Pulse D-2

061. オンライン

 匿名希望の誰かさん。ハンドルネームの洪水。くだけ過ぎの言葉遣いにどうでもいいような雑談。チャットの如く秒単位で更新されていくBBSを眺めながら、「昔は違ったよな」と当麻は一人ごちた。
 研究機関や大学など、学術的な繋がりをメインとして電子的ネットワークが構築されていた頃、そこでのやりとりにはもっとずっと節度があった。全く問題がなかったわけではないが、それぞれの発言が学閥や研究の行方を左右する可能性もあったため、慎重な発信がなされていたのは確かだった。
 それに比べ、インターネットの現状の嘆かわしいこと。勿論、全てが全て悪いとは言わないが、雑多すぎる情報と無責任とも思える発言に、すぐに当麻はうんざりしてしまうのだ。
 パソコンは好きだ。だが、常に誰かと繋がっていたいと思ったことは一度もない。必要な相手と、必要な時に、必要な情報交換ができればありがたい。その程度のものだ。そう思ってきた。
 それでも、と、入ってきた電子メールに当麻は表情を和ませる。パソコンが本当にパーソナルになった時、自分もまた、それまでになかった恩恵を受けることになったのだと思う一瞬だ。
 ひと月にも及ぶ海外研修に参加中の征士から、二日とあけずに届く文章。地球の裏側から細いラインに乗ってやってくる丁寧で優しい言葉。
「お前の手紙も好きだったけどな――」
 なかなか返事を書かなかったっけ…と、数年前の自分と征士とのやりとりを思う。五通に一通も返さない自分に怒ることなく届けられ続けた葉書。短い文章の中のぬくもりに、泣きそうになったのを覚えている。
『今度はちゃんと返すよ』
 使い慣れたキーボードを叩く。単なる電子信号が、大切な人への想いに変わる不思議――
 便利になった世の中に少しだけ感謝して、短いメールを送り出した。

掲載日:2005.07.01

062. こわい

 幽霊を信じるか、という話をしていた時だった。蒸し暑い、夏の夜のことだった。
「妖邪もいたしなぁ」
 秀が言うと、
「地霊衆なんてそのものっぽいよね」
 と伸が続ける。それに、でも怖いとは思わなかったな、と遼が言って、黙って聞いていた征士のほうへくるりと体を向けた。
「征士って、怖いものなんてあるのか?」
 聞かれて真面目に考えてみる。しかし真っ先に浮かんだ答えは、その場で言うべきものとは思えなかった。
「口にすると現実になりそうなので言いたくない、というのは許してもらえるだろうか?」
 征士の言葉に、遼が驚いたように瞬きを返す。察したらしい伸は静かに目を逸らし、
「そー言われると余計気になるぜ」
 と茶化すように笑う秀を、やめなよ、と軽く睨む。
 その様子に笑って頷く遼を確認してから、征士はその場を後にした。
 ゆっくりと階段を上りながら思う。怖いものなどいくらでもあるのだ。主に、家族や友人などの親しい者たちとのあいだに。なかでも特に――
 入口の扉を開ける。征士と当麻の二人の部屋には、静寂と月の光が横たわっていた。ベランダに立つ当麻の姿も月光の中に浮かんで見えた。
 無言のままに並び立つ。涼しい夜風を肌に受けつつ、左手で当麻の手首を緩く掴む。
「暑っ苦しいなぁ」
「…すまん」
 文句を言われて力を緩めるが、言葉とは裏腹に、当麻は指先を絡めてきた。
 静かに夜空を見上げたままの、線の細い横顔。その様子を見るたびに不安になる自分を叱りながら、同時に、そんなに空に焦がれないでくれと征士は願わずにいられない。
「キスをしてもいいか?」
 低く尋ねると、薄く笑って目を向けてくる。
『怖れるな。当麻はここにいる』
 彼を失うことのないように。それだけを深く祈り、そっと唇を重ねた。

掲載日:2005.07.02

063. 寄生

 記憶していた以上に、日本の夏は暑かった。思えば、当麻の経験した最後の夏は柳生邸でのものだったから、帰国後すぐに転がり込んだ都内の征士のマンションが余計に暑く感じられるのは当然だったのかもしれない。
 部屋が見つかるまで世話になる、と言ったら、
「一緒に暮らすのはどうだ?」
 と、征士は少し考えてから低く尋ねてきた。
「それは…ちょっと…」
 否定とも取れる答えを返す。少なくない間の後に、考えてみてくれ、と掠れた声で言って征士は話を打ち切った。
 あれから二週間。部屋探しは進んでいない。実家へ帰ることも考えたが、帰宅するたび不安そうに自分を抱き寄せる征士に触れるつけ、離れた際の彼の憔悴を考えずにはいられなくなった。そんなに思い詰めるなと言いたかったが、同じ思いが自分の中にもあることを否定できなかった。
「考えてみたんだけど…」
 漸く決意し、休日に話を振ってみる。
「このままお前にパラサイト、ってのは却下?」
「パラサイト?」
「そ。お前におんぶに抱っこでヒモ状態。…いや、どっちかっていうと囲われてる感じか?」
 ふざけた調子で言うと、征士は複雑そうに眉根を寄せる。
「構わんが――エンゲル係数が少々上がりそうだな。それに、お前に家事を任せられるなら、の話だ」
「…だよなぁ、やっぱ」
 それはやめておいた方がいいだろうと、過去四年間の自分の生活を振り返って当麻は思う。
「仕方ない。俺も働くから、家事はお前、頼むよ」
 言ってから思いつき、でも、と当麻は続けた。
「金持ったら、俺、どっか行っちまうかもな」
 その途端、両肩を強く掴まれた。
「冗談でも言うなっ!」
 征士の怒声が降ってくる。頭が痛くなるくらい、ビリビリとひび割れた音が頭の中に響いていた。
 驚いて身体を固くした当麻に、すまん、と呟いて征士が顔を伏せる。肩口の金髪に、当麻はそっと頬を寄せる。
「何か俺さ…お前の生気、吸い取ってねえ?」
 小さく首を振り、征士が顔を上げる。
「…んな顔すんなよ」
 自分の方こそ泣きそうに顔を歪めながら、当麻は征士の頬へと手を触れた。
「一緒に暮らしても、いいか?」
 必死に言葉を搾り出す。確認するよう見つめ合わせた目をすっと細め、それから、深く頷く征士を抱き締めた。

掲載日:2005.07.03

064. 毒

「あれっ、伸、来てたのか」
 風呂上がりの当麻がそう言いながら顔を覗かせると、征士は即座に声を上げた。
「当麻っ、またお前はっ! 何度言えばわかるのだ!?」
「もー、お客さんに見せる格好じゃないよ、それ」
 続けて伸にも呆れられ、客って誰のことだよと呟きつつも当麻はそそくさと自室へ消える。征士は見送って溜め息を漏らし、伸へと向き直した。
「すまんな、だらしがなくて」
「相変わらずだね。らしくていいけど」
 楽しそうな伸に対し、冗談ではないぞと征士は答える。
「まがりなりにも惚れている相手だからな。こちらは煽られっぱなしでたまったものではない」
 湯上がりに下着姿でふらふらされればつい目で追いそうになるし、食事の準備をしている時に嬉しそうに覗き込まれれば抱き寄せたくもなる。かと言って、そのたびに欲望のおもむくままに行動していたのでは生活に差し支えるので、自制自制自制の日々が続く。
「そばにいる分、生殺しだ」
「目の毒、手の毒、お気の毒~」
「他人事だと思って…」
 再び溜め息をつく征士に、伸は機嫌よく笑う。
「ごめんごめん。君がそんな話をするのが珍しくてさ。でも一緒に暮らそうって言ったのは君なんだろう? 幸せな悩みで結構じゃないか」
 まぁそれはそうなのだが、と征士は肩を竦めた。
 部屋から出てきた当麻がソファに並んで腰掛ける。
「そこまで着替えてから出てこい」
 ラフな室内着姿になっているのに、飲み物を手渡しながら征士は言う。
「いいじゃねえか、俺のうちなんだし」
「私の家でもあるのだ」
 厳しく返すと、これくらい許せよと当麻もごねる。だが、
「私のいない時にやってくれ」
 と言うのに、当麻は澄ましてこう続けたのだ。
「それじゃつまんねぇだろ」
 ぎょっとする征士と当麻の目が合う。一瞬の沈黙が漂う。
「――確信犯め…」
「…毒だねぇ」
 高らかに笑う当麻の声に、二人分の呟きが重なった。

掲載日:2005.07.04

065. 世界

 妖邪帝王阿羅醐を倒し、その野望から人間界を守り抜いたという意味では、自分たちは確かにこの世を救った正義のヒーローなのだ。だがしかし、真実はどうか。
「何が言いたいのだ?」
 真面目に首を傾げる征士に対し、当麻はチッチッチッと舌を鳴らしながら人差し指を振ってみせる。十センチと離れていない超どアップの征士が、いいから早く言え、と言いたそうに眉根を寄せた。
「お前は人間界のことを思って戦ってたか?」
「お前は違うのか?」
 質問に質問で返されたが、当麻は気にせず口にした。
「俺はお前に会いたかったし、伸や秀を助けたかった。そして遼を失いたくもなかったから戦ったんだ」
 そういうことかと、征士も納得したらしく呟く。
「それならば私も同じだな。人間界を救うというよりも、仲間を守るために、その平和を勝ち取るために戦ったという意味合いの方が強いだろう」
 よしよしと、我が意を得たりと当麻は頷く。
「要するに、俺たちの世界はすげー狭かったわけだ」
 たった五人! と力を込めて当麻は言う。と、征士が小さく彼を呼んだ。
「ん?」
「私は今、何のためにこの話を聞いているのだ?」
「…暇つぶし?」
 答えると、征士は軽く頭を抱えてから、語尾を上げるな、と注意した。
「いや、そうじゃなくってさ」
 少しだけ当麻の語勢がおとなしくなる。
「今、もう少し広がった世界の中でさ、お前はどこまで俺のために戦ってくれんのかな、なんて思ったりしたわけ」
 穏やかな当麻の目を、征士がまっすぐに覗き込む。
「世界中を敵に回しても私はお前の味方になろう」
 すると、それも嬉しいけどな、と言ってから、当麻はつんと澄まして続きを告げた。
「俺だったら、世界中を味方にしてくれる奴と組む方を選ぶだろうな」
 征士が、ほう、と感嘆とも揶揄とも取れる声を出す。
「では、お前のために、世界を味方にしてみせよう」
「言った~!」
 大笑いする当麻の耳元に、楽しげなキスが落ちてきた。

掲載日:2005.07.05

066. 壁

「…ん?」
 何かを感じて征士は薄く目を開ける。カーテンの隙間から、弱い日の光が射す。外はどうやら曇りのようだ。
 コン…
 今度は横へと顔を向ける。すぐ脇の壁に手を伸ばす。
 コン、コン、コン。
 隣の部屋で、当麻が壁を叩いているらしかった。
 枕元の時計を見ると、時刻は午前十一時。こんな時間まで眠ったのは久しぶりだと思いながら、頭の隅では昼食のメニューを考え始める。
 コン、コン、コン。
『何故、三度ずつなのだろう?』
 当麻の姿を想像しながら、何となく叩き返してみる。
 こん、こん、こん。
 すると、途端に壁の向こうで椅子を引く音がした。慌しい気配が移動し、征士の部屋の扉が開かれる。
「征士っ!?」
「何だ?」
 征士はベッドに横になったまま澄まして答える。その姿を見て、入ってきた当麻がさらに驚いた表情を浮かべた。
「わっ、悪いっ。お前、仕事行ってんだと思ってたから」
 何でいるんだよ、具合悪いのか? と近付いてくる。
「いや、構わん。別に調子は悪くない」
 仕事が一段落ついたから臨時で休みを取っただけだ。
「このところ無理をしすぎていたからな」
 そこまで言うと、「何だ、いい会社だな」と当麻はほっとしたように笑った。
 家具の配置替えをしたばかりの征士の部屋を、当麻がぐるりと見回し、改めて壁際のベッドに目を留めた。
「煮詰まると無意識に壁叩いてんだ、俺。夜中は気をつけてるつもりなんだが――」
 当麻は言葉を濁す。昼は自分がいないと思って油断するのだろうと征士は考えて、机の場所を変えようかと話す当麻に小さく首を振る。
「気にするな。それほど響くわけではない。お前が真面目にやっているのだとわかれば、私は安心して眠れるぞ」
 聞いた当麻が複雑そうに口許をゆがめて目を逸らす。
「昼は何を食べたい?」
 煮詰まっているというのなら、今日は自分が彼を応援しよう。そう思いながら、征士は尋ねてベッドを下りた。

掲載日:2005.07.06

067. かなしみ

 耳で聞いている音と胸の中で響いている音とを、一体、どう聞き分けたらいいものか。
 戦いの初期に、当麻はふとそう思ったことがあった。天空の感じる気やエネルギーの音に、慣れ始めた頃だった。
 答えは「流れ」だ。全てそれらは距離と強さと波を持つ。必ずどこかへ向かって進む気の流れは、耳にする音とは別種の揺れを備えていた。
 それは勿論、征士に触れた時に聞いた音に関しても同様だった。戦闘時以外では彼の心はとても穏やかで、意識しなければわからないような柔らかなかすかな音しかさせていなかったが、それでも当麻に対する時、優しい想いと共にそっと自分の胸に流れ込んでくるのを、当麻は感じることができたのだ。
 例外は一つだけ。別れの朝、征士の中にあった音。
 流れない、その場に滞る音。胸に深い沼を作り出す音。一つひとつの音は透明なのに、底を見通すことのできない深みを形成していくのが怖いくらいにわかった。そしてそれは、当麻の中にあった同じ音を引き寄せて、成長し、膨れ上がり、当麻自身を呑み込みそうに胸を支配した。
 初めて聞いた、征士の「かなしみ」の音。
 他者へと向かうことなく、本人の中にのみ沈澱していく想い。それまで聞いたどの音とも違う、不安定に澄んだ音。
 確かめるまでもなく理解した。怒りでも絶望でもなく、辛いのでも寂しいのでもなく、ただ、悲しかったのだ。自分との別れを、征士はひたすらに悲しんでいたのだ。
 あれから六年。すぐそばで眠る征士の胸へと左手を翳す。
「何を知りたい?」
 その場所が互いの感情を最も知りやすい位置だと知っている征士が、片目を開けて尋ねてくる。当麻は、ごまかすように薄く笑う。
「どんな夢見てんのかと思って」
「――もう忘れた」
 二度とあの音を聞かずにすむように。
 抱き寄せる腕に従いながら、当麻は深く願っていた。

掲載日:2005.08.27

068. 扉

【立入禁止】
 部屋の入口である障子に、こんな文字の書かれた紙が張られていた。怪訝そうな表情と共に征士は首を傾げる。
『ここは私の部屋なのだが…?』
 暑い夏の盛りに帰省した息子を自室から締め出す理不尽に、征士は何事かとしばし途方に暮れた。
 鍵がかかるわけではない。開けようと思えばそれは可能だ。が、理由もなくこんな仕打ちをされるいわれはなく、そんな家族でもない筈だと強く自分に言い聞かせ、仕方なく障子から庭へと向き直した。
 先ほどまでここにいた当麻はどこへ行ったのか。見える範囲に姿はなく、もしかしてこの貼り紙は当麻のいたずらだろうかとも考える。そういえば、少し前にも柳生邸で同じ目にあったような気がしたが…と考えたところで、その時の当麻のふざけた書きぶりと言いぐさとが思い出された。
【天の岩戸 開けるべからず】
 ちょっとした喧嘩の後に二人の部屋の扉にこんな貼り紙をしたくせに、呆れながらも従った征士に対して翌朝になって言ったのだ。
『天の岩戸ってのは無理にでも開けようとするもんだ』
 不満とも落胆ともとれる表情に、喧嘩していたことも忘れて彼を抱き寄せたのだった。
 もう一度部屋へと意識を向ける。人の気配を感じて、今度は強い調子で声を掛けた。
「当麻、いるのか? これは何の真似だ? ふざけるのも大概に――」
「静かになさい」
 だがそこに、更に威厳ある母の声が飛んだ。
「じゃーん!」
 征士が驚いて動きを止めた瞬間、ぱっと障子を開けて当麻が万歳の姿勢で現われた。その姿に征士は数回瞬く。
「ゆかた…?」
 濃紺の浴衣を身に纏った当麻の横を過ぎながら、母が無言のままに紙を剥がしていった。
「惚れるなよ」
「――もう十分、惚れている」
 きちんと着付けられた姿が新鮮すぎて、安堵と照れとに脱力する。
「お兄ちゃん、早く着替えてよ。お祭り始まっちゃう!」
 五月に急かされ、当麻と共に出掛けた夏祭りだった。

掲載日:2005.09.10

069. 変り種

「羽柴って変わってるよな」
 当麻はこんな言葉には慣れている。大抵は彼を敬遠する意味合いを持って使われてきたことも知っている。だが、同じ言葉を言われて気持ちが揺れるのを感じたのは、征士の時が初めてだったろうと思う。それは同時に、コミュニケーションの大切さを知った時でもあった。
「お前は変わっているな」
 とは、征士にもしばしば言われた。最初はそれまでと同じように、征士にも付き合いにくい奴だと思われたのだと考えた。動揺したのは、当麻のほうではそれなりにうまくやっているつもりだったからだ。征士のことを、比較的話の通じる相手だと思っていたからだ。自分の勝手な思い違いだったのかと軽く失望したのだ。
「とてもおもしろい。私にはそういう考え方はできんな」
 だから、征士がこう続けて言うのを聞き、一瞬、その意味をどう捉えるべきか迷った。取り澄ました表情のままの征士からは、肯定とも否定とも判断できない。
「お前も同じだって」
 そこでこう返すと、征士は少し不服そうに首を傾げた。
「自覚しろよな」
 その髪型とか言葉遣いとか古風な好みとか――と並べ立てていくうちに、変化していく征士の表情にさらに動揺が大きくなったのに自分でも驚いた。
「そのように私に言ってくる者も、私のこれまでの知り合いにはいない」
 静かだが嬉しそうな笑みとともに、征士は当麻に言ったのだった。
『何より、俺に対して好意的なのが不思議だ』
 そんなことを言ったら、また彼は「変わっているな」と笑うのだろうか? 当然のことを言っているまでだと言い切ってくれるだろうか?
 変な奴、と胸の中で呟きながらも、先ほどとは違う思いに心が暴れている。
『もう少しだけ、希望を持ち続けてみるか』
 仲間たちのなかでも特に変わった者同士(と認めるのは少々癪だったが)うまく付き合い続けていければいい。そう願う自分に気付くと、当麻は軽く苦笑を浮かべてからごまかすように頭を掻いた。

掲載日:2005.10.10

070. 迷路

 迷いは許されない。剣の道しかり、礼の道しかり。
 ずっとそう思って生きてきた。そう教えられ、そう信じて生きてきた。これが自分の理想とする生き方に違いないと、まっすぐに真剣に。
 なのに、迷ってしまう。
「当麻――」
 泣きながら寝入った彼の、変わらず柔らかな青い髪に触れる。ひたすら謝る彼の涙を止める術なく征士は迷う。
『このまま、そっとしておけたなら』
 何も思い出さなくていい。記憶を失った今のままでも、新しい当麻なりの人生を拓いていけるなら、そのほうが彼にはいいのかもしれない。
「私に謝る必要などない…」
 そう、面と向かって言えたなら、彼は笑ってくれるだろうか?
「私のことなど忘れていい」
 そう言ってやれたなら、多少なりとも彼は安心するのだろうか?
「当麻――」
 別れた理由もお互いを好きだった事実も全て捨て去ることで彼が何にも縛られることなく生きていけるというのなら、どうしてそれを自分が願わないはずがあろうか。
 そう思うのに、迷う。そう思うのに、願う。
『もう一度、私を好きになってくれ』
 傲慢だと感じながら、自分勝手だと分かっていながら、抱き締めた腕の力を緩めることすらできない。
「当麻――」
 名を呼ぶことで、征士は無理矢理息を吐く。溜め息のように落ちる声が、室内の闇に沈んでいく。
 何を間違えたのだろうか、自分たちは。何を見誤ったのだろうか、自分は。
 そして、いったいどうすれば自分たちは、この迷いと哀しみから抜け出すことができるのだろうか?
 救いたいと望む気持ちと、救われたいと願う心。どちらを優先させれば、より早くより望ましい出口に辿り着くことができるのだろう?
 もう名を呼ぶことすら憚られ、強く歯を喰いしばったまま征士は必死に目を閉じた。

掲載日:2005.10.11

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