう、にやりと笑う。
 征士が諦めたように苦笑し、軽く肩をすくめる。その姿を見ながら、こういう攻防もおもしろいかもな、と密かに脳内の戦略メモに書き添えた。

掲載日:2005.06.25

056. 減ったなあ

 靴を脱いでいるところに、ひょこりと当麻が顔を出した。
「おかえり」
「ああ、ただいま。出迎えとは珍しいな」
 征士が言うと、まぁたまにはな、と当麻は眠そうな目をして答えてから、
「ちょっと疲れたもんで」
 と付け足した。その言葉にはまだ何か先がありそうで、征士は一瞬、相手の様子を伺う。そして意図するものに気付き、鞄から小さな箱を三つ取り出した。
「疲れて甘いものが欲しくなったわけだな?」
「ご明察」
 わざとらしくにっこりと笑んで、当麻が箱を受け取る。征士はやれやれと苦笑しながら、リビングへと移動した。
 当麻がいそいそと包みを解いていく。箱の中身はいずれも少し高価なチョコレート。別に征士が食べたくて買ってきたわけではない。仕事の取引先でもらったバレンタインの義理チョコだ。
「うまいけどさ――」
 早速ひとつを口に入れた当麻が、もごもごとこもった声を出す。
「減ったよなぁ…チョコ」
 いつと比べて言っているのだろう?
 ちらりと考えはしたが、征士は別のことを口にする。
「不満か? そんなに私にもてて欲しいのか?」
 すぐ妬くくせにと揶揄すると、
「やきもち焼かれて喜んでたくせに」
 と当麻も平気な顔で返してきた。
「そうだったか?」
 とぼけてみせる征士に、当麻は小さく笑って次のチョコへと手を伸ばした。
 この日もらってくるチョコは、毎年当麻の胃に納まる。仕事の配属替えで女性率が下がり、義理チョコにしろ数が少なくなったのは、征士としてはありがたいことだ。だが、同時に減ってきた別のものにも彼は思い至る。
『嫉妬も減ったな』
 それを慣れと取るか愛情が冷めたと取るかは個人の自由だが、どうせなら信頼を得たのだと思うことにしよう。そう心に留めて、征士も一片、ビターチョコを味わった。

掲載日:2005.06.26

057. 反発

 何でこんなに伝わらないんだろう?
 当麻はついに溜め息をつく。そして続けて吸い込んだ息を怒声に変えて吐き出しそうになるのを、強く奥歯を噛み締めて押さえ込んだ。
 さっきからずっと、話が噛み合わない。居間から自室へと行きかけて途中で立ち止まったままの征士と、リビングのソファに座ったままの自分。お互いに半ば振り返るような姿勢で、僅かに視線を逸らし短く言葉を交わす。
 会話にはなっていないのかもしれない。噛み合わないどころじゃない、言葉は相手に届いていない。言葉が心に触れもしないうちにおざなりな声が返され、それが何を意味するのか深く考える間もなく声音の一部だけを頭の隅で半端に理解して、こちらも不適切な意見を返している。その繰り返し。
 まるで磁石だ。同極同士を近づけた時のように、お互いの苛立ちが生み出す反発力。この部屋には今、その力が満ちていた。
 多分、二人とも、誰かと話をしたい気分などではないのだろう。一日じゅう働いた後で、征士は見るからにだるそうだったし、自分も小さなトラブルが立て続けに発生して腹を立てていた。もしかしたら、八つ当たりでも何でも、発散した方が楽なのかもしれない。だがそれは、もっと大きな負の力になって返ってきそうな予感がした。
 正面に向き直し、詰めていた息を吐く。苛立ちも諦めも全て飲み込むように目を閉じて俯く。
 と、低く音がして征士が鞄を置いたのが感じられた。近付いてくる気配に薄く瞼を上げる。膝の上で握り締めた拳に、征士の右手が添えられた。
「すまん。もう一度、最初から話してもらえないか」
 懇願するように細められた征士の目と出会う。床に膝をついた征士の左手が、残された当麻の右の拳を包む。
「ごめん…」
 呟いて、金の髪に顔を伏せた。
 手を挙げようとする動きに合わせ、征士の力が緩められる。両手で彼の頭を抱え込み、掠れる声で当麻は言う。
「今は、もういい。今度…もっと、俺もお前も疲れてない時に話すよ」
 腕の中、征士が小さく頷いたようだった。

掲載日:2005.06.27

058. シーズン

 暑いのは嫌い、虫が多いのも嫌。だから夏は嫌いだ。
 そう言うくせに、蒸し暑さが募ると当麻は決まって水辺に行こうと言い出す。ふだん、どこかおかしいのではないかと思うくらい冷房をきかせた部屋に籠っている彼からは想像しにくい妙にアクティブな発言に、征士は毎度彼の真意を探ろうとする。しかしこればかりは単純に、
「水の恋しい季節だろ」
 と言い放つ姿が真実を示しているらしかった。
 川・滝・海と選択肢は多いが、最も彼が好むのは湖らしいとやがて征士も知る。小さくていいからなるべく木に囲まれた静かな湖、と聞くに至り、柳生邸の近くにあった湖のイメージかと思うようになった。試しに、
「久しぶりにナスティのところへ行ってみるか?」
 と提案すると、
「それは、全員揃わないと寂しいから」
 と言って静かに笑う。この時は、日を改めて皆で集まる算段をつけよう、ということになった。
 よくよく考えてみると、気まぐれとも思える当麻の突然の申し出にも一定の規則があるのだとわかる。確認のため尋ねてみると、彼は当然のように羅列した。
「一緒にずーっとごろごろしていたい季節とか」
 それは単なる『春眠暁を覚えず』であろう。
「お前の手料理を食いたくなる季節とか」
 それはつまり『食欲の秋』に合致しているのだ。
「静かな温泉宿でのんびりしたい季節とか」
 寒さを忘れて温泉と美酒に酔いたいわけだな。
 少々頭痛を覚えたが、次の瞬間、続いた言葉に征士は驚いて当麻を見遣った。
「まぁ、どれにしたってお前とだからいいんだけどな」
 視線に気付いて当麻が口許を引き締める。
「…んだよ、二度は言わねぇぞ」
 目を逸らす彼に、征士も穏やかな声を掛けた。
「そうだな。私もお前が相手だから付き合うのだろうな」
 四つの季節を一つずつ、毎年順に辿っていく。そのたび二人の思い出が増えていけばいい。照れながらも満足そうに笑う当麻を見て、征士はそっと思っていた。

掲載日:2005.06.28

059. 凡庸

「ねぇ、当麻お兄ちゃん」
 大きなあくびを一つしたところで、ふいに純に声を掛けられた。
「ぼんよう、って何?」
 いきなり何だと目を向ける。純が好奇心いっぱいの表情で続きを話す。
「征士お兄ちゃんが言ってたんだ。『知的活動以外の時は当麻はひたすら凡庸だ』って」
「あのやろー」
 この俺を相手に何言いやがる、と呟いてから、
「いいんだよ。知的活動が特別優れてる点で俺は凡庸じゃないんだ」
 と言い置いて、当麻はソファから立ち上がる。
「だから、ぼんようって何?」
 答えないままに自室へと向かう。文句を言っているらしい純の声は、当麻には届いていなかった。
「おいこら征士」
 扉を開けるなり忌ま忌ましげに呼ぶと、僅かに眉間に皺を寄せて征士が顔を向けてくる。
「純に変なこと吹き込んでんじゃねえぞ」
「変なこと?」
 だが、つい今しがたの話を当麻がすると、
「真実ではないか」
 と、征士は澄まして当麻を見据える。
「凡庸という表現でもかなり甘い評価だと思うがな」
 言いつつも、微かに目の中に優しさが宿ったように当麻には感じられた。
 天才であることが当たり前だった。凡庸なんて言葉とは、一生縁がないと思っていた。それを何でもなく口にして自分に当てはめてくる相手がいる。それは少しばかり新鮮で、不思議なことにどことなく心地好かった。
 そう。この家には平凡な奴なんていない。同時に、自分を特別視してくる奴もいない。多少のいざこざはあっても、大きな許容と尊敬と信頼とが全ての問題を前進する力に変えていくようなところがあった。
 それでも智将の立場上、言っておく。
「その言葉、そのうち必ず撤回させてやるからな」
「お手柔らかに。智将殿」
 さらりと返す征士を横目に移動し、ふんぞり返って彼の背にもたれた。

掲載日:2005.06.29

060. これだ

 征士一人が家にいる。それは、当麻との暮らしの中では珍しいことだった。当麻は一日じゅう家で仕事をし、征士は外で長時間働いていたからだ。
 だからふいに一人になると、胸の中に少しの物足りなさと微かなざわめきが生まれるようで、そんな自分に征士は小さく苦笑する。一人で過ごすことは不思議でも何でもないことだったのに、家の中を漂う当麻の気配に自分はこんなにも親しんでいる。空気そのものと当麻の気配とが、自分にとっては深い結びつきを持っているのだと気付くのだった。
「ただいまー」
 玄関の扉が開くと同時に聞こえてくる声。床に置かれる買い物袋のたてる音と、面倒な紐靴を脱ぐ当麻の動き。いっぺんに騒々しくなった部屋に、生活のリズムが戻ってくる。そんな感覚を抱きながら征士は胸に呟く。
『あぁ、これだ』
 自分を包む空気が、さっと馴染みあるものに変わる。たった一人の、その存在の大きさを改めて知る。
「…何にやけてんだよ。やらしーなぁ」
 移動する当麻を黙って目で追っていた征士に、自分も口許を歪めて当麻が言う。
「やらしい? 私が? だったらそれは間違いなくお前のせいだぞ」
 澄まして当麻の正面に立ち、征士は緩く当麻の腰に両手を当てた。
「宝だ。お前は、私の」
「……何か悪いもん食ったか?」
 見るからに嫌そうに顔をしかめ、当麻は間近の目を覗き込む。
「やや食傷気味だ」
 まっすぐ見返しながら言い、少しだけ丁寧に口づけた。
 視界を覆う髪の青、虹彩の青。そして意識の中に広がる当麻の心を示す青。空に舞うようだ、と感じた後に唇を離すと、嫌そうな顔に照れも乗せ、そっぽ向いた当麻が口にする。
「今夜はお前が夕飯作れよ」
「いつも作っているではないか」
 何をいまさらと思うのがまた慣れ親しんだ空気を運び、そっと笑ってゆっくりと目の前の彼を抱き締めた。

掲載日:2005.06.30

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