Pulse D-2

091. 自由

「あっそ。じゃ、俺は好きにさせてもらうから」
 三十年ちょっとの人生において、当麻は二度だけこんな科白を吐いたことがある。相手は二度とも征士だ。
「何を今更なことを」
 対する答えもやはり同じ。
 一度めには怒りにまかせてそのまま家を飛び出したが、今度は少し間を置いて考えてみた。今更、と言われるのはつまり、今までだって十分好き勝手していると征士に感じさせているということだろう。言われるまでもなく当麻にだって自覚はある。あるからこそ、むしろそれを出さないように気をつけてきた部分もあったのだ。だから、言ってみる。
「心外だ」
 おや? と、征士の表情に驚きが見えた。
「俺、結構頑張ってるつもりなんだけど」
「何のことだ?」
 憮然と言い放つ当麻に、征士の眉間に微かに皺が寄る。
『あ、こういう顔、割と好きかも』
 状況にそぐわない感想を持ちつつ、
「俺はお前に会う前のほうが自由だった、ってこと」
 と当麻は口にした。
 こういう言い方は意地が悪い。わかってはいるのだが、言いたい気分だった。案の定、征士の目が不安そうに細められた。
 一つ処に留まるのは苦手だ。誰か一人に執着するのも怖い。これと決めた居場所を失うことも信じた相手に裏切られることも、できるなら避けて通りたいから、何ものにも捕らわれずにさらりと身をかわしながら一人で生きていこうと思っていた。なのに征士に会ったせいでこのざまだ、と溜め息をつきそうになった当麻の耳に、先に征士の溜め息が聞こえた。
「どこへでも好きに行けばよかろう」
 投げやりとも思える言い方に、当麻はむっと相手を見遣る。視線が合って、言葉が続いた。
「だが、私はどこまででも追っていくぞ」
「――すげぇ脅し文句…」
「それくらいの自由はもらうことにする」
 言ってにやりとした征士に、当麻もすっかり機嫌を直して同じように笑った。

掲載日:2005.11.07

092. ひとつとや

 人生で何度目かになる引っ越しの準備は、これまでで最も余裕のあるものとなった。急ぐ義務も無理に荷物を小さく纏める必要もない。時間的にも精神的にも何の不安も制約もない中での荷造りは、征士を、忘れていた幾つもの物や思い出と対面させた。
 もともと不要なものを溜め込むたちではない。整理整頓も常に心掛けている。それでも気づかないうちに持ち物は増え、それに伴って手や目の届かなくなるものもある。棚の隅や小さな箱の中から現れる品に征士は時折笑みを浮かべながら、それぞれにまつわる記憶を引き出した。
 午後の日差しが室内に入り込む。その明るさに、幼い日に聞いた祖母の歌を思い出す。
『ひとつとや 人々励み勉めよや 鶯さえも法華経読む
 ふたつとや 不為(ふため)になるもの 飲み喰うな 鶴は千歳の齢(よわい)もの…』
 手毬歌だと祖母は言ったが、老いて毬をつくことのない彼女はお手玉を器用に操りながら歌った。縁側で笑う彼女自身が、日だまりのようだった。
 今、歌う言葉にはしなくとも、征士の中には静かに数え歌が流れる。一つ、二つ、と数えられるのは、手にした小物に重ねられた当麻との思い出だ。
 写真の中には澄まし顔。必ず並んで立つ二人。
 はらりと落ちた紙片が一枚。二人で行った映画の半券。
 壊れても捨てられない腕時計。高三の初夏の贈り物。
 海外からの少しの絵葉書。僅かな言葉に溢れる迷い――。
 それらを越えて、さらに十年。数え上げればきりのないほど涙も笑顔も経験した。そしてここからまた次へ、自分たちは進んでいこうとしているのだ。
『ひとつとや、ふたつとや』
 お手玉よりも毬よりも、ずっと重い想いを抱えて、ひとつふたつと昼夜を歩もう。
 二人を待つ新しい我が家を思い浮かべながら、征士はまた一つ、ダンボールの箱に封をした。

掲載日:2005.12.11

093. 煉瓦

 最初は砂山を作っていた。目に映った清潔そうな白い砂が気になって、両手で集め始めたのだ。だが、いつの間にかそれは掌に乗るくらいの石に変わり、続けていくうちに赤茶色い煉瓦へと変化していた。
『何、こんなことに真剣になってんだよ、俺』
 当麻は自分でも呆れるが、手は止まることがない。一つひとつ、丁寧に積み上げ続けていく。そうして、それはやがて当麻の胸まで届く高さになった。四角錐に近い形に作られた山は底辺を長く伸ばし、煉瓦を積む動作を全身での仕事にさせていた。
 疲労を吐き出すつもりで大きく吐いた息が、思いがけずため息のように重く胸に響いた。
「これは何だ?」
 そこに、ふいに声を掛けられた。並び立つ征士が首を傾げている。
「私のところにもあるのだが」
 確かに征士の向こうにも、よく似た山が見えていた。
「お前が自分で作ったんじゃないのか?」
 尋ね返すと、わずかに考えてから征士は頷いた。
「そうだな。私が築いたものだ。だが、私一人の手には余るものになってしまった。私はいったい、どうしたら良いのだろうか?」
 困ったように目を細めた姿が、そのまま薄闇に横たわる姿へと重なった。夢からさめた当麻の視界で、征士は声なく眠っていた。
 夢の中でぼんやりと感じていたことが、急にはっきりと当麻にはわかった。
『積み上げてたのはお前への気持ちだ』
 昼間、ナスティのガーデニングを征士が手伝っていた。花壇の仕切りに使う煉瓦を運ぶ彼を見ていたからこんな夢になったのだろう。
 そう考える一方で、同じ煉瓦の山を築いた征士のことを思う。単なる夢に過ぎないのか。それとも、夢の中だけのことではないようにと願ってもいいのだろうか。
『そろそろ俺の手にも余ってきてんだけど…』
 どうしたらいいのか、尋ねたら征士は答えてくれるだろうか…?
 洩れそうになるため息を抑えながら、寝付けぬ夜を当麻は過ごした。

掲載日:2006.02.14

094. 全部

「これで全部か…」
 吐きそうになる溜め息を抑え、征士は手の中のポストカードをそっと撫でた。海外にいる当麻からまれに送られてくる絵葉書だ。イラストや写真に統一感はなく、添えられる言葉は一、二行に限られている。
 彼と再び連絡を取れるようになって三年弱。届いたカードは八枚。最新の日付は四か月前のもので、それからの期間に征士が出した葉書も既に八通。数の不釣合いは気にならない。当麻の出す一枚には、自分の出した何倍もの量の葉書と同じ重さがあるのだから。ただ、いくつもの問いかけが宙に浮いたままなのがつらかった。
「きちんと食事をとっているか? 十分な睡眠をとっているか? 卒業論文は上がったのか? 就職はそっちで決めるのか? こちらからの葉書は届いているか? たまには私を――」
 思い出してくれることもあるのか?
 言葉を飲み込んで、小さく首を振った。
 情けない、と思う。こうして当麻の居場所を知り彼の無事を確認できているだけでも、三年前に比べればずっと良い状況だというのに。それぞれの想いや記憶を振り切り、離れて生きようとしている当麻にとっては、自分の言葉はつらいものだとわかっているのに。なのに、当麻を待たずにいられない自分が、征士は情けなくて申し訳なくて仕方がなかった。
 本心では、葉書などでは物足りない。どれほど長い手紙を書いても当麻を想う気持ちには追い付かず、電話の前で国際電話をコールしかけて長く迷ったことも何度もあった。
 自分の全てを伝えたい。当麻の全てを知りたい。そんな本音を嫌というほど思い知らされながら、それでも短い言葉のやりとりで済ませるのは、それがせめてもの救いになるからだ。伝えるほどに当麻の絶望が濃くなることを、知るほどに彼の周囲に対する自分の嫉妬が深くなることを、互いに知っているからだ。
「お前の決断を待つしかない私を許してくれ」
 それさえ一度は拒んだ当麻の真意を、受け入れてやれたらよかったのに――
 全てを彼にゆだねる罪悪感を胸に、征士はいつまでも当麻の文字を眺め続けた。

掲載日:2006.02.19

095. さあいこう

 初期値に戻る。そんな言葉が脳裏をよぎった。
 物の無くなった室内は清々とし、さらにどこか、ほっと安堵の気色も見せている。
 不動産屋の社員と共に初めて訪れたとき、人の手垢の付いていない新築のこの部屋は、どうにも緊張して見えたのだったと当麻は思い出す。けれど今思えばそれは、そっくりそのまま自分自身の緊張だったのだと考えが及ぶのだ。
「怖かったんだよな、ほんとは」
 征士に対し、実家から何かと連絡の入ることの多かった時期だった。健康のこと、仕事のこと、伊達家を継ぐ気はあるのか無いのか。なかでも、彼が正式に婚約解消をするに際しての詳しい説明を求める声と、その後の見合い攻勢は、当麻の予想をはるかに上回る厳しさだった。
 その中での当麻を伴った転居。それまでの部屋の契約の更新時期が迫っていたことと、多少手狭になったからということとが新しい部屋を探す理由ではあったが、その裏には、まだ当分実家へ戻るつもりも結婚を急ぐ気持ちもないという意思表示も含まれていたはずだ。忙しい合間を縫うようにあちらこちらと足を運んだあの頃、征士ですら、意地になっている部分があったのではないのか。
 精神的に無理をしていたのは二人とも同じだった。無理をしながら、それでも安心できる要素を拾い集め、そっと育て続けたのがこの部屋だったのだ。
「世話になったな」
 呟いて見遣る廊下の先に、四角く輝く青い空。リビングの広い窓を、次に開けることになるのは誰だろう…?
「すまん、待たせた」
 さっきまでしていたエプロンを手に、征士が足早にやってくる。こいつなりに別れの挨拶でもしてきたかなと、不意に思って小さく笑う。
「行こう」
 鍵の掛かる音に征士の声が静かに重なる。目を合わせ、にっと笑って頷いて、当麻は大きく一歩を踏み出した。

 さあいこう。今度こそ、俺たちの家へ。

掲載日:2006.05.08

096. フレーズ

 ふと頭に浮かんだ音は、短く続いて節を作った。前後もありそうな、歌詞もついているかもしれない旋律だが、征士にはそれらはわからない。わからないままに八小節を繰り返し、どこで聞いた曲なのだろうと首を傾げながら帰途についた。
 久しぶりに少し早めの退社時刻――とは言っても、規定の勤務時間はとっくに終わっている。自分の帰宅が早かろうが遅かろうが同居人から特に意見の出ないのはありがたいことだと常には思っているのだが、たまに早く帰った時に、部屋に籠もりきりの相手に対して少々の物足りなさを感じる自分にはうんざりする。そして、そんな相手を部屋から引きずり出そうとするかの如く、二人で食べるには多いくらいの夕食を作ってみたりするのが、我がことながららしくなくて苦笑するのだった。
「まぁ、構わんが」
 そんなことができるのも、帰った自宅に当麻がいればこそだ。
 考えながら電車を降り、駅前のスーパーに足を踏み入れる。家の近くの店が開いているうちに帰れるのは楽でいいなどと思っていたところで、思わずはっと耳を澄ました。
 売り場に置かれたカセットデッキが賑やかな曲をリピートする。お弁当用の冷凍食品の歌。これこそ、ついさっき脳裏を流れた曲だった。
『思い出した』
 気づけば、小さく口許に笑みを浮かべていた。
 征士がこの曲を耳にしたのは、自宅の台所でのことだ。夜中に小腹がすいたと言っては何のかんのと物を食べたがる当麻が、買ったばかりの電子レンジを使用中に口ずさんでいたのだ。
 征士は冷凍食品をあまり使わない。手抜きのようで嫌だからだが、楽なもんは使えばいいんだよ、と笑う当麻は、おそらくもう何度もここへと足を運んでいるのだろう。ようやく、二人での暮らしが当たり前のものになってきたのだと思うことができた。
 シリーズ商品の名を羅列する歌に耳を傾けながら、当麻はどれが好きそうだろうかと、征士はしばしその場で時を過ごした。

掲載日:2006.05.14

097. 鍵

 この季節はどうにも落ち着かない。食欲の秋だと浮かれてたかと思うと、急に胸の奥のほうから不安が押し寄せてきたりする。センチメンタリズムとでも呼べばいいのか、と力なく当麻は笑う。
 特にこの時間帯はいけない。日差しが夕日の色を帯びると思い出す光景がいくつかあって、その多くが征士に結びついているからだ。
 出会ってすぐの戦いの合間に。輝煌帝を得て後の自分たち鎧のあり方を疑い悩んだ日々に。阿羅醐を倒してからの平和な暮らしのなかに。
 金の髪が光を弾くさまに、静かな時間を尊く思ったことを。斜めに夕日を受けるバルコニーで、常になく語り合った不安を。部屋に差し込む金を含んだ茜色の中で、そっと触れ合って感じた安らぎを。
「全部捨てたいなんて、やっぱり思えねえんだけどな…」
 半年も待たずに、トルーパーの仲間たちとの共同生活は終わりを告げる予定だ。離れた場所でそれぞれの生き方を始めることになっても、征士は自分と別れるつもりなどないのだろうと当麻は思う。けれど、自分は違うのだ。
 そう、この時期のこの時間、ちょうど二年前に征士ときちんと付き合うことにした。今とは全く反対の気持ちでいたという事実が、さらに当麻を切なくさせる。
 そうして、悲しくも深く思う。
 この心に、鍵を掛けることができればいいのに。征士に対する想いの全てを深いところへ閉じ込めて、もっと身軽だった自分に戻れればいいのに。
 この記憶に、鍵を掛けることができればいいのに。征士に関する思い出の全てを強く固く閉ざして、いつかそのまま色褪せて失われることがあればいいのに。
 なのに、鍵は、うまくかからない。
 残された時間は長くはない。その間にうまい方法を見つけなければ。捨てることができない以上、せめてしっかりと鍵を掛けて、心残りを見せることなく征士と別れてみせなければ。
「自信ねえなぁ――」
 呟く当麻を照らした夕日が、すっと陰って苦笑を隠した。

掲載日:2006.05.22

098. 軽い

 もう夏が来たかと思わせる美しく爽快な朝の空気が、柳生邸を取り囲む樹木の間をやわらかくすり抜けて征士を訪れる。一日じゅう降り続いた雨が今もまだ枝葉に残り、光を受けて輝きながら大気にとける時を待つ中で、自然と、征士は大きく息を吸い込んだ。
 窓からの風にカーテンが揺れる。その動きに合わせて室内を振り返れば、眠る当麻の青い髪も微かに揺らめいて涼しげだ。
 穏やかな寝顔にそっとほほえむ。これこそ、自分の守りたいものだと深く思う。
 昨日とその前の晩のこの部屋での出来事を知るのは、今のところ征士と当麻の二人きりだ。触れ合った互いの肌の熱さも短く乱れる呼吸も、ふだんの自分たちからは想像し難いが、それが確かな現実であることを、今、自分は信じたい、と征士は胸の中で告げる。
「当麻」
 小さく呼んでも、もちろん彼からの返事はない。その眠りの深さがまた嬉しくて、さまたげないよう静かに着替えて外へ出た。
 いつも通りに身体をほぐし、森の中の細い道を行く。ぬかるんだ地面はあちらこちらに水溜まりを見せ、走る征士の足跡を点々と描く。だが、彼の足取りは淀みない。
 不思議なくらい身体が軽かった。
『いや  』
 軽いのは、心だ。
 木々の向こうのきらめく湖面に目を向けながら、征士はゆっくりと自身の変化を探る。
 最も近い想いは『安堵』だ。そして、静穏。
 当麻を求める自分の気持ちはいつでも余裕がなく、あとからあとから湧いてくる愛しさに少し怯えていたのかもしれない。対処のしようのない渇望に、彼を傷つけてしまいそうで迷い続けていたのだ。
 今、それを越えて、心はとても静かだ。
 抱き合った夜に当麻の中に見た清らかな色が、胸の中に今もやわらかく広がり続けているようだった。
『次もまた、同じ色を見ることができるだろうか?』
 こんな爽やかな早朝に何を考えているのかと小さく笑いながら、それでも征士は、濃い緑の香りの中を軽快に走り続けた。

掲載日:2006.06.01

099. タブー

「出張とか言って遊んでんじゃねえか」
「相変わらず失礼な奴だね、君は」
 手にしたケーキの箱を当麻から離しながら、伸が玄関で答えている。
「そういうお前はいったいナニサマ?」
 平日の午後に突然仲間の自宅を訪ねてきた彼の真意はどこにあるのかと、当麻はわずかに考える。
「何様だと思う?」
「……伸サマ」
 よくできました、と目の前で伸がにっこり笑う。
『ああ…悪魔の笑みだ…』
 ようやく手渡されたケーキを抱え、それ以上の追求は控えてリビングへと向かった。仕事はもちろん終わらせてきたよと話す伸の声がついてくる。
「入院したって聞いてたのに、お見舞いにも行けなかったから。もう完全にいいのかい?」
「また傷が増えたって、征士はやな顔したけどな」
 当麻は苦笑する。バイクで事故を起こした当麻が担ぎ込まれた病院を退院したのは、二週間ほど前のことだ。
「また?」
「あぁ、まぁ…」
 聞き止めた伸は当麻から目を離さない。問い掛ける視線に、仕方なく当麻は続きを告げる。
「ほら、前に記憶喪失やっただろ、俺。あん時も背中ざっくり切ってっから。ま、ちったぁハクが付いていいって」
 笑ってみせても伸の表情は険しくなるばかりだ。
「君さ。結構――」
「気をつけろって言われてんだけどな」
「誰に?」
「迦遊羅」
 迦遊羅? と伸が首を傾げた。
「一度は死んだ身体に、一度はそこから離れた魂をくっつけてんだ。そのための力の出所をよく考えろってことさ」
 詳しく述べることはなしない。けれど、伸にはこれで通じたようだ。
「それ、征士に言ったことある?」
 当麻は首を振る。
「言わねえよ、きっと、一生」
 それこそ征士を縛りつけてしまうから。
 お前も言うなよと念を押し、伸に目を伏せさせた。

掲載日:2006.06.07

100. 終わり

 まず左手にはめていた軍手を抜き取り、その手を返して右手もはずす。この汚れさえも生活の証かと、征士は一人、微かに笑う。
 引っ越しの荷物は全て運び出された。業者のスタッフも移動済み。あとは、自分と当麻が最後の戸締まりをして部屋を出ればいいだけだ。
 当麻と一緒にする三度目の引っ越し。そのたびに増える当麻の荷物も、彼と過ごした時間の長さを物語るのだと思えば憎みきれずに許してしまう。
『甘いな』
 側にいればいるほど、彼に対する厳しさが薄れていくのは何故なのか。苦笑まじりに首をかしげ、それでもやはり幸福の一つの形なのだと思い至り、そんな自分に少し照れて曖昧に前髪を掻き上げた。
 ベランダ側の窓に寄り、ポケットに軍手をおさめてエプロンをはずす。見上げた空に、晴れてよかった、と思う。
 前回の引っ越しはひどいものだった。いい物件がなかなか見つからなかった上に、ようやく決まった先への移動の当日は予報を裏切った雨降り。荷物は濡れ、道は混み、疲れ切った当麻の機嫌はもちろん最悪。
「もー引っ越しなんてしたくねーっ!」
 床に直接寝転んだ当麻の言葉に、彼との同居を押し通したことを責められたような気分になったのを覚えている。
 情けなかった。そんなふうにしてでも当麻を引き止めたがった自分も、そうしておきながらやはり彼にどうしようもなく辛い思いをさせてしまったことも、悔しくて情けなくて仕方がなかった。どうにかしてもっと、彼の中で穏やかな時間が長く続くようにと、願い続けて懸命に暮らした部屋だった。
 そこでの生活を、今、終える。
『次へ進ませてもらうぞ』
 青空から目を離し、最後にもう一度ぐるりと部屋を見渡してから、征士は足早にもとの自室を後にした。
「待たせたな」
 声を掛ければ当麻は小さく笑う。その雰囲気のやわらかさが、征士を勇気づける。
『彼と暮らすことに、彼を愛することに、終わりなどなくていい』
 胸の内でそっと告げた。

掲載日:2006.06.09

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