Pulse D-2

081. 誕生日

 机に向かう征士を目にするのは別段珍しいことではない。彼は学生らしく勉強もすれば、正しい姿勢で読書に勤しむことも多い。だが最も当麻の目を引くのは、手紙をしたためる征士の姿だった。
「まめだよなぁ、お前」
 何かと不精な当麻からすると、征士はかなりの筆まめに思えた。親しい者たちと離れて暮らしているのだから手紙を書くくらいは当然だと彼は言うが、聞いた当麻は、
「俺、ここ来てから一回も書いたことねえよ」
 と言ってしまう。
「電話じゃだめなわけ?」
 尋ねると、
「近況を伝えるには手紙のほうが過不足がなくて良い」
 と、きっぱり返された。そんなもんかねぇと肩をすくめるのに、征士は笑ってから続きを書き始めた。
 追い払われないのをいいことに、当麻は征士の手元を覗き込む。綺麗な絵葉書に「おめでとう」の文字。誰かの誕生日を祝う文面だった。
 彼にとっての大切な人たちの大切な一日。いったい彼は、年に何枚のバースデーカードを出すのだろう?
 そんなことを考えて、当麻は壁のカレンダーへと目を向ける。二日後に丸がつけられ、五月(さつき)、と書き込まれていた。試しに次の月を見ると二箇所に同様の印がある。一つは征士の、もう一つは彼の母親の誕生日だった。
「一番送りたい相手は、葉書を出すまでもなく側にいるのだがな」
 さらに紙を捲ろうとする当麻に、ゆっくりとした征士の声が届いた。それは嬉しいことなのか残念なことなのかと、背を向けたまま語る征士には、どこか照れたようなやわらかな雰囲気がまとわりついている。
「ここを出て、別々に暮らすようになったら、お前――」
 何と言おうとしたのか。当麻はわからなくなり言葉を切る。互いに考える間があり、征士が口を開く。
「どのように、お前に手紙を書けば良いのだろうな」
 今は、お互いのいない生活を想像できない。ただ、
「会いに来い。誕生日くらいは」
 と言うのに躊躇うことなく頷く征士に、当麻は満足そうに目を細めた。

掲載日:2005.10.23

082. 濁り

 あっけないものだ、とても。
 雨後の濁った川を見下ろして、征士はこの日何度目かの深い溜め息をついた。
 手足も頭も胃の腑も心臓も、まるで全てが鉛にでもなったかのように重く、動くのも物を考えるのも億劫だった。原因は、夜明け前に見た夢だ。
 逃げ惑う当麻を引き寄せて力ずくで犯した。
 名を呼べと言えば喉元をえぐり、私を見ろと言えば目玉をつぶす。そんな当麻が憎くて悔しくて、直刃の刀で胸を貫いた。
『後悔しろ、私を拒んだことを』
 なのに、引き抜く刀身に刃文(はもん)を描く、少しの濁りも見せない鮮やかな赤。
 狂気に駆られる征士を嘲笑うかのように――そして、憐れむかのように――ゆるゆると作られる乱れ刃の、柔らかな曲線に愛しさが蘇る。
 けれど、返す刃で喉を裂けば、噴き出した己の血の恐ろしいほどのどす黒さ……。
 目を開けた時、外ではまだ昨夜からの雨が降り続けていた。薄暗い部屋の中で、布団から出した両手が冷たく震えていた。
 この手は、再び彼に触れられるのだろうか?
 この手に、赤い血は流れているのだろうか?
 遠い地にある彼の元へ、こんな狂気は送れない。
『だが、これが本音だ』
 綴る手紙に託す想いは決して嘘ではないけれど、言葉にできない気持ちのほうが激しく心を締め付ける。
 会えないから何とでも言えるのだ。会わずにいるから大丈夫なふりができるのだ。本当は壊してでも手に入れたいくらいに叫び続けている心は、こんなにも容易く浮かび上がってくるというのに。
「逢いたい……当――」
 呼びたい名前が掠れて消える。
 人目につかない橋の下。俯く征士に、錆を含んだ雫が落ちる。
『また、雨になるのだろうか』
 この川を、さらに濁らせていくのだろうか。
 必死に顔を上げても暮れる空に光は見出せず、征士の求める青空は、望むほどに遠ざかっていった。

掲載日:2005.10.24

083. 漂着

 人の想いの深さはお互いの距離で決まるもんじゃない。征士と離れて過ごした時間に、当麻は嫌というほどそのことを思い知らされていた。
 だが、互いに対する理解という点から見ると、相手の近くに位置することは大きな意味を持つ。遠くにあって語り合う言葉と、すぐそばで触れ合いながら見聞きするものとでは、その温度や質感に明らかな差があったのだ。
 もちろん、お互いは別々の人間だ。そこにあるのは、違う感性、異なる常識、決して完全には一致することのない世界。
 けれど、征士の声に耳を傾けるたび、自分の言葉で彼に想いを告げるたび、寄り添いながら同じ風景を見るたびに、二つの世界の重なる部分が増えていくのも確かに感じられるのだ。
 花曇りの空の下、野菜の苗をプランターに植え込んでいく征士の姿が当麻の視界に入る。家庭菜園ならぬベランダ園芸に夢中になっている征士など、仕事関係の知り合いには恐らく想像もつかないことだろう。その微妙なバランスとアンバランス。結局はそれが、自分をここへ留まらせたのだと当麻は思う。
 行く先を定めきれず頼りなく漂い続けていた自分を、迷いながらも伸ばした腕で引き上げてくれた征士。その迷いをはっきりと知ったのも、こうして彼の隣で暮らすようになってからで、二人を隔てて流れた時間と空間を必死に埋めようとしたのも確かだった。
 ようやく辿り着いたこの場所。
 当麻にとってだけでなく、征士にとっても、ここが永住の地でないことはほぼ間違いない。このまま永遠に二人で、と言い切れないことも知っている。
 それでもやはり幸運に導かれて辿り着いたのだと、楽しげな征士の顔を見るごとに、当麻は思わずにいられないのだ。
「なぁ、これってちゃんと食えるもんができるのか?」
「当然だ。私を誰だと思っている」
 征士の肩越しに尋ねれば、顔だけ振り向かせて尊大な言葉が返る。
「そりゃ失礼しました」
 目を見交わし、揃って小さく笑った。

掲載日:2005.10.26

084. 分岐点

「これまでの人生を、やり直したいとは思いませんか?」
 そう言われて、征士は母の目をまじまじと見つめた。昔からよく似ていると言われ続けてきた意志の強そうな目。目尻に寄る皺が加齢を感じさせはするが、いまだに師範代を務める身には対する者を圧する威厳が満ちていた。
「私に、何と言わせたいのですか?」
 まだ彼は、ほんの四半世紀を生きたに過ぎない。そんな息子の歴史を母はどう変えさせたいのか。
 互いに答えを保留したまま無言の時が過ぎる。静まり返った剣道場に、朝の光が差し込んでくる。
 一つ、深い呼吸を収めて、征士がゆっくり口を開いた。
「やり直すなら、新宿からです」
 あの戦いをもう一度経験したいわけではない。万が一にも自分たちが負けることなどあってはならないが、やり直せばその確率は皆無とは言えない。だが、もっとうまく戦える可能性もなくはないのだ。
「当麻を――」
 続けて口にした名前に、母の目元が険しくなる。
「失わずに済む道があるかもしれません。そうすれば…」
 言いかけて、征士は口を噤んだ。
 その道を自分は望むだろうか。それで本当に悔いのない、誰もが望む生き方をできるのだろうか。
 断定できず、征士はわずかに目を伏せる。口ごもることなど滅多にない息子の迷う表情に、母は先を促すことはしなかった。
「仮定でしかありません。今さら貴方たちに、やり直すことなどできるのですか」
 目を上げた征士にもうその時点は過ぎていると言い、彼女は自嘲ぎみに笑った。
「おかしなことを聞きました。許してね、征士」
 そして息子に退場を促す。電車の時間が迫っていた。
「おじいさまにご挨拶をしてから行くのですよ」
「はい」
 一礼して母屋へ足を向け、征士は密かに母の苦悩を思う。祖父の容体の良くない今、彼と征士との諍いに関して彼女の中にも様々な後悔の念があるのだろう。
『だが私は後戻りなどしない』
 それがせめてもの償いと、征士は凛と前を見据えた。

掲載日:2005.10.27

085. 海

 初めて目にした地球儀は、凹凸の付いたクラシカルなデザインのものだった。当麻はいっぺんでそれが気に入り、地球儀見たさに父の知り合いの研究室に入り浸った。まだ、学校に上がる前の話だ。
 その時に見た山の形、平地の姿、海底山脈や海溝の様子――それらを実際に自分の目で全て確かめることは不可能だろう。成長と共に一人の人間の限界ばかりを考えるようになる自分を憎らしく思いながらも、当麻はふとした拍子にこの地球儀を懐かしく思い出すのだ。
「待たせてすまん。…どうした?」
 横に並んだ征士が、小首を傾げて当麻の顔を覗き込む。晴れた空の下に広がる海を、当麻は妙に楽しそうに見つめていたのだ。
「ん? あぁ…ほんとにこれには底があんのかな、なんて思ってさ」
 澄まして答えると、征士は真面目に眉根を寄せる。そんな馬鹿正直な反応が可笑しくて、当麻はついつい肩を揺らして笑う。
「海は広いな大きな、ってな。で、もひとつついでに深いなぁってのも付け足して、最新技術を駆使しても辿り着けない海底もあるんだと思ったら、海って結構すごいもんだと珍しく尊敬したりしてたわけ」
 当麻はおどけて言ったが、再び目を向けた先に見た征士の表情は、凪いだように静かだった。
「恨めしかったな、私には」
「海が?」
 尋ねる当麻に征士が頷く。視線は遠く水平線を向く。
「距離や国の違い以上に、海という存在が、お前に近づくことを邪魔しているように思えた。それまでは、海はもっと優しいものだと思っていたのだが」
 太平洋を挟んだ土地で、殆ど会うこともなくそれぞれに暮らした四年強。会おうと思えば可能だったのにそうしなかったのは、横たわる海がまるで立ちはだかる厚い壁のように感じられたからだと、征士は吐露して苦笑した。
「もう、優しい海に戻っただろ?」
 二人を隔てる海ではなく、一緒に眺めることのできる、豊かな命を育む海に。
 微笑み頷く征士を確かめ、当麻は海に背を向けた。

掲載日:2005.10.28

086. 蝋燭

 部屋の照明を落とすと、斜め左に座る当麻の表情が柔らかな蝋燭の明かりの中に浮かんだ。
 少し照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに小さな炎を見つめる目。こんな姿は随分久しぶりだと思うと同時に、柳生邸で過ごしたそれぞれの誕生日を征士は記憶の中に浮かべていた。
 丸いケーキに刺した細い蝋燭。歳の数では多すぎると、当麻はいつでも言って少なめに使おうとした。色とりどりのキャンドルは彼らの鎧の色と重なることが多く、
「青の隣には緑な」
 と言いながら、遼が可笑しそうに立てていった。
「遼、その認識は間違ってるぞ」
 苦笑まじりに当麻が言うと、
「じゃあ、緑の周りには青、ってな」
 と横から秀が口をはさんで、おかしな具合に並べ直す。
「もうっ、ケーキで遊ぶんじゃないよ」
 ナイフを片手に諌める口調で言いながら、伸もまたナスティと目配せして笑ってみせた。
 今、彼らを冷やかす仲間の姿はないが、あの頃に引けを取らない安らぎと共に時を過ごしていると征士は思う。
 二人で出掛けたついでに買って帰ったケーキに、刺した蝋燭は二本のみ。滅多に食べることのない甘い洋菓子も、こんな日にはありがたく感じられる。
 一方で、当麻の誕生日だけは家にいるよう努力してきたつもりだが、こんなふうに静かに揺らぐ炎を見ると、何かと慌しく毎年のその日を送ってきてしまったのではないかという気も征士の中には湧いてくるのだった。
「消すぞ」
 笑顔のまま当麻が確認する。征士は小さく頷く。
『ハッピーバースデー』などと歌いはしない。そろそろハッピーでもないんだけどな、と当麻自身も口にする。それでも、仄かな光の中に見る微笑には、不思議なほどに心を躍らせる力が満ちていた。
 当麻が軽く息を吸う。わずかに唇がすぼめられ、すっと息が吐き出される。
「おめでとう、当麻」
 炎が消えても残るときめきを胸に、征士はやさしく口づけた。

掲載日:2005.10.29

087. ハネ

「だから朝は余裕を持って起きろと言っているだろうが」
「わぁーかったからもう。…根に持ってんなぁ」
 当麻の言葉に、征士が溜め息をついて立ち止まった。
「根に持たないとでも?」
 階段の途中で振り返る。頬が少々赤いのは、熱があるからでも照れているからでもない。寝ぼけた当麻にいきなり引っぱたかれたからだ。
「わーるかったって」
「反省の色が見えん」
 そういうこと言うかね、と当麻が呟く間にも、征士は憮然とした表情のまま階段を下りきっていた。
「早くせんか」
「はいはい」
 急かされて足を運ぶ当麻はブレザー姿に野球帽。待っていた征士の視線の意味を掴み、嫌そうに睨みつける。
「…んだって、笑ってんなよ」
「いや、どっちもどっちだな、と」
 意に介したふうもなく、征士が肩をすくめてみせた。
 制服に不釣合いな帽子の下では、どうしようもなくはねた青い髪が押さえ付けられている。濡らしても家中の整髪料を駆使しても直せなかった寝癖を、そのままで歩くのもありあわせの野球帽で隠すのも、大差ないおかしさだ、と征士は言っているのだった。
「お前だってそれ、おもしろ髪型ナンバーワンだから」
 おまけに起こしに来た征士を平手で迎えて怒らせ、朝食すらとり損ねた身としては、ろくに髪をいじる暇がないのは勿論、揶揄されて言い返す権利もなさそうなものだが、好きに言われっぱなしではやはり腹も立つので悔し紛れに言ってみる。
「大きな世話だ」
 予想通りの征士の言葉は、これで今朝の一件に関しては話を終わりにするとの意味を持っている。それがわかって、当麻も少し機嫌を良くした。
「ま、なんか、伊達征士、って感じでいいけどな」
 出会ったときからの見慣れた髪型が、癖っ毛のせいだと知ったのはつい最近だ。短くすれば普通のストレートなのだが、それではイメージが狂うからと皆で止めていた。
「おもしろがるな」
 無表情で答えた征士の髪を、当麻はくしゃりと右手で撫でた。

掲載日:2005.10.30

088. 冬に

 凛と張り詰めた空気の冷たさが好きだ。
 吐いた息の凍るさまと消え方が好きだ。
 一人、真新しい大気の中で竹刀を振るひとときは、征士にとって厳しいと共に神聖なものでもあった。誰もが温かな布団の中で過ごしたがる冬には、なお一層、そこから抜け出して得た貴重な時間と感じられ、征士は少しも無駄にすることなく無心に励むのだった。
 気付けば辺りはすっかり明るくなり、鳥の声が霜に反射して輝くかのように響いている。そろそろか、と思いつつ竹刀を収めたところで、タイミングよく彼を呼ぶ妹の声がした。
「今、行く」
 声高く答えると、はーい、と暢気な調子で返事が来る。だが、いつもならこれで終わる朝食前のやりとりは、今日はまだ続くらしい。玄関の扉を開けると、五月が座って征士を待っていた。
「どうした?」
 こんな寒い場所でと尋ねるが、妹はそれには答えずに兄の顔を覗きこんで言う。
「ねえ、羽柴さんいつ来るの?」
「何だ、急に?」
「急にじゃないよ。夏に約束したのに、お兄ちゃんだけ帰ってくるんだもん。つまんなーい」
 つまらなくて悪かったな、と苦笑しながらも、確かにそうだなと征士も思う。当麻と五月はやけに気が合ったようで(どうやら征士の噂話で盛り上がっているらしいが)、また休みになったら遊びに来ると当麻も言っていたのだ。その気持ちは嘘ではないのだが――
「冬の間は無理だな。夏にはまた連れてくる」
 不満そうな声を上げる妹をなだめる一方で、脳裏には年内に交わした当麻との会話が浮かぶ。
「ぜってー、無理。俺の冬休みに午前六時から十二時は存在しないんだ。お前の家の冬時間だけは勘弁してくれ」
 当麻は自分の寝起きの悪さや不規則な生活を、征士の家族が相手の時だけはことさら気にするらしい。
『そのようなことを気にすることなく、ここへ来られるようになるといいな』
 いつか冬に訪れる当麻を、征士はそっと思い描いた。

掲載日:2005.10.31

089. 今日の仕事

【シーツ・カバー類の洗濯
 エアコンのフィルターチェック
 リビングの掃除
 買い物
 換気扇フィルター交換
    以降、通常業務
 当麻…トイレ、風呂、洗面所の掃除。手抜きをしないこと。   以上】
 平日の午前十一時。昨夜のうちに一仕事終え、のんびりした気分で起き出してきた当麻は、リビングのテーブル上に征士の手書きのメモを見る。今日は掃除の日か…と思う彼の目は、自然と窓外へ向けられた。
「天気いいもんな…」
 秋の空の晴れ間は貴重だ。少しずつ自宅勤務の増えてきた征士は、当麻の予想に違わず毎日をきっちりと過ごしている。晴れた日には大量の洗濯を、曇りの日には植物の手入れを、小雨の日には窓のガラス拭きを。さっと済ませてから会社の業務に取り掛かる姿は、見ていても気持ちのいいものがあった。
『で、俺はトイレ掃除なわけね』
 特別に気合いを入れて掃除するまでもなく、水周りは征士が常に清潔に保っている。だから多分これは、自分の目から見て汚れていると感じるような、時間のある時にしか手を出せない部分を綺麗にして欲しいということなのだろう。当麻はそう思って小さく笑った。
 征士の姿が見えないのは、買い物に行っているせいだろう。恐らく十分もすれば戻ってきて、台所の換気扇のフィルターを新しいものと交換してから昼食の準備を始めるだろう。
「その前にトイレ掃除ぐらいしとくかね」
 午後には仕事にかかる彼の携帯には、もしかしたら今でも業務連絡が届いているかもしれない。当麻にしても、急な仕事が入らないとは限らない。だから、できる時にできることをしておくのだ。そう考えるようになったのも、征士と長く一緒に暮らしてきたためかもしれないと、当麻はもう一度口許を歪めた。
「ま、今日やっといたほうがあいつの機嫌もよくなるし」
 おいしい食事に期待して、当麻も作業に取り掛かった。

掲載日:2005.11.05

090. あとすこし

 朝のニュースを見終えて、征士は静かになった室内を見回す。そうしてみてようやく、テレビのアナウンスの何に引っかかりを感じたのかがわかった。部屋の隅に歩み寄る。壁に掛けたカレンダーを一枚切り取る。
「早いな…」
 もう今年も残り一か月かと呟いたところで、当麻の部屋の扉が開いた音に気付いて振り返った。
「うー…眠いー…」
 前髪を掻き上げ、そのままがしがしと頭も掻きながら、当麻はだるそうに近付いてくる。
「また徹夜か?」
 呆れるのと感心するのとが半々になった顔で言う征士に、もう一つ唸ってから、
「もうちょいなんだけど、なーんかうまくいかねぇ」
 と、当麻はぼやいた。
「納期はいつだ?」
 征士は重ねて尋ねる。明後日、と答える当麻が、征士の肩に顎を乗せる。
「少し眠ってからにしたらどうだ」
「じゃ、帰ってきたら起こしてくれ」
「それでは眠り過ぎだ馬鹿者」
 肩の上で笑い声が生まれる。それに、低い呟きが続いた。
「あと少しで今年も終わりかぁ」
 言葉に含むのはどんな思いなのか。征士は僅かに考えてから口を開く。
「今年はどうする?」
 何が? と聞き返す声。
「一緒に実家へ行かないか?」
 今度は、沈黙だけが返った。
 リビングの時計が出発の時刻を告げる。ゆっくりと身体を離し、征士は当麻へ触れるだけのキスを落とす。
「まだ…パス、かな」
 当麻の脳裏を過るのは、征士の祖父か、それとも母か。崩れてしまったお互いの関係を復するには、あと少しの時間ときっかけとが必要なようだった。
「そうか。まあ、まだ間がある。その気になったら言ってくれ。五月が喜ぶ」
 苦笑を残して背を向ける。
「うん。…多分、もうちょい」
 追ってきた声に、征士は深く頷いた。

掲載日:2005.11.06

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