Pulse D-2

frog that becomes cupid

 このところ、訪ねていくたびに羽柴の部屋にはジャズが流れている。突然どうしたのかと尋ねたところ、
「弥生さんにCD借りたんだよ」
 とのことだった。弥生とは私の姉である。
 先日、私の家へ羽柴を招いた際に姉とも引き合わせた。姉と羽柴とは共同でコーヒー豆を購入することになったため、互いの利用店と好みの豆の情報をやり取りしている。大抵は私を介しての情報伝達だったのだが、それならば一度会って直接話したほうが早かろうと、羽柴を我が家へ招待したのだった。その時に話がついたらしい。
「俺は弥生さんからCDを借りて、お返しに弥生さんに本を貸す」
「それを持って歩くのは私なのだな」
 台所に立つ羽柴の背中に向かって言う。少し声がふてくされていただろうかと、言ってしまってから恥じる。すると、
「伊達には俺がコーヒーを淹れてやるからさ」
 と、カップを手にして羽柴はにやりと笑った。困った態度だと思う。思うのだが、そんな彼の言い分に納得してしまう自分にも困ったものだと肩を竦めた。
 羽柴が座に着いたところで、今日の分のプリント類を渡す。六時限分の授業で配られたものだ。成績は文句なしに学年一の彼には不要かもしれない内容だが、中には提出必須のものもあったのでその旨を伝える。彼が欠席するたびにこうして持ってくるのが私の役割として定着しつつあった。
「このペースで休んでいては出席日数が足りなくなると、先生も心配していたぞ」
 実際に教師に言われたことを口にするが、相手は相変わらず澄ましたものだ。
「だーいじょぶだって。ちゃんと計画的に休んでるって」
 ――嘘だろう。数えてはいるかもしれないが、計画的ではない筈だと推測する。
「あ、疑ってんな。じゃ、来週は毎日行くから。っていうか、先生も俺に言えばいいのになんで伊達に言うかなー」
 困惑と照れとを混ぜ合わせたような表情で小さく笑ったのが、妙に胸に響いた。
 羽柴といると、時折こんなふうに思いがけず心が揺れる。私にしては珍しいことだ。珍しいといえば、誰かの家をこれほど頻繁に訪ねるのもかなり珍しい。一年の時の羽柴に同様の友人はなかったのかと、また別の方向へ思考が流れそうになった時、羽柴が本棚から取り出した一冊を卓上に置いて言った。
「で、今回はこれを弥生さんに届けてほしいんだけど、いい?」
 表紙には鮮やかな黄色の蛙の写真。大学ノートよりも大きい正方形の本。厚さ約三センチ。重そうだ。
「今、カエル月間なんだって」
「は?」
 それは誰の何についての話なのか。
 怪訝そうな顔になったのだろう。私を見て羽柴は高らかに笑い、説明を加えた。
「弥生さん、ときどき急に何か一つのこと研究したくなるんだって? 今はカエルについていろいろ調べてるって言うから、俺もついこのあいだ買った本があるから貸しますって話になってさ」
 本当はこれとかこれとかこれとか…と言いながら更に数冊を棚から引き出す。一度に全部ではたいへんそうだと、一応は遠慮をしていたらしい。日本語以外で書かれた書籍もあるようだ。彼は全部読んだのだろうか。
「またか…。凝り始めると結構しつこくてな。それにしても何故蛙…」
 カラフルな本の表紙をめくる。写真集らしい。よくもこんなに撮ったものだと思うと同時に、羽柴は何のためにこれらの本を買ったのかと興味も湧いた。
「雨の日にカエル踏んじゃったんだって。って言っても、踏み潰したんじゃなくて、足の裏に何か当たったから変だと思って足を上げたら、こんくらいの茶色いのがじっと見てたんだって」
 左手でこぶしを作って見せる。
「しゃがんで覗き込んでも逃げないで見上げてきたのがかわいくて…って、聞いてる?」
 聞いているとも。
 ごく自然に、深い深い溜め息が洩れた。我が姉ながらおかしな人だ…。
 だがここで、羽柴がふいに息を詰めたのに気づいた。何かあったかと視線を上げると、まっすぐに向けられていた青い目に迎えられる。視線が合い、一つ瞬きをしてから羽柴がゆるく目尻を下げた。胸が高鳴る。――私の、とても好きな表情だった。
「あ…その、伊達でもそんな顔するのな」
 わずかに逸らされた目、笑いを含んだ口元。
 悪い意味で言われているのではないのだろうが、どう対応すべきか迷う。そんな顔とはどんな顔だ?
 迷う間に羽柴が立ち上がった。部屋の隅に置かれていた段ボール箱を開けながら、少しだけ声を低くする。
「俺がカエルの本買ったのはさ、お前の使ってるそのカップ、気に入ったからなんだ」
 手元のカップを見下ろす。青織部、羽柴の母上の土産の品、持ち手の上に乗った写実的だが不思議と愛嬌のある蛙。母上にもらったその日のうちに、羽柴が私専用にしてくれたマグカップだ。
「そんなに気に入ったのなら――」
 羽柴が使えばいいと言いかけた私に、当の羽柴は十五センチ角ほどの木箱を差し出す。
「他にも何かあったら買っといてくれっておふくろに頼んどいたら……」
 そこまで言って箱に顔を伏せた。肩が小刻みに震えている。笑っているのだ。
 側まで行って木箱を受け取る。出てきたのは御飯茶碗だった。恐らくこれも青織部の、縁の一箇所に小さな蛙の付いた。
「こん中、全部、カエルシリーズ」
「は?」
 羽柴を見、手の中の茶碗を見、また羽柴を見てから段ボールの中を見る。大小長短さまざまな木の箱。一つ二つ、開けてみる。秋刀魚皿まであった。
「――お前用、一式そろったから」
 は? とまた声に出しそうになったのを飲み込む。羽柴はまだ顔を上げない。
「使わないのももったいないし、だから…嫌じゃなかったら、気が向いた時にでも泊まりに来いよ。俺でよかったら、何か、食べるもん、作るから…」
 衝動的に手が伸びた。背中から抱きすくめる形になる。そうか、こういうことだったのかと自分の気持ちに納得がいった。
「是非」
 短く答えると、羽柴はちらりと目を上げたようだった。また、肩と背とが揺れる。
 その背に額を押し付けたまま、この火照った頬をどうしたものかと、長らく途方に暮れた。

掲載日:2008.10.24 / 6月6日 かえるの日

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